遠い街からS.O.S
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帰宅すると、珍しく、玄関に母の靴があった。精神的に疲れていたこともあり、青子は声をかけずに二階に引っ込んだ。
制服を着替えても、青子の心は晴れなかった。脳裏に浮かぶのは、数時間まで目の前にいた、彼の顔ばかり。怒っているのに、何故か今にも泣き出しそうな顔ばかりだ。
(嫌われちゃった……)
青子は深呼吸して、かき乱されてぐちゃぐちゃになった胸の中を整えようと試みた。
楽しいことを考えよう。もう直ぐ待ちに待った夏休みだ。舞香たちと海に行く約束をしているし、たまには岡野に付き合って、映画やゲーセンに行っても良い。学校に行けば、気の良い仲間がたくさんいる。そう。わざわざあんな厄介な人種と関わり合いにならなくたって……
「青子?帰ってるの……?」
あれこれ考えていると、青子の帰宅に気付いた母が、そっと部屋のドアを開けた。
「先生から電話があったわよ。あなた、期末試験さぼったんですって?」
「…………」
「びっくりしたわよ……突然……」
青子は答えなかった。期末試験なんて、もう一週間以上も前の話だ。青子は寝台に寝そべったまま、川岸の石ころみたいに振る舞った。そうしていれば、母がすごすご引き上げて行くことを知っていた。
「……追試の勉強、ちゃんとするのよ」
青子が思った通り、母は来た時と同じようにそうっと扉を閉めて退散した。
青子は苛立たしげなため息を吐いた。最後に彼女とまともに会話したのは、いつだったろう。中学三年生の夏、高校を受験するか否かで軽く口論したのは覚えている。この件について考えはじめると頭痛がしてくるので、いつもある程度のところでリセットすることにしている。この日も、青子は早々に思考を手放し、扉に背を向けて目を閉じた。暗闇は、時々青子の味方だった。
次の日。
「見たわよー。あんたと閏君が、お手手つないで歩いて行くところ」
「二人でどこ行ってたのー?やーらしー!」
「いい加減、白状しなさい。喋るまで逃がさないよ」
青子が学校に登校してみると、案の定、昨日はぐれた友人達からの質問攻めにあった。
「あの人は、そんなんじゃないよ」
「またまたー。本当は付き合ってるんでしょー?隠さなくっても良いのに」
「だから、違うったら!」
寝不足でいらいらしていた青子は、つい声を荒げ、悪気のない友人達を驚かせた。教室にいた無関係のクラスメートたちも、こちらを振り向いて『何?喧嘩?』と、目を白黒させた。彼等を視界から閉めだすのに、青子は机に突っ伏した。
「ありゃ。機嫌悪い。喧嘩でもしたの?」
「きっとあれだよ。語学研修」
「語学研修ー?」
「星学、来週からドイツに二週間、ホームステイだって」
「会えないから、拗ねてんだ。かわいそうに」
寝たふりしながら、青子は友人達の会話に耳をそばだてていた。
自分も知らなかった閏の予定を彼女等の口から聞かされ、青子は酷く惨めな気持ちになった。出来ることなら、昨日の朝まで時間を戻して、一日をやり直したい。両腕で作った狭い暗闇の中で、閏の傷付いた瞳を思い出しながら、悔恨の念に苦しめられるのだった。
数日後、学校は多くの生徒達が待ちに待った夏休みに入った。
空は青く高く澄み渡り、絶好の海水浴日和が続いていたが、青子は遊びの誘いも断って、家に引きこもっていた。カーテンを閉め切ったリビングで、ソファに寝そべり、一日中テレビを観て過ごす。お腹が減ったら冷蔵庫の中の食パンをかじり、気が向くとコンビニに行って、スナック菓子やジャンクフードを山ほど買い込んだ。
とにかくなにもする気になれず、いつ寝て起きたかもわからない、だらしない日々が二週間ほど続いたある日のこと。
深夜放送の海外ドラマを観ていて、いつの間にか寝てしまった青子は、暗闇に響く電話の音で目が覚めた。
青子は寝ぼけ眼で辺りを見回した。カーテンの隙間から差し込む白い日差しと、付けっ放しのテレビから流れてくる番組で(全国の面白おかしい新婚夫婦を紹介する、某番組だ)、現在時刻が昼過ぎなのだと理解した。体重で押し潰した左手が痺れて、じんじんする。
「はい、はい、はい……」
ビデオは延滞してないし、携帯の電源は入ってる。だとすると、今時固定電話にかけてくるなんて、セールスに決まってる。放っておけば諦めるかと思われた電話の音は、いつまで経っても鳴り止まなかった。青子は重い腰を持ち上げて、リビングの端に設置された子機を取り上げた。
「もしもし……」
青子がお決まりの台詞を言うと、相手が息を呑むのがわかった。
『……俺だ』
「おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が……」
『待て。俺だよ。閏だ。天幸寺』
青子はびっくりして、危うく子機を取り落しそうになった。
『雨霧って言ったら、わかるか?』
ドキ、ドキ、ドキ、ドキ
心臓の鼓動が、徐々に速度を上げていく。青子の脳裏には瞬時に、鮮明に、二週間前のやり取りが駆け巡った。青子は我知らず、子機を握りしめた。
『……時間がないから、手短に言う。実はあんたに頼みがあって……』
良く聞けば、その声は確かに、閏本人のものだった。
なぜ彼が青子に電話を……いやそもそも、どうして我が家の電話番号を知っているんだろう?パニックに陥った頭の中を、疑問がぐるぐるする。
『家の様子を、見てきて欲しい。今学校の行事でドイツに来ていて……あー、ミュンヘン国際空港からかけてる。エンジントラブルで飛行機が飛ばないんだ。いつ帰れるか、わからない。親父はあてにできないし、蓮吾一人じゃ心配で……』
受話器の向こう側から聞こえてくる、硬い靴音や聞きなれないドイツ語の放送は、青子に清潔で、近未来的で、広々としたロビーの様子を連想させた。向こうは今、昼だろうか?夜だろうか?
『……こんなこと、頼めた義理じゃないって、わかってる。あんな別れ方をして、虫が良いとも思う。だけど、あんた以外に思い付かなくて……』
弱りきった閏の声からは、彼の複雑な心情がうかがえた。
不覚にも、青子は泣きそうになった。インテリで、イケメンで、大金持ちなのに、彼にはこんな三流高校のアホ娘しか、頼れる相手がいなかったのだ。
青子はすぐさま気持ちを切り替えて、紙とペンをとった。
「これから行くから、住所を教えて」
『……いいのか……?』
「もちろん。こっちのことは任せて。なにも心配いらない」
青子はしっかりと保証した。顔なんか見えないのに、閏の緊張が和らぐのがわかった。
『……この間は、悪かった……あんな言い方をして……』
閏は青子に、先日の一件を詫びた。青子は首を横に振った。「私も、ごめん」
「それから……ありがとう。私を思い出してくれて」
『え……?』
「じゃあ、切るね」
青子は電話を切った。ここ何日も青子を苦しめていた心の澱は嘘のように消え去り、胸の中は温かな何かで満たされていた。腹の底から、むくむくとやる気が湧いてくる。
「……よし!」
青子は手早く支度を済ませると、着替えと冷蔵庫の中の食材をありったけトートバッグに詰めた。
全ての準備を終えて、いざ出かけようという時だった。玄関で、約二週間ぶりに帰宅した母と鉢合わせた。
「青子……どこかへ行くの……?」
最初、青子は母を無視して出て行こうとしたが、途中で思い直して引き返してきた。
「お母さん、悪いけど、お金貸して」
数か月ぶりに娘の声を聞いた母は驚き、目を瞬かせた。
「え、ええ……それは良いけど……」
「友達が、ピンチなの。助けるのに、軍資金がいる」
戸惑う母に、青子は簡単に事情を説明した。母は理解が早かった。
「……大事な友達なのね?」
「うん……とっても……」
青子は深く頷いた。
母はハンドバッグの中の財布から三万円を抜き取って、青子に持たせた。それだけでなく、彼女は青子を車で駅まで送ってくれた。
「早ければ、三日くらいで帰れると思う」
「わかったわ。なにかあったら、直ぐに連絡するのよ」
「うん……ありがとう……」
母はすっかり口紅の落ちた唇を引き延ばして、笑顔を作った。久しぶりに見た彼女の笑顔は、ほんの少しだけ、老け込んで見えた。
「青子……!頑張って……!」
改札口に向かって足早に歩いて行く青子に、母が叫んだ。青子は片手を挙げて、彼女の激励に応えた。