雨霧家訪問
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青子は四つ目の駅で降りて、タクシーで閏に教わった住所に向かった。雨霧家はM町の市街地から少し外れた、平らに広がる田んぼや畑の中にあった。
クヌギやカエデやイチョウの樹が生い茂り、雑木林と化している広い敷地を、恐らく元の色は白だったであろう雨汚れの目立つ瓦塀が囲んでいる。木々の向こうに、建物の屋根がちらりと見える。
「……本当にここ?」
「ここ」
タクシー運転手は、青子を巨大な門扉の前に降ろすと、Uターンして元来た道を引き返していった。門扉の脇には半分腐った表札が掲げてあり、良く見れば太マジックで、表面の苔を掘り進むように、雨霧と書かれていた。
塀の壁に根を張るヘデラの葉をかき分け、やっと探し当てたチャイムを二度ほど強く押してみたが、壊れている様子で、いくら待っても誰も出てこなかった。
「すみませーん!」
仕方なく、青子は大声を張り上げた。
「誰かー!いませんかー!?」
扉はうんともすんとも言わなかった。平らな土の上を、寂しい風が吹き抜けるばかりだった。「留守かい?」青子はつい独り言をつぶやいた。
「そこっちは、呼んでもだーれも出てこんよ!」
青子が門の前で困り果てていると、七十代前半くらいの老人が傍を通りかかった。泥だらけの長靴を履き、ごま塩頭に野球帽をかぶり、赤錆の目立つ手押し車を押している。上背はそれなりにあるのに、猫背で痩せているため、ばかに小柄に見える。
「正面からはへーれねっから、裏口回んなさいよ!」
「?へーれね?」
「だから、正面はやぶなの!やぶ!わかる!?」
老人は風船が弾けるような独特の張りのある声で、青子を圧倒した。
「裏口ね!わかったね!」
彼は駄目押しして、青子が頷くのを待たず、スコップやジョウロや猫の親子が詰まれた手押し車を操作して、足早に歩き去った。猫背なので、格好良くはいかなかった。
青子は彼に(彼女?)言われた通り、塀の向こうの建物の影を窺いながら、かに歩きで裏口の方へ回った。途中下手のフォークダンスみたいになったが、大丈夫誰も見ちゃいない。
『ぐみ!……ぐみ!』
二つ目の角の手前で、短く、何かを叫ぶような声が聞こえてきた。
喉に異物が引っかかったようなかすれ声は、変声期に差し掛かった蓮吾のものだ。それにしても慌てた様子だったので、青子はいよいよ先を急いだ。
『恵……!!恵!』
裏口が近付くにつれ、声がはっきりしてきた。青子は木戸を無造作に開き、現れた宅の引き戸を誰に断わりもなく開け放った。乱暴にやったので、ガラスがぴしゃん!と鋭い音を立てた。
「……青子……!」
扉の先には、白茄子みたいな顔色の蓮吾がいた。彼の傍らに背中を丸めて蹲る少年(彼の弟だろう。恵と呼ばれていた)の顔色はもっと悪く、青紫色で、プルーンみたいだった。
「どうしたの!?」
「わからないんだっ……俺も今帰ってきたところで……」
青子は荷物を降ろし、狼狽する蓮吾を退かして、恵に駆け寄った。
「……盲腸かも知れない。やったことあるからわかるの」
青子はトートバッグの中からタオルを引っ張り出し、堪らず嘔吐いてしまった恵の口元を拭った。
「救急車呼ぼう。保険証ある?」
「う、うんっ……!」
青子は蓮吾が保険証を捜している間に、一一九番に電話した。『はい……救急です。はい……M町の〇〇番地です。腹痛で、動かせそうにないんです』
青子は電話口で教えられた通り、吐いた物が喉に詰まらないよう、顔を横に向けて恵を寝かせた。
そうこうしているうちに、蓮吾が保険証を捜し出してきた。
「青子、これっ……」
ふと見ると、彼のカードを持つ手が震えている。青子は保険証ごと蓮吾の手を握った。
「救急車、直ぐに来てくれるって」
「……ん……」
「蓮吾はここにいて。子ども達を残していけないから」
青子の位置からは確認できなかったが、家のそこかしこに、子どもの気配があった。緊急事態と理解しているのか、邪魔にならないよう少し離れた、階段の陰や廊下の奥から、様子をうかがっているのだ。
「あと、お父さんに連絡が付いたら病院に来るよう伝えて。手術になるかもしれないから。それから、何かあったら電話して。これ、私の携帯番号ね」
蓮吾は青子の携帯番号が書かれたメモを、恭しく受け取り、命綱みたいにしっかりと握った。
伝えたいことをあらかた、早口に伝えた頃、青子の携帯に再び電話がかかってきた。電話の相手は、救急隊員からだった。
「ええ!?ど、どういうことですか!?」
用件はつまりこういうことだった。市内のショッピングモールで大きな火災があり、消防車と救急車がほとんど出払ってしまっているため、出来るなら病院まで自力で来て欲しい、と……
「そんなこと言われても、足がないんです!……え?タクシー?そんなの、待っていられない!」
若い声の救急隊員は、『病院の受け入れ態勢は整えておくから』とか、『落ち着いて、深呼吸!』とか言って、パニックする青子を宥めた。青子は蒼白になって電話を切った。
「病院?なんだって……?」
「……救急車、来られないって……」
蓮吾は言葉を失くした。
「と、とにかく、病院に連れて行かなきゃ……一番近くの家に頼んで、車出してもらおう」
青子は蓮吾を連れて家を飛び出した。二〇〇メートルばかり離れたところに、民家が見えた。青子は夢中で駆け出した。
「待って!青子!あの家は無理だよ!」
青子の背中に向かって、蓮吾が叫んだ。
「あそこの家は、前からうちと折り合いが悪いんだ!助けてくれるわけないよ!」
青子は蓮吾の言い分を無視した。万が一、億が一拒否されたら、人情なしの鬼畜のと罵って、家主を脅迫し、車を強奪するまでだ。
蓮吾の心配は杞憂に終わった。車を出してくれたのは、先程道で出くわした、猫背の爺さんだった。彼は軽トラックの荷台に恵と青子を乗せると、人命救助という大義名分のもと、指定された病院まで車をかっ飛ばした。
「雨霧さんですか!?こちらです!」
病院の受け入れ態勢はすっかり整っていた。控えていた医師の診察の結果、恵は緊急手術を受けることになった。青子が医師の説明を聞いて診察室から出てみると、猫背の爺さんはいなくなっていた。
青子は病院のロビーで、入り口を背にして恵の手術が終わるのを待った。落ち着かないので、飲み物でも買ってこようかと席を立ち上がったその時だった。
「あなた、ちょっと待って」
受付の方から、事務の女性が手首をぱたぱたさせながら、真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。その背後から、三十歳前後の若い男性が付いてくる。
「なんでしょう?」
恵に何かあったのかと思い、青子は緊張した。事務の女性は、青子の質問を無視して男性に向き直った。
「この子が連れてきてくれたんですよ」
事務の女性は続いて、青子に男性を紹介した。「こちら、恵君のお父さん」
青子はぎょっと眼を剥いた。
「はじめまして。恵の父です。あなたが、アオコさんですか……?」
若い。とても九人の子持ちとは思えない。いや、実際は二児の父だが、それにしたってぴちぴちだ。青子は驚き、うろたえた。
「あの……?」
「あっ……は、はい。私、閏君の知人で、宮木青子です」
「?……閏の?蓮吾のではなくて?」
「え?」
「いや、なんでもないんです」
青子は座り直し、雨霧氏は隣に並んだ。その直後のことだった。話をする間もなく、看護師が呼びに来た。手術が終わったのだ。
「危ないところでした。破裂寸前で、腹膜炎をおこすところでした」
恵の手術をした医師は、雨霧氏の前で青子を褒めちぎり、彼女を大いに照れさせた。
病室の前で、雨霧氏は青子に深々と頭を下げた。
「本当に、どうもありがとう。君がいなければ、恵は死んでいた」
「そんな、大げさです」
「蓮吾に聞きました。火災で、救急車が来られなかったって。恵の命が助かったのは、確かにあなたの判断のおかげです」
青子は雨霧氏に後を頼み、病院を出た。病院の近くのスーパーでカレーの材料を買い、タクシーを拾って帰宅すると、門扉の前で今にも死にそうな蓮吾が待っていた。
「め、恵はっ……」
「急性盲腸炎だって。手術でとったから、もう大丈夫」
青子はピースサインして見せた。蓮吾はへなへなと地面に座り込んだ。「良かった……」
「それでね、お父さん、また仕事に行かなきゃならないんだって」
「わかってる。大丈夫」
「明日、着替えとか持ってお見舞い行こう」
「ん」
「晩御飯作るね。手伝ってくれる?」