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ナレソメ  作者: kaoru
9人目の男
68/80

閑話なのでした



「坊ちゃま、本日もお寄りになられるので?」

「お願いします、山崎さん」

「かしこまりました」


 運転手の山崎はバックミラー越しに後部座席の坊ちゃまこと天幸寺閏に向かって目礼し、静かに車を発進させた。事故渋滞をものともせず、巧みな車線変更で苛立ちに震える車両の間隙(かんげき)を走り抜ける。


 見事なハンドル捌きで高級車を己の半身のごとく自由自在に操り、数分。本町の目抜き通りに差し掛かると、車は音もなく路肩に停車した。


「少し早かったみたいですね。そこのコンビニで飲み物でも買って来ましょう」


 山崎はわざとらしく時計を確認して言って、閏の返事を待たずに車を降りた。寄り道の習慣がはじまって以来、何度も繰り返されてきたやり取りだ。流石は年頃の息子を持つ父というべきか、閏1人を車内に残して席を立つのは、山崎なりの粋な心くばりである。


 快適な車内でそわそわしながら待つこと、さらに数分。3時半を過ぎると遠く放課のチャイムが聞こえ、教室という名の牢獄から解放された千ヶ丘高校の生徒達が、道の向こうからいっせいに歩いてくる。

 群衆の先頭がこちらに近づいてくると、閏は気分を落ち着けるために、オーディオのスイッチを入れた。山崎の最近のお気に入りが、頭の後ろのスピーカーから流れてくる。


 ザ・ドリフターズのセイブ・ザ・ラスト・ダンス・フォー・ミー。


 閏は息を詰めて、覗き見防止の加工が施された車窓から、ぞろぞろと歩いてくる一団に目を凝らした。

 友人に向かって大きな身振り手振りで熱弁をふるう女子生徒。肩をすくませ、背中を異様に緊張させて早足に歩き去るオタクっぽい男子生徒。制服をだらしなく着こなした賑やかな生徒のグループなどが、どっと歩道に溢れ返る。

 集団の中に似た髪色の頭を見付けると、全神経がいちいちそちらへ向かって引き寄せられる。


 あれは?……似てるけど違う。……あれも違う、彼女じゃない。……違う。違う……また違う。


(……来た……)


 10分程して現れた対象は、人波の流れに乗って、じれったいほどに遅々たる歩みで向かってきた。顔が確認できるくらいになると、閏は少し背中を丸めて、座席に深く沈み込んだ。無意味に前髪を直し、制服のネクタイをキュッと締め直して、神経質に指先で膝頭をトントンする。窓を開けようかどうしようか迷って、止めた。


「…………」


 長い髪に春先の甘い香りを纏わせて、リンゴが坂道を転がるように軽やかな歩調で、目当ての人物が行き過ぎる。


 2月の終わりに最低最悪の出会い方をした、名前も知らないギャルだ。かわいい外見に似合わないがらっぱちな言動や、最初に見せた(した)わし気な表情が気になって、知り合った翌日にはもう彼女の通う高校を突き止めていた。以来毎日こうして、学校帰りに待ち伏せている。


 初対面で胸倉を掴んだばかりか、この俺をださださ呼ばわりするなんて!


 浮いたゴシップを期待している山崎には悪いが、ただ一言あの時の文句を言ってやろうと、機会を伺っているだけだ。とはいえ、つまらない事を根に持つ男だと思われたら業腹(ごうはら)だし、気があるなんて勘違いされたらもっと面白くない。いろいろ考えて二の足を踏んでいるうちに、ひと月近くも経ってしまった。


 季節はいつの間にか移ろい、ぴりりと痺れるようだった空気は厳しさを()し、風は薫香(くんこう)を孕んだ。あの日険しい眼をしていた彼女は、今は友達に囲まれて快活に笑っている。


(……くそっ)


 顔は、かわいいんだよな……


 少女は車内で1人拗ねはたばる閏の目前を、ほんの15秒程度で通り過ぎた。気まぐれだ何だと言いながら、この15秒を捻出するために睡眠時間を1時間も削っている矛盾には気付かぬふりをする。


 華奢な背中が完全に視界から消え、生徒達があらかた行ってしまった頃、山崎がコンビニの袋を手に戻ってくる。山崎はむっつりしている閏に炭酸飲料と肉まんを差し出し、「そろそろ行きましょうか?」と提案した。生暖かい眼差しが痛い。(いい加減に声掛ければいいのに……)という心の声が聞こえるようだ。


 滑るように走り出した車内。網膜に焼き付いた≪本日の彼女≫に向かって、胸の中で「今日のところは勘弁してやる……」などと意味不明な悪態をつき、腹立ち紛れにホカホカの肉まんに齧り付く。


 長い信号待ち、不機嫌顔で口いっぱいに肉まんを頬張る閏をバックミラー越しに見て、山崎は堪えきれずにうふふと声を上げて笑った。


「坊ちゃまがお元気になられてようございました」

「?なんですって?」

(はばか)りながら、さっきまで最終形態のフ○ーザみたいな顔してましたよ。あのお嬢さんは坊ちゃまの栄養剤なんですね」


 傷付きやすいお年頃の少年に向かって○リーザとは何事か。山崎は閏の抗議の視線をしれっと無視し、ところで、と華麗に話題を変えた。


「冗談はさておき、本当に大丈夫ですか?あまり眠れてないみたいですが……」


 山崎は連日投げかけている質問を繰り返した。あははと力なく笑う閏は、頬が削げ、充血した赤い目玉はどろんと溶けて落っこちそうだ。


「あまり無理をなさると、体を壊してしまいますよ。思い切って仕事を少し減らしたらどうです?」

「そうしたいのは山々なんですが……来週アテネのビオス社と商談を控えてるんです。これから徹夜でギリシャ語の勉強しないと」


 そう口にしている間にも閏は鞄から薄型ノートパソコンを、胸ポケットから眼鏡を取り出し、作業を始めた。疲れた顔をしているものの仕事をする体力があるだけまだましで、繁忙期(はんぼうき)は車に乗り込むなり意識を失くし、病院に担ぎ込まれる事も少なくない。サラリーマン高校生には、ブドウ糖点滴とニンニク注射が欠かせない。


 山崎は心痛し、座席の陰でやれやれと首を振った。同じ高校生なのに、家に帰ればネットゲーム三昧の我が息子とは大違いだ。両手足の爪の垢全部煎じて呑ませても、及びもつかない。


「家内を手伝いにやりましょうか?せめて仕事が落ち着くまでの間だけでも……あの広い家を1人でなんて、無茶ですよ」

「や、いやいや、大丈夫ですよ。まだなんとか……」


 山崎の願ってもない提案に飛びつきそうになったが、頭の隅に残っていた僅かな理性が働いて、断ることに成功した。良く知っている人物の身内とは言え、他人を家に入れるのは危険だ。自分にとっても、相手にとっても……


(とはいえ……)


 閏は玄関に足を踏み入れた途端、1時間前の軽々な決断を深く後悔した。

 暗がりの中でもはっきりとわかる、床板の上に積もった埃。畳には今朝方出現したゴキの死体と、ゴキを退治しようとして引っ繰り返した牛乳の染み(……くさい)。切れかかってチカチカしている玄関の電球。風呂場やトイレから漂ってくる趣ある香りに背筋が戦慄く。


「おい都。お兄ちゃん料理はじめるから、そこ片付けてくれよ」

「…………」

「都。みーやーこってば。聞いてるか?」


 畳に転がっていた末っ子は注意に耳を貸さず、ふくれっ面で居間を出て行ってしまった。これもいつもの事とため息ひとつで溜飲を下げ、点々と散らかった人形や、お絵かき用の広告の裏紙や、木の実や小石を黙々と拾い上げる。


 このところ、都は反抗的だ。気が付けば潰れたパグ犬みたいな顔をしているし、いつの間にか身に付けていた上級スキル(靴下をはく!お皿を運ぶ!おもちゃを片付ける!)は発動せず、元の赤ちゃんに戻ってしまったみたいにごろごろしてばかりいる。忙しくてかまってやれないせいで、鬱憤がたまっているのだ。


 居間をあらかた片付け、夕食づくりに取り掛かろうとしたところで、和子がきょろきょろしながらやってきた。しっかり者の長女は、厳しい環境下にあっても逞しく花開くスナビキソウのごとく、ゴミ溜めと化した居間の中でも1人、凛と澄ましている。


「お兄さん、私のカーディガン知らない?」


 ?カーディガン?……カーディガン、カーディガン……


「あーっ……悪い、まだ洗濯機の中だ」

「明日学校に着ていきたいの。音楽の授業があるから」

「ごめんごめん、週末にまとめてやるから。明日はほら、白いパーカーがあったろ?フードに猫耳ついてるかわいいやつ。あれ着てけよ」

「それって、先月お兄さんが色物と一緒に洗濯して着れなくなっちゃったやつのこと?」


 和子の機嫌が急降下し、閏はしまったと顔を顰めた。新しく購入した布団カバーの注意書きを良く確かめず一緒くたに洗濯機に放り込んだら、下着からバスタオルから何から何まで斑のピンク色に染まってしまったのだ。


「そ、そうだっけ……じゃあほら、水色のセーターは?」

「あんなの、とっくに捨てたよ。……もういい、自分で探す」

「なぁー、怒んないでくれよ。お兄ちゃんも忙しいんだって、わかってるだろ?和子ちゃんー?」


 和子は聞く耳を持たず、ぷりぷり怒って2階に引き上げてしまった。和子を追って慌てて廊下に出た閏は、反対側から歩いてきた強と衝突してくらりとよろめいた。一度膝を付いてしまうと、寝不足のせいかなかなか立ち上がれない。野放図(のほうず)の弟はそんな兄を睨み下ろして一言。


「……ってーな。どこ見て歩いてんだ、ああ?」


 って強お前、そんなチンピラみたいな……


「ごめんごめん、お帰り強。律は?一緒じゃなかったのか?」

「……うまそうな匂いがする……」

「へっ?」


 強はきょとんとする閏の口元に鼻を寄せ、くんかくんか匂いを嗅いで眉尻を吊り上げた。


「どっかでなんか食ってきたろー!ずっりー1人だけ!」


 家中に聞こえるような大声でピタリと言い当てられて、閏はうろたえた。ちゃんと途中で口をゆすいできたのに、どうしてばれたんだ??


「食べたって程じゃないよ」

「なに!なに食べたの!」

「……シエテ・オンセの肉まん……」

「土産は!」

「すいません……」


 万年欠食児みたいな強相手に下手な言い訳は通用せず、明日ムァックのスキャラブ・バーガーを買ってくると約束するまで重犯罪者のごとく責められ続けた。災難はそれだけにとどまらず、夜、仕事に掛かろうと思ってパソコンを開いたら、亮から大量の苦情メールが届いていた。うっかり開いたら一発でコンピューターがダメになるウィルスファイル添付……


「俺にどうしろって言うんだよ!!」


 あっちからもこっちからも責められ、翌朝の朝食の席で、つい怒鳴ってしまったのはまずかった。


 都には怪獣みたいに大泣きされ、和子には冷ややかな目で睨まれ、強にはキレられ、律には失笑され、亮には天井から埃が降ってくるほど特大の壁ドンをされて、恵に至っては完無視。


 この程度のトラブルは、3日に一度は起きている。いつもの事と割り切って、淡白に向き合うべきだと分かっている。しかし……


(……家に帰りたくない……)


 人間って感情の動物だ。溜飲を下げられない狭量(きょうりょう)な自分と、それに嫌気がさしている自分が、自然と自宅から足を遠退かせる。


(幸せって何だっけ……)


 なーんて、真面目に考えてる時点で終わってる。こういう時はどんなに煩悶(はんもん)してみても、ろくな解決策は浮かばないのだ。


(……帰ろう……)


 今日1日を頑張れたら、明日もきっと頑張れる。そして明日を頑張れれば、明後日だって何とかなる。つまらない事をあれこれ悩んで時間をロスしたら、余計に自分が辛くなるだけだ。


「ただいまー……」


 夕方遅く、情けない気持ちで学校から帰宅した閏は、玄関のドアを開けて、廊下の奥から流れてくる夕餉の匂いに首を傾げた。


「……?……」


 よく注意してみると、汚れた靴が散乱していた三和土(たたき)は片付けられ、傘立てに乱雑に突っ込まれていた傘も、1本1本きちんとたたまれている。ホラー映画みたいに明滅していた電球は取り換えられ、裏口まで真っ直ぐ続く廊下も……ピカピカだ。


「あ、お帰りー」


 急ぎ足で居間に入ってみると、子ども達が揃って閏の帰りを待っていた。旅館みたいな広い座卓の上には、数々の手の込んだ料理が並んでいる。


「昼間、青子が来たんだよ」


 長兄の疑問を見てとって、蓮吾がすすんで事情を説明した。


「あ、青子さんって、あの……?」

「そ。今日はがっこ……たまたま時間が空いたんだって。兄貴によろしく言っといてってさ」


 魔法のように綺麗になった室内を見回し呆然とする閏の腕を、和子が引く。


「座って座って。ご飯食べるでしょ?」


 彼女は綺麗にカットしてもらった前髪をかわいいピンで留めて、ご満悦の様子だ。


「お風呂も沸いてるんだよ」

「?みんな、まだ入ってないのか?」

「うん。お姉さんが、一番風呂はお兄さんにって」


 不意打ちを食らって、じん、と目頭が熱くなる。そう言えば、食卓に並んでいるのは己の好物ばかりだ。加えてどの品もみんなのお皿よりちょっと多くよそわれている。座布団も己の席だけ2枚……

 声もなく感動に打ち震える閏の元へ、都が気取った足取りで歩いてくる。


「アオちゃんからゆーびんです」


 都は招き猫が描かれた封筒を、賞状の授与みたいにかしこまって両手で差し出した。重大任務をやり遂げた都は、兄弟達に称賛されながら席に戻る。


 閏は弟妹達の好奇の視線に囲まれながら、手紙を開いた。「いつもご苦労様」「体は大丈夫?」「無理しないでね」「応援しています」丁寧な文字で綴られた、己を励ます言葉の数々に、胸が詰まる。いないからわかんないけど、まるで郷里の母親から届いた(かり)の使いのよう。


「ちょ、ごめっ……」


 喉の奥から熱いものが込み上げてきて、閏は堪らず居間を飛び出した。そのまま2階に駆け上がり、自室に飛び込んでぴしゃりと襖を閉める。


「ぐすんっ」


 机の下の暗闇に頭を突っ込んで、ちょっと泣いた。下の階では腹ペコ強と都がにゃーにゃー騒いでいたけれど、赤い目を見られるのが恥ずかしかったので無視した。17年間も無駄に溜め込んだ涙は、塩辛いはずなのに、なんだか少し甘かった。






 その日からというもの、メリー・ポピンズは頻繁に雨霧家を訪ねてくるようになった。


 と言ってもその正体は未だベールに包まれたままだ。青子夫人はグリム童話の小人の靴屋のごとく長兄が不在の隙を見澄まして訪ねてきては、家中の雑事を手早く済ませて帰って行く。閏が帰宅した時には既に彼女の姿はなく、片付いた座卓や、冷蔵庫の扉や、四角く畳まれた洗濯物の上に、短い手紙が残されているのみだ。


 歳は幾つなのか。仕事は何をしていて、どこに住んでいるのか。家族はいるのか。


 閏が青子夫人の素性に言及しようとすると、兄弟達は決まって困り顔で口を噤んでしまう。日頃のお礼に家に招待しようと提案してみても、いい顔をしない。差し入れや複雑な言付けは、相変わらず次兄を間に挟んでいる。

 助けてもらっておいて文句を言えた義理じゃないが、やっぱりちょっと奇妙だ。そして秘密にされると余計に知りたくなるのが人情である。


 なにか正体を隠さなければならない特別な事情があると見た閏は、少ない手がかりから、青子夫人の人物像を予想する事にした。


 まずは都画伯のアバンギャルドな似顔絵から、髪が長いということがわかる(逆に言えばそれ以外は全く分からない)。続いて手紙の筆跡から(結構まる字)、想像していたより若い女性なのではないか、と予想される。そういえば、和子も彼女の事を「お姉さん」と呼んでいた。


(まさか、人妻?)


 青子夫人が頑なに己の前に姿を現そうとしない理由は何なのか。好奇心も手伝って、彼女を一刻でも早く思い出すことが、目下の最重要課題である。


(では、あるが……)


 実際に四六時中頭の中を占めているのは、ぜんぜん別の人物だったりもする。


 閏は制服のポケットから取り出した≪雨霧閏用≫のスマホの画面を物憂い眼差しで見つめた。我知らず、唇から遣る瀬無いため息が漏れる。そこには例のクレープヤンキー女子高生が、同級生と(おぼ)しい男子生徒と一緒に写っている。


(彼氏、かな……)


 そう。いったい何を期待しているんだか、2月の出会いからふた月以上も経とうというのに、閏は未だ彼女が通う高校の門前に通い詰めているのだった。


(……止めよう)


 もう止めよう。声をかけることもできず、ただ遠くから見つめ続ける事に、いったいなんの意味がある。


 偶然を装って彼女の視界に入った時の事だ。目が合ったと思った途端ツンと顔を背けられ、自分でも意外なほどに傷付いた。存在を全否定されたような絶望感で気付いた。彼女をひと目見たその瞬間から、常に背中に付きまとっている不安や、焦燥や、苛立ちの正体に。


 恋煩いとはかくも苦しいものか。思い悩み過ぎて、最近では食事も喉を通らない。


「……こっち向けよ」


 画面の中の彼女は、知らない男に向かってちょっと狡そうな微笑みを浮かべている。


 もしもあの勝気な眼差しが真っ直ぐに己を捕らえたら、どんな気持ちがするだろう。きっと天にも昇る心地で、この苦しみからは解放されるんだろう。尤も、そんな日は永遠にやって来ないが……






「本日はお寄りにならなくてよろしいのですか?」

「ええ。真っ直ぐ家に帰ってください」

「……かしこまりました。では」


 運転手の山崎に指示を出し車がいつもとは違う方向へ走り出すと、心に灯っていた炎がふっと消えたような喪失感を味わった。同時に、鑢で削られるような痛みが胸底に走る。苦い唾を飲み込んで、これで良かったのだと自分で自分を慰める。しつこくしてこれ以上嫌われたくないし、睡眠時間を確保するだけで精いっぱいの自分には、恋愛どころか、普通の交友関係を持つことすら難しい。


 3年前。まだ2歳だった都を残し、その母親が死んだ時、取るに足りないこの人生を幼い彼女のために捧げようと決めた。あの時の決意は、辛い時、苦しい時、崩れ落ちそうになる己の両足を力強く支えている。犠牲にできないものなんかない。


 悲壮な思いを胸に秘め、車に揺られること無慮数十分……


「な、なんで……?」


 家に帰り着いてみると、玄関の前にたった今諦めたはずの思い人が東大寺の金剛力士像のごとく立ち塞がっていたため、ヒロイックな気分はどこかへうっちゃられた。かねてからの望み通り、勝気な瞳が真っ直ぐに己を捕らえている。


 ……って言うか、睨まれてる。はじめて会ったあの日以上に険しい、悪鬼のような形相で……


(超怒ってる!)


 もしかして、いやもしかしなくても、ふた月以上にも及ぶストーカー行為がばれたのだ。

 額や脇から脂汗が滲み出す。彼女は蜘蛛の巣に引っかかったチョウチョみたいに、眼差しに絡み取られピクリとも動けない閏に向かって、くいっと顎をしゃくってみせた。


「ちょっと顔貸しな」


 どうしよう、このままじゃ警察に突き出される……!

 助けを求めて玄関の方を見ると、細く開いた扉の隙間から幼い弟妹達(都、律、強、和子)が様子をうかがっていた。長兄の視線に気付くと、「行け!行け!」と手で合図する。


 素直に縄に掛かれという事か……


 長兄の紳士にあるまじき破廉恥な行いを知り、彼等もどんなに驚いたことだろう。家を突き止められている時点で、言い逃れが通用する段階ではないのだ。


 ガツンッ!


 もたもたしていると、ローファーのつま先で向う脛を蹴たぐられた。もはやこれまで。観念した閏が連れて行かれた先は……


「?病院……?」


 ?なんで?メンヘラ治療?


「どーもー先ほど電話した雨霧ですー。これ保険証と、診察券とお薬手帳」


 彼女はさっきまでの様子とは打って変わって愛想よくカウンターに近づいて行くと、患者(うるう)に代わってさっさと受付を済ませた。静けさが痛い待合室で通路を挟んで隣同士に座り、名前を呼ばれるのを待つ。


「あの……」

「…………」


 説明を求めたが、冷ややかな横顔に拒絶された。目も合わせてくれない。嫌われた。もう完っ全に嫌われた。


(しゅんっ)


 長い待ち時間の間、彼女は閏の存在など忘れてしまったかのように、週刊誌を読みふけっていた。やがて診察の順番が来ると、先んじて廊下を歩き出す。閏はその後を、肩を落として付いて行った。




「ちゃんと見てみないと何とも言えないけど、たぶん逆流性食道炎だね」


 五十絡みの医師は、問診票を見るなり2秒で結論を出した。


「逆……なんですって?」

「ぎゃくりゅーせーしょくどーえん。はじめてじゃないっしょ?」


 なんでも胃酸が逆流して食道粘膜が炎症を起こすそうな。医師の説明にポカーンとする。ここ何日か胸が痛むと思ったら、本当に病気だったとは……


「胃液を抑える薬を出しとくから、治らなかったら2週間後にまた来て。あそれから、一応あっちの部屋で胃カメラの予約してって」

「はあ……はい、ども」

「それにしても彼女の付き添いってのは珍しいねー。母親に付き添われてくる子供ならいるけど」


 ぷぷっ。

 側にいた看護師さんがバインダーの陰で失笑する。耳まで赤く染め上げた閏とは反対に、彼女はへでもないと言う風に、涼しい顔をしていた。


 診察料を支払い、隣の薬局で薬を受け取って帰途につく。暗く沈んだ夕暮れの町並みを無言で歩く。


 逮捕されずに済んで良かったとほっとする一方で、疑問はますます深まった。昨日まで近づくことさえ許されなかった片恋相手に付き添われて病院を受診するという不可解な状況に、「なぜ?」と「どうして?」が溢れて止まらない。


 足早に前を行く彼女の背中は、頑なに質問を拒絶している。


「っ……くしゅんっ!」


 悶々としながら歩いていると、冷たい風がびゅびゅーっと吹き付けて、彼女がくしゃみをした。閏は慌てて駆け寄って、己のマフラーをその細い首にかけた。


「ありがと」


 マフラーに口元までうずめて微笑む彼女に、病を患った胸が甘くときめきく。せっかく諦めかけた気持ちが、むくむくと湧き上がってくる。かわいい笑顔に背中を押されて、あらぬ事を口走りそうになったその時……


「あ、蓮吾お帰り」


 夕闇の向こうから中学生の弟が、えっちらおっちら歩いてきた。前を行く2人に気付くと、肩に担いだ防具をガチャガチャさせて駆け寄ってくる。


「ただいま。そっちも今帰り?どうだった?」

「ただの食道炎だって。薬もらってきた」


 え……なんで彼女が(れんご)の名前を知って?2人、もしかして知り合い?


「おかしいと思ったんだよねー。風邪の時でもかつ丼大盛り平らげちゃう人が食欲ないなんてさ」

「だね。でも大したことなくて良かった。また入院なんて事になったら大変だもん」

「そしたらまた私が泊まりに来るよ」


 意中の人と汝弟(なおと)は困惑する閏を置いてけぼりにして、和やかに談笑しながら先を歩き出した。


「今日の夕飯なに?」

「食べやすいように角煮にしようかと思って。圧力鍋どこにやったかなー?」

「圧力鍋ってもしかして、あの片っぽ取っ手がとれてるやつ?リサイクルショップで買った」

「そうそう、あの大きいの。この間から探してるけど見つからないんだよね」

「あれなら強が持ってったよ。学校で金魚飼うんだってさ」

「ええっ、やだやだ止めてよー。あれ普通に買ったら5万円くらいするんだよ」


 10mほど進んだところで、付いてこない閏を不思議に思った彼女が振り返った「?なにしてんの、早く行くよ」。懐疑心に満ちた瞳をする閏に気付くと、「ああ、そうだった」と、蓮吾が彼女の手を引いて戻ってくる。


「こちら、宮木青子さん」

「あ、あおこさんっ……?」


 青子さんって、あの?

 小人の靴屋で、スーパー主婦で、メリー・ポピンズの?このどっからどう見てもギャルにしか見えない不良(ヤンキー)女子高生が?


「そう、今まで家のこと色々やってくれてたのは、ぜんぶこの人だよ」


 ……うっそ……


「何を隠そう、こちらの青子さんは、恋人なんだ」


 親父の。


「……えええっ!!?」

「兄貴が怒ると思って言い出せなかったんだけど、そろそろ良いかと思って」


 紹介を受けた意中の人はにーっこりほほ笑むと、ショックのあまり頭を切り干し大根みたいにしている閏に向かって片手を差し出した。


「勇司さんの恋人の宮木青子です。どうぞよろしく」

「…………」

「これからはお母さんって呼んでね」


 そう言う彼女の左手薬指には、いつの間にか大きなダイヤモンドの婚約指輪が……






「イヤ―――――ッ!!」


 深夜0時1分。

 悪夢に魘されていた閏は、夜を切り裂く己の絶叫で飛び起きた。少しの間自分がどこにいるのか分からず混乱していたが、闇に眼が慣れてくると次第に思い出してくる。


 ここは天幸寺本家の、割り当てられた客間だ。隣の部屋には伯父が眠ってる。


(勘弁してよ……)


 びっしょり濡れた額を掌で拭い、深呼吸して鼓動を鎮める。なかなか落ち着けないでいると、部屋のドアが控えめにノックされた。


「坊ちゃま、うるう坊ちゃま、大丈夫でございますか?」

「鷲見さん……ええ、はい、大丈夫です。すみません大声出して」

「ただいまホットミルクをお持ちします」


 鷲見が部屋の前から去って行くと、閏は背広の上着のポケットをごそごそして、ハンカチを取り出した。中には夢に見たのと寸分違わぬデザインの、婚約指輪が包まれている。


 ずっしりと重いダイヤモンドは、カーテンの隙間から差し込む月光を受けてキラリと怪しく輝いた。


 この指輪はいったい何なのか、いったい自分以外の誰が彼女に贈ったのか、眠る直前までぐずぐず考えていたせいであんな変な夢を見てしまった。正夢なんかじゃない。絶対に。


「青子ぉっ……」


 唇から情けない声が漏れる。今すぐ電話して問い質したいが、例によってプライベート用の携帯端末は昴に没収されている。真相が明かされるのは正月明け……1週間以上も先だ。クリスマスにとんだプレゼントを寄越したサンタを恨めしく思う閏だった。










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