第二話(1-2) 西船橋糺凪
難読漢字等でルビを多用しています。
その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
1-2
一張羅の赤いスカジャンを羽織り、緑の黒髪を吹き抜ける風に靡かせ、西船橋糺凪は稍狭い歩道をつかつかと進んでゆく。昔から早足だ、と同級生達に言われていたが、特に自覚は無い。日曜と云う事も有り、歩道で擦れ違う人の数も多い。スカジャンのポケットに手を突っ込んで、巧みに障害物を躱し乍ら歩を進める糺凪は、そんなに狭いのかなぁ、とふと思った。昨日、独り暮らしのアパートに帰宅し、何気無く点けたテレビで偶々遣っていたドラマで、安い芝居の若手女優が「東京は狭苦しいなぁ~」と裏返りそうな声で喋っていたのを思い出したからだ。地方出身と云う設定らしい其の女優(が演じる役)は不安定な声で台詞を口に出しつつ、此の場所から然程遠くない通りの歩道を歩いていた。此処に生まれ此処で育った糺凪に取って、此の歩道の幅も此の程度の人の往来も、全てが日常茶飯であり、当たり前の事であった。其れ故に、大手グループアイドル出身の女優の台詞に妙な引っ掛かりを覚えたのだ。
前方の信号が赤である事を認識し、また直近に対向する歩行者が居ない事も確認した糺凪は、歩く速度を緩め乍ら、何と無く上方を見上げた。声には出さず、口の中で独り言を呟く。
――東京以外は、広いのかなぁ……。
空は晴れていたが、無数の電線が張り巡らされ、何処と無く窮屈な感じがした。
「何すか? 行き成り日曜日に呼び出して」
糺凪は相見えるスーツ姿の男に対して、僅かに過剰演出した苛立ちを込めて訊いた。
「まぁまぁ、そうカッカするなよ」
男――志川雄路は少々大袈裟な身振りで、糺凪を宥めた。社長室と名付けられた狭い空間には、木製の天板を持つ大きめの事務机が鎮座している。其れを挟んだ窓側の椅子に腰を下ろした志川は、其の向かい――詰まり糺凪側に用意された折り畳み式の椅子に腰掛ける様に促した。取り敢えず糺凪は其の言葉に従い、安物のパイプ椅子に座る。
「西船橋……お前、辞める事を考えてた、ってのは……、本当か?」
糺凪が着席するなり、志川は核心に踏み入った。糺凪は、やっぱりかと思う一方、些か唐突だったので、一度俯いた。
「……まぁ、そうっすね。考えてました、よ……」
数瞬の間を置いて、糺凪は歯切れ悪く答えた。すると即座に志川は、
「『ました』、なのか?」
と単純に疑問を感じた、と云う風に訊いてきた。あぁ、もう。どうして社長は毎度毎度面倒臭い所を突いてくるかなぁ……。糺凪は心の中で愚痴り乍ら溜め息を吐いた。
「……昨日の出来事、もう聞いてるんでしょ? だからこんな事、訊くんじゃないんすか?」
心底億劫そうに糺凪は尋ね返した。それでも志川は然程動揺する事もなく、「まぁ、そうなんだが」と返した。
「なら、良いじゃないっすか。分かってるんでしょ? 大体は」
「それでも」
糺凪の返答に喰い込む様な間隙で、志川は言った。
「お前の口から聞きたい。此れは、事務所側に取っても所属者側に取っても、迚も大切な事だからな」
斜め下を向きつつ、糺凪はちらりと志川を見遣った。志川は、今迄でも数える程しか見た事の無い、真面目で少々険しい表情をしていた。糺凪は誤魔化しきれない事を悟り、重い口を開いた。
「……トロンのみんなが『居ても良い』って言うから。あの娘達に『要らない』って言われる迄は、続けても良いんじゃないかな、って……。あと、凄い目標が出来たし」
「……目標?」
「……ワシルカさんです。あの人は、本気で凄かった。あたしなんかが喧嘩売って良い相手じゃ、なかった。世界が違う。あたし等が束に為っても、到底敵わない。実績も、実力も」
志川は唇を結んだ儘、耳を傾けていた。
「……ファンに、為りました。正直に言うと。舞台上の彼女は、観客を魅了する魔法を持っている、とか以前雑誌か何かに書いてあるの見ましたけど、確かに……素晴らしかった。うん。綺麗で、凛としてて……其れでいて可愛らしさもちゃんとある。完璧な、素敵なアイドル……。何時か、あの人と同じ舞台に立ちたい……。そう、思いました。其の暁には……、シトロンヘロン全員ででも良いから、あの人に負けない位の光を放ちたい――って、ワシルカさんが帰ってからみんなで練習する内に、素直に感じたんです。……臭いですよね? あたしの柄じゃないな、とは思うんですけど」
照れ隠しなのか、糺凪は最後に笑い乍ら言った。暫し間を置いて、志川は口を開いた。
「西船橋、お前――歌手志望だったよな、元々」
「……はい」
「其れは今も変わらないか?」
「……えぇ。あたしは、長い事アイドルで遣ってけるとは思ってないですし、抑々アイドルって一生遣ってけるものじゃないと思ってるし……。あたしが、唯一他のメンバーと較べられて誇れるのは、餓鬼の頃からずっと磨いてきた歌唱力位なのかな、って……。其れは今でも変わりません」
「だが、今のお前はアイドルとしての活動に傾いている気がしている。此れは、飽く迄も俺の独断だがな」
「……何が、言いたいんです?」
「少し、昔話をしても良いか?」
正直言って、話の方向性も見えないし、志川の過去に興味も無かったが、取り敢えず先に進めるべきなのだろう、と判断し、糺凪は浅く頷いた。
「お前達の世代は余り知らないかも知れないが、実は俺も、アイドルを遣ってた事があってな。何処とは言わないが、業界じゃ其れなりに名の知れた事務所で、五人組のアイドルグループをな。……必死だったよ。毎日、自分等がどうしたら向上していけるか、各々が考えてた。男性アイドルの世界で絶対的な存在の事務所じゃなかったからな、其の時点で如何ともし難い差は凄まじかった。だから、何とかして一矢報いて遣ろう、と……爪痕残して遣ろう、と頑張ってた訳さ」
遠くを見つつ話していた志川は、其処で溜め息を一つ吐いた。
「……まぁ、結果は見ての通り。世間じゃ俺がアイドルだった事を知る奴は壊滅的に少ない。其れ所か、思った成績が残せなかった所為で事務所の黒歴史扱いになって、無かった事にされた。俺達のグループ自体が、だ。……今でも覚えてるよ。アイドル部門の責任者が言った、『お前等に掛けた資金・労力全てが無駄に為った。早く消え失せろ』って言葉を。…………悔しかったね。別に俺等が不祥事起こして辞める訳じゃないのに。其れ迄遣ってきた俺等の頑張りをも丸ごと無に帰したみたいでね。俺等の此の数年間は何だったんだよ、ってね……」
「昔話」を語る志川の瞳には、紛う事無き高純度の憤怒が揺らめいていた。十数年は前の事だろうと推測されるが、其れにも拘らず此れ程迄に色褪せない怒りを垣間見せる事に、其の憎しみの深度を見た気がして、糺凪は背筋が凍る様な感覚がした。
然し数瞬後、志川は激烈故に純粋な怒りをフッと蔵い込み、何処か苦み走っているが柔和な微笑みを見せた。
「……ま、結果的に、俺としては其の期間に得たものが無い訳じゃない。仮令事務所が俺達の事を抹消しても、俺達が必死扱いて遣ったのは事実だ。其の事実は何人たりとも奪えやしない。其の中から……俺のアイドルとしての活動の中から、現在みたいな芸能事務所の社長に成る、って将来像が出来たんだしな。……結局は、自分なんだよ。他人が下らない、って掃いて棄てる様なモンでも、其の中から自分に活かせるものを見付けられるかどうか、なんだ。此れは、此の事に限った事じゃない。全ての物事は、結局は自分だ、って云う……此れに収斂されるんだ」
志川は糺凪の表情を一瞥して、一つ咳払いをした。糺凪が此の世の中で最も詰まらない物を見ているかの如き顔付きをしていたからかも知れない。
「……兎に角、だ。俺は其の無き物にされた期間の中から夢を見出して、こうして其の夢を叶えた訳だが……、U.G.UNITEDを興す迄が大変だった。先ず何にせよ会社組織ってのはカネが掛かる。一端の会社を創って、維持する為の謂わば開業資金を稼ぐのに苦労した。バイトにバイトを重ねだな、昼夜を厭わず遮二無二働いた。で、いざ事務所を立ち上げても、マネジメント業は所属者が居なきゃ話にならない。今みたいに、数十人を抱える様に成る迄にも、数え切れない位の苦労があった。……本当に、本気で辞めたいな、と思う瞬間もあった。でも、今も斯うして俺は社長を遣ってる。何故か?」
志川は早口で強引に話の軌道を戻した。糺凪は力業だな、と思いつつも、成功談めいた話に、比較的素直に耳を傾けた。
「其れが夢、だからだよ。丁度昨日、蒼鷲にも話をしたんだが、『夢』ってのは厄介なモンでな。忘れようとしても忘れられないし、諦めようとしても簡単にそうさせては呉れない。何時迄も脳裏をチラついて離れないし、自分ですら止められない。そう云うモンだ。寧ろそうでなきゃ『夢』とは呼べない、とすら思ってる」
志川は糺凪を指差し、言った。
「西船橋、お前はどうだ? お前の『夢』は、どっちだ?」
行き成り突き付けられた問いに、糺凪は戸惑った。
「ど……どっち、って……」
糺凪は、幼い頃から「歌」を得意としてきた。保育園では、お遊戯会で歌った童謡や当時のヒット曲を褒められた。小学校で年一回行われる合唱コンクールの時期には、学年の各学級の課題曲を「見本」として人前で歌わせられる事がお決まりだった。嫌ではなかった。何故か嫌いには為らなかった。全ての人間の何処か奥底に居座っている「人々の耳目を集めたい」、平たく言えば「目立ちたい」、と云う根源的な欲求が発露したのかも知れない。小学生の頃は、クラス替えの後、生来の人見知りと自他共に認める所である取っ付き難さに因って、暫く学級内で浮き気味だったのが、合唱コンの度に会話を交わす級友が増える、と云う事実にそこはかとない喜びを感じていたのは確かだった。ひょっとすると、否ひょっとしなくても、糺凪に取って歌う事は他人と通心を図る手段であり、アイドル活動は其の延長線上に在るのかも知れない。
とは云え、糺凪は自分がアイドルとして舞台に立つとは微塵も思っていなかった。歌手に成りたい、と漠然と考えていた頃、志川に勧誘されたのだ。初めは乗り気ではなかったのだが、「歌を歌う仕事、と云うのに変わりはない」と云う志川の説得に半ば折れる形で足を踏み入れたのだった。
斯くしてアイドルとなった糺凪だったが、活動を続けていく中で多少なりとも、「自分は曲がりなりにもアイドルの端くれなのだ」と云う自負や矜持は芽生えていた。昨日の蒼鷲琉歌との邂逅で、其の自尊心を焚き付けられた気がしていた。もっと上の、更に高い場所をまざまざと見せ付けられたのだ。其処を目掛けて遣ろう、と云う向上心が湧き起こっていた。
幼い頃から抱き続ける「歌手に成る」と云う夢、そして今現在追い求めたい、所属するグループ「シトロンヘロン」が更なる高みへ向かう、と云うアイドルとしての夢――。糺凪には、何方かを選べ、と迫られ、何方かを手放す事は考えられなかった。
「……どっちも、あたしの夢です」
悩み乍らも、糺凪は答えた。すると志川は、
「……成る程な。そりゃあ其れで、良いじゃねぇか」
と含み笑いをしつつ言った。志川がどう返して来るのだろう、と身構えていた糺凪は肩透かしを喰らった様な気がして、きょとんと志川を見詰めた。
「実はな……」
志川は徐ろに立ち上がって両手を机上に突き、僅かにドヤ顔めいた表情で言った。
「今、新しいプロジェクトを考えててな……。ひょっとすると其れが、お前の夢を両立出来るかも知れないんだ」
中学生に為り、友人とカラオケに行く様になって「こんなに楽しい所があるのか!」と眼から鱗を落とした記憶は未だに鮮明に蘇らせる事が出来る。其れと同時に、唯歌って楽しい、だけではなく、他人が聴いて如何か、と云う点を追求したくなった。仲間内の数人で毎週の様に、激安を売りにするカラオケ店に通い詰め、互いの歌を批評した。だが、糺凪程に本気の向上心を持っている人物はそう居らず、其の内必然的に糺凪は独りでカラオケ店に赴く事になった。初めて独りで受付カウンターに向かった時は、過剰な羞恥心から来る妙な緊張感に苛まれていたが、何しろ店員は仕事で遣っているのだ。お独り様の糺凪を小馬鹿になどする筈は無かった。抑々店員はヒトカラの客など数え切れない程相手にしているのだ、と自分に言い聞かせた時から妙な羞恥心は消え、今も斯うして独りで帰路の途中に在るカラオケ店の部屋に入り、何ら気に病む事無くUVERworldの「7日目の決意」を歌えている。
7分弱の時間がある曲を腹式呼吸で咽喉を開いて歌い上げると、脳内に渦巻くモヤモヤした懊悩が晴れていく気がした。胸の痞えが取れていく様な、快感に近似した感覚に思わず口許が緩む、其の瞬間だった。背後の部屋の扉が開き、
「いやぁ……相変わらず、素晴らしいよ」
灰色の背広を身に纏った小太りの中年男性が入室して来た。
「……勝手に入って来ます? 普通」
明確に不愉快さを表した糺凪だが、其の男の存在に驚いてはいない。
「まぁまぁ、良いじゃないか……。此の前の続き、良いかい?」
銀縁の眼鏡をくい、と上げる中年男性の視線は、見た目の第一印象とは異なり、危うげな鋭さを伴っている。
「…………はい」
押し入られた糺凪は観念したのか、小さな返事と共に男を受け容れ、カラオケブースの扉は閉じられた。
風が吹いた。生温かいが、悪い気分はしない。前髪が少し乱れたので、手櫛で軽く梳かす。iPhoneでの通話を終えた志川は目線を其の儘、眼の前の月極駐車場に停まっている一台のライトバンに向けた。十年程前であれば街中の至る所で見掛けた車種だが、今では代替えが進み、余り見掛けない車となっている。普段なら、社有車と云う体の自家用車であるレクサス・ISに乗り込む所だが、今日志川は敢えて型落ちのバンの鍵を引っ張り出していた。極めて個人的な、一種の験担ぎみたいなものだ。運転席側に回り込み、ドアの鍵穴にキーを差し入れ、手首を捻る。ガチャッと云う些か大仰な音を立てて開錠されたドアに設けられた、黒い樹脂製の把っ手に手を掛け、ドアを開く。きぃ、と軋む音が鳴った。後でCRCを注しておこう。灰色の安っぽいビニール張りの椅子に身を収め、腕を伸ばして細い二本スポークのハンドルに手を掛ける。……あぁ、此れだ。此の感じだ。会社を立ち上げた頃、此の車を事務所代わりにして東奔西走していた、我武者羅な時代の感覚が、ありありと蘇ってくる。何か新しい事に挑戦する時、初心に立ち返る為に、志川は此のバンに乗る。だから、少なからず経費を圧迫していても、志川は此の車を手放そうとはしない。一頻り浸ってから、漸く志川はドアを閉め、イグニッションキーシリンダーに鍵を差し、セルモーターを回す。走らせてはいないが、定期的に暖機運転をしていたので、バッテリー上がりを起こす無く、快調にエンジンは始動した。志川は益々気分を良くし、クラッチを目一杯踏み込んでからシフトノブを一速に入れ、するりと発進した。隣の駐車枠に停まるブラックのレクサスを尻目に、古惚けたトヨタのライトバンは快調に走り去っていく。
「リクエストして良いかな?」
小太り眼鏡の中年男はそう言った。糺凪は脳内で男の名前を思い出しつつ、素っ気無く「良いですよ」と答えた。
「じゃあ、ミイラズの『僕らは』と、ちあきなおみの『喝采』を」
「……豪い落差ですね……」
糺凪は呟きつつも、タッチパネル式のリモコンに入力し、二曲を予約させる。
「良いじゃないか。此の振り幅を歌い熟せるのが、君なんだから」
男は言い終わると、上体をソファの背凭れに預け、踏ん反り返る様にして腕を組んだ。短足を自覚しているのだろうか、脚を組む事はしなかった。
――そうだ。此の小父さんの名前は、岸和田。国内最大手の音響機器メーカーであるターバー傘下企業の社員だ。より正確には……。
糺凪が頭の中で以前貰った名刺の内容を再現しようとした所で、一曲目が始まってしまった。The Mirrazの「僕らは」は、彼等独特の畳み掛ける様な早口のヴォーカルが印象的なロックナンバーだ。素人以上の水準で歌い熟すには、的確にリズムに乗るセンスと滑舌や発声の良さが求められるだろう。
「…………ほう……」
岸和田は糺凪の歌唱を聴きつつ、思わず小さく唸り声を上げた。――矢張り、俺の見込みに間違いない。先程ブースの外で少しだけ聴いた「7日目の決意」と云い、「僕らは」と云い、彼女の声質や歌い方はロックに抜群の相性を見せる。……然し、そんな女はゴマンと居る。彼女は其れだけではない。
曲が切り替わった。「喝采」は、歌い手の高い表現力が要求される、言わずもがなの名曲である。
歌い出し、糺凪が息を吸い込む。岸和田は其の段階で、先程迄とは空気が一変した事を察知した。――そうだ、此れだ。ロック方面一辺倒ではない、強くも儚い声。アイドルとして前線に立つ中で、一際磨かれた表現力。楽曲に寄り添い、楽曲の世界観を表現する事に尽力する、其の姿勢。そして、平静を装う内に秘めた向上心と情熱。更に言えば、流麗な見た目。
――間違いない。西船橋糺凪、コイツは紛れも無い、掛け値無しの逸材だ……。
「……あの……?」
歌い終わった糺凪が、腕組みをした儘俯いている岸和田に戸惑い、声を掛けた。
「…………うん。矢張り素晴らしい。……どうしても、君が欲しい。……考えて、呉れたかな?」
眼鏡越しに鋭く真っ直ぐな目線を向けて来た岸和田に、糺凪は溜め息を吐き、眼を逸らした。
「…………あたしは……」
「僕は、君自身の為にもなると思ってるよ。……正直な話をすると、アイドルなんてものは、只管に消費される、一過性の商品だ。より若く、より魅力的な娘が持て囃される。本当に、限られた極めて短い期間しか出来ない仕事だ。況してや君の様に、弱小零細事務所に所属している様なアイドルなど、何時ひっそり活動停止しても可笑しくないし、幾ら努力しても、得られる認知度も高が知れている。……僕は、限り無く多くの消費者が、君の此の才能を知り得るべきだ、と思う。僕等の許へ来れば、盤石の態勢を以て、君を売り出して遣れる。君の、歌手に成ると云う夢を、より素晴らしい形で、最短経路で実現出来る。決して悪い話では無い筈だよ?」
「……有り難う御座います」
糺凪は伏せていた視線を上げ、確りと岸和田を見据え、言った。
「お蔭で、道が定まりました。あたしが、今進みたい道が」
岸和田は糺凪の継ぐ言葉を予想しつつ、「ほう」と返事をした。
「お誘いを受けたのは、本当に光栄な事です。あたしの其の夢を叶えるのなら、最適解なのかも知れません。でも……今は、此の道を少しでも極めたいんです。……アイドルを、突き詰めたいんです」
またと無い様な好待遇をふいにする事への気不味さなのか、糺凪は最後の一言で岸和田から目線を外した。岸和田は予感の的中に内心落胆しつつ、此方から眼を逸らした糺凪を眺めていた。すると、糺凪は一転して、キッと普段以上に鋭い眼付きを岸和田に向けた。
「仮令馬鹿にされようとも、貶されても、無謀でも、懸けたいんです。貴方に悪い側面ばかり並べられて、より一層此方で足掻きたくなりました。背中を押して下さって、有り難う御座います」
皮肉が籠もった、挑発的な糺凪の言葉に、思わず岸和田も反応した。
「……成る程。僕はもう少し、君は賢い人間だと思っていたよ。どうやら買い被っていた様だ。此れ程聞き分けが無い人物だとはね……」
「えぇ。生憎、生来の叛骨精神で此処迄来た様な奴なんで」
数秒間睨み合った二人だったが、先に岸和田が眼を逸らし、肌色のソファから腰を上げた。そして、去り際に背広の内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を取り出して糺凪の眼前の天板に置いた。
「此の前、貰いましたけど」
「良いんだ。よぉく、覚えといて呉れ。君とは、近い内にまた会う事に為るだろうからね」
「……もう無いと思いますけど」
意図的に語尾を冷たく言い放った糺凪に、岸和田は弛んだ不細工の中年男には似つかわしくない、尖った笑みを浮かべ、
「では、また」
と言い残し、部屋を後にした。再び独りに為った糺凪は、天板に置かれた名刺を一瞥した。
ターバーミュージック・ジャパン ライツ・アンド・マネジメント(株) マネジメント事業局第一局長 岸和田聡之――そう記されていた。
郊外に在るライヴハウス「Effervesce」に到着した志川は、事前に連絡を取っていた店長が待っている三階の部屋を目指して隠し通路の階段を上っていた。昨日、此処を訪れた際は、未だ脳内の計画が纏まっていなかったので、どう遣って先方の希望と此方の展望を折衷すれば良いのか妙案が浮かばず、懊悩の儘に此の階段を降りた。今は違う。思い付いた提案が世紀の策だとは一切思っていないが、妙な自信が有る。或いは、「まぁ何とか為るだろう」と云う一種の居直りに近い境地なのかも知れない。兎に角、昨日とはまるで別人の様に前向きな気分で、志川は階段を上り切った。
モヤモヤした気持ちは、思いっ切り歌って発散するのが最も健全だ、と糺凪は考えている。取り敢えず、歌詞の内容は置いておいて、題名が今の自分の心境にピッタリだったので、The Mirrazの「うるせー」と「気持ち悪りぃ」を続け様に選曲した。「うるせー」に岸和田に対する苛立ちを目一杯乗せて歌ったら、可成りスッキリとした気分に為った。続けて「気持ち悪りぃ」が始まり、其れが終わろうとしていた頃、再び部屋の扉が開け放たれた。糺凪は一瞬身体を強張らせたが、ブースに乱入して来た面子を見て、胸を撫で下ろした。
「お前もかい……」
「何か言ったっすか?」
糺凪は半ば乾いた笑いを浮かべつつ呟いた。それに対し、敬意が微塵も感じられない言葉遣いで返事をしたのは、U.G.UNITEDに所属するアイドルグループ「シトロンヘロン」のメンバー、詰まり糺凪の直属の後輩であり、メンバーの中で最も糺凪と打ち解けている舞木理彩斗である。
「いいや、何でも」
当たり前の様に糺凪の右隣に陣取った理彩斗に、糺凪はさり気無く机上に置きっ放しだった岸和田の名刺を回収しつつ答えた。
「お邪魔します」
「あぁ、まぁちゃん!」
次いで、シトロンヘロンのリーダー的存在である17歳の佐藤真音が入室して来た。背後には、「まみれ三姉妹」の次女である16歳の佐藤満和と末っ子の15歳、佐藤麗桜の姿が見える。
「先輩、おぁざっす!」
「ヨーコ! お疲れっす!」
其の次に姿を見せたのは、メンバー内で最もダンスを得意とする香施耀子だ。其の後ろに隠れる様にして、子役上がりの大人しい気弱キャラの鮎見愛悠乃の姿も在る。此の二人は共に18歳だ。
「やっほー! くるみん参上ー!!」
「決め台詞、仲間内の前でいちいち遣らなくても……」
更に、可愛らしい童顔に黒髪ツインテールが特徴的な菅笠胡桃と、シトロンヘロンのエース的存在である見槻光陽が現れた。次々に、ぞろぞろと入室して来た少女達と、糺凪を含めた此処に居る9名全員がシトロンヘロンを構成するメンバーであった。
志川は一晩で書き上げた資料を机上に広げ、エファヴェスの店長に構想を説明した。
「……ふふふ……」
説明に耳を傾けていた店長は、志川が一頻り話し終えると、行き成り笑い出した。
「あの……社長?」
「ん……? あ、いや失敬。やっぱり、君に期待して良かった、と思ってね」
「そう、ですか」
「ああ! そんな手法で其の条件を乗り切る、なんてな……。天晴れだよ、ははは」
正直、其処迄気の利いた策ではない、と志川は自覚していた。相当に強引な面が有り、下手を打てば所属アイドル達からの信用を失ってしまう危険性すら、在る。其の点は自戒していた。だが、斯うも手放しで褒められると、どうしても気分は良くなってしまう。緩みかけた頬と心を、志川は意図的に引き締めた。
「じゃあ愈々、不動産業者との契約だな」
「はい……」
志川は深呼吸した。此の好機、絶対モノにして見せる……!
「――それで……話って、何ですか? 糺凪さん」
暫し雑談が続き、一段落した所で真音が問うた。アイドルグループのメンバー全員が“偶然”同じカラオケ店に集まる、訳が無い。糺凪がメンバー一人ひとりに「話が有る」と召集を掛けたのだった。
「あぁ、其れなんだけどね……先ず、行き成り連絡しちゃって御免ね? しかも集合まで掛けちゃって」
糺凪は其れと無く話を先延ばした。此れから話す内容を脳内で纏め切れていなかったので、せめてもの時間稼ぎの心算だった。メンバーも薄々は気付いていただろうが、敢えて其処を指摘をする者は居なかった。
「そりゃあ……昨日の今日だし……」
理彩斗が先ず反応した。昨日のレッスン中に、琉歌が見回りに訪れ、そして糺凪がグループの脱退を考えている事が発覚したのだった。其の場では琉歌に励まされ、活動を続ける意志を見せた糺凪だったが、一晩を経て何か心変わりが有ったのでは、と云う懸念は、糺凪を除く全員のメンバーの脳裡に浮かんでいた。
「そ……それに、先輩直電なんですもん!」
「そうそう、近頃携帯の電話が掛かって来る事ってあんまり無いから……」
耀子と胡桃が続け様に言った。愛悠乃が付け加える。
「確かに、携帯から電話が来ると、何か凄く重要な事なのかな、って思っちゃったり……」
以前は、集合を掛ける際の連絡手段と云えば専ら電話だったが、メールの普及、SNSの台頭、そして通話アプリの出現等に因って、即時性と安定感を有する通信会社の電話網を用いた携帯電話での通話は、其れ故に通信手段の最後の砦として、気軽に用いられる存在ではなくなってきている。SNS等で表層では繋がっているものの、他者への過剰な程の遠慮や無関心に因る高度“孤”人化社会の風潮が、「今相手が受話出来る状況ではないかも知れない」「急に掛けたら迷惑がられるのではないか」と云った遠慮を招き、電話の通信手段としての優先順位の下落に寄与している様に思える。
「あぁ、そうだよね……。あたしSNSってどうも性に合わなくて、遣ってないから……其れも御免ね」
「其処別に謝んなくて良いから。レナさん、『話』って、何なんすか?」
僅かに眉間に皺を寄せつつ、理彩斗は急かす。其の眼の中に、微かな虞の色が混ざり込んでいるのを、糺凪は見逃さなかった。多分、理彩斗は懼れている。糺凪の口から、シトロンヘロンを辞める、と云う内容が発せられる事を。其の虞を悟られまい、と敢えて軽い苛立ちに擬装して表現する理彩斗のいじらしさが胸に沁みた。
胸部の中央稍左側に、内側から締め上げられる様な切ない痛みを感じた。
「あの……ね。あたし、昨日決めた。トロン辞めるの、辞めよう、って。未だ続けよう、って。みんなともっと高い所、目指そう、って。其れは本心でね、今も揺るがない。此の道を極めよう、遣れる限り遣ってやろうって云う気概は」
他の部屋からの、音痴な歌声が嫌と云う程耳に入って来る。室内の緊張感が、より一層張り詰めた気がした。天吊りされた複数のスピーカーから、カラオケ配信会社と大手レコード会社のズブズブな関係が垣間見える宣伝映像の薄ら寒い音声が部屋を埋めている。室内に糺凪を措いて誰一人、口を開こうと云う者は居ない。
「……なんだけど……、午前中、社長に呼び出されてね……。その……えっと……。る、ルカさんと新しいグループに入って呉れないか、って……。まぁ、未だ検討段階らしいんだけど……。みんなは、どう思うかな……って」
途中から、胸の痛みに耐えきれず俯いて話していた糺凪は言い終えて、意を決して顔を上げた。
あれ? と思った。一瞬、視界に拡がる光景を受け容れられなかった。
シトロンヘロンのメンバーは、全員一様に無表情だった。エース的存在の光陽が声を発する。
「其れ、糺凪さんはどうしたいんですか?」
「え……」
メンバー全員が、光陽の言葉に頷いた。光陽が続ける。
「もし糺凪さんが、どうしても絶対トロンで遣りたいんだ、って云う意志を持ってるなら、わたし達は全員で社長に抵抗します。だってわたし達も、糺凪さんと続けていきたいですもん。でも、もし糺凪さんがワシルカさんとのユニット、ですか? そっちに行きたい、って少しでも思ってるなら、わたし達は止めません。若輩ですけど、同じグループのメンバーとして、対等に言わせて貰います」
光陽は一旦言葉を切り上げ、一つ息を吸うと、真っ直ぐ糺凪を見詰めて、言い放った。
「わたし達は、馴れ合いで遣ってく心算は無い」
光陽の容赦無い眼付きに、糺凪はたじろいだ。真音が、毅然とした視線で言葉を継いだ。
「私達だって、糺凪さんが居なくなったら寂しいですし、悲しいです。でも、其れが糺凪さんの選択した道ならば、寧ろ歓迎します。私達は集合体ですけど、個人の集まりです。同じ方向を向いてはいるけれど、各々は敵同士です。其れを忘れたら、単なる仲良し集団です。多分、駄目に為っていきます」
何時の間にか、ほんの少しだけ、彼女等年下の女の子達を甘く見ていたのかも知れない。彼女達だって、同じ舞台に立つ、プロなのだ。なぁなぁには為るまい、と云う意識はあって然るべきだ。寧ろ、其れが備わっていなければ失格である。
理彩斗が普段とは全く異なる、優しく包み込む様な口調で言う。心做しか、其の瞳は潤んで見えた。
「レナさんは、本心で、どうしたいの? レナさんが決めなきゃ」
糺凪はゆっくりと頷いた。彼女達を侮っていた事に対する謝罪、そして彼女達を自分の所為でまた悲しませてしまう後ろめたさの解消に伴う安堵の思いを込めて、答えた。
「みんな、今迄有り難う。あたし……トロンを離れるよ」
糺凪は他のメンバーより先にカラオケ店を後にした。呼んでおいて自分が先に帰るのは何と無く腑に落ちなかったが、やんわりと帰された。途中離脱する自分を除いて、早速今後に就いて作戦会議でもするのかな、と穿った事も思ったが、メンバー達の態度が先程とは打って変わって柔らかいものだったので、不快な思いはしなかった。
だが、家路を行く糺凪は知らない。理彩斗、真音、満和、麗桜、光陽、耀子、胡桃、愛悠乃、此の8人が取り残されたカラオケブースで涙と嗚咽に暮れていた事を――。
違和感を、覚えないでも無かった。あんなに泣いて、糺凪の存続を望んで呉れた前日とは打って変わって、余りに凛然とした、ともすれば冷酷とも取れる態度で、自分をグループから離脱する様に誘導したメンバー達の態度に対して、だ。然し其れも、分岐点に立ち、迷っていた自分の背中を全員で押して呉れたのだ、と云う風に解釈していた。そう云う事にしなければ、納得出来ないし、釈然としないし、何よりも今迄の活動を通して培ってきた信頼や想い出、絆と云ったものが、全て無に帰してしまった様に思えて、哀しかったのだ。
一夜明けた糺凪は、事務所のホームページを見て驚く事と為る。後にファンの間で「U.G.大組閣事変」と呼ばれる幾つかの重大な発表が、誰に対する事前説明も無く為されていたからだ。
1 シトロンヘロン(旧)は新生「シトロンヘロン・アヴァン」に改名、其れに伴いメンバー数名が離脱。
2 元フリクエンターの蒼鷲琉歌がU.G.UNITEDより現役復帰、シトロンヘロン(旧)を離脱したメンバーを主とした自らの完全プロデュースによる、新・少人数アイドルグループ、仮称「シトロンヘロン(新)」を結成。
3 其れ迄複数在ったシトロンヘロン(旧)の下位グループを仮称「ゆめぐみ」に統合。
4 23区内某所にシトロンヘロン・アヴァン及びゆめぐみ(仮)の専用常設ライヴハウスを開設。
東芝のノートPCを閉じた糺凪は、憤りと訝しがりが綯い交ぜに為った感情を抑えられず、其の儘の勢いでアパートを飛び出した。行き先は、決まりきっていた。
「社長!」
急ぎ出社した琉歌は、入り口のドアを閉めるなり、社長室に入ろうとしていた志川を呼び止めた。
「……何だ?」
心做しか、ばつが悪そうな反応をする志川に、琉歌は一挙に詰め寄る。
「今回は、社長の仰る通りに動きました。……でも、次は無いですよ」
「…………どう云う事だ?」
志川の、虚仮威しの様に高圧的な雰囲気を歯牙にもかけず、琉歌は続ける。
「昨日、貴方の一方的な指示通り、『万一糺凪ちゃんからロンロンに就いて相談されたら、新しいユニットに行く様に促すよう』に、結芽ちゃんと手分けしてロンロンのメンバーに言いました。結果、貴方の目論見通りに為ったみたいです。でも、其処に……残された8人の涙が流れた」
志川は、琉歌の眼を直視出来なかった。琉歌の瞳が、正義と正論に燃え盛っていたからだ。
「私は、貴方の理念に惚れて、U.G.に入ろうと決意しました。語弊を恐れずに言うと、ですけど。その……所属タレント本人の意思を最優先する、其の為の事務所側の理解、相互の合意形成は欠かさない、って云う……其れに共感して、此処に決めたんです。…………貴方も解ってた筈です。少なくとも一昨日迄のロンロンには、あらゆるものの積み重ねに基づいた強固な絆が、在ったんです!」
志川はぐうの音も出ない様子で、口を噤んでいる。琉歌がうっすら瞳を潤ませ乍ら、志川に忠告する。
「己の野望みたいなものが、在るのかも知れませんけど……、其の為に所属タレントを泣かせるのは、貴方の主義に反する事じゃないんですか?! ……そう云う志を掲げるなら、二度と、こんな強引な手段を、取らないで下さい!」
志川は胸を撃ち抜かれるかの様な錯覚に陥った。琉歌の正論に心打たれた所為、だけではない。ひょっとしたら琉歌に、自分が直隠しにしている会社を続けている動機を見透かされているのではないか――そんな疑念が脳裏を掠めた所為でもあった。
「……あぁ、確かに今回の件は、ともすれば彼女達を傷付けてしまうかも知れない、其の危惧は俺とて持っていたさ。けどな、現状のトロンは、もう……言葉では言い表せない位、大事な場面なんだよ。それこそ、痛みを伴ってでも、トロンを成功させる事に注力しなきゃ……下手を打てばU.G.が潰れかねないんだよ。俺の立場も解って呉れ。トロンを上手く行く方に、何が何でも持って行かなきゃならないんだ!」
暫しの沈黙の後、志川は自身も苦悩しているのだ、と訴えた。其れは本心だった。否、本心でもあった。
然し、琉歌は冷静だった。
「解りますよ。会社経営は慈善事業じゃない。関係者の生活が懸かってますから、失敗は許されない。其れは重々承知してます。……時に、運営の方針にアイドル達が振り回される事は、有ります。私は知識としても経験としても其れを知ってますから。そして其れに因って結果、上向いた実例が有るのも知ってます。……昨日、社長から連絡があって、有無を言わさず電話が切られて……私なりに考えました。『あぁ、此れも仕方無いのかな』って、最終的には思って、結芽ちゃんに連絡して、そう云う風にみんなに伝えました。……けど、真音ちゃんから涙声で連絡を貰って、私気付いたんです。『そうだ、私は此の子達にこんな思いをさせる為に、此の会社に入った訳じゃない』って。私は……私だからこそ、あの子達にはあんな思いをさせちゃいけないんです! 私が、護ってあげなきゃいけなかった!!」
徐々に感情が乗った琉歌は、最後は殆ど叫ぶ様に言った。其の頬には、後悔の念が詰まった雫が、流れている。志川は立つ瀬無しと云った風情で斜め下を見詰めている。
そして、琉歌は伏せていた視線を毅然と志川に向け、涙混じりの眼で
「次は無いですよ。……私が、させませんから」
と啖呵を切った。志川は黙りこくっていたが、流石に反論しようと口を開けた、其の時。
「おざー……す……」
呑気な挨拶で出社して来た結芽は瞬時に空気を読み、口を閉ざした。思わず志川が返す。
「お……お早う。豪いタイミングで来たな……」
「あの……すんません、お取込み中でした……?」
「ううん……平気だよ。もう話、終わらせるから。じゃあ、最後に」
落涙を悟られない様に、結芽に背を向けた儘、琉歌は志川に釘を刺す。
「社長。もう二度と、焦るあまり、女の子達を蔑ろにする様な遣り方をしないで下さいね」
言い終えると、琉歌は素早く白基調のシャツの袖口で目許を拭い、振り向いた。
「何か御免ね、結芽ちゃん。お早う!」
「い、いや、大丈夫ですけど……ワシルカさん、泣いてます……?」
「ううん! 泣いてないよ、平気平気! 扠、仕事しますか!」
デスクに就き、PCを立ち上げようとしている琉歌を、志川は呆然と見つめていた。
矢張り蒼鷲には、俺の魂胆を、見抜かれている――?
浅水明日子は、事務員から外線が入っている、と連絡を受け、手近の壁掛け式の電話の受話器を取った。点滅している内線1番の釦を押下する。
「あら、珍しいじゃない。雄路君から連絡して来るなんて」
〔あぁ、お忙しいのに済みません……。今、大丈夫ですか? 手が離せない様なら掛け直しますが……〕
「うぅん、平気よ。……今朝の公式発表の件?」
〔あぁ……、ははは。……やっぱり明日子さんには敵いませんね〕
「そりゃあ、貴方が現役の……デビュー前から見知ってるもの。大抵の事はお見通しよ」
〔あはは……そうですね……。うーん……〕
明日子は練習場の壁に背中を預け、長時間通話への体勢を整えた。
「……ロンロンの、数名を新しい方に移籍する、って件……あれ、割と力尽くな感じで遣ったの?」
〔まぁ…………そう、ですね……。勿論、今のトロンに絶対の信頼関係が培われてる、って云うのは重々承知でしたよ。此の間明日子さんにご報告頂いたばかりでしたし。だけど……うーん…………。一寸権利関係、って云うか、その……条件が重なってしまって……。専有のライヴハウスを使える、って話に為った時に、不動産屋からの条件が『新規のグループを結成させて、其のグループの専用劇場にする』って云うものだったんですね。でも、今の状況下で新規のグループを立ち上げたら、トロンと其の新しいグループ……掛ける力が分割されてしまって、トロンのメジャーデビューに注力したいウチに取っては、なかなか厳しいものだったんです。けど、ウチの事務所で専有出来るライヴハウスなんて、そんな美味しい話、絶対逃したくないじゃないですか。それに、昔から懇意にして下さってる方からのお話だったんで余計に……。一方で、トロンの今度お世話に為るメジャーのレコード会社さんの方とも条件が在って……。絶対に『シトロンヘロン』の名前は、何があっても途絶えさせるな、と……。『シトロンヘロン』と云うものの存在を無き物にしてはいけない、と。それで、ああ云う或る種‘捻じれ現象’みたいな感じに為ってしまったんですけど……。……まぁ、『カワズ』のリリース直前ですし、インディーズのレコード会社さんの方には根回ししてあるんで、『カワズ』のリリース迄には‘捻じれ’は解消させる形になりますけど……〕
「そうだったの……。雄路君は雄路君なりに、板挟みで大変だったんでしょうね……」
〔えぇ……まぁ、明日子さんにご理解頂ければ、全然……〕
「で……あの『ゆめぐみ』って云うのは、あれはどう云う経緯なの?」
〔あぁ……関係各所に根回しして、漸く‘捻じれ現象’に許可を頂いて、不動産屋に契約に行ったんですけど、『結局其れは全く新規のグループじゃないじゃないか』って言われて……。丁度、トロンに全力を尽くすに当たって、下位グループを集約したいな、って云うのは有ったんで、咄嗟に口から出ちゃいまして……。だから、不動産屋的には『ゆめぐみ』の専用劇場みたいな位置付けらしいんですよ。まぁ、実際の運営はこっちが遣るんで、トロンをメインに遣っていく心算ですけどね〕
「そうなの……。あ、そうだ! 琉歌が復帰する、ってあれ、本当なの?」
〔……えぇ、まぁ本人にも未だ遣りたい、って意志は有ったんで……〕
志川が話している声の後ろから、何やら慌ただしい音が聞こえて来た。
〔あ、済みません明日子さん。一寸野暮用が入ってしまったので……〕
「えぇ、構わないわ。じゃあ、雄路君……。何かと大変だろうけど……焦りは禁物よ」
〔……有り難う御座います。じゃあ、また近々蒼鷲とご挨拶に伺わせていただ〕
周囲が騒がしくなり、途中で電話は切れてしまった。明日子は受話器を本体に戻し、二つの意味を込めて
「大丈夫かしら……」
と呟いた。
無言で社長室に突入した糺凪は、琉歌と結芽の制止をものともせず、志川からiPhoneを取り上げると、其の儘の勢いで詰め寄った。
「……何するんだ」
志川は明確に不快感を露わにした。当然だ。幾ら終話へ向けて話を進めていたとは云え、勝手に通話を切断されたら、苛立ちを覚えない者は居ないだろう。
糺凪は志川と鼻先同士を触れ合わせん勢いで迫り、対照的に抑えた口調で言う。
「みんな、了承の上なんですよね?」
志川は、何も答えなかった。唯、其の眼には或る種の居直りと、「こっちにはこっちの事情が有るんだよ」と云う主張がありありと浮かんでいた。
「……なんか、可笑しいと思ったんですよ。突然休日に呼び出したり、急に新しいユニットはどうか、とか言ってきたり。……斯う云う青写真が有っての事だったんですね」
「……お前も、絆がどうとか、言う心算か……」
「『絆がどう』って……!!」
「到頭、本音を出しましたね」
結芽と琉歌が志川の呟きに反応する。然し、当の糺凪の応対は、二人とは異なっていた。
「いえ、あたしはメンバーの仲を引き裂く様な事を、みたいな事言う心算は有りませんよ。其れは多分、他のみんなも同じだと思います。丁度、昨日そんな話をしてたんで。トロンは、馴れ合って完成度を落とす様な事を良しとはしない集団なんです。此れはきっと、みんなの本心だったと思います。だから、みんなもあたしの背中を押す様な形で、あたしがルカさんとのグループに移る事に賛成して呉れたんだと思います」
糺凪は一度離していた志川との距離を再び詰め、胸倉を掴まん程に接近する。
「でも、其れって、アンタの差し金だったのか? アンタが、あたしを脱退させる為に、みんなに一芝居打たせたのか?」
志川は、否定も肯定もしない。今度は、其の眼に何の色も浮かべる事もなく、唯、糺凪を見返している。
「……否定、しないんだな?」
「…………其れに近い事は、した。こっちにも然るべき事情が有るんだ」
志川の返答に、糺凪はフッと嗤い、
「便利な言葉だな。『事情』があれば、みんなの意見とか意思は捻じ曲げても良いんだ?」
と斬り込んだ。思わず言葉に窮する志川に対して、糺凪は追い打ちを掛ける様に語気を荒げる。
「みんなの意思を、アンタの青写真に沿う様に、捻じ曲げたんだよな? そう云う風に仕向けたんだよな?!」
志川は答えない。答えられない。
「あたしは……」
糺凪の言葉が弱くなり、声が急に震えた。志川は眼を見開いた。
「あたしは、追い払われた訳じゃ……なかったんだよ、な……?」
琉歌は小さく溜め息を吐いて、俯いた。私が不甲斐無い所為で、糺凪ちゃんを泣かせてしまった。
琉歌は其の場に居なかったので詳細は分からないが、一昨日あれ程自分を引き留めて呉れた数年来の仲間に、新ユニットへの移籍を快諾されたら、「自分は必要とされていなかったのではないか」「此のグループに貢献出来ていなかったのではないか」と感じてしまっても不思議は無い。普段冷静なキャラの糺凪も、流石に不安を感じたのだろう。況してや、一昨日の事が有っての昨日では、掌返しの様に映ったとしても致し方無い。
「わ……悪かった……。済まない、西船橋……。お前は誰から見ても、トロンに必要不可欠な人材だよ。お前も、当然其れを分かってると……俺は勝手に思ってた。其処こそ、本当に謝るべき点……なのかも知れないな……。お前の悩みを汲んで遣れず、本当に……申し訳無かった」
志川は、咽び泣く糺凪に対して、数秒だけ頭を下げた。そして首の角度を元に戻すと、
「でもな、昨日言った様に、お前の為に為る、と考えての事だ。其れは本心だ。新しいユニットは、お前をメインヴォーカルに据えたグループにしよう、と思ってる。場合に因っては、其のグループの中でお前は、振りを踊らず歌唱に専念するのもアリだ、とさえ思ってる。お前は、歌唱力が有る。表現力も、ずば抜けてる。……正直、ウチ以外から引き抜かれても可笑しくは無い位の才能だと、俺は思ってる」
斜め下に顔を伏せている糺凪の肩が、僅かに震えたのを、琉歌は見逃さなかった。
「其れ故に、歌唱面で余り劣る者が居ないトロンの中では埋没してしまっていたし、他のメンバーも難易度の高い箇所の割り振りが西船橋に集中しても異を唱えない結果に為ってしまった。お前も、何と無く其処は実感が有るだろう? ……確かに、トロンの群れる事を良しとしない風土は、俺も感じてるさ。けどな、殊に歌唱割振りに関しては、彼奴等は西船橋頼りに為ってしまっている面が、あった。無意識的に、かも知れないがな。西船橋に、新しいユニットに行って貰う事で、お前の『歌手とアイドルの両立』と云う夢の実現、更に歌い手としての世間からの評価、そして残されたトロンのメンバーの歌唱力の向上、此の三点が見込まれる。そう考えれば、悪い事でもないだろう? ……俺だってちゃんと、此の程度は考えてるんだ」
琉歌は少し、ほんの少しだけ、志川を見直した。唯、自分に都合の良い判断を下している訳では無く、一応は合理的な裁定に基づいて決断している事が理解出来たからだ。
「それに……俺には、お前と蒼鷲の相性が凄く良い様な気がしてる。多分、蒼鷲とお前が組んで呉れたら、今迄のものとは異なる、全く新しいアイドルグループに為る。そう、俺は睨んでいる」
「『組んで呉れたら』って云うか……其れはもう、既定路線なんでしょ?」
糺凪が、伏せていた顔を志川に向け、言った。
「い……いや、まぁ……そうなれば、願ったり叶ったりだ、とは……」
志川が糺凪の顔色を、あざとくならない様に気を遣いつつ、窺っている。情けない事に、本来の立場からは、完全に力関係が逆転してしまっていた。
「ま、あたしはルカさんのユニットに入らせて貰いますよ。もう、トロンのみんなには『離れる』って宣言しちゃいましたし。……あたしも、ルカさんと組ませて頂いたら、凄い事に為りそうな、そんな予感は有るんです」
涙を振り切った糺凪は、存外清々しい表情をしていた。いずれにせよ、糺凪の本心は決まっていたらしい。琉歌は一先ず、胸を撫で下ろした。
「……ワシルカさんは、此れで良いんですか?」
暫く黙っていた結芽が、不意に声を発した。其の場に再び、張り詰めた緊張感が走る。
「こんな……こんな決まり方で、一緒に活動してくメンバーが決まっちゃって、それで良いんですか?!」
結芽は蒼鷲琉歌の大ファンだ。恐らく、琉歌の活動再開を最も心待ちにしている者の内の一人である。琉歌が現役復帰する新しいグループに少なからず関与する者として、此れ程にゴタゴタの渦中から物語が開幕する事に対し、不安があるのだろう。
「私はね……」
琉歌はそっと口を開いた。全員の視線が、琉歌に集中する。
「もう一度、アイドルが出来るのなら……、あらゆる条件を、選り好みしないよ」
結芽は絶句した。其の言葉に、額面以上の「覚悟」が垣間見えたからだ。
「斯う言うと語弊が有るかも知れないけど、何だって良いの。もう一度、アイドル遣れるんなら、何だって良い。メンバーが誰であろうと、楽曲がどんなものであろうと、活動予算がどれ位の規模であろうと……、私は、嬉しい。そして、仮令どんなグループに為っても……、私はきっと、最高のグループに成れる、って信じてる。私も、そうする自信は有るし、そう為るだろう、って感覚は有るし。だから結芽ちゃん、安心して。心配して呉れて凄く有り難いけど、上手く行く気はしてるんだ。どんな始まりでも」
言い切る琉歌の顔は、目映い程に清々しかった。物議を醸す、志川の遣り口に就いてのモヤモヤや、糺凪のシトロンヘロン離脱に関する懊悩など、一目で吹き飛ばしてしまう様な、明るさに満ち溢れていた。其れはきっと、琉歌が抱く未来への希望の所為――。
結芽は琉歌への想いを新たにした。
――やっぱり、あたしが惚れたワシルカさんは、間違い無い。此のヒトがまた活動する限り、あたしは全力で後方支援していこう!!
そして、糺凪も眩しい程に光を放つ琉歌に眼を細め乍ら、此の輝きに劣らない様に、心機一転頑張って行こう――そう決意した。
志川は一変した場の雰囲気に、此れ幸いと乗じて、話を前に進めた。
「そ……そうだ! 丁度蒼鷲と西船橋一緒に居るから、話しておきたい事が有ってな。其の新しいユニットの件なんだが……」
暫く、琉歌と糺凪を連れ出し事務所の外で話していた志川は、独り事務所に戻ると、待機している様に命じていた結芽に
「甲斐路、悪いんだが明日辺り、鮎見を呼ぶ様に話を付けて貰えるか?」
とオフィス内を縦断し乍ら託けた。
「え、『鮎見』って、トロンの愛悠乃ちゃんの事っすよね?」
「そうだ。鮎見愛悠乃を呼び出して呉れ。明日なら時間は何時でも構わん」
歩みを止めずに答え乍ら志川は社長室へ入り、背広の上を掴むと、直ぐに事務所の入り口へと引き返す。
「俺は重要な人との面会が有るから、暫く席を外す。鮎見への連絡、頼んだぞ」
そう言い残し、瞬く間に志川は事務所から出て行った。「面会」って、何か物々しい言い方だな……と結芽は閉じられた扉を眺め乍ら思いつつ、仕事用の携帯電話を取り出した。
黒いレクサスを飛ばし、志川が向かった先は、とある高層オフィスビルだった。大理石調の床面タイルが敷き詰められた玄関に志川は一瞬気後れし乍らも、再び強い想いを胸に前方を睨み付けて、歩を進めた。
22階から25階に掛けてが、女性アイドルに強い大手芸能事務所である「ニコムーンプロモーション」の有するフロアだ。高速エレベーターの扉が開き、真正面の受付に立つ女性社員に用件を伝える。
暫し待つと、応接室に通された。高価そうな革張りの椅子に、値の張るであろう美しい杢目の応接机が鎮座する部屋に入り、志川は自社の事務所の一角に在る、安価な応接セットを揃え衝立で仕切っただけの空間を思い浮かべ、複雑な心境に為った。
「やぁ、お待たせ。……久し振りだな、志川君」
不意に扉が開き、志川は声のする方へ向き直った。
「態々此の場を設けて頂き、有り難う御座います……導下社長」
志川は直角に近い程腰を折り、深々と辞儀をした。当然、誰も志川の表情を窺う事は出来ない。
「相変わらず堅苦しいな、君は。頭を上げたまえ」
苦笑交じりに導下と呼ばれた壮年の男が言うと、数秒してから志川は姿勢を直し、
「ご無沙汰しております」
と一言添えて、ごく自然で爽やかな微笑みを見せた。
琉歌と糺凪は、春先の生温かい風に吹かれ、青空の下突っ立っていた。
「……あたし達、コレで巡業するんですか?」
「……みたいね、さっきの話だと。うーん、正しく営業車だね……」
「可愛げの欠片も無いっすよ、コイツ。大丈夫なんすかね? 仮にもアイドルがこんなんに乗って……」
困惑気味の二人の前に在ったのは、古惚けたトヨタのライトバンであった。琉歌の脳裏に、先程志川が言い残していった言葉が去来した。
〈此のクルマで、日本各地を巡って貰いたい。お前等に、全国津々浦々で、トロンとU.G.UNITEDを宣伝する、広報部隊に為って欲しいんだ――〉
「まぁ、座りたまえ」
真っ先に、上等な革張りの一人掛けのソファに腰を下ろした導下尊偉は、踏ん反り返る様にして言った。志川は導下の付き添いで入室して来た、ニコムーンの社員が入り口付近の椅子に腰掛けるのを見てから、一礼して対面のソファに身を落ち着けた。
「……で、今日は何の用件だね?」
深く座った導下は、顎で指図する様な動作で話を振った。其れを受けて志川が口を開こうとした瞬間、導下は続け様に言う。
「ま、大概の見当は付いているがね」
出鼻を挫かれた志川は、悪目立ちしない様に小さく咳払いをすると、
「……恐らくは、お察しの通りかと思います」
と、飽く迄丁寧に、ともすれば慇懃無礼な程の言動を続けた。
「実は、二年程前に御社を離れた、蒼鷲琉歌を此の度、タレントとして弊社に受け容れさせて頂く運びになりまして……」
「あぁ、矢張り……そんな事か」
志川は眉を顰めた。志川に取り、琉歌は数少ない部下であり、そして此れからは大切な所属タレントともなる、言わば家族の一員である。そんな琉歌を無碍に扱われた様に思えたのだ。それでも、突発的な怒りを長めの瞬きの内に処理し、冷静に続けた。
「……でですね、此の度新しいプロジェクトに蒼鷲を参加させようと考えておりまして、差し当たり念の為ご挨拶を、と思いまして」
「ほう、成る程な……。まぁ、頑張りたまえ。で、用は其れだけか?」
ソファから腰を浮かせ乍ら、導下は平然と言った。神経を逆撫でする様な度重なる発言に、志川は脳裡が真っ白に為る感覚を味わった。記憶が飛びかける程の、極度の瞬間的な怒りの所為で四肢が感覚を失い、或る種の浮遊感さえ覚えた。
無論、其処迄の突沸的な憤激は、此の場での導下の発言のみに招かれた訳ではない。志川には、導下に対する積年の、ともすれば逆恨みに近似した因縁が有るのだ。慇懃さで煙に巻いていたが、導下と面会出来ると決まった其の日から、ふつふつと沸点は高まっていたのだ。
眼を瞑って、自らの怒りに差し水を加え、吹き零れを防いだ志川が立ち上がった頃には、導下は志川の横を通り過ぎようとしていた。擦れ違いざまに、導下が追い打ちの一言を掛ける。
「精々、嘗ての君等みたいに為らない様にするんだな」
再び怒りが煮え滾った。最早、沸騰石は効きそうにない。全身がバラバラに為りそうな位の激甚な感情に、自ずと手が震えてくる。辛うじて両の拳を握り締め、激昂を堪える。ゆっくり口を開くと、自分でも意外な程、平静な声で話せた。
「ご忠告、有り難う御座います。ですが、ご心配には及びません」
導下が、歩みを止めた。振り返らず、其の場で「ほう?」と返す。
「貴方を、倒しますよ。目に物見せて差し上げます。其の為の勝算も、僕には在りますから」
内に秘めた憤怒を微塵も感じさせない、此れ以上無く爽やかな笑顔で志川は言い切った。導下は矢張り振り返らず、
「……それは、楽しみだな」
とだけ言い残して部屋を後にした。導下の付き人は申し訳程度に一礼を寄越して、社長の後を追って行った。
握り拳に、力が入り過ぎている。爪が掌に喰い込み、血が滲んでいる様な感覚さえ、有る。然し志川は、手に込める力を、緩められずにいた。開けっ放しのドアの先に、誰も通り掛からない廊下が見える。其の空間を、睨み付ける。極めて抑えた、唸る様な声で、独り呟く。
「今に見てろ……」
舐めてられんのも、今の内だぞ――と云う言葉は、口腔内に留めておいた。
破格の大型新人屶綱稀羽のゴリ推しと縁の下の功労者である蒼鷲琉歌の実質強制排除に端を発したニコムーン大量離脱は、其の後三度程勃発した。其れに因り、優秀な所属タレントが何名も離れ、ニコムーンプロモーションは弱体化した。然し、残留した者は其れだけ古巣への想いが強く、何とか立て直そうと必死に為り、また運営側は相変わらず屶綱推しの姿勢は崩さなかったものの、現場スタッフ達の種々の努力が実を結び、ファンの流出は当初邪推された程にはならなかった。第一次大量離脱以前は、アイドル業界での覇権を握った、と自他共に認める人気を誇ったニコムーンプロモーションは、其の支持母体の頭数の多さから、全盛期の勢いを喪ったとは云え、群雄割拠のアイドル業界に於て、未だ有力勢力の一角に君臨し続けているのだった。
単純に考えて、漸く所属グループの内の一組が初めてメジャーデビューを果たそうとしている、と云う地下アイドルメインのU.G.UNITEDと、天下のニコムーンプロモーションでは、真面な勝負にはならない。同じ土俵にすら上がれていないのだ。
志川が、都内の一等地に居を構える業界大手のニコムーンに挨拶に来たのは、ただ馬鹿にされる為ではない。今からの攻勢で本格的に業界の覇権争いに名乗りを上げ、そして志川本人の個人的な復讐を果たすと云う、云わば宣戦布告の為だったのだ。
レクサスのステアリングを握る志川の白ばんでいた頬に、徐々に血色が戻る。ふと、独り言を漏らした。
「下剋上……」
いつか、巨象の打倒を果たす自分を想像し、思わず右足に力が籠もる。高架道路を直走るISを駆る志川は、ほくそ笑んでいた。
琉歌はふと、呟いた。
「私は、恵まれてる……」
「え?」
隣に居た糺凪は、不意の独白に思わず訊き返した。
「もう一度……、あの舞台に立てる……。其れだけで、私は恵まれてるよ」
――此の人は、心の底からアイドルと云う物が好きなんだ……。糺凪は感服した。
「……どうしたの?」
無意識の内に琉歌に視線を固定してしまっていた様で、気持ち頬を染めた琉歌に尋ねられた糺凪は反射的に外方を向いて
「でっ……でも! こんなボロい車に乗せられるし、U.G.はそんなに規模大きくないし、ルカさんが思い描く様な状況じゃないかも知れませんよ?!」
照れ隠しに語気を強めて言った。自分の発言は些か失礼だったかな、と糺凪が少しだけ振り返り、琉歌の様子を窺うと、
「……そうかもね。でも、私はどんな境遇に為るかも引っ括めて、楽しみだよ」
と言って屈託の無い笑顔を浮かべていた。糺凪の眼には、琉歌が眩しい光を放っている様に見えた。
「あぁ……でも、一つだけ心配、と云うか……」
「何ですか?」
「ファンの方々は、私の復帰を喜んで呉れるかなぁ……」
琉歌が放つ光は急速に減衰し、眉尻を下げて懸念顔に為った。糺凪は再度、感服した。
つい先程迄、あんなに自分がまたアイドルとしての活動が出来る事を喜んでいたのに、今は其れに因るファンの感情を慮っている。詰まり糺凪は、何時如何なる時も自分を応援して呉れている、或いは応援して呉れていたファンの存在を忘れず、ファンの想いを推し量る、と云う琉歌の姿勢にプロフェッショナルを感じ取ったのだった。
あたしがもし、ルカさんの立場だったら、ファンの気持ちなんか考える事も出来ず、唯安直に喜び続けるんじゃないだろうか……。糺凪はそう思い、改めて琉歌の凄さが身に沁みる様だった。
「……今更だな」
導下の独白に、付き人的な役割の赤阪耕右は「はい?」と訊き返した。
「蒼鷲琉歌だよ。蒼鷲が今更表舞台に戻った所で……何が出来ると云うんだ」
導下は足早に歩みを進めて、社長室に向かう。赤阪はコバンザメ宜しく付き従っている。
「……社長。志川様、あそこ迄邪険に扱って、宜しかったんでしょうか? 確かに社長からすれば随分と若輩だとは思いますが「赤阪」
赤坂が恐縮頻りに紡ぐ言葉を、導下は歩を止めてドスの利いた声で遮った。赤阪は怯えつつ、ずり下がった眼鏡を上げ乍ら「は……はい?」と答えた。
「君は、何時から私に意見出来る様に為ったんだ?」
導下は振り返りもせず、背中を赤阪に見せ続けた儘、言い放った。
「い……いえ、申し訳御座いません」
「解っているなら良い。下がれ」
「……はい」
導下は重厚な社長室の扉を雑に閉めた。静寂が拡がる部屋の中で、導下は独り言を呟いた。
「志川は、あの位で丁度良い……」
「……そう云えば、志川社長言ってましたよね」
型落ちのバンのボンネットに腰掛けた糺凪が、不意に言った。琉歌は運転席を外から覗き見乍ら返した。
「ん?」
「『全国津々浦々』廻って貰いたい、って」
「あぁ、そうだねぇ……」
心地良い風に誘われて、糺凪は空を見上げた。気に入りの、何時も羽織っている赤いスカジャンがはためいた。
「日本って、広いんですかねぇ……?」
雑居ビルに取り囲まれた駐車場の上空は、電線が一本も無く、吸い込まれそうな青空が拡がっていた。
「糺凪ちゃんって、東京から出た事無い?」
「えぇ、まぁ……」
「じゃあ、丁度良いよ! 色んな作品で、色んな人が『日本は狭い』って云うけどさ、百聞は一見に如かず! 意外と広いモンだから」
「そう、ですか……」
出がけに思い出した、大根の若手女優がドラマで言った台詞が去来した。
「東京以外は、広いのかなぁ……」
呟いて、糺凪は自分の胸が高鳴っているのに気付いた。そよ風が黒髪を靡かせる。
糺凪の声が聞こえなかった琉歌は、自らの発見に思わず声を上げた。
「……へぇ、此れ4速なんだ! 珍しいな、今時」
「ヨンソク?」
耳慣れない響きに、糺凪は首を傾げた。腰を曲げて車内を覗き込んでいた琉歌は目線を戻し、糺凪の方を見た。
「うん。……糺凪ちゃん、クルマの免許持ってる?」
「あぁ、はい。辛うじて取れました。めっちゃエンストしましたけど」
「あ、じゃあMTなんだ?!」
「はい、一応……」
「教習車ってさ、5速じゃなかった? MTの段数」
「そう……でしたね、確か……。あ、其のギアの数が四つって事ですか?」
「そうそう! 大抵は5速で、最近は6速が増えてきてるんだ。なのに4速ってのは、古めかしいって云うか……現代と為っては相当珍しいんだよね」
琉歌の解説は然程頭に入らなかったが、糺凪は別の所に引っ掛かりを覚えて、琉歌に尋ねた。
「……此のクルマって、何て云う名前なんですか?」
「えっと、確か……カローラ、だね。カローラのバン」
「じゃあ、ローラですね。略すと。おんぼろローラちゃん」
糺凪は笑った。自分の発言が下らなくて噴き出してしまったのだ。然し琉歌は何か閃いた様な顔をして、
「社長、ブログのタイトル決めろって言ってたっけ?」
「あぁ……言ってましたね、そんな事……」
一瞬の沈黙の後、琉歌と糺凪は向かい合って口を開いた。
「「『4速のローラ』!!」」
声が揃って、二人は屈託無く笑い合った。抜ける様な青空の下、爽やかな風が吹き抜けた。
自分でも驚くほど時間が掛かってしまいました。済みませんでした。
言い訳がましいですが、仕事が忙しくて中々時間が取れず、また当初の想定以上に本編が長くなってしまいまして……。
題名の意味がラスト滑り込みで判明した所で一安心する一方で、可成り剛腕な流れになってしまって、心残りのある完成度ではあります……が、ちょっと此れ以上時間を置くのはいかがなものかと思い、一先ず完成と云う事とします。
第三話は、もっと本文をコンパクトにして、なるべく早く投稿出来る様に頑張ります。何せまだまだ主要キャラが揃いきっていませんので(苦笑)。
小説賞投稿用の原稿の方もまるで進んでいないのですが(焦)、取り敢えず一段落するまでは、こちらを優先的に進めていきたいと思っていますので、もし此処まで読んで下さっている方が居られましたら、何卒ご贔屓に……。