表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナレソメ  作者: kaoru
9人目の男
77/80

突然のキス






 帰りの電車は早朝の様子とは変わって、そこそこ混雑していた。近くのナントカって有名な神社で、年越しイベントが開催されるためだ。夜も遅い時間だと言うのに、時節柄、周囲を気づかって声を落とす客はおらず、車内は無遠慮な話し声で満たされていた。


 家族連れや友人同士が大半を占める中、ぼっちで、お通夜帰りみたいに陰気な顔の青子は酷く目立った。憔悴しきって、いかにも災難に見舞われましたという風体なので、注目するなという方が無理な注文だった。


(私……)


 傍に立つ少女達がひそひそ声で、「失恋かな?」「かわいそー」なんて囁き合っている。


(何やってるんだろう……)


 泥だらけで座席に座ることもできず、眩暈がするほど腹ペコで、それは情けない気持ちだった。電車が目的の駅に到着すると、青子は人目から逃れるようにホームに降りた。スカートの裾から入り込んでくる冷気が、絶望感をより増幅させる。


 何もかも後回しにして、とにかく帰ろう……


 思考と感情のスイッチを切り、子供たちが待つ家へ急ぐ。

 改札口を出たところに、意外な出迎えが待っていた。


「…………」


 フードを目深に被り、マスクで顔を隠した蓮吾は、驚きに目を見開く青子の姿を見て、微かに愁眉(しゅうび)を開いた。しかし次の瞬間には険しい表情に変わる。

 蓮吾は青子を物言いたげな視線で睨んだが、結局何も言わず、くるりと方向転換して道を歩き出した。青子はまるで貞淑な妻みたいに、早足の彼の3歩後ろを、いそいそと歩いた。


 家に帰り着くと、蓮吾はさっさと2階に引き上げてしまった。

 玄関で汚れたストッキングを脱ぐのに手間取っていると、顔面を涙と鼻水でコーティングした都が廊下を弾丸のように飛んできて、青子の背中に激突した。あまりの勢いに、うっと胸が詰まる。


「よぉ、お帰り」


 次いで居間から義弟(りゅうたろう)が顔を出し、その後に子ども達がぞろぞろと続いた。


「都、どうしたの?」


 青子は挨拶をスルーして、まず都の癇癪の訳を尋ねた。いつもは龍太郎(ともだち)がいればご機嫌なのに、めずらしい事もあるものだ。子泣きじじいみたいに張り付いて、動けもしない。


「さっきまで大人しく寝てたんだけど、急に泣き出してよ……」


 あやしても全然泣き止まないんだと、決まり悪そうに説明する義弟は、本当に困り果てた様子で……


 愚図る幼児を前に成す術もない義弟を見て、青子は感心した。才知に長けるが故に傲慢で、人情の機微を理解できない彼がこんな顔をするのは、末っ子が絡む時だけ。2人は年の差という壁を越えて、本当に良い友人同士のようだ。


「目を覚ましたらうる君も青子もいなかったから、びっくりしたんだよなー?」


 都は律の質問に答える代わりに、青子の背中でぐりぐりと鼻水を拭いた。折り紙のお星様みたいなかわいい手が、借り物の上着をむんずと掴んでいる。頬にはカラカラの塩がこびり付いて、幾筋もの線になっている。


 青子は急に切なくなって、都を膝の上に抱えなおし、ギューッと抱きしめた。


 予定では今日はごちそうを作って、のんびり過ごすはずだった。今更ながら、今朝の選択を深く後悔する。あの時は居ても立ってもいられず、ただ閏を連れ戻すことしか頭になかったのだ。


 彼が恋人(ゆりえ)と一緒にいると聞いて、頭が真っ白になった。この惨めさは、(れんご)のピンチに(かこつ)けて、身勝手な考えに囚われた罰……


「……本当にごめんね、遅くなって。お詫びにおいしいお蕎麦作るから。都、食べれる?」

「……たべる」


 その後女子3人でワイワイお風呂に入り、鍋を火にかけていると、年が明けた。子供たちの年始の挨拶を聞き流しながら、時計を見上げて溜息を吐く。長い1日だった。


 こうして台所に立っていると、今日の出来事がすべて嘘のようだ。ガタピシいっている体以上に、長編映画を観た後みたいに精神(こころ)が疲れてる。


「ところで青子さん、兄貴には会えた?」


 青子がグラグラと煮え立つ湯をぼんやり見つめていると、恵が何気なく尋ねた。子どもたちのきょとんとした視線が青子に集中して、額に冷や汗が滲む。

 青子は咄嗟に、下手くそな苦笑いで誤魔化した。「……あー……ごめん。ダメだった」


「がんばったんだけど、警備が厳しくて」

「そっか……まあ、早ければあと3日で帰ってくるんだし、慌てることないよね」


 恵は努めて楽天的に言ったが、青子の心は波間に漂う小舟のように、不安に揺れていた。


―――このまま屋敷に留まっていただきたいと考えております―――


 予期せず、頭の中に老成した熟年男性の声が響く。


 帰って、くるんだろうか……?


「そう言えば、剣道部の顧問の先生から電話があったよ」

「?戸田先生から?」

「うん。都合が良い時に連絡くださいって」


 用件は蓮吾のことに違いない。早すぎる展開に、背筋がひやりとする。

 ……甘かった。学校から連絡がくるとしても、三が日を過ぎてからだと思ってた。


―――責任も取れないくせに―――


 真理奈の金切り声が耳朶(じだ)によみがえり、唇から思わず弱音が零れた。


「……連絡……私で、いいのかな……」


 家事が得意、なんて言われていい気になっていたけれど。真理奈が言う通り、世間から見たら己など、ほんの子供に過ぎないのだ。携帯の契約も、高校入学の手続きも、ぜんぶ親にやってもらって、自分じゃ何もしたことがない。


(それに……)


 蓮吾とは、本物の姉弟ですらない。血が繋がっているわけでも、一緒に暮らしているわけでもない。半年前に知り合ったばかりで、旧知の間柄というのでもない。青子と蓮吾の関係を明確に言葉にするなら、ずばり赤の他人……ソフトに言っても友人だ。

 兄の恋人なんて胡散臭いポジションの人間が何を言っても、真理奈は認めないだろう。今やその肩書きすら失おうとしているわけだが……


 ……責任なんて……


「アオちゃん……だいじょうぶ?」


 俯いた視線を上げると、子ども達が心配そうに覗き込んでいた。


―――その時のために、あなたがいるのでは?―――


 ズシリと、突然肩に子猫が飛び乗ったような、奇妙な感覚。


(……もう、やだっ……)


 今日はちょっと、疲れすぎたみたいだ。

 青子は両頬をぺちぺち叩いてマイナス思考を振り払った。空元気で微笑んで見せた青子を、皮肉家の義弟はこたつに寝転がりつつ、冷めた目で見つめていた。


 年越しそばを食べ終えた後。一晩中起きていると息巻いていた子供達は眠気を堪え切れず、1人、また1人と部屋に引き上げていった。

 独りきりになった居間で、除夜の鐘を聞きながら思索に耽る。頭の中に今日出会った人々の顔が思い出され、閏に関する数々の証言がリフレインする。


(本当かな……)


 閏が、野城社長こと、野城晃一の会社を狙ってるって……


 つまり、そういうことなんだろうか?彼は近々己が晃一の娘になる事を知っていて、最初から利用するつもりで近付いたんだろうか?


 思い返せば、不自然な出会いだった。商売敵(ライバル)の婚約者の自宅前で行倒れるなんて、出来過ぎてる。


 すべてが嘘だったなんて信じたくないけれど……


 内心では、薄々気づいていたのかも。生粋の庶民である己が、日本有数の財閥の御曹司と交際なんて、そんな旨い話があるはずないって。家柄とか、容姿の事だけじゃない。他力本願で、意志薄弱で、未熟で、そのくせ生意気で……こんなどうしようもないクソ餓鬼が、本気で彼に相手にされるわけなかった。後継者争いの事、仕事の事、なにも打ち明けてもらえなかったのがいい証拠だ。


 知らないと言えば、子ども達の事だってそう。


 今まで深く考えて来なかったけれど、彼等は一体、どういう経緯で雨霧家に引き取られたんだろう?本物の家族はどこにいて、何をしているんだろう?都の母親は自殺、律の父親はフィリピンで暮らしていると聞いたことがある。では、和子は?強は?恵や亮の両親は?


「…………」


 いずれ知る時が来るんだろうか?それとも、そんな日は永遠に訪れないのだろうか?


 ぼんやり考えていると、ふと、部屋の隅に飾られたクリスマス・ツリーが目に留まった。片付けようとしたところ、子供たちの反対にあい、そのままにしてあったものだ。テレビ台の上の鏡餅や正月飾りと併せると、ちぐはぐな感じがする。


 青子は逡巡の後、のっそりと腰を上げた。オーナメントやLEDライトを取り外し、専用のケースにしまう。ツリー本体を解体しているところで、こたつの上の携帯が震え出した。


 着信は(かなえ)からで、ほっと安堵した。


『あ、青子ー?あけましておめでとー』


 静寂を吹き飛ばすかのようなのんきな声に、心がふわっと軽くなる。青子はストーブの前に座り込み、母の声に聞き入った。ちょうど誰かと話したい気分だったのだ。


「おめでと、今年もよろしく。……お母さん、まだ仕事中?」

『ううんー。終わって、今駅前の角打ちで飲んでんの。……そっちは?雨霧さん家?もしかしてお邪魔しちゃった?』

「平気。みんなもう寝ちゃったから」

『あそ?よかった、真っ最中だったらどうしよかと思った。……ねぇねぇそれより聞いてよー!今誰と一緒にいると思うー?』


 香苗は母親の言葉とも思えない爆弾発言をうっちゃらかして、藪から棒にたずねた。青子が答える前に……


『久しぶりだな、青子君』


 ビターチョコレートみたいな、渋い男性の声が鼓膜に響いてきて、青子は携帯をとり落としそうになった。


「……もしかして、晃一さん?」


 なんというタイミング……

 青子がおっかなびっくり確認すると、晃一は背中で笑いをかみ殺す香苗に向かって『ちゃんと覚えてたよ』などと報告した。


『どうにか仕事の目途が付いて、一昨日やっと帰国したんだ。留守中、息子の面倒を看てくれてありがとう。遅くなってすまなかったね』

「いえ……」

『急で悪いんだが、今後のことを話し合いたいんだ。明日、4人で会えないかな?』


 久しぶりに顔も見たいし。

 晃一が提案すると、香苗がすかさず横槍を入れる。『晃一さん、明日じゃなくて、今日よ!今日!』


 あれこれ天秤にかけて悩んでみたが、結局青子は承知した。「……わかりました」

 返事をして直ぐ、またしても己の願望を優先してしまった事に罪悪感を覚える。


(でも……だって……)


 確認したい。せずにはおれない。閏のこと、天幸寺のこと、当事者(こういち)の口から真相を聞きたい。あわよくば否定して欲しい。


『じゃあ、3時に駅前で。龍太郎に逃げたら小遣いなしって伝えておいてくれ』







 その夜は床についても結局眠れず『そうだ、おせちを作ろう』などと思い立ったのが、丑三つ時の事。


 布団を這い出した青子はエプロンをかけ、髪をぎゅぎゅっと括って台所に立った。


 ハンバーグやらトンカツやら、子ども等が好きそうなおかずをどっさりこさえて、5段の重箱に詰め込む。でき上がったのはおせちというよりは、ほとんど行楽弁当だった。冷蔵庫も冷凍庫も空になった。


 一心不乱に作業していると、明け方蓮吾が降りてきた。カーテンの隙間から、新年のはじまりに相応しい、清く力強い朝日が差し込んでいた。青子は飛び切りの笑顔で、朗らかに「あけましておめでとう!」と挨拶した。


「……とう」

「おせち作ったの。朝ごはん、食べるでしょ?」


 青子は蓮吾の返事を待たずに、炊き立ての白飯をよそって、新調した箸と一緒に食卓に並べた。雑煮の代わりには、昨晩の蕎麦の残りに紅白の蒲鉾(かまぼこ)と、トースターで焼いた切り餅を浮かべた。


「お腹空いたでしょう。昨日もあんまり食べられなかったんじゃない?」

「…………」

「どれ食べる?青子がとってあげる」


 青子の心配に反し、蓮吾はぽそりと「煮しめ……」と呟き、借りてきた猫のように大人しく席に着いた。青子はほっとして、重箱に詰めたばかりのおかずを何品か取り皿に分けた。


 よほど腹が減っていたようで、蓮吾は何度もおかわりして、重箱の端からおかずを平らげた。青子も蓮吾の向かいに座って、もりもり食べた。しばらくすると子供たちが起きてきて、いつも通りの賑やかな食卓になった。


 カレンダーを掛けかえ、玄関に正月飾りを取り付け、子ども等の書初めを手伝い。


 9時頃。迫田のじいさんにおせちのお裾分けを持って行き、()(もち)を土産に帰ってくると電話がジャーンと鳴った。相手は剣道部顧問の戸田教諭だった。


 戸田は挨拶も何もすっ飛ばして、開口一番『いやー、弱りました』と切り出した。


『まさか新年早々こんな事件が舞い込むとは』

「本当にすみません……ご迷惑おかけして」


 青子が受話器の前で恐縮しきって一礼すると、戸田は慌てて『いや、いや、お姉さんのせいじゃありませんよ』とフォローした。


『お姉さんも、年の瀬の忙しい時期に災難でしたね。かなり怒られたんじゃないですか?』

「私は大丈夫です」

『なら、いいんですけど。あそこは母親が強いから……あ、今の聞かなかったことにしてください』


 などと軽口を言う戸田の口調には深刻な様子など微塵もなくて、青子は肩の力を抜いた。


 良かった……彼は蓮吾が婦女暴行犯だなんて、ぜんぜん信じてないみたいだ。


『心配いりませんよ、瀬良が蓮吾に夢中だったのは誰もが知るところですから。真相は早晩、明らかになると思います』


 次の瞬間、戸田は力強く保証して、青子の期待に応えた。


『それにしても蓮吾のヤツ、なんで認めちゃったかなぁ。まずいとしたらそこですよ。蓮吾はなんて言ってます?まだだんまりですか?』

「はい……なにか、余程の事情があると思うんですけど、話してくれなくて……」


 青子は続けて、「私、これからお年始の挨拶がてら、春奈ちゃん家に行ってみようと思うんです」と提案した。蓮吾が何も語らない以上、もう1人の当事者である春奈に詳しい事情を聴くしかない。真理奈の目を盗んで、2人きりで話ができれば……


『いやいや、それには及びませんよ。こっちの方で対処しますんで、お姉さんは蓮吾を看ててもらえますか』

「でも……」

『こういうことは、第三者が間に入った方がまとまるもんですよ。これ以上奥さんを刺激してもいけないんで、任せてください』


 「それじゃ、よろしくお願いします」受話器を置いた後で、案じ膨れる。戸田は青子がこの件に関わることを歓迎していないようだ。もしかしたら、真理奈が学校に何か言ったのかもしれない。


 下腹が締め付けられるような感触がして、うなじがチリチリする。青子は重苦しい息を吐いた。こんな事なら、お客様用のちゃんとした食器、買っておくんだった。


「…………」


 後悔してもしょうがない。今できる事をやらなきゃ。

 思い立ったが吉日と、青子は早速薬局へ赴き、ヘアカラー剤を購入した。髪を黒く染め変えて、鏡の中の自分と向き合うと、尻に火が付いたような焦燥がほんの少しだけ鎮まった。蓮吾は青子の黒髪を見て、ショックを受けたようだった。


 早めの昼食を終えると、地味なワンピースに着替え、ごねる都を宥めすかして家を出た。戸田にはああ言われたが、やはり他人任せにはしておけない。真理奈を必要以上に怒らせてしまった責任を感じていた。


 電車に乗って、蓮吾の友人(相田と赤井)に電話で教わった住所へ向かう。


 瀬良家が居を構えるのは所謂高級住宅街の外れで、辺りには意匠を凝らしたデザイナーズ・ハウスが等間隔に、整然と建ち並んでいた。


 庭先にレンコンみたいな遊具(オブジェ)が無数に設置された家。長方形のビルを上から摘まんで半周ねじったような家。短冊状の採光窓が玉虫色に輝く家。細長い煙突が楽器のように屋根から突き出した家。敷石が三葉虫やアンモナイトやオウムガイの形になっている家。


 電柱や電線はなく、歩道の脇には屋根が付いたアイアンのベンチが設置され、街灯に鳩や天使の彫刻がとまっている。曲線と直線が複雑に絡み合って、まるで町全体が美術館みたいだ。


 青子はスマホの地図アプリを頼りに、10分ほどで瀬良家を探し当てた。

 庭いっぱいに敷き詰められた新品種の西洋芝。4階建てのモダンな鉄骨住宅は重々しい黒灰色の、コンクリート打ちっぱなしの壁面で、個性的なマスタード色の玄関ドアや高級車4台が眠る贅沢なガレージから、家主の強いこだわりが伺えた。


「…………」


 手土産のマカロンの紙袋が、急に安っぽく思え出す。それでもあまり驚かずに済んだのは、閏の実家(天幸寺城と呼ぼう……)を見た後だからだろうか?


 青子はカーブミラーで服装や髪型を入念にチェックした後、背筋を伸ばして、静々と門扉に近付いて行った。偽物の防犯カメラに見つめられている。春奈が出てきてくれることを願いながら、震える指先でチャイムを鳴らそうとした、その時だ。


「帰ってこれないって、どういうこと!?」


 どこからか裏返った喚き声が聞こえてきて、驚いた青子は咄嗟に門柱の影で縮こまった。サバンナのガゼルみたいに耳をぴくぴくさせ、素早く周囲に視線を巡らせる。

 塀の直ぐ向こうに見覚えのある白い高級車……中古のレクサスが停まっていて、車内には険しい顔をした真理奈がいた。


「だってあなた、約束したじゃない!春奈だって楽しみにしてたのよ!」


 真理奈は通信端末を片手に、唾をまき散らしながら、電話の相手と激しく口論している。


「今頃とっくにホテルに付いてるはずだったのに、せっかくの休暇が台無しよ!仕事が大切なのは分かるけど、もっと私達のことも考えて!相談したいことだって……あっ!」


 真理奈は用済みになった端末を助手席に放り投げた後、額を強かにハンドルにぶつけた。長い間顔を上げないので、もしかしたら泣いているのかも、などと思う。


 ……まずい時に来てしまったようだ。どう考えても、今声をかけるのは正解じゃない。


 今日のところは引き上げようと、腰を屈めつつ退散しようとしたところで、不意に顔を上げた真理奈と視線が絡まった。真理奈は、慌てて深々と頭を下げた青子を忌々しそうに睨み付けた後、車を急発進させた。暴走レクサスは、海外旅行や帰省でひと気のない住宅街を爆走し、瞬く間に視界から消え去った。








 約束の3時から遅れる事5分。走って走って、やっと駅にたどり着いた青子は、先に到着した母たちが待つファミリー・レストランに飛び込んだ。


「こっちこっち!」


 レジのところから込み合う店内に視線を巡らせていると、母の声が青子を呼んだ。奥のコの字型のファミリー席に座っていたのは、気の抜けた格好の香苗(幅広のデニムにひと昔前のB系みたいなでっかいトレーナー)と、テーラード・ジャケットをお洒落に着こなした晃一。仏頂面の龍太郎と、もう一人……


「?都も来たの?」


 上機嫌でベルギーチョコのミニパフェを頬張っていた末っ子は、目だけを上げて、まあね!という顔をした。龍太郎は聞いてもいないのに、「付いてくるって聞かないんだ」と訴えた。


 青子は都のファッションを確認して、こっそりと唇を引き延ばした。リブ素材のおしゃまなワンピースにタイツ。左右対称の完璧なツインテールの片方には、幼稚園のお友達から送られたクリスマスカードに添えられていたカスミソウの造花。両手の爪は水溶性のキッズ・マニキュアでサクランボ色にカラーリングされている。困った風を装いながら、手落ちのない出かけ支度だ。ホントは付いてきてもらったんじゃないの?


「青子ったら、そんな取り繕うことないのに」


 イイ子ぶっちゃって。

 香苗は青子の染めたての黒髪を生温かい目で見て言った。青子は声に出さず、(そういうあなたはもう少し取り繕った方が良い)と反論した。仮にも恋人の前なんだから。


 龍太郎を押し退けて明るいエメラルドグリーンの合皮ソファに座ると、向かい側に腰かけた晃一の微笑みと目が合った。


「久しぶりだね、青子君」


 「あけましておめでとう」と、甘苦い声で挨拶する晃一は、前に会った時とは全くの別人に見えた。


 笹の葉みたいな切れ長の瞼の奥の、活力が漲るギラギラした瞳。夏より贅肉が削げて浮き出した頬骨。たくましいガテン系の肉体は更に日焼けし、黒光りしている。


(この人が……)


 天幸寺が欲しがっている建設・不動産会社、野城総合設備の代表取締役。人望が厚く、切れ者で、閏を出し抜いて上海リゾートホテル建設の大口契約を勝ち取った男……


 青子はついしげしげと見つめて、晃一を不思議がらせた。「?なんだい?」「いえっ……」


「晃一さん。青子くんだなんて、他人行儀よ。もう直ぐあなたの娘になるのよ」

「え?ああ、ううん……でも、いきなり呼び捨てにするのは……」

「いいじゃないの別に。でっかい体して、気が小さいんだか、らっ!」


 たじたじになる晃一の肩を、強めのグーで殴る。「いてっ」

 豪胆で男勝りな香苗に自分が似ているなんて思わない青子は、『晃一はなんで(これ)が良かったんだろう?』なんて失礼な疑問を抱いた。龍太郎(むすこ)は今にも砂を吐きそうな顔をしていた。


「それじゃあ、そろそろ行こうか?暗くならないうちに」

「?どこか行くの?」


 レジャーにも夕食にも中途半端な時間だ。首を傾げる青子に、母は勿体ぶって、「結婚の報告」と笑った。


 20分後、青子は香苗や晃一と共に、実父の墓の前に立っていた。


 辺りを簡単に掃除した後、しゃがみ込んで祈りをささげる。青子も何か報告しようと思ったが、頭に浮かんでくるのは他所事ばかりだった。しばらくすると晃一は、「二人きりにしてあげよう」と提案し、長々と手を合わせる香苗を残して墓石の前を離れた。


 広い霊園の中を、両手をこすり合わせながら、ゆっくりと歩いて一周する。


 めずらしいキャラクターを模したお墓の前を通り過ぎた辺りで、ふと、晃一が立ち止まって一方向を見つめた。彼の視線の先には、都と一緒に両手を広げてぐるぐる回転する龍太郎の姿があった。ひたすら回っているだけなのに、すごく楽しそうだ。


 晃一は涼し気な目元を眩しそうに細めて、ぽそりと呟いた。「はじめて見た。息子(あいつ)のあんな顔……」


「君に預かってもらって、本当に良かった。都ちゃんだったかな?聞けば、君の恋人の妹さんだとか……」


 思いがけず、晃一の口から飛び出した恋人という単語に、青子は空唾を呑み込んだ。


「君が選んだんだから、いい男なんだろう。今度私にも紹介してくれ」

「はあ。その、紹介できたらいいんですけど……」

「?なにか問題があるのか?」

「問題って言うか……実は私、おじさんに聞きたいことがあって……」


 振り向いて耳を傾ける晃一に、恐る恐るたずねる。


「天幸寺さんって人、知ってますか……?」


 青子がその名を口にすると同時に訪れた、奇妙な沈黙。

 やがて口元の渋い微笑が消え、浅黒い顔が見る見るうちに青ざめる。「天幸寺……?」


「それはもしかして……T.テックの天幸寺閏のことか?経営企画室の?」

「えっ……は、はい」

「あの男が接触してきたのか?君に?」


 晃一は驚愕に声を緊張させ、何度も後度(ごど)を突いた。真実を言うべきか否か、青子が判断に迷っていると、沈黙をイエスの意味に捉えた晃一は舌打ちして、「迂闊だった」と呟いた。


「会社の人間だけでは飽き足らず、無関係な君たちにまで目を付けるとは……くそっ」


 憎らしい男の顔を頭に思い浮かべ、ぱんっ!と分厚く膨れた左手に右拳を打ち付ける。


「何かされなかったか?脅迫とか、嫌がらせとか……もしそうなら直ぐ警察に!」

「ち、違うの!……友達の彼氏が星学に通ってて。すごく格好いいって聞いたから、どんな人なのかなー?って」


 ちょっと、気になっただけ。

 青子は咄嗟の機転ででたらめを言い、へらりと上手に笑って見せた。晃一は完全には警戒を解かず、しばらく難しい顔で黙考した後、青子の野次馬な疑問に答えるべく重い口を開いた。


「……確かに、いい男だな。それに、素晴らしく優秀だ」

「…………」

「しかし、私は好かんね。傲慢だよ、彼は」


 「傲慢……」オウム返しにした青子の声に、隠しきれない落胆が滲む。晃一もまた、六笠や楢崎と同じことを言うのか……


「なにを隠そう、彼と私は同業者でね。これまでに何度も妨害を受けているんだ。


 人の好い顔をして近付いてきたと思ったら、乗っ取り屋と手を組んで取り込み詐欺。失敗すると今度は役員連中を買収。他にも社員の自宅に無言電話がかかってきたり、事務の女性が不審者に付きまとわれたり、郵便受けに火が付いた爆竹を投げ込まれたこともあった。


 煮え湯を飲まされたのは私だけじゃない、知人の会社も倒産に追い込まれた。彼が融資元の銀行に手を回したんだ。事業計画を見直して、これからという時だった。私の目から見ても、起死回生の見込みは十分にあった。貸し剥がしの憂き目にさえ合わなければ……」


 晃一は青子を近くのベンチに誘い、脇の自販機で缶コーヒーとミルクティーを買った。青子に好きな方を選ばせ、自分は飲まずに手を温める。唇や鼻から白い霧が絶え間なく吐き出される。

 ちらと見れば、母は既に長い祈りを終え、晃一と青子の話が終わるのをブラブラしながら待っていた。そのうち都と龍太郎に合流して、だるまさんが転んだ!を始めた。きゃーきゃーと、楽しそうな声が響いてくる。


「バブル崩壊後、長引く不況を辛くも生き残った企業が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)するゼネコン戦国時代。食うか食われるかのシビアな世界で、甘い考えは通用しない。彼に言わせれば、ヤクザ紛いの横紙(よこがみ)破りも方便(ほうべん)の内なんだろう」

「…………」

「私だって経営者だ、実利主義も分からなくはない。しかし、私はああいう徹底したビジネスライクなやり方は認めない。頭では仕方のない事だと分かっていても、一度袖にされた人間はそれを絶対に忘れない。過去は陰のように付きまとい、いずれ大きなツケを払うことになる」


 晃一はコーヒー缶のプルタブを開け、温くなった中の液体をぐいぐいと飲み干した。寒くないかと尋ねられたが、青子は首を横に振った。頬も耳たぶも真っ赤で痛いほどなのに、心が空っぽで、温度も何も感じない。


 晃一に促されて立ち上がると、関節の歯車がギシリと寂しく鳴く。


「怖いのは彼自身というよりも、彼の背後の組織……天幸寺グループの資金力だ。手強い相手には違いないが、私も素人じゃあないからね。あんな若造には負けんよ」


 晃一は空になった缶をゴミ箱に投げ入れ、遠くの香苗に行き先を指さして見せ、青子を連れて車の方へ歩き出した。


「あの男は、調子の良い事を言って君に近付いてくるかもしれない。綺麗な顔をしているからと言って騙されてはいけないよ。世の中には純粋な君が想像もしないような、卑劣な事を考え付く人間がいるものだ」

「…………」

「君が私の娘だと分かれば、十中八九、罠を仕掛けてくるだろう」


 周到で、恐ろしく手が込んでいて、かかったことにも気付かないような、見事な罠を。


「青子君……いや、青子」


 晃一は車の手前で青子に向き直ると、両肩に手を添えて、真面目腐った口調で告げた。


「まだ知り合って間もないが、君は私の大事な娘だ。君と香苗さんのことは私が命に代えても守る」

「おじさん……」

「もしもあの男が近付いてきたら、直ぐ私に言いなさい。いいね?」


 駅まで車で送ってもらい、別れ際。香苗は青子を手招きして、「なにか心配事でもあるの?」とたずねた。晃一と龍太郎は少し離れたところで、お互いにそっぽを向いて、ぎこちなく会話している。


「べつにないよ」

「そう?本当に?」

「うん。冬休みの宿題どうしよっかなーって考えてただけ」


 香苗は青子を疑り深い目つきで見て「なら、いいけど」と言った。


「なにか困ったことがあったら、遠慮なく相談しなさいよ」


 私はいつでも青子の味方なんだからね。

 香苗は急に母親みたいな顔付きになって、青子の頭をぽんぽんと叩いた。不器用な笑顔を返しながら青子は、心の中で「ごめん」と謝る。


(相談は、できない)


 香苗は以前に何度か閏に会っている。そして彼女は彼の事を、アニメおたくでハーフでちょっと頭のネジが緩んでる残念なイケメンだと思い込んでいる。人畜無害な雨霧閏が実は婚約者の仇敵(きゅうてき)だと分かれば、いくら人の好い香苗でも黙ってはいまい。


 去り際、香苗は「宿題は舞香ちゃんか良子ちゃんに写させてもらいなさい」などと指示し、龍太郎に厳重注意された。「甘やかさない」






 帰りの電車の中でも、青子は物思いに沈んでいた。

 晃一の証言で閏への不信感が薄まることを期待していたのに、結果は御覧の通り。青子の前で見せる雨霧閏を仮に表の顔とするなら、天幸寺閏の人格は正しく裏の顔だ。まるでスティーヴンソンの小説、ジキル博士とハイド氏みたい。


 挨拶代わりに嘘が吐けて、他人を陥れる事に一分のためらいもない。恋人がそんな危険なひとだなんて、知らなかった。いっそ何もかも、聞かなかったことにしてしまえたら……


 これ以上疑ってしまったら、閏には……ハートの口のうるくんには、もう二度と会えない気がして。青子は頭を振って考えを打ち消した。


 いつ帰ってくるかもわからない恋人の事より、今は他に考えなければならない事がある。蓮吾のことだ。


(どうしよう……)


 今日も真理奈を怒らせてしまった。ここぞという時にうまくできない自分に、心の底から失望する。頼りにしていた長兄はあてにできなくなってしまったし、勇司は電話さえ通じない。誰にも頼れない。ひとりで何とかしなきゃと思うのに、失敗したときのことを考えると不安で、心細くて、頭がずしりと重くなる。


 心ここにあらずといった様子で、義弟の言葉に適当な相槌を打ったら、「こら。聞いてんのか」と叱られた。


「ご、ごめん……ちょっとぼーっとしてた。……なに?」

「だから、買い物だよ。途中でスーパー寄るか?」


 青子は「そうだね」と呟いたきり再び黙り込んでしまった。見かねた龍太郎の口から、お小言が飛び出す。「なにを悩んでんのか知んねーけど、あんま都に心配かけるなよ」


「こいつ、お前のことが気になって付いてきたんだぜ」


 龍太郎は言いながら、膝の上でうとうとする都の頭を撫でた。


「?……私?」

「大好きなアオちゃんを、守ろうとしてるんだよ。昨日から四六時中お前にべったりなの、気付かなかったか?」


 青子ははっとして、都の寝顔をまじまじ見つめた。蛍光灯の明かりが眩しいのか、なめらかな額にしわが寄っている。


「ちっちゃいのに、よく見てるよな……お前がしょぼくれてると都も悲しそうな顔するし、お前が笑ってるとニコニコするんだ。血が繋がってるわけでもないのに、不思議だろ?」


 龍太郎の言葉で、青子は悟る。都がここ数日、やたらくっ付きたがったのは……ただ心配していただけじゃない、見張っていたんだ。青子の傍に、あらゆる災厄を近付けないように。悲しみを追っ払って、弱い心を闇に引き込もうと手ぐすねを引く悪魔を遠ざけるように。片時も離れず寄り添って、幸運の御守りみたいに……


「都だけじゃないぜ。和子も、律も……強だって、みんなお前の様子を気にしてる。つまるところチビたちは、お前が元気で笑ってさえいれば、それで満足なのさ」

「…………」

「ぶれるなよ青子。わかってるんだろ?あいつの事がなくたって、お前はもう家族なんだって。扇の要みたいに、お前がみんなを繋いでるんだよ」


 顔を上げると、龍太郎は青子を見つめて、とろけるような笑みを浮かべていた。ニヒルでもシニカルでもない、プレゼントみたいな微笑みに、不覚にも胸が熱くなる。


 一方通行じゃない。与えた分だけ、ちゃんと返ってくる。空に向かって枝葉を伸ばし、きれいな花が咲いて、やがて大きな実を付けて……


「自信持て。よけいな事なんて考えずに、やりたいようにやれ。お前が今、一番望んでることはなんだ?」

「……私の望み……」

「例えどんな結果になっても、みんなが一緒にいる限り、大丈夫。お前は独りじゃないんだから」






 その夜、青子が洗面所で洗濯物を仕分けしていると、蓮吾がふらりとやってきた。お湯を使うわけでもなく、焦げ付きそうな視線を青子の背に注ぐ。


「……髪、染めたの。なんで?」


 作業する手を止めて振り向いた青子は、蓮吾の責めるような眼差しに、笑顔で応えた。


「べつに、イメチェンしたくなっただけ。黒髪も結構似合うでしょ?」

「…………」

「そっか……蓮吾は茶髪派か」


 青子の冗談を遮って、だんっ!と壁を叩く。あんまり強く叩いたので、天井からパラパラと埃がふってくる。


「よけいな事、するな」


 高い位置から睨まれると改めて、背が伸びたな、と思う。怒り切れない目元が、ほんのちょっと彼に似てる。


「あなたって、そんな顔もできるんだね……知らなかった」


 おおらかで、純粋で、無欲で……何人も傷つけることなく、お日様の下でただ穏やかに微笑んでいる、タンポポみたいな男の子だと思ってた。


「ごめんね、勝手なことして……」

「…………」

「こんなに傷付くなんて、思わなかったの」


 青子は今にも泣き出しそうな蓮吾の頬に、恐る恐る手を伸ばした。彼は逃げようとせず、穏やかな老犬みたいに目を伏せて、じっとしていた。


 ためらいがちに、壊れ物を扱うように触れる。発作が起きる様子はなくて、ひとまず安堵する。


―――ぶれるなよ、青子―――


 意外な人物からの叱咤激励が胸に響いて、青子はゆるやかに覚醒した。


 資格なんていらない。責任もルールも関係ない。れんごは私の、大切な弟。愛しい。守りたい。本当は辛いはずなのに、押し殺してこの手を受け入れてくれる、尊い優しさを。


―――お前が今、一番望んでることはなんだ?―――


 私は強くなりたい。


 覚悟が決まると、唇から自然な笑みがこぼれた。視界が開けて、ピンぼけ写真みたいだった蓮吾の輪郭がはっきりする。


(あ……)


 彼の首筋に小さなほくろを発見して、なんだか幸福な気持ちになった。まだまだ知らない事があるなぁなんて考えながら青子は、ゆっくりと近付いてくる、少年の悩ましいほど美しい顔を、晴れやかな気持ちで見上げていた。











よろしければ評価、感想など宜しくお願い致しますv

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ