鷲見という男
「野城総合設備って、知ってるか?」
楢崎の何気ない質問に、青子は大きな空気の塊を呑み込んだ。「の、野城……?」
「近年急成長を遂げている、建設・不動産会社なんだが……セメント系マトリックスや橋梁建設に関する特許をいくつも持っていて、ゼネコン部門に力を入れているテンコーテックは、どうしても彼等のノウハウが欲しいんだ。
代表の野城社長は人望が厚い上に、大層な切れ者でね。閏坊ちゃんが野城設備に関する全権を任されたんだが、昨年買収に失敗して……それならばと先方の技術者を何人か引き抜こうとしたんだが、いくら金を積んでも首を縦に振らない。おまけに上海リゾートホテル建設の大口契約まで持って行かれて……彼は今、この失点を挽回しようと躍起になってる」
野城社長と言えば、母の婚約者であり、龍太郎の実父である、野城晃一のことだ。そして上海は、母との結婚を先延ばしにしてまで出かけた、彼の出張先……
青子はぼんやりと想起した。昨年届いたメールに添付された、人でごった返す南京路の画像。色とりどりの看板の下で、黒々と日焼けした顔に会心の笑みを浮かべる晃一と、肩を組んだ部下と思われる人達……
『あなたは大丈夫?』
不意に、鼓膜にしわがれた声がよみがえり、青子は頭から冷水を浴びせられたような心地になった。
「件が原因で、坊ちゃんはT.テック経営企画室室長の任を解かれた。今は中小企業の常務取締役だ。名目は業績不振の孫会社の梃入れとされているが、事実上の左遷人事。閏坊ちゃんの最大のライバル、静様が代表を務めるアパレル・メーカー、レンブランサが年間業績ランキングの上位を獲得したことで、敗色は更に濃厚になった。栄三様の健康状態を考えると、なんとしても近々に大きな成果を挙げたいところだ」
「…………」
「ま、このくらいのピンチは日常茶飯事だけどな。土地、資源、技術、人材、企業の経営権……今まで彼が望んで手に入らなかったものはない。今頃はどうやって野城社長の裏をかくか、策を練っているところだろう。
……既にいくつかの布石を打っているかもしれないな。目的のためなら手段を択ばない男だ。これまでにも普通の人間が二の足を踏むようなえげつないやり方で、数多の企業を手中に収めてきた。
先方の取引先に圧力をかけて発注をキャンセルさせたり、ヤクザを嗾けて家族を脅迫したり……
利用できる者は年寄りだろうが子供だろうが利用し、逆らう者には容赦ない制裁を加え、ライバルは完膚なきまでに叩き潰す。今は生き残りをかけた骨肉の争いの真っ最中だから、なりふり構っちゃいられないんだろうが……」
いつか痛い目に合わなきゃいいけど……
と、楢崎は皮肉を言った。
「裏切り者に対するあまりに苛烈な仕打ちと冷酷な人格から、付いたあだ名が……」
―――氷帝、天幸寺閏。
「……周りは彼のことを完璧が服を着ているようだと謳うが、俺に言わせれば欠陥だらけだ。あれほど独り善がりで傲慢な子供を、俺は知らない」
楢崎が閏の人格に関して酷評すると、すかさずリナが合いの手を入れる。「でも、キライじゃない」
リナと楢崎はお互いの考えなどお見通しという風に、ニヤリと悪そうな笑みを交わした。
「あんたも物好きねー。沈むとわかっている船に自分から乗り込もうだなんて」
「そういうお前もな。出世のために、坊ちゃんには近付かないんじゃなかったのか」
「私は、どうせサラリーやるなら、少しでも有能な上司の下で働きたいだけよ」
「優秀さだけで言うなら、静様や美雪様だって負けてないだろ。なんでより可能性の低い坊ちゃんなんだ?」
そんなこともわからないの!と、リナは楢崎を軽蔑のこもった目で睨んだ。
「性別を言い訳にしたくはないけれど、上を目指すならやっぱり女性は男性より不利だわ。知ってる?この組織での女性の管理職って、子会社まで合わせても全体の5パーセント以下なの。その点閏様は女だろうが子供だろうが、良家の子息だろうが庶民だろうが、実力だけを見て評価してくれる。後は……顔よ」
「顔か……明快だな」
楢崎は妙に納得した。
「そういうあんたは?しんどいのとか面倒くさいのとか、嫌いそうじゃない。もっと楽で、あんたに似合った道があると思うんだけど」
「まあなぁ……でも、見ちゃったからな」
「?見ちゃったって?」
楢崎は口を開きかけて、返答を濁した。「……だから、危なっかしくて見ちゃいられねぇって話だよ」
「この屋敷の人間は、揃いも揃ってどうかしてる。どんなに優秀だって、まだろくに酒の味も知らないような餓鬼だぜ。それが騙したり騙されたり、裏切ったり裏切られたりさ……やり切れねぇよ」
「今は涼しい顔してても、そのうち絶対ボロが出る。そばにいて、支えてやる大人が必要だ」
楢崎は使命感に燃えて言い、リナを感心させた。「案外熱いタイプだったんだ」
「あの方が独立する時には、例え無給だって付いていくわ」
「俺だって。今から企業法務と語学の猛勉強中なんだぜ。起業するとなったら絶対必要になる能力だからな」
「とにかく、閏様は今大変な時期だから恋愛どころじゃ……あら?」
話に夢中になっていた2人は、いつの間にか空っぽになっている席に気付いて顔を見合わせた。「あの子、どこ行った?」
2人の目を盗んで食堂を抜け出した青子は、絨毯が敷かれた長い廊下を、あてもなく彷徨っていた。この屋敷のどこかにいるはずの閏を探し出すという当初の目的は頭からすっかり抜け落ち、とにかく落ち着ける場所を探して、広い館内を上へ下へと歩き回る。
いつの間にか太陽は完全に沈み、まだら模様の夜空には、針で突いたみたいな細かい星屑がスパッタリングされていた。生々しい話を聞いたせいか、電灯の鈍い光に照らされた内装が、急に時代錯誤に、陰気に感じられる。
ふと目の前に現れた角を、何気なく曲がろうとした時のことだ。
「きゃっ!」
散らかった頭の中を整理しようと余所事を考えていた青子は、向こう側から歩いてくる人の気配に気づかず、出会い頭に正面衝突した。相手の身長が高かったため、体重の軽い青子は跳ね飛ばされ、床をドッジボールみたいに弾む。
あいたたた……
打ち付けた腰を抑えつつ、顔をあげてみて、ぎくり。
「…………」
見る者を圧倒するような美貌の男性が、無様に転がる青子を、冷ややかに見下ろしている。
外国の血を感じさせる堀の深い顔立ちに、染みひとつない滑らかな白皙。無駄な贅肉を削ぎ落した芸術品のような肉体。背中の中ほどまである長髪は、よく練ったバターみたいな色をしている。
珍しい藤色の瞳でひたと見つめられると、畏怖にも似た感情が沸き起こり、青子は無意識に身を竦ませた。
「気を付けなさい」
白皙の男性は、冷酷にも無感情にも聞こえるような声色で簡潔に注意し、青子の返事を待たずに通り過ぎた。引き締まった鋼の如き背中を、声もなく見送る。
「?……お前、誰だ?」
床に四つん這いになったまま動けずにいる青子を、直ぐ後からやってきた彼の秘書が目に留めた。不思議そうに顔を覗き込まれて漸く、青子は己が新人メイドに成り済ました不法侵入者だという事を思い出した。掌や額にじわりと不快な汗が滲む。
「はじめて見る顔だ。名前は?」
見るからに厳しそうな秘書の男性に問い詰められ、青子は蚊の鳴くような声で答えた。「青子……」
男性は口の中で、アオコ、アオコと繰り返した後、「やはり、聞いたことないな」と結論付けた。
「ずいぶん若いようだが……持ち場はどこだ?ランドリーか?キッチンか?」
「キ、キッチンです」
「ふぅん?……それで、下働のお前が、なぜ家人のプライベートスペースをうろうろしている?」
問われて、青子はようやく気が付いた。夢中で歩いている内に、はじめに放り込まれた警備員室や、従業員専用の食堂から大分離れたエリアまできてしまっていた。やけに懐古趣味な内装だと感じたのは、気のせいではなかったらしい。
「お前、本当に屋敷の使用人か?さっき警備員室で騒ぎがあったようだが、まさか……」
秘書の男性は鬼ハンみたいにつり上がった眉毛を上下させ、内心恐々とする青子に詰め寄った。動揺を押し隠そうとすればするほど、ポーカーフェイスが崩れる。
鬼ハン眉毛の秘書は青子の、みるみる赤くなる頬や、痙攣する瞼を確認して、疑いを確信に変えた。床に尻を付けたまま後退る青子を、じりじりと靴の先で追い詰める。
そのうちぬーっと手が伸びてきて、万事休すと思われた、その時……
「海藤。なにをしている」
見れば、先に行ったはずの白皙の男性が廊下の途中で足を止め、こちらを振り返っていた。
もしかして、助けてくれた……?
(……まさかね)
「会食に遅れる。行くぞ」
「ですが静様、このメイドは……」
「放って置け」
海藤、と呼ばれた秘書の男性は、逡巡した後、主人の命令を優先した。青子をじろりと睨んで、先を歩き出した静の後を追いかけて行く。
(あの人が……)
事情通の楢崎によれば、親族同士の後継者争いにおいて、閏の最大の強敵と言われている人だ。天幸寺一族に共通する類まれな美貌は、閏のソレとは何かが決定的に違う。どこか作り物めいて、体温も、匂いも感じられない、肌を舐めたら鉛の味がしそう。
閏の顔も、彼を良く知らない他人が見たら、あんな風に無機的に見えるのかもしれない。
「こんなところにいらっしゃいましたか、宮木様」
不意に名前を呼ばれ視線を上げると、物腰の柔らかい五十絡みの男性が、人の好さそうな笑みを浮かべて青子を覗き込んでいた。撫で付けられたロマンスグレーの髪や上等だが型落ちのスーツが、背景にぴたりと合っている。青子はわたわたと立ち上がり、身を硬くしてちょちょこなった。
「お初にお目にかかります。私、鷲見と申します」
鷲見が聞き覚えのある声で自己紹介をしたので、青子は直ぐに正体に気が付いた。「あ……あの、電話の……」
「勝手にごめんなさい。私、どうしても閏君に伝えたいことがあって……」
青子は恥じ入り、無意味に両腕でメイド服の前を隠した。鷲見は青子の悪行には敢えて触れず、目元により深い笑みを刻んだ。
「こちらの手違いで斯様な事になり、申し訳ございません。お話は主人に代わって私が伺います。どうぞ、こちらへ」
青子は先程の食堂ではなく、こじんまりした書斎に通された。華美な装飾のない、シックな内装。家具はどれも見るからに上等で、溶かしたべっこう飴をコーティングしたみたいにつやつやしている。
鷲見は青子を中央の応接セットに腰かけさせ、手早く紅茶や菓子を用意した。
「大丈夫ですか?お顔の色が優れないようですが……」
煩悶するあまり出された紅茶に口を付けられずにいた青子は、曖昧な笑顔でお茶を濁した。「すみません、なんだか疲れちゃって……」
「正直に仰ってくださって結構ですよ。すべてお聞きになられたのでしょう?」
「え?」
「おしゃべりの楢崎と吾妻は現在、地下のボイラー室を罰清掃中です」
恐らく今夜は徹夜でしょう。
鷲見は平然と言って、青子をぎょっとさせた。
「厳しいと思われますか?しかし、醜聞は組織全体の信用に関わりますので。宮木様も、この屋敷で耳にした話は、どうか御内密に」
「そんな……あの、でも……」
「クビにはしませんので、ご心配なく。あの2人は閏坊ちゃまの熱烈なシンパなのですよ」
青子が目を瞬くと、鷲見は「つまり、味方です」とざっくり言い直した。
「まだまだ頼りない半人前ですが、見どころのある連中です。ああいう若い力が、これからの天幸寺グループを支えて行くのでしょう。一日も早く育ってもらいたいものです」
言いながら、鷲見は青子の手の中の冷えたカップを奪い、新しいものと交換した。
ひと口。またひと口。熱い紅茶が喉を通ってお腹に落ちると、やっと人心地がついた。上品な甘味が、くたくたに疲れ切った肉体と脳を癒す。どん底まで落ちていた気分も、少し浮上した。
「ご用件は、昨夜うかがった内容でお間違いございませんか?」
鷲見は青子が紅茶を飲み干すのを待って、本題を切り出した。
「はい」
「閏坊ちゃまの弟君が、危地に陥っていらっしゃるとか」
「その通りです。……閏君に会わせてもらえませんか?どうしても直接伝えたいんです」
そして、できる事なら直ぐにでも……無理やりにでも連れて帰りたい。
青子の声にならない願望を察し、鷲見は「……弱りましたねぇ」とため息交じりに呟いた。
「一族の事情を全てご存じの宮木様だからこそ、率直に申し上げます。閏坊ちゃまにとって、あなた様は少々、困ったお客様です」
理由はお分かりですね?
鷲見の問いに、青子は首を縦に振ることも横に振ることもできずに、ただ唇を噛んで視線を伏せた。電話の様子から歓迎されていないのはわかっていたけれど、こんなにはっきり拒絶されるなんて……
鷲見は青子の沈黙を「ノー」の意味と捉え、説得しにかかった。「どうかご理解ください」
「出生に関する誤解から、閏坊ちゃまは一族の中で不当な扱いを受けてこられました。これまで積み重ねてきた血の滲むような努力は偏に、ご親族の皆様に継承権を認めていただくため。あなた様の存在は、坊ちゃまの長きに渡る闘いの日々を無にしかねない」
鷲見の言う通り。現在の閏を取り巻く状況が、本当に楢崎やリナの言葉通りなら。青子はゴミ箱に放り込まれて然るべき存在だ。
言い分も、求められていることも、よく分かる。閏の邪魔にはなりたくない。でも……と、青子は胸の中だけで反論する。
用があるのはあくまでも、雨霧の方の閏だ。天幸寺じゃない。
「一族の後継問題は既に、坊ちゃまお1人の問題ではございません。坊ちゃまが次期天幸寺グループ総帥となられる事は、彼を真の主君と仰ぐすべての社員、従業員の悲願。かくいう私も、閏坊ちゃまが一族の当主となられる日を夢見て、一意専心お仕えして参りました」
傲慢で自信家、狡猾で利己的、卑劣で冷酷な、眉唾の貴公子。
経営企画室室長?常務取締役?氷帝だって?
(そんな男は、知らない)
「雨霧家でお暮しになっている閏坊ちゃまが、それぞれにご多忙な一族の皆様と顔を合わせる機会は、年に幾度もございません。親睦を深め、皆様に成長を披露できる数少ない好機を、逃していただきたくないのです」
色々聞かされて、はじめて知る事だらけで混乱しているけれど、彼をこんな恐ろしい場所に置いといちゃいけないって事だけはわかる。
絶対、説得なんかされない。首に縄を付けてでも、家に連れて帰る。
「……今が彼にとって、大事な時期なのは分かります」
青子は確固たる決意を胸に秘めつつ、反面ちょっとビビりながら交渉を開始した。「でも、電話でもお話ししたと思うんですけど、本当に緊急事態なんです」
「蓮吾……彼の弟が、同級生の女の子に乱暴したかもしれなくて……誤解に違いないんだけど、容疑をかけられてるんです。相手の親御さんはカンカンで、学校にも連絡するって……蓮吾は聞いても何も答えてくれないし、情けないけど、私じゃどうにもならないんです。彼の力が、どうしても必要なんです」
青子はへどもどしながら、どうにか単語を繋いで鷲見を掻き口説いた。
「私のこと疑ってるなら、ただの友達です。鷲見さんが考えてるような関係じゃありません。子供たちのベビーシッターなんです」
「…………」
「お願いします、5分だけで良いんです。彼と直接話をさせてください。もしも不在の間に子供たちに何かあったら、彼はきっと自分を責めると思うから……」
精いっぱいの哀訴も虚しく。思案顔で話を聞いていた鷲見は、すまなそうに首を横に振って青子を落胆させた。
「坊ちゃまが御兄弟の皆様をとても大切にしていらっしゃることは、重々承知しております」
「だったらっ……」
「しかし宮木様、雨霧家の皆様がそうであるように、我々もまた、彼の家族なのですよ」
?……家族?
青子の眼差しの問いかけに、「そうです、家族です」と、鷲見の声が答える。
「血の繋がりこそございませんが、我々使用人と坊ちゃまの間には、主従の枠組みを超えた絆がございます。
坊ちゃまが初めてこの屋敷の門をくぐられて早数年。今でこそ完璧なマナーを身に付けられている坊ちゃまですが、こちらへ来たばかりの頃は、上流階級ならではの仕来たりに苦しめられる毎日でした。
それまで培ってきた常識は一切通用せず、周りは独りで道を歩いたこともないような子供ばかり。何気ない言葉づかいや歩き方をからかわれる悔しさ。食事ひとつ、着替えひとつ思うに任せない切なさ。謂れのない中傷、理不尽な暴力……
身内贔屓になりますが、あれほどの才能に恵まれた御方です。本来なら天に選ばれた御子として、輝かしい人生を送るはずでした。それがなんの因果か、残酷な運命を背負ってしまわれた。己の不運を呪い、劣等感に苛まれる彼を間近で見ながら、救って差し上げられない事を誰よりも歯痒く思ってきたのは、他でもないこの私です」
鷲見は胸に手を添えて堂々と主張し、青子を圧倒した。
「閏坊ちゃまは一般家庭出身というハンディキャップを人一倍の努力で克服し、今の地位を得ました。
劣悪な環境で育ったためか、彼は非常にハングリーかつストイックです。緩怠を憎み、慢心を許さず、己を律することの意義を誰よりも良く理解している。……皮肉なものです。幼い頃から一流の教育を受けてこられた一族の皆様ではなく、ナイフとフォークの持ち方さえ覚束ない貧家の少年が、最も指導者に相応しい資質を備えていたのですから。
長年の努力が実を結び、支援者も増えました。不遇の時代が、漸く終わりを告げようとしています。彼の天幸寺閏としての人生は、はじまったばかりなのです。どうか、つまらない用件で邪魔をしないでいただきたい」
鷲見の切り捨てるような物言いに、青子は憤った。
そりゃあ、閏が抱えている問題に比べれば、子供同士のいざこざなんてつまらない用件なのかもしれない。しかし、彼がどんなに子供達のことを大事に思っているか、少しでも知っていれば、間違ってもこんな薄情な言い方はできないだろう。
「ご気分を害されたのなら謝ります。しかし、失礼を承知で申し上げますと、あなた様はやはり何も解っておられない。もはや雨霧家の皆様の存在自体が、足枷以外の何ものでもないのです。
閏坊ちゃまは遅くとも数年後には雨霧家を出て、完全に組織の一員となられます。それは即ち、雨霧家の皆様との関りを一切断つという事です」
反論を探して案じ膨れる青子に、鷲見は畳みかけるように続けた。
青子は聞き間違いかと思い、オウム返しにした。「?関りを、断つ……?」
「現在坊ちゃまに許されている自由は全て、大旦那様の御意思あってのもの……束の間のモラトリアムに過ぎません。栄三様に代わって表舞台に立つようになれば、例え実の御兄弟とはいえ、気軽に面会することはできなくなります。
外聞の問題だけではございません。学業や仕事に加え、雨霧家の皆様のお世話で、今でさえ目が回るほどお忙しいのです。今後プライベートは更に削られ、睡眠時間を確保する事さえ困難になるでしょう。この屋敷にいれば、生活全般をサポートして差し上げられます」
「…………」
「坊ちゃまを屋敷に迎え入れる準備は既に整っており、徐々に生活をこちら側へ移行していただく所存です。この冬休みは予行演習と捉えていただき、問題はどうか、雨霧家の皆様だけで解決してくださいませ」
鷲見は放心する青子に、拒否権は存在しないかのように、当然のごとく要求した。
我に返った青子は、こんな理不尽が赦されてなるものかと、立ち上がって叫んだ。「か……勝手な事言わないでください……!!」
「子供たちを置いて家を出るなんて……彼は……閏は、なんて言ってるんですか!?」
「坊ちゃまは、覚悟しておられます。御兄弟の皆様とお別れする事も、一族の更なる躍進のために、その生涯を捧げる事も……」
閏がいずれ雨霧家を出て天幸寺の人間になる事は、ちらっと聞いて知ってはいた。しかし、もっとずっと先の事だと思っていたし、いざとなったら何とかなるだろうと、楽観してもいた。
「私は、できる事なら坊ちゃまにはこのまま、屋敷に留まっていただきたいと考えております」
突然具体的な話を……しかも彼氏の口からじゃなく、初対面の人間から聞かされた青子はますますパニックした。
「そんなのっ……ダメです。家族と会えなくなるなんて、絶対、閏の本心じゃない……だって、彼がいなくなったら皆は、子供たちは、どうなるんですか?」
蓮吾や恵なら、他人の世話を必要とする年齢じゃないし、どうにかなるだろう。しかし小さい子ども達にはまだ、大人の手助けが必要だ。特に、末の都はまだ幼い。閏を本当の兄のように、父のように慕っている彼女に、どうやって別離を告げろと言うのか。
「その時のために、あなたがいるのでは?」
「…………」
「……どうやら誤解があるようです。宮木様は、こう考えていらっしゃるのではないですか?我々が金で面を張り、嫌がる坊ちゃまを無理やり一族に引き入れた、と……」
青子は猜疑心に満ちた瞳で鷲見を睨み、「違うんですか?」と、挑戦的に尋ね返した。
この屋敷にいれば確かに不自由はないだろうが、だからって居心地が良いとも思えない。閏が忙し過ぎると言うが、そもそも無理な生活を強いているのは天幸寺の方だ。本当に閏のことが心配だと言うなら、ただちに重責から解放してやるべきだ。
高校生の餓鬼んちょを祭り上げて際どい仕事をさせたり、財産欲しさに血を分けた肉親同士が争ったり……楢崎の言う通り、この屋敷の人間たちは揃いも揃ってどうかしてる。
家族だなんだと言いながら、彼等は結局、閏を良いように利用しているだけなんだろう。
「最初は確かに、泥沼の生活から抜け出すためだったかもしれません。御兄弟の皆様を救い出したいという一念だったのでしょう、それは疑いようもありません。しかし、宮木様。家族とは言え、他人のためだけに身を切れる人間というのは、世の中そうはおりません。
閏坊ちゃまが、誰1人味方がいないこの家で、歯を食いしばって冷遇に耐えてきたのは何のためか。プレッシャーに圧し潰されそうになりながら、骨身を削って働いてきたのは何のためか。
そこには自己犠牲やオルトリズムだけでは説明のできない、坊ちゃまご自身の宿願がございます」
?……宿願?つまり、望みってこと?
「なんだって言うんですか?」
「……野望です。男と生まれたからには、全てを手に入れたい。頂上まで登り詰めたいという野望。
柔らかく言えば、志ですか……雨霧家での生活は、坊ちゃまにとって掛けがえのないものでしょう。麗らかな春の午後のように穏やかで、満ち足りた日々でしょう。しかしだからと言って、築き上げてきた地位を捨て、貧家の長男坊に納まることが、本当に彼の幸せだと断言できますか?富を、名声を、彼が望んでいないとでも?知り合って間もないあなた様に、彼の真意がわかるのですか?」
鷲見は意地の悪い聞き方をして、青子をギクリとさせた。
交際期間わずか半年とはいえ、仮にも恋人のくせに彼氏の家族構成さえ知らなかった青子には、ぐうの音も出なかった。これがもし昨日までの自分だったら、はっきり『わかる』と答えられただろう。でも、今は……
「……閏坊ちゃまは自ら、一族の礎となることを決意されました。不遇の少年時代を脱却し、何者にも脅かされることのない地位と、揺るぎないアイデンティティを確立するために。宮木様や雨霧家の皆様が普段見ておられる姿は、彼のほんの一面に過ぎません。
信じられないと仰るのでしたら、それでも結構です。しかし坊ちゃまは先だって、ご自身の野望を叶えるために、新たな決断を下されました」
―――閏坊ちゃまは、学園卒業を待たずに、ご結婚なさいます―――
「……百合絵さん……」
ぽそりと名前を口にしたと同時に、視界いっぱいに白百合のごとき清らかな女性の姿が浮かび上がる。鷲見は説明する手間がはぶけたと、深く微笑んだ。「ご存知でしたか」
「鷹司家は財力、格式共に申し分のない、歴史ある名家。正式にこの縁談が纏まれば、閏坊ちゃまは大きな後ろ盾を得る事となり、例え誰であろうと、おいそれと彼に手出しはできなくなります。
お察しの通り、ある種の政略結婚です。しかし閏坊ちゃまは以前から、この縁談に関し、こう仰っておられます。不自然な形ではあるが、伴侶となるからには持てるすべてをかけて愛したい。自分にはきっとそれができるから、と……
才子佳人と称するに相応しい男女が結ばれることは、いわば必然。そう遠くない未来、お2人は子宝を授かることでしょう。新しい家族と雨霧家の皆様。責任感の強い坊ちゃまがどちらを優先されるかは、火を見るよりも明らかです。ましてや、他人が入り込む隙などございません」
「…………」
「……失礼。ただのベビーシッターであるあなた様には、余計な事でしたね」
鷲見は伝えるべきことはすべて伝えたというように、それきり饒舌な口を噤み、青子の答えを待った。身をすくめて震える青子の前には新しい紅茶が用意されたが、金縛りにあったみたいに、指一本動かす事はできなかった。
胸の中で吹き荒れる嵐の音に耳を澄ましながら、青子は己の浅はかさを呪っていた。説得なんて、最初から無意味だった。徹底的に打ちのめされた。
「私……ベビーシッターなんかじゃ、ありません……」
時計の短針が一周するほど長い沈黙が流れ、青子ほとんど無意識に口を開いた。
「電話でも言いましたけど……ほんとは彼の、恋人なんです……付き合ってるんです。私たち……」
青ざめた顔で、まるで悪い魔女に操られているかのように、ポロポロと暴露する。鷲見は青子の告白を、虫けらを見るような瞳で聞いた。
「彼のところへ、連れてってください、今すぐ。ご迷惑は、かからないと思います。私が会いに来たって知ったら、喜ぶに決まってる……ああ見えてすっごく寂しがりなんです。平気な顔してても、強がってるだけなんです。ここに来る前も離れたくないってさんざん駄々こねて……ほんと、子どもみたい」
一度声に出してしまうと、途中で止めることはできなかった。青子は心の声に命じられるまま、のべつ幕なしに言いまくった。
「その……2人の婚約って、私と彼が出会う前のことですよね?……破棄したいって、言い出せずにいるだけだと思うんです……こんなことになって、百合絵さんには本当に申し訳ないと思ってます。でも私たち、本気なんです。信じてもらえないかもしれないけど、彼は私のこと真剣に……」
パンッ!
耳元で風船が割れたような音が響いて、青子は我に返った。弾かれたように顔を上げれば、鷲見が顔の前で両手を打ち合わせていた。「もう結構。もうたくさんです」
「やっと本音が出ましたね。そうこなくては」
鷲見は一度立ち上がると、鍵のかかったデスクの引き出しから封筒を取り出し、中の写真をカジノのディーラーみたいに素早く青子の前に並べた。
写っているスーツ姿の男性は皆、カメラ目線で仄かに微笑んでいる。
「ご紹介させていただきます。左から、四十川分家、ご長男の四十川晴喜様。藤花家ご長男の藤花大雅様。諸神家のご次男、諸神凛也様、敷本家ご三男の敷本道永様。石室家のご長男、石室優一朗様……どなた様も将来有望な資産家の御子息でいらっしゃいます」
青子が反応できずにいると、鷲見は「つまり、あなた様にも手が届く金持ちです」と付け足した。
「この中から1人、選んでください」
鷲見はこれまで決して崩すことのなかったお愛想笑いの仮面を引っ込め、大真面目な口調で告げた。
「率直に申し上げますと、宮木様は閏坊ちゃまの、大勢いる遊び相手のお1人に過ぎません。多くの方は弁えていらっしゃるのですが、時折あなた様のように、ベッドの上で囁かれた睦言を本気になさる方がいらっしゃいます」
「…………」
「ただいまご紹介させていただいた皆様は、結婚を前提とした真剣な交際を望まれています」
ドックンと、心臓が一度、深く鼓動する。青ざめていた顔が、今度は激しい怒りと羞恥のために赤く染まる。
「この中の誰かに乗り換えろって事ですか?」
戦慄く唇の隙間から零れた質問に、鷲見はしれっと「理解が早くて助かります」と答えた。
「後日見合いの席を設けます。さらに援助という形で、手切れ金を支払わせていただきます。どうぞ、ご希望の金額を仰ってください」
「お金なんかいりません!私はただ、閏に会いにっ……!」
「会って、どうなさるおつもりですか?」
「連れて帰ります!!」
子供たちが待つ家に。こんな悪夢のような城からはさっさと連れ出して、おんぼろでもガチャガチャでも、喜びと笑顔があふれる、温かい我が家に。だって、それが正しい形だから。
「閏のところへ、連れてってください!彼に会えるまで私、諦めませんから!」
青子が頑固に言い放つと、鷲見はいよいよ堪りかねたという風に舌打ちした後、眉を吊り上げた。「いい加減にしなさい」
「招かれもしないのに乗り込んできたばかりか、シッターという立場を良いことに子ども達まで出しにして……あまつさえ恐喝紛いの真似までした君に、こちらは金を払おうと言うんだ。このうえ要求を押し通そうなど、厚かましいにもほどがある」
恥を知りなさい。鷲見は青子を嫌悪に満ちた眼差しで睨み付け、いら立ちも露に吐き捨てた。
「きょ、恐喝……?」
恐喝って、私が……?
「愛人の存在が百合絵お嬢様の耳に入れば、またとない良縁がご破算になるかもしれない。これが強請でなくてなんだと言うんだね?」
鼓膜に反響する思いもよらない単語に、青子は血が凍り付くようなショックを受けた。
(?……どうしてそうなるの……?)
自分はただ、閏に会わせて欲しいと頼んでいるだけだ。彼が大切にしているものを護るために、頑張っているだけ。なのに、とつぜん外国にきてしまったみたいに言葉が通じない。
「わかったら黙って家に帰りなさい」
慌てた青子が弁明を口にする前に、鷲見は居丈高に命じ、「これ以上ごねると、警察を呼ぶぞ」と付け加えた。
「見合いの件、その気になったらここに連絡を」
鷲見は個人携帯の番号が記された名刺を青子に手渡すと、二の腕を掴んで立ち上がらせた。ぐいぐいと、ドアのそばまで引っ張って行き、外に待機していた警備員に彼女を押し付ける。
「門の外までお送りしろ。丁重にな」
「い、いやっ……!放して!」
青子はたくましい警備員に両方から腕を捕まえられ、強引に廊下を引きずって行かれた。途中、大声で叫びまくって「うるさい!静かにしろ!」などと怒鳴られた。
非力な女の力では抵抗らしい抵抗もできず、ものものしいゲートの外に、着てきた洋服やブーツと一緒に放り出される。
「お願いします!もう一度話を聞いて!閏に会わせて!」
「しつこいな!いい加減にしないか!」
腕を振り払われた拍子に雪でべしゃべしゃの地面に倒れ込み、メイド服の白いところがあらかた泥にまみれた。手の平から肘にかけて、じくんと鋭い痛みが走る。
「2度と来るなよ、身のほど知らずのお嬢さん」
太っちょの警備員は、立ち上がれずにいる青子を冷ややかな目で見下ろして、ゲートの内側に戻って行った。
無情にも閉ざされた鋼鉄の扉を、青子は地面に這いつくばったまま、絶望的な気持ちで見つめた。
―――閏坊ちゃまは、学園卒業を待たずに、ご結婚なさいます―――
このままじゃ、本当に失ってしまう。ポテチが好きで、笑顔が素敵で、ときどき短気な子どもたちのヒーロー。自慢の恋人が、消えてしまう。
(どうすればいいの……どうすればっ……)
「あの……大丈夫?」




