青子の奮闘
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「晩御飯作るね。手伝ってくれる?」
青子は蓮吾に案内され、裏口から屋内に入ろうと試みた。
「えーっと、スリッパ、スリッパ……あったかなー……?」
まず、青子の行く手を阻んだのは、三和土に隙間もない程脱ぎ散らかされた子供靴だった。なにしろ九人分なので(雨霧氏の分を入れて、一〇人分か)大変だ。蓮吾はひっくり返ったり、あべこべになっているそれらを、廊下の隅に敷かれた新聞紙の上に素早く並べた。
「お邪魔します」
青子は蓮吾がどっかから捜し出してきたスリッパを履いて、玄関に向かって真っすぐに延びている廊下に上がった。
「ごめん、汚いだろ?兄貴がいると、少しはましなんだけど……」
蓮吾の言う通り、ヘデラの葉と蜘蛛の巣で飾り付けられた雨霧城内は、酷い有様だった。
壁や天井には茶色や黄色の染みが広がり、家財の屋根は、余すところなく埃の膜でコーティングされている。脱衣所には洗濯機に入りきらない洗濯物の山、山、山。階段には、食べ残しの皿や飲みかけの牛乳が入ったコップが洗いもせずに放置され、ケチャップやチーズがかぴかぴになっている。ちょっと変な臭いもする。
庭に生い茂ったクヌギやイチョウやカエデのおかげで日光が差し込まず、年中じめじめしている廊下を進むと、向かって左手にキッチンと(お勝手と言った方が正しいかもしれない)続き間の広い和室があった。
「ちょっと待ってて。今片付けるから」
蓮吾はいそいそと、ハンガーピンチから布巾を外して、ジュースでべたべたになった畳を拭いた。ニスの剥げかけた座卓の上にはお菓子や菓子パンの袋が散らかり、ごみ箱の中にはバナナの皮や、卵の殻が無造作に捨ててあった。
青子は視線を移して、お勝手の方を見た。料理をはじめようにも、先にたまりにたまった洗い物を片付けなきゃならない。それも、かなりの量だ。
青子は荷物の中からエプロンを取り出して手早く装着し、長い髪を後ろで一纏めにした。その様子を、蓮吾がぽかーっと、珍しそうに見ていた。
「さあ、はじめよう」
青子は蓮吾と協力して、一時間かけてキッチンとリビング代わりの和室を綺麗にした。それから買ってきた食材でカレーを作り、米が炊き上がった頃には、夜の八時を過ぎていた。
「ごめんね、遅くなっちゃったね」
「ぜーんぜん。早い方だよ」
青子が出来上がったカレーを皿に盛ろうとすると、蓮吾が待ったをかけた。
「俺達と、都の分だけで良いよ」
「?他の子ども達は?食べないの?」
九人兄弟だと聞いていた青子は、つ、と首を傾げた。閏と蓮吾、都、今病院にいる恵を除いて、残り五人。この家のどこかにいるはずだ。先ほどから、古い家に住み着くと言う座敷童みたいに、顔は見えないが気配はしている。
「置いとけば勝手に食べるよ。うちはいつも適当なんだ」
みんなでわいわい食卓を囲むものと思っていた青子は、奇妙に思った。「そうなの?」
「うん。都、呼んでくる」
随分かかって、蓮吾が都を連れてきた。ふて寝していたところを起こされた都は機嫌が悪く、しかめつらをしていたが、青子を見るなりその胸に飛び込んできた。
「?どうかしたの?」
「……さっき、ちょっとあって……」
蓮吾が決まり悪そうに言葉を濁し、都は堂々と告げ口した。「れん君ぶった」
「大げさ言うなよ。都がわがまま言うからだろ」
「だって、うる君、今日帰ってくるって言った!」
「だから、飛行機が飛ばないんだって。代わりに、アオコちゃんが来てくれたろ?」
都は青子の顔を仰いだ。邪気のない、大きなまん丸の目で見られると、青子は背筋がむずむずした。
「お兄さんに頼まれて、様子を見に来たんだよ」
「うる君が帰ってくるまでいる?」
「いるよ。お泊りセットも持ってきた」
「えー!?お泊りー!?」
都はすっかり機嫌を直し、綺麗になった和室を走り回って、喜びを表現した。
「……兄貴から、連絡があったの?」
「うん。昼間空港から電話があって……慌てて飛んできたの」
「なんだ、そうだったんだ……」
蓮吾はほんの少し残念そうな顔をした。青子には彼の失望の原因は終ぞわからなかった。
三人で食事をはじめようとしていると、裏口の引き戸が開く音がして、誰かが帰ってきた。
ほどなくして顔を出したのは、小学校五、六年生くらいの、眼鏡をかけた女の子だった。彼女は食卓に青子の姿を見付けると、思いっきり眉を寄せて、不審顔を作った。
「誰ですか?勇司さんの恋人?」
勇司さんというのは、さっき病院で会った、閏や蓮吾の父親のことだ。とんでもない!と青子は首を横に振った。
「お帰り和子。こちら、宮木青子さん」
蓮吾が紹介すると、和子と呼ばれた彼女は得心がいったようだった。先日の話が伝わっているんだろうと思った。
「お邪魔してます。こっちどうぞ」
和子は無言で勧められた位置に着席した。
青子は和子の分のカレーと、先程から隠れてこそこそ様子をうかがっている子供等の分のカレーをよそって食卓に並べた。
「出てきて、一緒に食べてくれると助かるんだけどな。洗い物も片付くし」
青子は大きな声で提案した。すると階段下のスペースから、少年が二人、待ってましたと言わんばかりに這い出してきた。「えへへ」「こんばんはぁ」
「律は十歳、強は十二歳。律は一昨年で、強は去年きたばかりだよ」
蓮吾は二人を青子に紹介した。強はにたにた笑いながら、耳の後ろに利き手を当てて、「ご厄介になってます」などと、大人びた挨拶をした。
九人には後二人足りなかったが、呼んでも降りてこないし腹も減ったので、食べはじめることにした。
「おいしいー!レトルトカレーよりおいしいー!」
「本当だ。都の言った通りだ」
青子のカレーは大好評で、男の子達はうまい、うまいと、それぞれ一杯ずつお代りした。
「俺等、こんなまともな飯、久しぶりだ」
「夏休みは給食、食べらんないもんな。カップラーメンはもう嫌だよ」
強と律は口々に青子を褒めそやし、彼女をいい気にさせた。
「じゃあ、強の方がお兄さんだけど、律の方が先輩なわけだ。ややっこしいなあ?」
「まあ、順番とかなんとかいうのは、この際どうでも良いけど、気になるなら、一号とか、二号とか呼んでくれてもいいよ」
すると、黙って話を聞いていた和子が、きっぱりと「私はいや」と拒絶した。
「……ごちそうさま」
和子は食事もそこそこに、二階の部屋に引っ込んでしまった。
「口に合わなかったかな?甘口にしたんだけど……」
見れば和子の皿には、カレーがまだ半分以上残っていた。男の子達は顔を見合わせた。
「気にすることないよ。拗ねてるだけさ」
「拗ねてる?」
「今まで兄貴が不在の時は、家の仕事は俺か和子がやってたんだ。強や律があんまり青子を褒めるから、へそを曲げたんだよ」
蓮吾が説明して、青子は納得した。なるほど、歓迎されていないと思った。
「和子の料理は微妙なんだよなぁ。むらっけがあるって言うか、当たり外れがあるって言うか……」
「メニューも代わり映えしないしね」
強と律が口をそろえて言って、蓮吾がため息を吐いた。
「和子、強や律と喧嘩して、手伝ってくれなくなっちゃってさ……兄貴がいれば、それでもなんとかなってたんだけど……」
「だってあいつ、俺のなけなしの千円洗濯しやがった」
「ポケットに入れっ放しにしておく方が悪いんだろ!どうするんだよ!洗濯物あんなにたまっちゃって、もう着るものないぞ!」
蓮吾が悲痛な声で叫んだ。旗色の悪いことを見て取ると、強と律はそそくさと席を立った。「ごちそうさまあ!」
残された蓮吾は、深いため息を吐いた。笑い事じゃないけど、青子は苦笑した。
「青子が来てくれて、本当に助かった……恵のこともそうだけど、俺一人じゃどうしようもなくて……」
「洗濯は、明日まとめてやろう。大丈夫、二人でやれば早く終わるよ」
青子の提案に、やっと蓮吾の笑顔が戻った。
その夜青子は、都と一緒に蓮吾と閏の部屋に床をとった。理由は和子が同室を嫌がったことと、布団が余っていなかったことだ。
都を挟んで、三人は川の字になるように横になった。
「おやすみ」
「おやすみ、青子」
閏がいつも使っている布団だと思うと、なんだか胸がドキドキした。一方の蓮吾も、傍らに青子が寝ていると思うと、なかなか寝付けない様子だった。