第一話(序~1-1) 蒼鷲琉歌
難読漢字等でルビを多用しています。
その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
序
約2年前、中堅芸能事務所ニコムーンプロモーションが運営するアイドルグループ「フリクエンター」から、一人の女性アイドルが“卒業”した。彼女は高校一年生の時、オーディションに合格し、以来ずっとグループのエースとして活躍していた。変遷の激しいメンバーの中で、幾年も一線級の活動を続ける彼女は何時しか古株と呼ばれる様に為り、後期にはフリクエンターの上位グループである、歌番組にも良く出演するメジャーアイドルグループ「リマーカブル」も兼任するなど、輝かしい経歴を辿っていた。
彼女は、アイドルと云う存在が、どうしようも無く好きだった。狂おしい程のアイドルへの憧憬が、彼女を突き動かしていた。ヴォーカルレッスンを必死に熟した結果、一軍と俗称されるリマーカブルのメンバーと比較してもトップクラスの歌唱力を身に着け、ダンスレッスンを地道に繰り返して走り込みを欠かさなかった結果、同年代の女性アイドルより頭一つ抜ける程のキレを有していた。其れも此れも皆、敬愛し、ともすれば畏怖する「アイドル」と云うものに自分が為れたからには恥じない様に居よう、と努力した賜物であった。
そして何よりも、彼女はステージ上で、得も言われぬ輝きを放ったのだった。人々を魅了する――其れは熱狂と云う類とは少々異なり、気になる存在に為る、名前を覚えてしまう、と云う様な――言説不能で不可思議な煌めきに溢れた存在であった。一部のファンは、彼女の輝きを「天賦の才」だと褒め称えた。其れすら、言い得て妙、あながち間違いでも無いか、と思わせる程、舞台上の彼女は魅力を放ったのだ。
そんな彼女が23歳を迎えようとしていた或る日、突如として運営側より“自己都合”に因る引退が発表された。後に運営側が発表した公式発表に拠ると、「長年一線を張り続け、そろそろ後進に引導を渡す頃合いだ、との本人の意志と運営側の検討に因って」引退と云う決定に至った、と云う事だった。然し、彼女に近しい者ほど、此のリリースには懐疑的だった。先ず、雑誌等のメディアでも度々アイドルへの憧れを口にし、あれ程研鑽を積み重ねていた彼女が、行き成り前触れも無く、長年続けてきたアイドルを辞める事があるのだろうか? と云う点。更に、責任感の強かった彼女が、自身が屋台骨と為っているフリクエンターとエース級のメンバーだったリマーカブルを棄てる様に辞める、と云う事は無いのでは? と云う点。其の他、公式ブログには卒業発表の前日付で、次回のライヴツアーに向けてランニングの距離を増やした、と云う記述が見られたり、彼女が卒業した後に発売されたシングル曲の歌唱メンバーに彼女の名前がクレジットされていた、と云う事実も憶測を呼ぶ一因と為った。
しかし、彼女は突然の公式リリース通り、其の日を境に表舞台から姿を消した。
フリクエンターはリマーカブルの育成ファーム的な側面も有り、フリクエンターの生え抜きであった彼女以外のメンバーは全員が10代であり、中には中学生すら居る、と云う状況下で運営側がフリクエンターの平均年齢が上がる事を危惧したのが事の真相である、と俗悪ゴシップ誌が確たる情報源も無しに書き立てた頃には、彼女――蒼鷲琉歌は一切真実を語る事無く、華やかな業界から身を退いていたのだった。
1‐1
トニコオレンジのダイハツ・コペンが、都会の喧騒を走り抜けていく。雑多な東京の路上では、3000万円以上する諸外国の超高級スーパーカーよりも、水澄ましの様な軽のスポーツカーの方が却って速い事もある。
周囲をビルに囲まれた、せせこましい駐車場にコペンは円滑に収まった。斯う云う状況下でも、全幅1800mm以上が当たり前の高級輸入車よりは軽オープンカーの方が圧倒的に扱い易い。
オレンジ色の外板色が鮮烈なコペンローブの運転席側のドアが開き、車内からすらりとした体躯の女性が降り立った。と云っても身長は決して高くはない。恐らく、引き締まった身体が、すらっとした印象を抱かせるのだろう。昨今見掛ける、往年の某アニメの少女型ロボットキャラクターを髣髴させる悪フザケの様なモノとは異なる、洒落た黒縁の眼鏡を掛けた女性は、狭苦しい駐車場を後にし、近隣の雑居ビルの中へと歩いて行った。
「お早う御座います」
彼女が入っていった雑居ビルの三階の扉に穿たれた磨り硝子には「U.G.UNITED」とだけ記されていて、どんな業種の企業なのか見当も付かない。
「ワシルカさんっ!! お早う御座いますです!」
先に出社していた甲斐路結芽は弾かれた様に席を立ち、千切れんばかりに尻尾を振る犬の様に女性の許へ駆け寄って来る。
「結芽ちゃん、其れ辞めて、って言ってるでしょ? 『ワシルカ』って云うの、気に入ってないんだから」
ワシルカ、と云うのは、嘗て蒼鷲琉歌がフリクエンターに在籍していた際の愛称である。
詰まり、レンズの大きくない伊達眼鏡を外し、事務机の椅子に座ろうとしている此の女性こそが、凡そ二年前、様々な憶測と共に突如芸能界から消え去った蒼鷲琉歌其の人なのである。
「えぇー?! でも、あたしに取っては何と言われようとあの憧れの『ワシルカ』さんなんですもん!!」
「いやいや、其の『憧れのワシルカさん』本人が言ってるんだよ?」
「でもでも……!!」
「どっちだって良い!! んなモンは。仕事しろ!」
勢い良く扉が開く音と共に、奥の部屋から、30代後半位の黒いスーツ姿が似合う長身の男性が現れ、二人の女子を一喝した。
「あ、済みません、社長……」
「あーいとぅいまてーん」
「甲斐路、古いぞ其れは」
社長と呼ばれた男性は、結芽に的確な突っ込みを入れた。
「はいはーい」
素直に反省する琉歌と、一向に反省する素振りの無い結芽の対照的な反応を眺めていた男性は、深い溜め息を吐き、
「蒼鷲、一寸来い」
と、琉歌を呼び付けた。
「何でしょうか、社長?」
社長室に入った琉歌は恐る恐る尋ねた。社長室と云っても、雑居ビルの一部屋を借りているだけなので、扉が付いた2m少々の間仕切りで区画されているだけで、床からの数cmと天井迄の空間は筒抜けである。
「あぁ、いや、そう堅苦しく為らんでも良い。付かぬ事を訊くが……」
其の時、琉歌には社長の眼が一瞬鋭いものに変化した様な気がした。
「もし、もう一度アイドルを遣れる、としたら、お前はどう答える?」
想定外の質問に、琉歌の眼は泳いだ。暫く、沈黙が流れた。
「わ……私は、一度表舞台から追われた身です。今更復帰なんて……出来ません」
しどろもどろに為り乍ら、琉歌は答えた。其の表情は、俯いてしまっている為、窺う事は叶わない。
木製の長い天板の事務机を挟んで、窓際に置かれた黒い革張りの椅子に腰を下ろした社長は、右手で口許から顎にかけてを擦り乍ら、返事をする琉歌の様子を見詰めていた。
「…………そうか」
一度俯いた社長は、組んでいた脚を解き、勢いを付けて立ち上がった。
「じゃあ、俺はライヴハウスと契約の折衝をしてくるから、お前は『シトロンヘロン』の練習を観に行って呉れ」
琉歌は未だビリビリと痺れている様な頭脳の儘、
「……了解です」
と答えた。
敢えて、考えない様にしていたのだ。社長の運転する黒いレクサス・ISが走り去るのを見送りつつ、琉歌は呆然と生温い都会の風に吹かれていた。
あの日の事を思い出す。2年少々前の、未だ寒い頃だった――。
其の日の運営の公式発表に誰よりも驚いたのは、琉歌本人だった。琉歌は前日の夜、仕事の終わりが遅くなったにも拘らず、日課としている筋力トレーニングを熟して床に就いた所為で、部屋のカーテンを閉める事もせず、深い眠りに落ちていた。午前9時過ぎ、熟睡から琉歌を覚醒させたのは、リマーカブルやフリクエンターで共に活動する仲間達からの連絡であった。夢想だにしていなかった其の報告を、自らの眼で確かめるべく、愛用のノートPCを開き、ブックマークに入れてあるニコムーンプロモーションの公式ページに急いでアクセスした。
愕然とした。
琉歌には、事前の連絡は一切無かった。文面上では琉歌自身の決断であるかの様に読み取れるが、其処には琉歌の意思は1μmも介入してはいなかったのだ。
世界が、音を立てて、崩れていく様だった。
急いで充電中だった携帯電話を引っ掴み、突っ立った儘、アドレス帳からニコムーン社のマネージャーの電話番号を呼び出す。3コールで、男性マネージャーは電話に出た。其の時の背景音を、琉歌は未だ鮮明に記憶している。恐らく、事務所の室内。引っ切り無しに電話が鳴り響き、革靴で駆けずり回る慌ただしい足音も聞こえた。琉歌を初めとする数名を担当する四十路前の男性マネージャーは、息を切らして、第一声を発した。
〔申し訳無い〕
「……はい?」
マネージャーの声は、全力疾走後の息切れ、と云う感じではなく、極度の精神的な衝撃に因る心拍数の亢進に伴うものの様だった。
〔公式ホームページの件だろ? 正直、俺も把握してなかった。こっちも、何が起こってるんだか、社員一同混乱してるんだ〕
「あ……じゃあ、サイト乗っ取りみたいなヤツなんですか?」
一縷の望みに縋る様に、琉歌は訊いた。
〔いや……〕
マネージャーの否定の言葉に、琉歌は身震いする様な焦燥を覚えた。
〔言い難いんだが……どうやら数日前に……社内の上層部で決定したらしくて……正直、俺の手には負えんかも知れない〕
世界が、音を立てて、崩れていく様だった。
男性マネージャーは、ニコムーン社の中でフリクエンターの運営方針を、琉歌達メンバーに伝達する役割だった。即ち、フリクエンターの人事に関しては、或る程度以上、把握している存在なのだ。其の彼が知らされていない所で決定が下された、と云うのなら、相当な上級の社員に依る決断なのだろう。
〔蒼鷲、本当に済まない……。俺も必死に掛け合ってみたんだが、『此れで良いんだ』の一点張りで……取り付く島も無い。…………撤回させられそうには、ない〕
琉歌は、フローリングの上に膝から崩れ落ちた。全身から気力や筋力、「力」と呼ばれる全てのものが抜けていく様だった。唯、携帯だけは辛うじて、耳許から離さなかった。
〔…………お前を護れず、本当に……申し訳、無い……〕
男性マネージャーの涙声は、琉歌に取っての最後通告だった。
世界が、音を立てて、崩れていく様だった。
「…………解りました。お世話に為りました」
無意識的に琉歌はそう口走ると、マネージャーの引き留めを無視して終話釦を押下し、携帯から電池パックを強引に外し、其の辺に放り投げた。
次に琉歌が記憶しているのは、真っ暗な自室の中、幾筋もの涙の痕が頬を伝い、洟と唾液で顔面がぐしゃぐしゃに為った自分を、洗面台の鏡で見た時の事だった。鏡に映り込んだ時計は、11時を指していた。
琉歌は溜め息を吐いた。あれから2年余を経過した今、流石に瞳が潤う事も無い。
半日以上放心状態に陥った後、琉歌はニコムーン社の決断を、天命として受け入れた。だが、其れは結局、理不尽な決定を提示され、為す術無く唯一の道を選択させられた、と云う事である。
琉歌は一方的に事務所を解雇され、強制的にアイドル生命を絶たれたのだ。
「……行かなきゃ」
琉歌は雑念を追い払う様に数度首を振り、社有車である薄紫色のマツダ・二代目デミオに乗り込んだ。
都内某所のビルの一フロアは、床が板張りに為っている上、三面に鏡が設えてあり、まさに絵に描いた様なダンススタジオだった。琉歌は郷愁の籠もった眼差しで、室内を眺めている。
「ルカ、久し振りね」
唐突に掛けられた声は、然し耳馴染みがあって、却って琉歌が此の場所に居ると云う事実を増幅させた。
「……先生」
琉歌が振り返った先に立っていたのは、此のダンススタジオの講師で、業界では其れなりに名の知れたプロ相手の振付師である、浅水明日子だった。明日子は懐かしげな表情で、
「噂には聞いてたけど、まさか本当に貴女が此の業界に戻って来たなんて……」
としみじみ言った。琉歌は少しだけはにかんで、
「いや、まぁ……流石に裏方ですけどね」
と答えた。
「其れは勿論知ってるけど……勿体無い! 其の肢体からして、貴女未だ現役時代と同じ様な日課熟してるんじゃない?」
心底惜しむ様な声で、明日子は嘆いた。
図星だった。琉歌は毎晩、アイドル時代と殆ど変わらない、可成りハードなトレーニングを続けている。其れが習慣に為ってしまっているからだ。春先だが肌寒く、重ね着をしていた琉歌は、上着の上からでも一目で自分の身体状態を見抜いてしまった明日子を、改めて尊敬した。
「あそこ迄ストイックにトレーニングするアイドルなんて、古今東西見渡しても貴女位のものよ、本当に。元々センスは抜群だから、トレーニングで得られたキレは、正に鬼に金棒みたいなものだったわよね」
「いやいや……言い過ぎですって」
「そんな事無いわ。未だに、あの頃の貴女以上のアイドルには出会えてないもの。残念乍ら……ね」
「え……て、事は……」
「えぇ。残念だけど、貴女がつい此の前入社した事務所の娘達にも……貴女を超える程の逸材は居ないわ……今の所は」
「そう……ですか……」
「まぁ、殆どの娘達は前向きに頑張ってて、向上心も持ってるわ。此処へ来て漸く良いグループに為って来たわ。他の地下アイドルグループよりは纏まりも勢いも頭一つ抜けてきてるわね、今の『シトロンヘロン』は」
「そう、なんですね」
「……あら、『ワシルカ脳内叢書』には入ってない? 最近の地下アイドル界隈の情報は?」
「辞めてからは、敢えて触れない様に、避けてたんで……。今はもう、人並みにしか……アイドルとか、芸能ネタは」
生来のアイドル好きが高じて自らがアイドルと為った様な琉歌は、現役時代、生真面目な性格にも由来して、古今東西ありとあらゆる国内のアイドルに関連する情報を調べ続けていた。其の、余りの知識量に付けられた称号が、「ワシルカライブラリー」だった。フリクエンターのレギュラーTV番組で話題と為った「ワシルカライブラリー」は、アイドル関係の雑誌に「ワシルカ脳内叢書」と云う題名の連載コラムに迄発展する事と為り、蒼鷲琉歌の固有の魅力の一つと為ったのだった。
「まぁ……そう、ね……。貴女に取って、恩を仇で返される様なものだった訳だからね……」
琉歌が業界を追い遣られた境遇に思いを馳せたのか、明日子の口振りは急速に歯切れが悪くなった。
琉歌の引退に纏わる真相は、俗悪ゴシップ誌が書き立てた説の他にも、もう一つの説がネット上を主として広まっていた。そして、其の後のニコムーン社の取った戦略に因って、後者がより真実に近い定説として巷間に伝播していった。
「……まぁ、私の事は此の位で……。本題は『ロンロン』のみんななんで……」
「……それもそうね。悪かったわ、久々だからって色々と……。今はU.G.UNITEDの社員さんとしていらっしゃったんだもんね」
「はい。社長が『練習風景を見て来る様に』と……」
何かに勘付いた様な、口角を上げニヤリとした表情をした後、明日子は
「一階上になるわ。行きましょうか」
と、琉歌を誘った。
シトロンヘロン、ファン達の間での通称はロンロン。地下アイドルを得意とする中小芸能事務所U.G.UNITEDが擁するアイドルグループの名称である。
幾らかの多人数アイドルグループが行っている様に、シトロンヘロンもU.G.UNITEDの上位グループとして位置付けられ、大半のメンバーは下位となる他のグループと兼任している。悪く云えば人気と実力を有し、且つ運営側に気に入られているメンバーの寄せ集めであるが、良く云えば選抜された精鋭集団と云う事になる。
然し、そんな事務所内のトップチームも、二桁に迫ろうか、と云う人数にしては些か狭隘な練習部屋を使用していた。フリクエンター時代は先程見学した一階下の広大な練習部屋を常に利用出来ていたので、業界最大手のニコムーン社とインディーズメインのU.G.UNITEDとの規模や政治力の差をまざまざと見せられた気がして、琉歌は何とも言い難い心境に為った。
可成り注意深く静かに入室した心算だったのだが、部屋が狭いだけに扉が開いた事は否応無く部屋中に伝わり、闖入者である琉歌は一挙に注目を浴び、序で一部から姦しい叫び声の様な歓声が上がった。無論、其れは琉歌に向けられたものである。
「おいお前等!! 集中しなさい!」
彼女達を指導していた女性講師が叱責するも、尊敬に値する元トップアイドルを前にした教え子達には効果は限り無く薄く、女性講師は溜め息を吐き頭を抱えた。
「『ワシルカ』さんだぁ!!」
「U.G.に入社したって話、本当だったんだ!」
「凄い!! 本物だぁ!!」
琉歌が聞き取れたのは此の辺り迄だった。直後、明日子の
「お前等、浮かれてんじゃないよ!!!」
と云う一喝が室内に響き渡り、誰一人として口を開かなくなったからである。練習部屋の中は一挙に重い空気へと変貌した。
「お前等だって同じ舞台上に立つプロじゃないか! きゃあきゃあと一般人みたいな反応するんじゃないよ、格好悪い! 自負を持ちなさい!」
明日子が一介の振付師とは異なり、高い評価を受ける所以が、殆ど素人である芸能人の卵達に斯う云った心持ち等を教えられる、と云う点である。当然、振付師としての能力も一線級であり、琉歌が所属していたニコムーン社をはじめ、アイドル業界では新人育成に欠かせない存在として引っ張り凧なのだ。
「あ……あの、もし色々訊きたい事があるなら、終わった後に答えるから……。今はレッスンに集中して……ね?」
琉歌も何とか場を収めようと一言付け加えた。シトロンヘロンのメンバーは渋々と云った具合で女性講師の立つ部屋の正面方向へと向き直った。
「はい! じゃあ、サビの合わせの所から行くよ!」
女性講師の声を切っ掛けに、音楽が流れ出す。シトロンヘロンの新曲「カワズdreamin’オーシャンズ」である。琉歌は先日、社長に感想を求められた際、此の曲を聴いていた。BPMの速いロック調の曲で、歌詞の内容も「井の中の蛙大海を知らず」と云う有名な成句を基に、「私達は今は井戸の底に居るカエルだけれど、現状に満足している訳では無く、何時かは大海に出て悠々と泳ぐ事を夢見ている」と云う、インディーズシーンで着々と実力と人気と勢いを蓄えていて、メジャーデビューも遠くないと目されている今の彼女達の状況に合致した挑戦的且つ爽快感のある良曲に仕上がっていた。琉歌はそんなヒットの予感のする佳曲を与えられた、恵まれた前途有望なアイドルグループの練習風景を真剣な眼で食い入る様に見ている内に、自然と口許を綻ばせていた。そして、明日子は無意識的にリズムを刻んでいた琉歌の爪先を見逃していなかった。
サビの合わせの箇所を数回反復し、通しで二、三回繰り返した頃だろうか。其れ迄、琉歌の隣で腕を組み、仁王立ちの状態で黙って練習風景を見詰めていた明日子が、不意に声を発した。
「はーい、注目!!」
其れは講師にも知らされていないものだったらしく、「段取りが違う」と女性講師が眼で訴えているのに琉歌は気付いた。然し、明日子は意にも介さず、斯う言い放った。
「思い付いたんだけど、折角此処にトップアイドルだった方が居られるんだから、お手本を見せて貰いましょう!」
琉歌は其の意味を把握するのに、数瞬を要した。そして、其の言わんとする所が理解出来、「いや、ちょっ……」と声を発した頃には、
「えっ!! 凄い!! マジで!!?」
「本当に?! 見たい見たい!!」
「あのワシルカさんが踊って呉れるの?! 超ヤバい!!」
とシトロンヘロンの若いメンバー達は手を取り合い、涙を流さん勢いで感激振りを表現していた。
「え……いやいや、明日子さん!! 聞いてないですって!」
「大丈夫よ! 貴女なら出来るでしょう? それに……」
明日子は不平の声を上げる琉歌の視線を、自身の目線を若い教え子達に持っていく事で誘導した。
「あの娘達の期待を、こんなにキラキラした眼を……裏切れる?」
明日子に釣られて移動した琉歌の視線の先には、期待と歓喜に胸膨らませる、将来有望な(広い意味での)後進達が瞳を輝かせていた。
「……卑怯です。遣り方が汚いですよ、明日子さん……」
陥れられた事を痛感し、琉歌が退路は無い事を悟った其の時、
「本当に出来るんですか? 今のアナタに」
と、聞き覚えの無い声が響いた。声のする方に眼を向けると、長髪の若い女性が扉を開け、立っていた。
「……糺凪、重役出勤ね。貴女、最近「ワシルカさんって!」
女性講師の小言を打ち消す様に、レナと呼ばれた女性は声を張った。
「屶綱稀羽に、追い出されたんですよね?」
琉歌は、袖が銀色の赤い派手なスカジャンを着こなし、艶のある長い黒髪を靡かせた、凜とした立ち姿の女性に見惚れていた。他方、琉歌と張本人である糺凪以外は、遍く全員一人残らず、瞬時に凍り付き、室内の雰囲気は、想像を絶する程の勢いで瞬間氷結した。想定以上の場の凍結振りに一瞬怯んだのか、シトロンヘロンのメンバーの一員である西船橋糺凪は、眉間に皺を寄せて半歩後退したが、辛うじて二の句を継いだ。
「運営側が、屶綱稀羽が居れば平気だから、年長者は排除しよう、って……そう云う事でクビに為ったんですよね?! そんな方が、何回か見ただけの振りを、果たして踊れるんですかねぇ?!」
糺凪に見惚れていた琉歌も、流石に此の言葉を受けて、ハッとするしか無かった。脳内の片隅で、記憶が巻き戻される音が響いた。
屶綱稀羽は、ニコムーン社に彗星の如く現れた、救世主の様な存在だった。中学二年時にスカウトされてニコムーン社に所属した稀羽は、其の整った愛らしい容姿、若さ溢れるキレの良いパフォーマンス、抽んでた歌唱力、其れ等の才能を鼻に掛ける事の無い柔和な性格、そして何よりも舞台上での圧倒的な存在感、此れ等を併せ持った奇跡の様な、究極のアイドルと云っても過言ではない人物だった。当然、そんな超の付く逸材である稀羽を上層部が放っておく筈も無く、通常は下積みである通称「育成組」に先ず配され、極めて小規模の催事への出演を重ねて経験を積んでいくのだが、稀羽は一挙にトップグループであるリマーカブルの正式メンバーに抜擢されたのだ。正しく、選ばれし存在を地で行く彼女を、他のメンバーが快く思う筈は無かった。然し彼女は礼儀正しく律儀な対応で、敵対因子との衝突を巧みに避けていた。琉歌もリマーカブル兼任時代に接した事があったが、実に人懐っこく、自らの言動で敵を作る事は先ず無い人物だろう、と云う印象を抱いた。
前代未聞の「飛び級」を噛ましてトップチーム入りした彼女は、既定事項の様にファンを獲得していき、リマーカブルの中でも押しも押されぬ人気を誇る迄に為るのに、然したる時間は掛からなかった。
そんな、奇跡の様な彼女の存在自体が、リマーカブルの、そして下位グループであるフリクエンターのメンバー達に劣等感、場合に因っては敗北感すらも与えていた。そして、ニコムーン社はそう云った状況に勘付いてい乍らも、猶一層稀羽を推していく姿勢を崩さなかった。恐らく、此の辺りで上層部は「屶綱さえ居れば安泰だ」と云う判断をしたのだろう。
斯う云った内部情勢の中で、琉歌は電撃卒業を強いられる事となった。其れは、所属するメンバー達には、稀羽の存在に気を良くし、調子に乗った運営側が、人気・実力共に安定し、直向きな努力故にメンバー達からの信頼も厚かったが、所謂適齢期を超えようとしていた琉歌を一方的に切った、と云う風に映った。そして、予てから稀羽の存在に意気消沈していたメンバー達の内、可成りの人数がニコムーン社を見限り、琉歌の後を追う様に離れていった。此れが世に云う「ニコムーン第一次大量離脱事件」である。そして、大量離脱を境に、運営側の「屶綱推し」は一段とあからさまに為っていった。残留を決意したメンバー達も、更に大きくなった稀羽の存在を前に一人、また一人と辞めていき、今現在のリマーカブルは稀羽以外のメンバーの存在感が皆無の、実質ソロプロジェクト状態に陥っていた。此の様な、傍から見ても明らかな異常事態を呈するニコムーン社を見限る嘗てのファンも多く、今やニコムーン社は往年の勢力を喪ってしまっていた。
そして、第一次大量離脱の前後に雑誌が書き立てた説とは別に、稀羽を推す為に不要と為った、年長で実力の劣る琉歌をニコムーン社が追い出したのだ、と云う「第二の説」が雑誌の発売後にネット上で立ち上がり、最早定説として語られる様に為っていた――。
パシン! と鋭い音が響き、琉歌は我に返った。糺凪が、明日子に頬を叩かれていた。
「撤回しなさい!! 業界の先輩にとんでもない事言って……!」
乱れてしまった美しい黒髪を首の一振りで横に流し、露わになった瞳で糺凪は明日子を睨み返す。場の空気が、恐ろしい程にヒリついている。
「あ……」
思わず琉歌が制止に入ろうとするが、必要無いとばかりに糺凪は鋭い視線を琉歌に向け、言い放つ。
「踊って下さいよ。今のアナタに、あの振りが、出来るのなら!!」
「糺凪!! 良い加減にしなさい!!!」
明日子の怒号が響き、室内は再び静かに為った。余りの緊迫感に、数人のシトロンヘロンのメンバーは泣いてしまっている。啜り泣きの多重奏が、狭い練習部屋を支配していた。
「……良いですよ。踊りましょうか」
沈黙を破ったのは、琉歌だった。兎に角何とか此の場を収めなければ、そう云った気持ちだった。無論、糺凪に煽られて焚き付けられた、と云う側面も、無くはない。
「音下さい。頭から通しでイケます」
シトロンヘロンのメンバー達がざわついた。糺凪も鳩が豆鉄砲を喰った様な顔をしている。明日子は琉歌を見詰めつつ、糺凪にしか聞こえない声の大きさで、
「当たり前でしょ。あの娘クラスに為れば、3日で20曲覚える事だってあるんだから」
と呟いた。糺凪の顔から、血の気が引いていく。
琉歌が部屋の壁に沿って、歩みを進める。角の所で上着を脱ぎ、丸めて隅に置いた。壁面に張られた鏡の前、部屋の前方の中央辺りで歩みを止め、スッと姿勢良く立つと、其処には嘗てのトップアイドルの姿が在った。特にポーズを取っている訳でも無いのに、何とも様に為り、実に映える凛々しい立ち姿だった。
「――お願いします」
圧巻だった。程度が違った。シトロンヘロンのメンバー達は、未だ振り付けに慣れておらず、全員が辿々しく、理想には程遠い有り様だった。然し、琉歌の振りは、誰も達成出来ていなかった完成形そのものだった。動作の端々にキレの良さが滲み出て、繊細さと大胆さを両立させる振りは、振付師の込めた意向を完璧に表現したものだった。そして何より、踊っている最中の琉歌は、目映い程に光り輝いていた。其の場に居る者を全て、問答無用で彼女の観客にしてしまい、視線とそして心をも奪い去らんとする――。ダンススタジオの片隅で、たった一曲のみ、然もつい先程頭に入れたばかりの振りを披露した彼女は、往年と変わらない、否ひょっとしたら其れ以上の圧倒的なステージングを魅せ付けた。
正しく、別格だった。
「――どうだった……ですかね? ちゃんと出来てました?」
フッと表情が穏やかに為り、低姿勢な喋り方をする琉歌は、先程迄の凛々しく堂々としたパフォーマンスとの落差が著しく、其の場に居る者をより一層虜にするに足るものであった。
明日子が無言で微笑み乍ら拍手を贈った。釣られて、シトロンヘロンのメンバー達も笑顔で拍手し始めた。女性講師も感服の面持ちで拍手をしている。此の狭い教室の中の誰もが、琉歌に対して素直に敬意を表していた――唯一人を除いて。
糺凪の心中は、揺れ動いていた。先程の琉歌のパフォーマンスを目の当たりにして、凄いと思わない者は、恐らく居ない。其れ程迄に完成度の高いものに対して、糺凪は本心では感動していた。語弊を恐れずに云えば、糺凪は此の部屋の中の誰よりも、琉歌の才能に、ステージ上で発せられる其の特有の輝きに、魅了されていたのだ――自分から喧嘩を売って、琉歌を踊らせる切っ掛けに為ったからこそ。然し其れ故に、純粋に其の感動を表に出す訳にはいかなかった。ちっぽけかも知れないが、自分にだって自尊心がある。鉄面皮にも靡く様に拍手をし、何食わぬ顔で従属する様な素振りをするのは、許せなかった。
「今の見て、嫌でも分かったでしょ?」
明日子が、複雑な表情をしている糺凪の横で小さく言った。
「あの娘は、実力が劣ったから辞めさせられた訳じゃない。ただただ、事務所の横暴な都合に因って……解雇させられたのよ」
糺凪は急速に、琉歌に就いてを勝手に決め付け、侮っていた己が恥ずかしくなって、俯いた。と同時に、此れ程の能力を有し乍らも、所属事務所の自分勝手な裁量で辞めさせられてしまった琉歌の気持ちを想像した。
……迚も想像出来なかった。自分と琉歌では、境遇が違い過ぎる。
「あの……」
此方に向かって掛けられたと思しき声に、糺凪は視線を上げた。其れ迄、シトロンヘロンのメンバー達や、立場を忘れた女性講師に取り囲まれて騒がれていた琉歌が、喧嘩を売ってきた糺凪を気にしたのか、此方に遣って来たのだ。
「さぁ、謝りなさい……糺凪」
明日子も諭す様な、比較的柔らかな口調で糺凪を促した。
近付いてくる、圧倒的な実力を持った輝かしい元アイドルの存在感。根拠の無い書き込みを基に決め付けで強く詰ってしまった、己の恥ずかしさと、琉歌への申し訳無さ。場を荒らしてしまった講師陣とメンバー達への立つ瀬の無さ。そして、徐々に接近して来る琉歌の顔には、罵声を浴びせられた怒りや哀しみは感じられず、寧ろ糺凪を慮るかの様な表情をしている――。
気が付いたら糺凪は、踵を返し、廊下を走っていた。
「あ、ちょ……待って!」
琉歌は逃走を図った糺凪を追い掛けた。糺凪は全速力で脚を回転させるが、追い駆ける琉歌は見る見る差を詰め、角を曲がった所の、自動販売機が居並ぶ辺りで琉歌は糺凪の手首を捉えた。バタバタと云う二人分の足音が止み、糺凪の荒れた息遣いだけが響いている。息一つ乱していない琉歌は、切り出した。
「私、別に怒ってる訳じゃないの。何か、貴女の事が気に為って……。何か……悩みとか、無い?」
琉歌は心底心配そうな声で、糺凪に訊いた。呼吸を落ち着かせた糺凪は、くくくと笑うと、
「伝説のアイドルには、あたしが悩んでるって事も、分かっちゃうんですねぇ……」
と、先程の威勢の良さが嘘の様に気弱な声で、切なさを宿した眼で呟いた。
「いや……『伝説のアイドル』なんて、そんな大仰なモンじゃ無いけど……」
琉歌が謙遜の言葉を並べつつ、スキニーパンツのポケットから小銭入れを取り出し、一番手近に在った自販機に小銭を投入していく。
「や、ワシルカさんは、確かに間違い無く、伝説と呼ぶに相応しいアイドル……でしたよ。大してアイドルに興味無……かったあたしから見ても、ワシルカさんは凄かったです」
「そう、かなぁ……」
琉歌は数瞬思案した後、280mlペットボトル入りの紅茶飲料の釦を押した。自販機に相対している為、糺凪に背を向ける形に為ってしまっているが、話し手に「確り話は聞いてるよ」と感じさせる様な口調と目配せを、琉歌は欠かさなかった。そんな気配りを感じ取り、糺凪はますます自分が小さい人間だ、と痛感する様だった。胸の中央辺りが擽ったい様な、仄かな苦痛を伴う切なさが湧き起こった。
「はい」
自販機から取り出したペットボトルを、当たり前の様に琉歌は糺凪に寄越した。もう、糺凪の眼には、自動的に涙腺分泌液が溢れ出していた。
「……うえぇ……」
「え?! いやいやっ!! な、泣かないで?! あれ? ど、どうしたの?!」
糺凪は、琉歌に申し訳無い、と思いつつも、慌てふためく姿は一寸面白くて、可愛らしいと感じた。
「あたしの事、御存知ですか……?」
「勿論! 直接会うのは初めてだけどね。資料は一通り叩き込んだから」
「流石ですね……」
「いやいや、U.G.の社員に為ったんだもん。社会人として当然だよ」
暫しの間、静寂が訪れた。琉歌は二者間での沈黙は苦手では無かったが、気を遣っているのか、糺凪は紅茶を一口飲み、キャップを閉めると、そわそわとし、軈て自分から切り出した。
「……実はあたし、アイドル辞めようか、此の儘続けようか、迷ってた所だったんです……」
「そう……だったの……」
「あたし、元々は歌手に為りたくて、だからアイドルとかはそんなに興味無かったんです。でも、何時の間にかU.G.に所属してて、『トロン』に加入してて……。あたしは、可愛くもないし、ダンスだって得意じゃない。唯、眼の前に与えられた事を深く考えずに、只管遣って来ただけなんです」
琉歌は口を閉ざした儘、ゆっくり頷いた。
「アイドルに懸けてる訳でも無い……少なくとも自分じゃそんな意識は無いから、練習だって毎回真面目に遣ってた訳じゃないし、今日だってそうですけど、サボったり遅刻したりもしょっちゅうで……。でも、メンバーの娘達は『トロン』の中では年上のあたしがそんなんでも慕って呉れて、そんなメンバーの足引っ張るのだけは嫌だったから、何とか本番では最低限出来る様にして……。みんな、あたしなんかよりもずっと本気でキラキラしてるのに、ファンの人達もあたしを平等に応援して呉れて……。こんな不真面目で、自転車操業みたいなあたしを推して呉れる人も居たりして……。……御免なさい、何だろう……。何か良く分かんなくなってきちゃった……」
糺凪は苦々しく切なげに、眉間に皺を走らせ乍ら吐露した。膝の間で、両手で握り締められた小振りなペットボトルの液面は、小刻みに波打っている。
「――良いよ。纏まってなくて良いから、思ってる事全部、吐き出して?」
琉歌の優しい言葉は、糺凪の涙腺を著しく刺激した。此処から糺凪は、再びの落涙への抵抗に腐心する事と為った。
「……あたし、居ても良いのかな、って……。まだまだ上を目指してくのに、不真面目で、本気じゃなくて、今度の誕生日で二十歳に為る――他の娘と較べると若くないあたしが、『トロン』に居ても良いのかな……って。此処最近、本当に悩んでて……。もう、良く分かんないんですよ。分かん、ないっ……」
込み上げる様々な感情に、遂に糺凪は肩を震わせ始めた。華奢な首が折れそうな程に俯いている。琉歌は慰めようと、嘘偽りの無い純真無垢な胸中で、糺凪の頭を撫でた。良く手入れされた長い黒髪の表面をなぞる様に、極めて繊細な手付きで。
然し、其の慈しむ様な力加減は、却って糺凪の眼に涙を溢れさせた。
「…………私が、言えるのはね」
暫く、不規則に震える糺凪の背中を見詰めつつ、ゆっくりと頭を撫でていた琉歌が、徐ろに口を開いた。糺凪は出来る限り、勝手気儘に沸き上がるしゃくり声を抑えようと努めた。
「綺麗事かも知れないけど……努力って、必ず誰かが見てるよ、って事。糺凪ちゃんが、仮令個人的には納得行ってない、自転車操業だ、って思ってたとしても、其の過程が大事なんだよ。何とか本番には間に合わせようとしてる、って言ってたじゃない? 其の『何とかしよう』って足掻いてる時って、結構本気、出してたんじゃない? で本番では、辛うじてだとしても、破綻はしなかった訳でしょ? 結果って、其れ迄の努力が滲み出る場所だから。『あぁ、此の娘は頑張ったんだなぁ』って、お客さん達にも伝わるんだよ。ファンの方達って、節穴じゃないからさ。苦労して手に入れた身銭を切って応援して呉れる訳だから、やっぱり適当に遣ってるな、とか頑張ってないな、って感じる様な娘は、そうそう推しては呉れないよ。だから、アイドルって云う存在は、ファンの方達を裏切ってはいけないの。自分の努力を買って呉れてる様なものだから……。でね、そう云う『滲み出る努力』って、舞台上ではより一層直截的に伝播するから。だから、メンバーの娘達も慕って呉れるんだよ。年下のメンバーに慕われる、って、やっぱり中々出来ない事だからね、私の経験上」
琉歌は溜め込んだ思いを一挙に吐き出すかの様に捲し立てた。但し、口調は飽く迄も穏やかな儘だ。だが、一旦火の点いた思いは、堰を切ったかの如く、止め処無く押し寄せる。琉歌は其の押し寄せる感情を、有りの儘に、極自然に紡ぎ出したのだ。
「だから――」
琉歌は締めに入ろうとして、糺凪が崇敬の念で此方を見ている事に気が付いた。
「ど……どうしたの?」
「――やっぱ、ワシルカさんは……凄いです……」
「え……何で?」
「……重みが違いますよ。あれだけの活躍をした方が言うからこそ、物凄い説得力があるんですよ」
「そ……そう、かな?」
琉歌は暫し照れた素振りで後頭部に右手を遣っていたが、思い出した様に姿勢と表情を改め、発言を続けた。
「だから、糺凪ちゃんはもっと自分に自信持って良いと思うし、アイドルを続けても良いのか、なんて悩む事無いんだよ。年齢だってまだまだ! 私は22歳迄遣ってたし、もしああ為っていなければ、たぶんもっと続けてただろうし……。私が思うに、今の『ロンロン』には糺凪ちゃん、欠かせない存在なんじゃないかな。もっと、自己評価してあげても良いんじゃないかな、『ロンロン』の西船橋糺凪の足跡を……。ねぇ、みんな?」
琉歌は言葉の最後で糺凪から視線を外し、廊下へと続く角の方を見遣った。自分の為してきた事を肯定し、背中を押す琉歌の言葉に涙を溢れさせた糺凪が何事か、と振り返ると、死角に為っていて此方からは見えない廊下の方から、涙を流したシトロンヘロンのメンバー達が一斉に飛び出してきた。彼女達は一目散に糺凪を取り囲み、メンバーの一人の舞木理彩斗は泣き乍ら糺凪に抱き着き、
「レナさぁんっ……辞めないでよぉ……」
と訴えた。
「リサト……泣かないでよ、ね? ……みんなも、さぁ……」
膝枕の様な状態で、飛び込んで来た理彩斗の頭を撫でる糺凪は、ぐしぐしと周囲に響く複数の啜り泣きの声に、より一層感情を揺さぶられている様だ。――何せ彼女等の涙は、他でも無い糺凪自身に向けられたものなのだから。
「ルカ、気付いてたのね。アタシ等が居た事」
シトロンヘロンのメンバーと一緒に角の向こう側に居たらしく、角から姿を現した明日子が、琉歌に向けて言った。
「えぇ、何と無く、雰囲気で。それに、影が見えてましたし」
「そう……」
自分から訊いたにも拘らず、明日子は往なす様に答えてから、小さく溜め息を吐き、
「糺凪、申し訳無い。貴女が其処迄の深い葛藤を抱いていた事、悟れなかった」
と謝罪の言葉を口にし、頭を下げた。
「貴女が多少なりとも悩んでいる事には気付いていたわ。でも、辞めるかどうか、って云う……そんなに真剣なものだったとは……。アタシもまだまだね」
「いえ、そんな……。別に構いませんよ、あたしは確かに不真面目な態度だったし……」
糺凪は言葉を選びつつ答えた。傍から窺っている琉歌には、糺凪は特段明日子に自らの懊悩を気取り、相談に乗る役割を期待していない様に感じられた。
「糺凪さん、メンバーを代表して、謝らせて下さい」
そう切り出したのは、シトロンヘロンのリーダー的存在であり、満和・麗桜の二人の妹を従え、三人揃ってグループに属する通称「まみれ三姉妹」の長女の佐藤真音だった。
「糺凪さんが悩みを抱えて、脱退を考える迄に至ってしまった責任は、我々メンバー全員にも在ります。グループとは、支え合って纏まっていくものです。誰かが辛かったら、其れを察知して、メンバーの誰もが気を病まない様にするのが理想ですし、其処を目指している心算でした。ですが、私達は未だ足りていなかった」
真音は平静を保ちつつ話していたが、稍俯いて声を震わせた。
「……糺凪さんは、トロンに必要な……存在です。絶対……欠けてはならない……大切な、メンバーです……。辞めないで……下さい……。誰も……誰も失いたくないんです……。今のメンバーが最高だから……此の、メンバー、で……メジャーに行きたいんです……」
そう絞り出す様に言って、真音は泣き崩れた。其の光景を目の当たりにし、琉歌は「あぁ、やっぱりそうだよな」と内心納得した。事前に手渡された資料や、視聴したライヴ映像・楽屋裏映像からは凛とした、毅然とした長として振る舞う姿が見られる様に、対外的な位置付けは「確りしたグループの纏め役」と云うものだ。然し琉歌の眼には、真音が毅然とした長を演じている様に映ったのだった。
世間を見渡してみれば、未だ未だか弱く幼い、庇護すべき存在とされる、十代の少女。だが、芸能の業界では、そんな年代の彼女等も一端の芸能人としての活躍、立ち居振る舞い、人的強度を、否が応にも要求される。そんな庇護対象の少女達が懸命に努力し、人を魅了する様なパフォーマンスを達成する事が此の商売を成立させる要素の一つでもある事からも明白である様に、当人達は常に諸々の圧力に抗しつつ屈せずに人前に立ち続ける、壮絶な仕事なのだ。無論、彼女等は其れを承知の上で一線を張っている。だが然し、彼女等が世間一般のか弱き少女と同質である事も事実だ。ありとあらゆる重圧を満載に背負って、其の上で舞台に立つ少女が、何処かで弱さを垣間見せない筈は無いのだ。故に、幼い頃からアイドル業界を追い駆け続け、自らも其の現場に身を投じた経験を持つ琉歌は、真音の凛然とした態度が、一種の虚勢である事を見透かしていたのだ。
尤も、其の虚勢ですら魅力の一要素でもある事も、此の商売の因業な面でもあるのだが。
「まぁちゃん……。泣かないで……。まぁちゃんもみんなも、何も悪くないから……」
頽れた真音に真っ先に駆け寄ったのは、其の元凶と為ってしまった糺凪だった。背凭れの無い長椅子に座する自らの腰に縋り付く理沙斗を気遣いつつ、限界迄気丈に振る舞った真音の隣に駆け寄った。
「あたしこそ……ゴメン……。みんなをこんなに……泣かせちゃって……」
白いタイル張りの床にしゃがみ込み、泣きじゃくる真音と理沙斗の肩に腕を回す糺凪は、慰めなきゃ、と云う想いが第一に在りつつも、一方で心の奥の片隅の方に、何か異なる感情が芽生えて来た事に勘付いた。其れは果たして何なのか――。気付くと、糺凪が思案を巡らせる数瞬の間に、メンバー全員が三人をぐるりと囲む様にしゃがみ込み、皆一様に涙に暮れていた。
「……ね? 愛されてるよ、『ロンロン』の西船橋糺凪は、メンバーに、ちゃんと」
少し離れた位置から、琉歌は腰を屈めて、可能な限りの穏やかな声で、糺凪に対して言った。
「だから、自分をもっと、評価してあげて? 何も頑張らない、一切本気出してない人が、こんなに想われる事って、無いから。周りを良く見てみてよ。みんなが、貴女の事を必要として呉れてる。凄く恵まれた、幸福な事だよ」
琉歌は、真っ直ぐ、直截に、糺凪の瞳を見据えて、語り掛けた。糺凪は其の眼に吸い込まれるかの様な錯覚を覚え乍ら、自分の中に湧き出した感情の解答を悟った。
「安心……」
琉歌と視線を合わせつつ、琉歌の背後の虚空を眺めている様な眼をして、糺凪は譫言の様に呟いた。琉歌は不意の呟きに、思わず「え?」と聞き返した。
「あ……いや、その……。勿論、悪いとは思ってますよ? みんなを泣かせた原因を作っちゃって、申し訳無いな、って云う。でも、今、あたしが感じてる事って、其れ以外にも在って……。安心したんです。あたし、此処に居ても良いんだ……、こんなあたしを、必要として呉れてるんだ……って。今迄も別に疎外感とか感じてた訳じゃないけど、改めて、あたしはトロンの一員なんだ、此処があたしの居場所なんだ、って再認識出来たから……嬉しかったし、安心したんです」
糺凪の許に集まるメンバーの表情から、徐々に悲愴感が消えていく。
「あたし……未だトロンに居て、良いのかな……?」
糺凪の問いに、真音が涙を一杯に湛えた眼で、答えた。
「良いに、決まってます……!」
「てか、勝手に辞めるなんて許さないし!」
糺凪の左腕にしがみ付き乍ら、理沙斗が拗ねた様に言う。メンバーの表情に、次第に明るさが戻って来る。
「ふふ……。そっか……良いんだね、続けてて……」
糺凪の顔に、笑みが訪れた。琉歌は憂いの無い糺凪の笑顔を初めて見た。見惚れる位、綺麗だった。
「ゴメンね、みんな。あたし、もう独りで悩んだりしないから。だから、未だ、トロンに居させて……?」
数分前迄とは一転、一帯に歓声が響いた。今度は嬉し涙を見せるシトロンヘロンのメンバー達の姿に、琉歌はより強固な団結を幻視した。其の表情には、微笑みであり乍らも、何処かもの哀しさが漂っていた。
「ワシルカさん、申し訳ありませんでした。さっきはあんな口利いてしまって……」
其の後、再開されたレッスンを暫く見た後、琉歌は社に戻る事にした。さり気無く立ち去ろうとしたのだが、すっかり琉歌のアイドル性の虜と為ってしまった女性講師が退室しようとする琉歌を目敏く見付けて、自らの教え子達に感謝を示す様に、と指導した。メンバー全員から合唱の様な挨拶を受けた琉歌は気恥ずかしくなり、赤面しつつ返答もそこそこに部屋を出た。階段を降り、踊り場に差し掛かった頃、糺凪に呼び止められた。
「ううん、平気だよ。私は大丈夫だから、レッスンに戻って?」
琉歌がそう答えると、糺凪は「あと、もう一言だけ!」と付け加えた。
「ワシルカさん、今日は本当に有り難う御座いました。ワシルカさんのお陰で、あたし、当分アイドル続けられそうです。本当にもう……感謝しきれないです」
「やめてよ……。糺凪ちゃんが頑張ってたから、みんなの信頼を得られてて、辞めて欲しくないって思われたんだから。これからもみんなで力を合わせて頑張ってね。期待してるから」
琉歌はそう言って満面の笑みを糺凪に寄越した。そして階段を降りようとする琉歌に、糺凪は
「何時か、ワシルカさんと一緒の舞台に立ちたいです!」
と声を掛けた。あれだけの実力を今も有しているのだ、不可能な事ではない――と糺凪なりに思ったからだ。然し琉歌は、立ち止まったが振り返らずに、
「出来ないよ。私はああ云う形で一度辞めた人間だから、許されないよ……」
と言い残し、足音も立てずに階段を降りていった。糺凪は居た堪れず、先程キレキレのダンスを披露した元有名アイドルと同一人物とは思えない程に小さく見える琉歌の背中に、
「何か、済いません……」
と聞こえるか聞こえないかの声量で謝罪を入れた。
「では、失礼します」
事務室を出た志川雄路は、今自分が閉めた扉を睨む様に見詰めつつ、溜め息に近似した息を吐いた。関係者以外は立ち入れない裏階段とも呼ぶべき、狭く薄暗い階段を降りていくと、拙いバンドの演奏が漏れ聞こえて来た。STAFF ONLYと書かれた標札が貼ってある黒い扉が開き、志川が出て来た其の場所は、都心部からは離れた場所に在る中規模ライヴハウス「Effervesce」の受付の奥だった。壁に掲示してある催事予定表を一瞥すると、土曜の昼間は地元の学生バンド達を寄せ集めて、殆ど利益は出そうにない入場料で発表会の様な場を設ける、月一回のライヴイヴェントが開催されている事に為っていた。道理で、と納得した志川は、受付内に立つバイトと思われる青年に軽く挨拶をし、建屋を出た。もう一度、溜め息の様に息を吐くと、何気無く黒いスーツの内ポケットからiPhone6を取り出し、留守電が一件入っている事に気付いた。早速折り返しの電話を入れると、3コールで相手は受話した。
「もしもし、お世話に為ってます、明日子さん」
〔あ、雄路君。御免ね、行き成り電話しちゃって〕
「いえ、とんでもないです。……何か、有りましたか?」
〔ううん、トラブルって訳じゃなくて……。否、まぁ……揉め事っちゃトラブルか……〕
「……何か、一悶着有った感じですか?」
〔えぇ……。ロンロンの糺凪がね、ルカと衝突……と云うか、ルカに一方的に突っ掛かって、可成り生意気、と云うか失礼な態度だったから、思わず張っちゃったのよ〕
「あぁ……。有り難う御座います、躾けて頂いて。明日子さんが手迄出すって、相当なってなかったんでしょうから」
〔うーん……。まぁ、体罰云々煩い時代だし、成るべく避けたいんだけど……。否、其れより雄路君、糺凪が辞める事を考えてた、って知ってた?〕
「西船橋が……ですか……」
社有車として乗り回しているブラックのレクサス・ISの右フェンダーに腰を預けて、志川は呟いた。
〔アタシもまだまだだ、って痛感したんだけど……、アタシは見抜けなかったから……〕
「いや、明日子さんはウチだけじゃなく沢山の教え子達を抱えてらっしゃいますから……。でも、自分も何かしら悩んでるんだろうって事は把握してたんですけど……」
左手でiPhoneを耳に当て通話しつつ、志川は右手で顎の辺りを擦った。
〔糺凪がルカと一対一で話してる所を、他のメンバーと盗み聞き、って云うと聞こえが悪いけど、まぁ聞いてたのよ。それで糺凪が辞める事を考えてる、って言った瞬間から、みんな泣いちゃって。みんなで糺凪を取り囲んで、泣き崩れちゃって……。理沙斗なんか糺凪に抱き着いて、わんわん泣いてね……〕
明日子は電話越しに苦笑した。志川も釣られて微笑みつつ答えた。
「まぁ、舞木は西船橋に懐いてますからね……。トロンのメンバー全員が泣いてたんですか?」
〔えぇ、アタシが見た限りはね。アタシが思ってた以上に、ロンロンの結束力は高かったのよね。此れも想定外だったわ、あの絆はね……。其れを伝えときたかったのよ、雄路君に。良いグループに為ってるわよ、ロンロンは。もうそろそろ、メジャーデビューの頃合いなんじゃない? 真音も言ってたわ、『此のメンバーで、上に上がりたい』ってね〕
「そうですね……。まぁ、話が無い訳じゃないんですよ、正直。レコード会社との交渉も最終段階で。『カワズ』の後の曲に為るんじゃないですかね」
〔そうなの、其れは良かったわね! 今のロンロンなら、良い所迄行けると思うわ。いや、それにしても雄路君も感慨深いんじゃない? ずっと当面の目標だったものね。『自社のグループをメジャーにあげる』って云うのが〕
「えぇ、そうですね……」
〔苦労したもんね、雄路君も……。U.G.を立ち上げる迄は、特に……〕
「えぇ……。まぁ、寧ろあの頃があったから、真剣に取り組めたのかも知れませんけどね。本気度合いを試されてた、って云うのか……」
〔成る程ね……。雄路君も確りしたのねぇ。初めて知り合った頃は中学生位だったものね……〕
「えぇ、まぁ……。其の中坊も今や芸能プロの社長ですから、一応」
冗談めかして笑い乍ら、志川は言った。明日子は一笑いした後、ふと思い出した様に話し出した。
〔あぁ、そう云えば……、脱線するけど、流れでルカに『カワズ』をぶっつけで踊って貰ったんだけど――あ、此れはまぁアタシが仕向けたんだけどね……。ルカ、未だに現役時代のトレーニング続けてるそうね。踊りの覚えも早いし、動きも一線級だったわよ。本当に勿体無いと思ったわ〕
「そうなんですか……」
其の後、一頻り話し、明日子が電話を切ってから、志川は終話釦を押した。ISに乗り込み、ステアリングホイールを握りつつ、志川は先程のエファヴェスでの打ち合わせを思い出していた。
「――どうかね、考えて呉れたかい?」
「え、えぇ……」
「なかなか良い話だとは思わんかね?」
「えぇ、都内に専用の劇場が持てる、と云うのは、迚も……。然し、其の為の新グループの結成、と云うのが……」
「うーむ、新しく立ち上げたグループを専属にした方がキリが良い気がするんだが……」
「そうですね……」
「……僕はね、志川君。以前から君を応援していた身としてね、新しいグループを立ち上げて貰いたい、と思ってるんだよ、君に。ロンロンもメジャー目前だろう? そろそろ次への種子を蒔いておいた方が良いんじゃないかね?」
「……重々、承知です……」
「僕は、君のファンとして、是非君の立ち上げる新しいグループが見てみたいんだなぁ。それに……何故か物件の不動産屋が『遣るなら新しいグループで』と云う条件を出して来てるんだ……」
「…………もう少々、待って頂けないでしょうか」
「うーむ……。然し、不動産屋が煩くてねぇ……。月末――明々後日迄に詳細を報告しなければ借用の件が流れてしまうんだよ……」
「…………」
「まぁ……無理に、とは言わん。唯、偶々僕の所に転がってきた話で、君に取ってチャンスに為りそうな案件だったからな……」
エファヴェスは、志川がU.G.UNITEDを立ち上げた後、初めてのグループがライヴを行うに当たり使用した、所縁の有るライヴハウスで、以来エファヴェスの社長には世話に為っている。そんな相手に持ち掛けられた話だ。損得以前に感情レベルで断りたくはなかった。然し、弱小零細の芸能事務所であるU.G.UNITEDの経営を考えると、グループアイドルとして初となるシトロンヘロンのメジャーデビューに社の総力を傾けたかった。生半可な体制で成功出来る程、甘くない世界である事は良く分かっている。社運を懸け、全精力を結集させなければ、又と無い好機を逃す所か、事務所の存立さえ危うくなってしまう。だが、世話に為っている社長が折角持って来て呉れた話を反故にする事もしたくはない。
志川には、一つだけ此の状況を打破する案が浮かんでいた。然し、其れには或る人物の説得・協力が不可欠であった。
「蒼鷲、か……」
呟き乍ら、志川は右手で下唇から顎に掛けてを覆っていた。
「あ、社長。お帰りっすー」
「蒼鷲……一寸良いか?」
帰社するなり、志川は結芽の綿埃の如く軽い挨拶を歯牙にも掛けず、琉歌を呼び出した。志川は其の儘の速度で社長室へ直行するが、間仕切りの扉を引っこ抜かん勢いで開け放った時、琉歌が呼び掛けに反応していない事に気が付いた。
「おい、蒼鷲?」
「ワシルカさん?!」
二人に呼ばれて、琉歌は漸くぼんやりと事務机に肘を突き、虚空を彷徨わせていた眼を志川の方に向け、「あ……は、はいっ!!」と遅きに失した返事をしつつ弾かれた様に立ち上がった。
「一寸、此方に来い。安心しろ、説教じゃないから」
「あ、す……済みません……」
反省頻り、と云った感じの琉歌を従え、社長室、と云うか社長室に入っていく志川に向かって結芽が、
「安心して下さい、説教じゃないですよ!」
と多少声を張り気味に言うと、
「語呂が悪い。あと、些か最盛期を過ぎてるな。もう少し頑張れ」
と此れまた御尤もな寸評をぴしゃりと呉れた志川は、間仕切りの奥へと消えていった。
「どうだった? 元アイドルの蒼鷲から見て、現状のトロンは?」
脚輪付きの黒い人工皮革張りの椅子に颯爽と腰掛けた志川は斯う切り出した。
「いや……まぁ、偉そうな事を言える立場ではないですけど……」
「いやいや、蒼鷲も今やU.G.の社員なんだから、厳しい事でも何でも言って構わないよ。寧ろ、そう云う指摘の方が、トロンの糧に為る」
「そう……ですか……」
琉歌は逡巡し、言葉を選び乍ら口を開いた。
「メジャーフィールドで遣って行くには、もう少し振りの覚えとか、そう云った所での努力は必要かと思いました。でも、贔屓目無しで、相当魅力に溢れるグループだな、と云う印象ですね。みんな一生懸命レッスンに取り組んでますし、頂いた資料にあった通り、メンバー個々の個性も立っていて、見た目も良いですし、楽曲等の戦略次第で可成りの所迄行ける可能性は充分持っていると思います。特に、メンバー同士を思い遣る団結力の深さは、物語性と云う面でも強力な武器に為ると思います。ただ……其れが悪い方向に――例えば、内部での競争心が無くなってなぁなぁに為ってしまったりすると、パフォーマンスの質も落ちますし、ファンの方達の厳しい眼には劣化と映ります。そうなると急速に支持を失う事に為りかねません。其処は懸念材料ですね」
志川は机上に両肘を突き、顔面の前で手を組み、琉歌の話を聞いていた。琉歌が話し終わると志川は一つ頷き、
「……所で、トロンの前で踊ってみせたそうじゃないか?」
と話題を擦り替えた。琉歌は一瞬にして固まり、
「あ……す、済みません! 拙かったですかね……?」
と咄嗟に謝った。今や一会社員である自分が、芸能事務所のスタッフとしての領域を超えた行動をするな、と叱責されると思ったからだ。
然し、琉歌の懸念は、結果としては杞憂に終わった。
「いやいや、咎めようとする心算は無い。逆に、手本を見せる事が出来るってのは誰にでも出来る事じゃない。蒼鷲だから出来る事でもある訳だから、此れからも必要に為ったら頼むよ。アイツ等に取っても、蒼鷲が自分等の振り付けを踊って呉れるってのは刺激になるだろうしな」
琉歌はほっと胸を撫で下ろした。其の表情を見た志川は眼差しを鋭くした。
「……蒼鷲、踊れるのが嬉しいのか?」
琉歌ははっとして、即座に表情を引き締めた。
「……いえ、そう云う訳じゃ……」
志川は顎から口許に掛けてを右手で覆いつつ、本音を零した。
「……実はな、今新しいアイドルグループを立ち上げないか、と云う話が有るんだが……まぁ、正直ウチの会社の規模を考えると、今はトロンに集中したいと思ってるんだよ。下手を打ったら共倒れになり兼ねん。でも、其の話を呉れたのが、何時も懇意にして呉れてる先方でなぁ……。出来れば断りたくないんだよ。其処で、だ……」
琉歌はたじろいだ。志川の直截的な視線が自らに突き刺さったからだ。
「蒼鷲に、新しいグループの一員に為って欲しいんだ。無論「ま、待って下さい!!」
淡々と話を続ける志川の発言を、琉歌は堪らず遮断した。
「わ……私は、裏方としてU.G.に入りました。もう、私は表舞台に立つ事は出来ませんし、そう云う心算も有りません。なのに、急にそんな事言われても……」
「うーん……然し……「横暴だぞ!!!」
突如、間仕切りの向こうから、結芽が声を荒げた。
「あのなぁ、甲斐路……。一応、此処は社長室、って体なんだが……」
志川が邪魔をするな、と云う思いを内に秘めつつ、愚痴った。
「だって、全部聞こえてんだもん!!」
「そりゃ、まぁ……そうかも知れんが……」
「じゃあ!!」
バン、と音を立て、結芽が社長室に乱入して来た。
「壁越しじゃなきゃ……直接なら、文句無いでしょ?!」
「誰が入って良いって言った? 甲斐路、一寸生意気が過ぎるぞ?」
椅子から立ち上がり、嘗て無い威圧感を醸し出す志川に対し、結芽は一歩も退かず、
「ワシルカさんは、アイドル遣る心算でウチに入社したんじゃないんですよ?! 社長の都合でアイドル遣らそうなんて、横暴です!!」
と正論を展開した。だが、志川は其れすらも想定内、と云った風情で、相変わらず飄々としている。
「まぁ、其れは正しいよ、甲斐路。だけどな、もしも蒼鷲の本心がそうでないとしたら……?」
余裕綽々の表情で、薄笑いすら浮かべ乍ら話す志川を見て、結芽は「え……?」と戸惑いの声を上げた。当の琉歌は、頬に冷や汗が伝うのを自棄に生々しく感じていた。
「さっき蒼鷲は『カワズ』の振りを踊ったらしい。たった数回、講師の先生の手本を見ていただけで、蒼鷲は完璧な再現、否、完璧以上のパフォーマンスを見せたそうだ。現役の頃と同等か其れ以上の、圧倒的なステージングを、な」
「い……いや、大袈裟ですって……」
風向きが悪くなったのを肌で感じた琉歌は、援軍を欲し、結芽に視線を向けた。然し結芽は溢れんばかりに憧れの詰まった眼で琉歌を見詰め、
「良いなぁ、見たかった……。踊って欲しい……」
と嘆いた。結芽の視線を受けた琉歌の、頬を伝う冷や汗の筋が一つ増えた。志川が平然と続ける。
「まぁ、此処からは飽く迄も俺の推測ではあるがな。蒼鷲、お前……アイドルに対しての未練、あるだろ?」
そう言い放つ志川に指差された琉歌は、不意に突かれた核心に、鼓動が瞬停止する感覚を味わった。
「え……」
「そうなんですか、ワシルカさん?!」
結芽が身を乗り出す様に訊いてくる。琉歌は言葉を失い、唯口を閉ざすしかなかった。
「現役時代、お前は女性アイドルとしては稀な程に自主トレをする事でも有名だった。どうやら、其のトレーニングを今でも続けているそうじゃないか?」
「そ……それは、自分の中で習慣に為ってて、遣らなきゃ落ち着かないからで……」
「……じゃあお前は何故、芸能事務所に入った? 故郷に帰って、自動車系の専門学校で学んだお前が? ……内心で、どうしても何等かの形でアイドルに関わっていたい、と思ったからなんじゃないのか?」
核心中の核心、本丸を容赦無く突かれ、琉歌はぐうの音も出せなかった。
傷心の裡にひっそりと帰郷した琉歌は、暇を持て余し、取り急ぎ実家の近所に在った自動車整備を主とする二年制の専門学校に通い始めた。別段自動車に興味が有った訳では無い。何かを学ぶ事で空虚な時間を埋める、と云う事が差し当たり第一だった。専門学校で学ぶ事に因って、あわよくば其の業界での就職に有利に為れば良い、と云った程度にしか考えてもいなかった。
それでも生来の生真面目な性格もあって、きっちり二年間学習課程を修めた琉歌は、然し地元の自動車系企業への就職と云う道を蹴って再び上京し、地下アイドル中心の弱小芸能事務所であるU.G.UNITEDに就職した。其れが、果たしてどう云う意味を為すのか?
誰から見ても、火を見るよりも明らかだった。
「…………えぇ、其れは……否定出来ません。確かに、私は未だにアイドルに対する、或る意味での執着を捨て切れてはいません」
「ワシルカさん……」
「――なら「でも、出来ないんです!」
我が意を得たり、と云った志川の発言を、矢張り琉歌は遮った。
「……どうしてだ? 何故、其処迄頑なに為る? 一度引退したアイドルが復帰するなんて前例幾らでも在るぞ?」
「そりゃ、世間体も有りますもんね? 一旦引退、って云う形に為ってるのに、のこのこ復帰したら絶対叩かれますもん」
結芽が代弁する。琉歌はゆっくりと頷いた。其の目線は足許に向けられている。
「……其れだけか? 此の際なんだ、いっその事お前の中の蟠りを全部聞かせて呉れないか?」
一転して、穏やかな声色で志川は訊いた。琉歌は眼を伏せた儘、小さく頷いた。
「…………確かに、其れもあります。強制的な解雇だったけど、其れを受け容れて辞めたのは、自分です。あの時、結果的に見捨てる形に為った同僚・後輩達、裏切ってしまったファンの方々……彼等彼女等に対して私が取れる責任の形として、復帰なんて有り得ないし、万が一そうなったら、私は表立ってそう云う批判と対峙しなければいけない。其れは、迚も……辛い事です」
琉歌は目頭が熱く為るのを自覚した。落涙しない様に、慎重に話を続けた。
「それに……私は、切られたんです。要らない、と……言い渡されたんです。或る日、突然……青天の霹靂でした。――私には、需要が、無いんです……」
「ワシ、ルカ……さんっ」
「え……」
切羽詰まった声で結芽に名を呼ばれ、琉歌は思わず顔を向ける。結芽は涙を流していた。
「い……いや、結芽ちゃん……。御免ね、泣かないで……」
「だ……だって、ワシルカさん……っ」
ふと志川に眼を遣ると、芸能事務所の経営者、アイドルのマネージメントを生業とする同業者としての場都合の悪さからなのか、神妙な顔をして黙っている。其処迄来て、漸く琉歌は、視界の端が滲んでいる事に気が付いた。
「ワシルカさん、泣いてる、んだもん……っ」
てっきり、落涙は防げているものだと思っていた。自覚の無い内に、琉歌の瞳からは涙が零れていた。
「あれ? いやいや……なん、で……?」
「蒼鷲、お前は確かに酷い仕打ちを受けた。……斯う云っても、今のお前には響かないかも知れんが、ウチでは絶対に所属タレントを切り捨てる様な事はしない。絶対だ」
志川は顎を擦り乍ら、次の一手を考えていた。勿論、発言に嘘偽りは無い。だが、更に強力な一言を脳内で探し求めていた。
「――そうだな……。蒼鷲、お前は夢半ばで其れを打ち砕かれた訳だ。俺も、夢を抱いて此の会社を立ち上げたから分かるんだが……。夢って、簡単には消せないよな? 忘れる事は出来ないし、諦めたと思っても何時迄も頭の片隅をチラついて消え去らない。そう云う物を夢って云うんだ、と俺は思う。お前はどうだ? 二年間、チラつく事は無かったか? 諦めたのか? ……違うよな? 其れを、夢って云うんだよ」
琉歌は唯、茫洋とした瞳から涙を流し続けている。
「……お前は、アイドルとして復帰する事は『出来ません』と言ったな? しないんじゃなくて出来ないんだよな? なら、お前を縛ってるものは何だ? ……批判が恐いんなら、俺等全員で闘えば良いし、本当のファンだったら、お前が今何処で何をしてるのか――生きてるのか、知りたいと思うよ。お前の脱退を一因に、ニコムーンは瓦解した。嘗ての仲間達でお前に悪い印象を持ってる奴なんかそう居ないだろ? 世間の一般論――常識的に復帰は恥じるべき事……。果たしてそうなのか?」
志川は琉歌の眼の前迄歩み寄り、言い含める様な口調で話す。
「俺は、夢ってのは何よりも大事だと思う。いや……と云うより、自分の意思でさえ止められないモンだと思ってる。だから、其れを例えば『叩かれるから』とか『誰かが斯う思うから』とか云う様な、外的要因で踏み込めない、って云うのは、一番良くない事だと思うんだ。……何よりも大切なのは、自分の気持ちだ。蒼鷲、お前はどう思ってる? お前の本心は、どうなんだ……?」
志川は琉歌の両肩に手を置き、語り掛けた。琉歌は志川に眼の焦点を合わせ、止め処無く涙を汪溢させ乍ら、静かに口を開いた。
「わ……たし……、ずっと、頑張って……ました……。アイドル遣ってる期間……。誰の為でも、無かった……。結果的には、ファンの方々の……為でも、あったけど……、やっぱり、自分自身を……高める為だった……。昔から、アイドルが好きで……、テレビとか雑誌で、輝いてる……そんなアイドルの人達に、憧れてたんです……。一時の気の迷い、みたいなものでした……。オーディションに応募したら、トントン拍子に受かっちゃって……。夢を、見てる……みたいでした……」
琉歌は此の世で最も痛切な、哀切な微笑を浮かべた。
「今迄は……唯消費者側で憧れてた、存在に……成れたんです。嬉しさ、と云うよりは……恐かった。私なんかが……憧憬の対象と同じ様に……輝けるのかな……? そんな、恐れが真っ先に……来ました。だから、色々考えたし……身体を追い込んで、身体能力を底上げしよう、とか……必死でした。本当に、死ぬ思いで遣ってたし……色んな覚悟もしたし……、楽しい事よりも辛い事の方が……多かった」
志川は、瞳を逸らさない。否、逸らす事は、出来なかった。
「…………だけど……なのに……でも……」
琉歌の声が、急速に揺らいだ。
「あんなに、熱くて……情熱を燃やせられる場所、無かった……」
志川が、黙った儘頷いた。琉歌は俯いて暫く嗚咽を漏らした後、稍立て直して、話を続けた。
「わ……わ、たし……ニコムーン社を……恨んだりは、してないんです……。あそこに拾って貰えなかったら……、あの日々も……無いから……。ただ……あの日々が……、急に終わっちゃったの、が…………哀し、かった……」
琉歌は再び顔を下に向け、泣いた。リノリウム張りの床には、涙が溜まっている。
志川は口を閉ざした儘、琉歌の不規則に震える肩に手を添え続けている。
「…………社長……」
琉歌は消え入る様な声で呼び掛けた。
「……何だ?」
「私…………アイドル、また遣っても……良いん、ですか、ね……?」
か細い声だ。一陣の風が吹けば、忽ち消し飛んでしまう様な、声だ。然し其れは、琉歌の心がゆっくり、ゆっくり乍らも、再び転がり出した事を証左する、極めて重い一言だ。志川は、琉歌の胸中に燻ぶっていた火種に、小さな炎が燈ったのを幻視した。
「――ああ……」
「――ワシルカさん!」
泣き乍ら顛末を見守っていた結芽が、志川と琉歌の間に割って入り、琉歌の手を取って、
「あたし、全力で支援しますから!! また、遣りましょう!!」
と自らの涙を振り切る様に声を上げた。
「……うん。有り難う……結芽ちゃん」
琉歌もセーターの袖で涙を拭いつつ、心強い言葉に感謝した。
さぁて……、と志川は心の中で呟き、社長室の窓際から降り返り、窓枠の中の青空を見上げた。口には出さずに、気合を入れる。
――新しい企画、始めますか……!
第一話は結果的にかなり涙成分多めになってしまいましたが、以降はもう少し明るい展開になると思います。
あと、予想以上に話が進まなかった為、題名の意味は第二話以降で明らかになる予定です。
小説賞投稿用に他の作品も書き進めているので頻繁な更新は出来ないかも知れませんが、成るべく続けていく心算です。