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ナレソメ  作者: kaoru
9人目の男
72/80

雨霧家、蓮吾の乱






「恵くん……!」

「青子さんっ……」


 タクシーで門前に乗り付けると、青子の帰りを今か今かと待っていた恵が大急ぎで駆け寄ってきた。


「ごめん、兄貴も親父も電話、通じなくてっ……」


 長兄に怒鳴られようと、地盤沈下で家が傾こうと、平然と二度寝できるほど図太い神経の持ち主が、歯の根を震わせて狼狽ろうばいしている。無理して人が多いところに遊びに行って、また倒れたに違いない。


 だから言わんこっちゃない!


 慌てて家に入ろうとした青子を、恵が強く引き留める。「青子さん、待った!」


「?蓮吾の具合、悪いんでしょう?早く病院に連れて行かないと!」

「そうじゃないんだ。大変って言ったのは、そういう意味じゃなくて……居間に客がきてるんだ。……瀬良さんって人……」


 刹那、青子の瞼の裏に、鮮明な赤い色が浮かぶ。


「もしかして、春奈ちゃん?」

「……の、母親……」

「?……春奈ちゃんの、お母さん?」


 どうして、クラスメートの母親が蓮吾に会いに?

 恵は束の間言い淀んだ後、困惑と不信感をあるだけ込めた声色で青子の疑問に答えた。


「蓮吾が、春奈って子に乱暴して、怪我させたって……」


 青子は仰天して声を裏返した。「ええ……!?」


「おばさん、子供じゃ話にならないから、親を出せって聞かないんだ。いないって言ってるのに……」

「それで、蓮吾はっ……?」

「ちび達と一緒に、神社で待たせてる……」


 それを聞いて、青子は一先ず安堵した。「じゃあ、とりあえず無事なんだね」


「恵くんも、蓮吾のところに行ってあげてくれる?1時間くらいしたら戻ってきて」

「でも、青子さん1人じゃ……」

「大丈夫、大丈夫。なにかの行き違いに決まってるんだから。さっさと片付けて、晩ご飯にしよ。ね?」

「う、うんっ」


 神社に向かって駆けて行く恵を見送った青子は、「さて」と、玄関に向き直った。恵にああ言ったはいいものの、なにか嫌な予感がしてならない。


 2人が接触したのは24日の夜に違いなく、写真の少女は瀬良春奈本人だった。雪が舞い散る聖夜、2人の間に何があったのか。この一件は公園で蓮吾が昏倒したことと、なにか関わりがあるのだろうか?ともかく話を聞いてみない事には……


『ちょっと!誰もいないの!?どうなってるの!』


 青子が思案に耽っていると、家屋の中からヒステリックな怒声が響いてきた。青子は慌てて玄関を入り、春奈の母親という人と対面した。


 座布団に折目高おりめだかに正座していたのは、奥様という呼称こしょうが似合いそうな、女性らしい人だった。

 年齢は40代半ば。美容院に行きたての髪やイヤリング等の装飾品から、生活水準の高さがうかがえる。薔薇の花がプリントされたAラインのワンピース。上は濃いピンクのカーディガンで、下はヌーディなストッキングという装いだ。


「いつまで待たせるのよ!」


 彼女は青子が居間に入るなり、しっかりと化粧を施された顔を歪めて、鋭い声で叱責した。青子はぎくりとしたが、動揺を抑え込んで深々と謝罪した。「どうもすみません、急いだんですけど……」


「春奈ちゃんのお母さんですよね」

「瀬良真理奈です。……あなたは、あの子のお姉さん?親御さんは?」

「それが、連絡が付かなくて……今日中には帰って来られないかと」

「……話にならないわね」


 長い時間待たされた挙句に無駄足とわかると、真理奈は余計に機嫌を悪くして、首筋やデコルテを赤く染めた。


「本当にすみません。私が代わりにお話をうかがいます」

「あなたが?」

「はい。必ず家長に伝えますから」


 この場合、家長というのは閏のことだが、真理奈は都合よく勘違いした。「本当に大丈夫かしら?……まあ、いいでしょう」


「一家の主婦が何時間も家を空けるわけにはいきませんからね。夕飯の支度もあるし」


 と早口に前置きすると、真理奈は気持ち居住まいを正して、本題に入った。


「5日前の、クリスマス・イブの夜です。うちの娘、春奈ですけど……お友達と約束があると言って出かけて行ったと思ったら、夜遅く服を汚して帰ってきて、それ以来一歩も部屋から出て来なくなりました。……娘はおたくの弟さんに、突然服を脱がされそうになったと言ってます」


 黄門様の印籠のごとく、どん!と突き付けられた真実はあまりに突飛で、しばらく言葉が見付からない。


「ふ、服を、ですか……?蓮吾に?」


 乱暴って、そういうこと?せいぜい何かの拍子に手が当たったとか、肘が掠めたとか、その程度だと思っていたのに……


 目を白黒させ、間抜けに繰り返す青子に、真理奈は自信を持って首肯しゅこうした。


「ええ。抵抗したら追いかけられて、地面に引き倒されたと。……弟さんには、前々から何度もしつこく交際を申し込まれていたそうです」

「そんな……何かの間違いです。蓮吾が女の子にそんな酷いこと……」


 ありえません。

 青子の不用意な一言がきっかけで、真理奈の怒りは再燃した。「じゃあ、あなた、春奈が嘘を吐いてるって言いたいの!?」


「娘はあの日以来、まともに口が利けない状態なんですよ!なにを聞いても首を横に振るばかりで……怖気付くのを、何度も説き伏せて、やっとのことで聞き出したんです!娘の勇気ある告白を、あなた、嘘だって言うの!?」


 その勢いや烈火のごとく、それまで僅かでも冷静に話していたのが嘘のように、怒りは後から後から噴き出した。抑えていたものが一気に溢れ出したようだった。

憎しみに燃える瞳で睨まれて、青子はたじろいだ。「嘘だなんて、思ってません!」


「でも、蓮吾に限って……やっぱり信じられません。なにか複雑な事情があるに違いないんです!」

「事情……!?事情ですって!?」


 だんっ!!


「嫌がる女の子の服を脱がさなきゃならない事情って何よ!言ってみなさいよ!」


 真理奈が怒りに任せて座卓を拳で殴り付け、冷めきったお茶が湯のみのふちから溢れる。


「聞いて下さい!……あの夜、直前まで私が蓮吾と一緒にいたんです。近くの教会のミサに参加してて……それが、少し目を離した隙にいなくなって……」

「…………」

「なんで春奈ちゃんと蓮吾が一緒にいたのか、わからないんです。ただ、見付けた時には、蓮吾は公園で倒れてました。救急車が駆け付けて、野次馬もすごくて……調べてもらえれば、直ぐにわかります」


 こうなると、もはや蓮吾の昏倒がただの体調不良や、別の事件によるものだとは考え難い。しかしこの騒動が春奈の自作自演だったとして、蓮吾が倒れた理由がわからない。


(それに……)


 青子が知る限り、交際を迫っていたのは春奈の方だ。蓮吾のことが好きだと、涙ながらに哀訴する姿を以前に目撃している。

 青子はこれを真理奈に伝えるべきか悩み、止めた。これ以上彼女の神経を逆なでしては収まるものも収まらないし、逆上して滅多な手段に出られては困ると思ったのだ。


 真理奈の唇から、憤懣に満ちた長いため息が漏れる。


「……倒れて、救急車ですって?嘘を吐くならもう少しましな嘘にしなさい」

「本当なんですっ……!どうか信じて下さい!」

「そんな見え透いた作り話、信じられるわけないでしょう。身内をかばおうとして!」


 必死になって食い下がったが、真理奈は聞く耳を持とうとせず。青子の証言を浅はかな嘘だと決めつけて、いっそう怒気を孕んだ。「呆れた!」


「直ぐに警察に通報しても良かったのよ!それを、相手が未成年こどもと思ってわざわざ話し合いに来てあげたって言うのに……謝るどころか開き直るなんて!」

「誤解です!開き直ってなんて……!」

「今のが開き直りじゃなきゃ、なんだって言うの!……かわいそうな春奈。未遂とは言え今度のことであの子がどれほど傷付いたか……同じ女性なら苦しみがわかるはずよ」

「…………」

「それとも、あなたにとっては大したことじゃないのかしら?最近の若い子は乱れてるって言うから」


 ぐらぐらと煮えたぎったマグマのごとき憎しみが、軽蔑に変化する。ドキリとして言葉に詰まった青子に、真理奈が聞くまでもないという風に尋ねる。


「失礼ですけどあなた、高校はどちら?」

「?……千ヶ丘です」

「ふぅん?どうりで……」


 真理奈は青子を上から下まで品定めして、出会ってはじめて口角を持ち上げた。


「?……なんですか?」

「べつに。……学歴がすべてだとは言わないけれど、うちの娘にはもう少しましな学校に通わせたいわね。普通の親だったら、大事な娘を落ちこぼればかりが通う三流高校に通わせたいとは思わないもの」

「…………」

「将来のためにも、春奈にはこれ以上、低俗な人間と関わって欲しくないんですよ」


 侮辱の言葉を浴びせられ、羞恥のあまり顔が赤らむ。なにか言わなきゃと思うのに、喉が張り付いて声が出てこない。


「まあ、どんなに素晴らしい教育を施しても、持って生まれた品格まではどうにもならないものね。あなたには、千ヶ丘がお似合いよ」


 いつもなら虚仮こけにされるくらいどうって事ないのに、ありきたりな中傷も、今日に限っては胸に刺さった。日頃からちゃんと努力をしておかないから、いざという時戦えない。大切な人が出来てから、事あるごとに痛感させられていることだ。


 真理奈の唇から、勝ち誇ったような嘲笑がこぼれ、青子は悲しい気持ちになった。


 ちょちょこなる青子に向かって、真理奈が更なる攻撃を加えようとした、その時だ。


「止めてください」


 廊下の方から凛とした声がして、青子が顔を上げると、険しい顔をした蓮吾が立っていた。


「用があるのは俺でしょう。彼女は関係ありません、貶めるような発言は止めて下さい」


 蓮吾は真理奈をじろりと睨んで、毅然きぜんと言い放った。怒り出すかと思いきや、現れたのが存外、煌めくように美しい少年だったため、真理奈は言葉を失った。


「青子、それ、どした……?」


 蓮吾は真理奈の前を素通りし、青子の傍までやってくると、彼女の擦り剥けて血が滲んだ膝を指して静かに質した。


「え?……ああ、タクシー追っかけてて転んだだけ。それより蓮吾、ちゃんと話を……」

「こっちが先。足出して」

「い、いいよっ、手当てなんて!」


 こんな時に!

 青子は断固拒否したが、蓮吾は救急箱を持ち出して、彼女の膝をまるで高価な美術品を扱うように丁寧に治療した。冬の夜空みたいな静かな瞳からは、何の感情も読み取れない。

 真理奈は蓮吾が作業する間、その光景を黙りこくって睨んでいた。


 青子の手当てがすっかり済むと、蓮吾は真理奈に向き直り、畳に手を付いて深々と頭を下げた。


「春奈さんが言ったことは、すべて本当です。申し訳ありませんでした」


 涼しい顔で紡がれる謝罪の言葉。きっぱり否定するものとばかり思っていた青子は、衝撃に目を見開いた。「!ええっ……!?」

 反対に、己の言葉が証明された真理奈は、わずかに溜飲を下げた。


「じゃあ、認めるのね?あなたが春奈にしようとしたこと」


 蓮吾は短く「はい」と答え、一切弁解を口にしようとはしなかった。うろたえる様子もなく、他人事みたいに淡々としていた。


「……主人が出張から帰ってきたら、改めてお話合いに参ります。学校には明日にでも連絡させてもらいますから」


 真理奈は冷静な、しかし怒りのこもる声で簡潔に告げると、すっくと立ち上がって、足早に居間を出て行く。青子は慌てて後を追いかけ、庭先で彼女の腕を捕まえた。「待って!……ちょっと待ってください!」


「今のは、何かの間違いです!色々あって混乱してるだけなんです!」

「放してちょうだい。家に帰るんだから」

「お願いします!もう一度、私の話を聞いて下さい!」


 真理奈は縋り付く青子の腕を乱暴に振り払い、ぴしゃりと一喝した。「しつこいわよ!」


「これ以上子供と話すことなんてありません!責任も取れないくせに!どうしても話がしたければ、親を出しなさい!」

「っ……」

「そちらの対応次第では、告訴も考えていますので。……それじゃ」


 ぐうの音も出ない青子を残し、角に停めてあったツヤツヤの高級車に乗り込む。


 真理奈が行ってしまうと、青子はへたり込みそうになる膝と腰を叱咤し、すぐさま居間に引き返した。台所に立つ蓮吾に猛然と詰め寄る。「蓮吾!どういうつもり!?」


「どうもこうも、言葉の通りだよ」


 蓮吾は真理奈が手を付けなかった湯呑と茶菓子を片しながら、あっさりした口調と態度で答えて、余計に青子をカッカさせた。青子は確信を持って断言した。「嘘だよ!蓮吾は嘘吐いてる!」


「24日って私と出かけた日じゃん。どう考えてもおかしいよ……なぜあそこに春奈ちゃんがいたの?公園で倒れたのと、なにか関係あるんでしょう?」

「…………」

「全部誤解なんだよね。違うなら違うって、はっきり否定しなきゃ!……春奈ちゃんのお母さん、場合によっては、蓮吾のこと告訴するって……警察に逮捕されちゃうかもしれないんだよ?高校だって行けなくなるかも!」


 鑑別所かんべつしょ、裁判、保護観察、少年院……漠然ばくぜんと想像して怖気おぞけ立つ。青子の脳裏に、ありとあらゆる不幸な想像が駆け巡る。


「ここで戦わないといけないの!自棄やけにならないで、ちゃんと本当のこと言って!」

「自棄になんかなってないよ」


 何度尋ねても、真実だと言い張って取り付く島がない。押し問答の末、青子は半泣きできれた。「蓮吾っ!……あんた、いい加減にしなさいよ!!」


「やってもいない罪を被ってまで秘密にしたい事ってなに!なにを隠してるの!」

「べつに、なにも隠してないってば。……しつこいなぁ。青子、チワワみたい」

「ちゃかさないの!……蓮吾が婦女暴行の犯人だなんて……こんな馬鹿な話、はいそうですかって信じられるわけないでしょう!?」


 だってあなた、女の子に興味なんかないくせに!


「なにそれ?俺だって人並みにエロいことくらい考えるよ」


 蓮吾は肩をすくめて、皮肉気シニカルな笑みを浮かべて見せた。


「まあ、ぶっちゃけ相手は誰でも良かったんだけど……ほら、あいつ、俺のこと大好きだから。一回くらい相手してやってもいっかなーって」


 好青年れんごの口から、出会った頃の龍太郎みたいな台詞が飛び出す。

たった今聞いた言葉が信じられず、青子は目を皿のようにして蓮吾の顔をまじまじと凝視ぎょうしした。


 光彩を欠いた暗い瞳が、いびつな2つの裂け目から覗いている。


 鳩が豆鉄砲を食ったような表情が面白かったのか、蓮吾はくすりと微笑むと、青子を壁際に追い詰めて、すっと耳元に唇を寄せた。


「……ね、兄貴とはもう、シタ?」


 どっきん!

 低い声で囁かれれば、青子の心臓は直に指で突かれたみたいに鋭く収縮する。


「なっ……!?」

「いいじゃん、教えてよ。セックスって、どんな感じ?きもち?」


 頭にかっと血が上って、顔面が火を噴く。企みを成功させた蓮吾はくつくつと、優越感に嘲笑の混じる、嫌な笑声しょうせいを漏らした。


「……驚いてやんの。あんたさ、今まで俺のことなんだと思ってたの?かわいい弟?兄貴のおまけ?……男だなんて、思ったことないんだろ?」


 虚を衝かれ、動揺のあまり叱罵しつばすることもできず。

 壁際から逃げ出そうとした青子の進路を、咄嗟に突き出された蓮吾の腕が阻む。だんっ!と、静かな居間に鋭い音が響いて、青子は声にならない悲鳴を上げた。


「……あんま馬鹿にすんなよ」


 びびってると思われたくなくて、いら立ちの滲む彼の瞳を、青子はきりりと強気に睨み返した。


 この、ませガキ!


 どちらも一歩も引く気はなく、長い睨み合いの末、蓮吾の方が目を伏せる。青子が内心ほっとしたのも束の間……


「…………」

「?」


 彼の視線が……己のささやかな乳房ちぶさに注がれていることに気付く。


「!やだっ……!」


 あちこちから掻き集めた理性はたちどころに霧散むさんし、やっと保っていた年上の威厳は跡形もなく崩れ去った。忌々しいやら、恥ずかしいやら。瞳に薄ら涙がはる。


 蓮吾は両腕で胸元を庇い、哀れな程うろたえる青子を無感動に見て、彼女の紅潮した頬に手を伸ばす。


「…………」


 ゆっくりと近づいてくる指先。子供だとばかり思っていた少年の中に、獰猛な獣な姿を見る。肌が粟立あわだって、膝が震えた。背中を強く壁に押し付ける。


 蓮吾の硬い爪先が、青子の唇を掠めようとしたその時……


「何やってんだよっ……!!」


 土足のまま縁側から居間に駆け込んできた恵が、蓮吾のシャツの襟を掴んで、力任せに後ろに引き倒した。蓮吾の肘が来客用のカップを引っ掛け、派手な音を立てて割れた。


 緊張の糸が切れると、青子はだらしなく床にへたり込んだ。


「青子さん、大丈夫!?」

「う、うん。平気……」


 両足に力が入らず、なかなか立ち上がれない青子を、恵が助け起こす。


「っ……何があったか知らないけど、青子さんにまで八つ当たりする事ないだろ!?」


 恵は蓮吾をぎっ!と睨み付け、そのつむじに向かって酷い剣幕で怒鳴り付けた。蓮吾はカップの破片が散らばる床に足を投げ出したまま、黙って彼の怒声を聞いた。


「ありがと恵君、私は大丈夫だから……」

「でも!」

「本当に、ちょっとびっくりしただけ。……蓮吾、怪我しなかった?立てる?」


 青子は蓮吾を助け起こそうと歩み寄った。返事はなく、差し出した手も無視されて、地味に傷付く。


 無理に触れることは躊躇われ、青子は少し離れた場所から、蓮吾の伏せられた顔を覗きこんだ。


「?……蓮吾?」


 前髪の奥の苦しげに歪んだ表情に、はっとなる。また例の発作だ。


「?おい、どうした……?」


 青子に続いて恵も蓮吾の異変に気付き、慌てて傍に駆け寄った。何気なく触れた肩が異常に震えていたので、恵はぎょっとして、思わず手を放す。


 次の瞬間、蓮吾は胸を掻き毟るような仕草をしたかと思うと、喉を反らして床に倒れ込み……


「蓮吾!!」


 身体をくの字に折り曲げてしばらく身悶えた後、ぷっつりと、糸が切れた人形のように動かなくなった。






 真夜中。

 子ども達を寝かし付けた青子は、居間でじっと閏からの連絡を待っていた。あれから何度も電話したが応答がなく、ラインも既読されない。緊急連絡先だと教えられた番号にもかけてみたが、散々待たされたあげく、担当者が不在のため取次できないと断られてしまった。


「…………」


 チクチクと時を刻む振り子時計。蛇口から漏れ出した水滴が時折シンクを叩いて、石油ストーブがごくりと燃料を飲み込む。


 静けさが重く圧し掛かって、気が滅入る。いつもは煌めいて見える蛍光灯の灯りも、今夜はなんだか寒々しい。待ち草臥くたびれ、座卓に突っ伏して束の間の安息を得ようと試みたが、疲れているのに眠気は訪れなかった。唇から漏れた短いため息には、いら立ちが滲んだ。


 日付を回る頃、恵がそっと階段を降りてきた。


「蓮吾、どう……?」


 青子は伏せた顔を持ち上げて、小声でたずねた。


「ん……やっと落ち着いて、今寝たとこ」

「そう……恵君、お腹空いたでしょ?今ご飯つけるね」

「ありがと。軽くでいいよ」


 台所で倒れた蓮吾は、30秒にも満たない短い沈黙の後、救急車を呼ぶまでもなく目を覚ました。大事に至らず良かったと安堵しかけた2人だったが、手足の震えは治まらず。軽い発作を数時間ごとにぶり返し、無理して食べた夕食は、洗面所で残らず吐いてしまった。


 蓮吾は例によって病院へ行くことを嫌がり、青子の入室も頑なに拒否したため、恵が付きっきりで介抱していたというわけだった。


「まだ兄貴から連絡ない?」


 温め直した夕食(きのこと鮭のホイル蒸、レンコンと人参のきんぴら、雑穀米、白菜の柚子漬け)を突きながら恵が尋ね、青子は重々しく頷いた。忙しいとは聞いてたけど、こんな時間まで繋がらないなんて……


「病院、連れて行かなくて大丈夫かな……せめて原因がわかれば良いんだけど……恵君、なにか知らない?」

「……ごめん。俺、わかんない」


 青子が俄かに失望して見せると、恵はまずそうに口をもごもごさせて、箸を置いた。


「大丈夫だよ。留守電聞いたら兄貴、飛んで帰ってくるだろうし……親父だっているしさ」


 などと、恵はぜんぜん大丈夫じゃなさそうな顔で励ました。


「最悪連絡付かなくても、年明けには帰ってくるんだし……それより青子さん、顔色悪いよ。いろいろあって、疲れたでしょ?もう休んだ方が良いよ」

「でも、もし電話が来たら……」

「こんな時間だし、明日でいいって。なんなら俺、もう少し起きてるから。青子さん、寝てよ」


 それじゃあ、と青子が立ち上がりかけると、廊下の黒電話が夜の静寂しじまつんざいて、けたたましく鳴りだした。恵と一瞬顔を見合わせ、受話器に飛びかかる。


「もしもし!?うる!?私です!」


 真夜中だという事も忘れて、大声で話しかける。2秒間の沈黙の後、返ってきたのは知らない男性の声だった。


『私、天幸寺の秘書を務めております、鷲見すみと申します』

「えっ……」

『緊急の用件とうかがいましたので、急ぎご連絡差し上げました。失礼ですが、そちらはどなた様でしょうか?』


 驚いた青子はしどろもどろになって自己紹介した。「私、うる……じゃない。閏くんの友人で、宮木と言います」


「竜宮城の宮に、植物の木で……」

『存じ上げております。宮木、青子様でいらっしゃいますね?』


 和な声の持ち主は後度ことを突き、青子の返事を遮るように、『まことに申しわけありませんが……』と続けた。


『あなた様からの電話は、どのような御用件でもお取り次ぎできません』









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