思いがけないプレゼント
「でかくなったなぁ……」
居間の炬燵に頬杖を付いた閏は、カメラ目線で悩殺ポーズを決める次男をうっとりと見つめ、感嘆のため息を吐いた。手元にあるのは、蓮吾の写真が掲載された問題のファッション誌。蓮吾の部活の先輩、佐川直道が、美容師をしているという彼の姉と共に、わざわざ菓子折りを持って謝罪に来た時に置いていったものだ。
遅まきながら先頃無事に反抗期に突入した弟が、学校に内緒でアルバイトをして生徒指導室に呼び出された。
連絡をもらった時には驚いたものだが、今までが良い子過ぎただけに少しほっとしたのも事実だ。
子どもの成長は早いと言うが、この数か月で蓮吾は見違えるほど逞しくなった。声変わりを済ませ、肩や背中にしなやかな筋肉が付き、身長もたけのこみたいににょきにょき伸びている。後数か月もすれば、父勇司のそれを超えるだろう。最近は男の顔をするようにもなった。
(もう14歳か……)
時が経つのは早いものだなぁと、しみじみ感慨に更ける。
幼い頃、蓮吾はあまりに細くて小さくて、風邪をこじらせただけでも死んでしまうのではないかと……高い熱を出すたびに、胸が潰れるほど心配したものだ。寒い夜は胸に抱いて温め、背に負ぶってあやした。転んで怪我をしないように、いつも手を引いて歩いた。自分の後を覚束ない足取りでよちよち付いてきた弟が、今や立派な中学生である。
閏は雑誌から蓮吾のページだけを切り抜き、100円ショップで買ってきた額縁に納め、居間の壁の一番目立つところに飾った。角度を真っすぐに直し、少し離れたところから確認して、ん!と頷く。
(それにしても……)
このカメラマン、実に良い腕だ。普段はシャイでなかなか表に出てこない蓮吾の魅力を、存分に引き出している。見よ、この賢そうな目鼻を。溢れんばかりのカリスマを。不敵に笑った口元なんか、俺そっくりじゃあないか!
「ちょっと、何やってんの!」
手塩にかけて育てた弟の成長に満足し、1人悦に入る長兄を、通りかかった蓮吾が見咎めた。蓮吾は目を三角にして居間に入ってきて、壁に掛かった額縁を外そうと手を伸ばす。閏が阻止すると、彼は首まで真っ赤になって怒り出した。
「もうっ!こういうの止めろって言ってるじゃんか!」
「なんで!嫌がらなくてもいいじゃない。綺麗に撮れてるんだから」
「そういう問題じゃない!」
この、ブラコン!
蓮吾は長兄の体を押し退け、強引に額縁を壁から引っぺがした。中身を破こうとするのを、閏が慌てて取り上げる。「わーかった!居間には飾らないから!」
「トイレに飾るのも、2階に飾るのもダメだからね!……去年の剣道大会の時みたいにご近所中にコピー配ったりしてないだろうな」
「ぎくっ」
「まさか、配ったの……!?」
「全員じゃないよ!迫田さんと、いつも来る郵便屋さんと、文房具屋のおばあちゃんと……」
答えるほどに蓮吾の目がますます尖がるので、閏は神妙な顔で口を噤んだ。
「信じらんない……俺、もう一生外を歩けない……」
蓮吾が世界中の不幸を背負ったような顔で項垂れ、閏は大袈裟だなぁと、口には出さずに苦笑した。この奇特な弟は、父親譲りの綺麗な顔立ちをしていると言うのにそれを鼻にかけることなく、どこかコンプレックスに思ってさえいるのだ。
「クラスメートが雑誌に載るって、ちょっとした事件だよなー。女の子が放っておかないだろ?」
「べつに、興味ない」
「またまたー、本当はいるんだろ?好きな子!最近お前、妙にそわそわしてるもんな?アルバイトもその子のためだったりして……」
「もう!俺のことは放っといてよ!……それより、兄貴こそどうするんだよ。青子、クリスマスは皆でパーティするんだって、すっげー張り切ってるんだぞ!」
下世話な憶測をめぐらせていた閏は、強烈なカウンターパンチを食らって、うっ!と声を詰まらせた。
「今更兄貴が家にいないって知ったら、きっと落ち込むぞ」
「わかってるよ……ちゃんと説明するよ。そう責めるなよ、俺だって辛いんだから」
閏は重苦しいため息を吐き、しょんぼりと肩を落とした。
「はじめてのクリスマスを一緒に過ごせないなんて、俺は恋人失格だ……」
「キャンセルできないの?」
「無茶言うなよ、わかってるくせに……」
クリスマスはホテルでパーティ、正月三が日は本邸を訪ねてきたお客(政治家や有名企業の重役、女優、スポーツ選手など)の接待やら挨拶やらに追いまくられる事になる。なにしろ、1日に200人からの来客があるのだ。このひと月は試験勉強と並行して、訪問予定客の顔と名前を記憶する作業に費やされた。家に戻る頃には体重を3キロ落とし、顔面が半笑いの市松人形みたいになって、不審顔をした都に「うるくんキモイ……」と罵られることになるのだ。
「皆もごめんな。今年のクリスマスも、お兄ちゃん仕事で出かけなきゃならないんだ」
古くは宣教師フランシスコ・ザビエルが信徒を集めてミサを行ったことがはじまりと言われ、江戸幕府のキリスト教禁止令や戦後の混乱を経て、今や国民的一大イベントとなった聖降誕祭。家族観が多様化した世の中とは言え、その夜は家で過ごす子供がほとんどである。
事情があって両親と暮らせない子供たちには、枕元にプレゼントを忍ばせるサンタクロースがいない。
この重要な役目を担えるのは、親代わりを務めてきた自分以外にはあり得ないと自負しているだけに、この時期に家を空けるのは切ないものがある。去年出発する前は家中お通夜みたいで、都なんて足に縋りついて「行っちゃいや!」と泣き喚いたのだ。
「あー、はいはい、行ってらっしゃーい」
すまなそうに詫びる閏に律が、ゲーム画面から視線を上げずに素気なく言った。すかさず強が狡すっ辛い合いの手を入れる。「その代わり、プレゼント奮発してくれよな」
「去年みたいに1人千円ずつとか、勘弁してよ。それからお土産よろしく。あ、なんなら宅配で先に送ってくれれば良いよ」
「…………」
「楽しみだなー、クリスマス!俺、鶏の丸焼きなんてはじめて食べる」
こんがりと焼けた鶏皮にジューシーな肉、胡椒と油の香ばしい香りが鼻孔に広がる。強は夢見心地に言って、涎を拭う仕草をして見せた。
「俺も、漫画とかでしか見たことない。本当にあるんだなー。青子やるな」
「正月はローストビーフ作ってもらうんだ。それから、すき焼きだろ?鯛めしだろ?……食べたい物を今のうちにリストにしておかなきゃ」
「みやこ、ケーキがいい!」
クレヨンを手に、真剣な面持ちで≪かたたきけん≫を生産していた都が、弾かれたように顔を上げて叫んだ。炬燵の上には黒い毛虫にしか見えないツリーの絵も数点散らばっている。一番きれいに描けたものを、青子と龍太郎へのクリスマス・プレゼントにするつもりなのだ。
「オムライス、ちらし寿司、フライドチキン……」
「ケーキ!チョコレートケーキ!」
盛り上がる弟妹達は、長兄なんて居てもいなくても構わないという風だ。それどころか強や律は口煩いお目付け役(宿題やれ!朝寝坊するな!風呂に入れ!)が不在で、喜んでいる気さえある。うろたえ、唇をわなわなさせる閏の肩を、蓮吾が同情を込めてぽんっと叩く。
「しょうがないよ……兄貴、毎年いないんだもん。慣れっこだよ」
まぁ、いいじゃない。泣かれるよりは。
「都、去年はあんなに引き留めてくれたのに……」
慰めはあまり効果がなかった。閏は廊下の隅で膝を抱えていじけ出し、蓮吾はぐるりと目玉を回した。もう!面倒くさいなぁ!
「俺だって皆とパーティしたい……サンタのカッコして鶏の丸焼き食べたいっ……ぐすんっ」
「はい、はい。鶏はまた焼いてもらえば良いじゃんか。大人なんだから、そんくらいのことで泣くなよな」
「お前にはわからないんだよっ……他所ん家のベッドで知らない天井を見上げながら迎える正月がどんなに寂しいか……世間じゃ家族揃って囲炉裏を囲んで年越し蕎麦食べながらゆく年くる年観てるっていうのに、独りぼっちでさ……」
「囲炉裏って……俺はてっきり羽根を伸ばせて喜んでると思ってたよ」
「そんなわけないだろ!」
恋人同士が愛を確かめ合う夜に、何が悲しくて健全な高校生がスーツにネクタイ締めて酔っ払いの接待しなくちゃいけないんだ!
閏はくわっ!とまなじりを裂いて熱く述懐した。
「っていうか、俺の存在価値は!?長兄としての威厳は!?」
「存在価値ねぇ?……そんなに気になるなら、皆からありがたがられて罪悪感も解消できる、いい方法があるけど?」
クリスマスと終業式が間近に迫り、どこか浮ついた空気が漂う放課後の教室。
青子が付箋を片手にせっせとレシピ本を捲っていると、ドアのところからクラスメートが呼んだ。
「青子ー、校門にお客さん来てるよー」
「お客さん?」
「桑田君、連絡取れないって言ってたよ。あんた達どうなってんの?」
相手の名前を告げられても誰だかわからず、青子は窓から校門の方を見下ろした。下校の生徒たちの視線にさらされながら門柱に寄り添うように立っていたのは、半ば強引に連れて行かれた合コンで知り合った鉄工所社長子息、桑田緑だ。美術室のアポロンみたいなくっきりした二重瞼に、重量感のある豊かな唇。太めの眉はそのまま、前に見た時より少し前髪が伸びている。
(すっかり忘れてた……!)
緑とは先月、一緒にポルカ公演を観に行って以来会っていない。体調不良で錯乱した閏との熱烈キスという恥ずかしい場面を見られてしまい、なんとなく気まずくて、メールもラインも無視してしまった。しばらく連絡も来ていなかったので、このままひっそり途中退場してくれるものと思っていたが……
『諦めない』と告げられたことを思い出し、青子は軽く下唇を噛んだ。ろくに話したこともないが、どういう理由か青子を甚く気に入った様子の緑。今日は恐らく、閏との関係を問い詰めに来たのだろう。
(どうしよう……)
答え方によっては、閏に多大な迷惑がかかる。変な疑いを持たれて閏や雨霧家の秘密が露呈するのだけは、なんとしても避けなければならない。
逃げてしまっても良かったが、何度も訪ねて来られたら厄介だ。青子は腹を括り、荷物を持って立ち上がった。
対決の場所は、学校からは少し離れた喫茶店を選んだ。いつも使うファミレスは客が多いし、魁星学園と千ヶ丘高校の取り合わせはかなり目立つ。
青子の選択は正解で、店内には青子達の他に2人しか客がいなかった。小さく畳んだ日経新聞を片手にピラフを食べているサラリーマンと、ソファ席にぐったりと腰かけ顎を天井に向けて寝入ってしまっている、やはりサラリーマン。
青子と緑は奥の席を選んで座り、カフェオレとアイスコーヒーを注文して落ち着いた。
「久しぶり……」
緑がじっと黙り込んだままうんともすんとも言わないので、青子が沈黙を破った。
「ライン、ごめんね……返事しようと思ったんだけど、なんて返せばいいかわからなくて……」
意図せずに声が震える。失敗できないという思いが、青子をいつになく緊張させた。緑は聞いているんだかいないんだかわからない様子で、ふん、と短い相槌を打った。
「考えたんだけど私、やっぱり緑くんとは付き合えない……この間のことは関係ないの。そろそろ進路もちゃんと決めなきゃだし、私馬鹿だから、遊んでる暇ないっていうか……」
「…………」
「緑くん、格好良いから、直ぐに素敵な人ができるよ。あ、それとももう、いい人がいるのかな?」
青子は無理やり口角を持ち上げ、硬い笑顔を浮かべて見せた。
それからまた長い沈黙があり、緑はコーヒーの黒い液面を睨んだまま、重い口を開いた。
「天幸寺君が……」
「え?」
「天幸寺君が、目を合わせてくれないんだ……」
ぼそぼそと呟く緑は、表の曇天のせいか表情のせいか、ひどく顔色が悪く見えた。大丈夫?と心配になった青子が問いかける前に、緑は力のない声で語り出す。
「俺ん家は医療機器とか、産業用ロボットの部品とか作ってるんだ……いわゆる下請けの下請けってやつで、納品してる企業の親会社が天幸寺グループなんだ」
「?……へぇ?そうなんだ?」
「そうなんだって……他人事みたいに言わないでくれよ!仕事をもらえなくなったら、うちみたいな小さいとこは終わりなんだ!」
緑は急に激高して、ばんっ!と、テーブルを叩いた。
鋭い音が響き、背後でうつらうつらしていたサラリーマンが、驚いて飛び起きる。彼は腕時計を確認すると、背広と鞄を手にいそいそ店を出て行った。ピラフを食べていたサラリーマンもいつの間にかいなくなっており、店内には主婦のアルバイトと青子達だけになっていた。
「どうしようっ……きっとご機嫌を損ねたんだ……」
君なんかと関わり合ったばっかりに!
静かな店内に、苛立ちと焦りの滲む声が響く。緑は頭の毛を残らず毟らんばかりにぐちゃぐちゃと乱暴にかき混ぜ、大袈裟に不安がって青子を戸惑わせた。
「ご機嫌ってうる……天幸寺君の?」
「そうだよ。他に誰がいるんだよ。……大人しそうな顔してよくやるよな。俺は君に、騙されたんだ!君が天幸寺君の女だって知ってたら、絶対手なんか出さなかった!」
「緑くん、誤解してる。騙すなんて、私そんなつもりは……」
「じゃあどういうつもりだよ!女子高生がポルカ公演なんて、おかしいと思ったんだ!最初から彼が狙いだったんだろう!」
この、悪女!!
面食らって目をきょときょとさせる青子を、緑はますます声を荒げて罵った。目を血走らせ、歯茎を剥き出して怒鳴り散らす様は、まるで人が変わったようだ。
記憶が正しければ、気のない青子をつかまえて熱心にアプローチしてきたのは緑の方だし、閏をポルカ公演に引っ張ってきたのも彼だったはず。その事実は、緑の中ではなかったことになっているらしい。
「本当に騙すつもりはなかったって言うなら、君から天幸寺君に言ってくれよ!俺と君はただの友達で、深い仲じゃないんだって!」
「え、ええっ……?」
「それとも、君と彼は連絡先を交換するほど親密じゃないのか?……そうだよな。言っちゃ悪いけど君みたいな女の子、天幸寺君が本気で相手にするとは思えないもんな」
緑は青子の外見(たぶん地味目のギャルに見える……)を品定めするみたいに見て、爽やかだとばかり思っていた目元にいけ好かない笑みを浮かべた。
「もしかして、知らないの?天幸寺君には婚約者がいるんだぜ」
どきんっ!と、青子の薄い胸が強く波打つ。
「鷹司嬢という、君なんかが足元にも及ばないほど聡明で美しい女性さ。天幸寺君は彼女を宝石みたいに大事にしていると、専らの評判だよ」
「…………」
「毎年彼女の誕生日には、天幸寺くんの名前で豪華客船を貸し切って船上パーティを開くんだ。1度父に連れられて行ったけど、それは見事だったよ。うちもそこそこ裕福な方だと思っていたけど、本物のセレブはやることが違うね」
心臓の鼓動が徐々に速度を増して、指先がゆっくりと冷たくなる。龍太郎と一緒に行った魁星学園のパーティで、夫婦のように寄り添う閏と百合絵を思い出した。フォーマルに身を包んだ2人はため息が出るほどに美しく、人々はその周りに、花の蜜に誘われたモンシロチョウのように群がってた。
青子の知らない、もう1人の閏の姿。耳を塞いでしまいたいような、もっと詳しく知りたいような、あべこべな気持ちが青子を苛む。
「でも意外だなー。天幸寺君、硬派で女なんか興味なさそうなのに、案外手が早いんだ。ああ見えて実は凄い遊び人だったりしてね」
「…………」
「まあ、彼も普通の男だったって事か」
言うだけ言って満足したのか、緑は暖房のせいで大汗をかいているアイスコーヒーに手を伸ばした。青子は内心の怖いもの見たさに蓋をして、席を立つ。なんだか息苦しくて、足元がふらついて、1秒でも早く店を出たかった。
「私、もう帰るっ……」
暇を告げた青子の手首を、緑が咄嗟につかんだ。
男の大きくてがさついた掌の感触に、ぎくりとする。肌が粟立ち、背筋を電流が突き抜ける。緑は凍り付く青子を悠然と、そしてどこか楽しそうに見つめた。「まだ話は終わってないよ」
「俺、彼と仲良くなりたいんだよね。知ってることを話してくれたら、今日のところは帰してあげるよ」
「知っていること……?」
「そう。好きな物、嫌いな物、良く行く店、交友関係……なんでもいいんだ。とにかく、接点になるような話題が欲しいんだ」
「そんなの、自分で調べなよ!」
「それができれば苦労はしないよ。三流高校に通う君にはわからないかも知れないが、魁星学園には家柄ごとに序列があって、俺みたいな一般庶民は近付けもしない。向こうから声をかけられない限りはね」
青子が身を捩って拘束から逃れようとすると、緑は力を込めてその手首をきりりと締め上げた。
(痛っ……)
「いいじゃん。けちけちしないで、教えてよ。君だってセレブの仲間入りがしたいんだろ?少しだったらお礼も出せるよ」
「は、放して……」
「もしかして、怯えてるの?……かわいい。その調子で、天幸寺君を落としてくれると嬉しいな。ベッドの中では男は口が軽くなるもんさ」
「いや……!」
「純情ぶるなよ。もうやったんだろ?」
耳元で囁かれたと同時に、腰に手が伸びてくる。わき腹をいやらしい手つきで撫でられて、青子はいよいよ身の危険を感じた。助けを求めてカウンターの方に視線をやったが、店員はイヤホンで耳を塞ぎテレビを観ている。話を聞かれないようにと、奥の席を選んだことが裏目に出たのだ。
(怖いっ……誰か……!)
救世主は、青子が固く目を瞑ったと同時に、風のように現れた。
「だ、誰だよあんた……うぐっ!!」
青子の手首を掴んでいた緑の手が、第三者によって引きはがされる。突然現れた男は緑の胸倉をつかむと、力任せに彼の上半身をテーブルに転がした。グラスが硬い床に転がり落ち、派手な音を立てて割れる。
青子が目を開けてみると、大きな背中が視界いっぱいに広がっていた。コロンの代わりに消毒薬の匂いをさせているので、顔を見なくても誰だか直ぐわかる。
「昴ちゃん……」
青子の唇から、驚きと安堵の入り混じるため息が漏れた。青子の呟きを切り裂くように、緑が吠える。「放せよ!!誰なんだ、あんたは!!」
体格の差があるため、緑がどんなに激しくもがいても昴の腕はびくともしない。昴は緑を氷のようなブルーの瞳で見降ろし、同じくらい冷ややかな声で言った。
「魁星学園の生徒で私の顔を知らない者がいるとは驚きだ」
「?……う、うそっ……PTA会長っ……!!?」
男の正体に気付いた緑は凍り付き、直ちに抵抗を止めた。昴は相手が大人しくなったのを確認して、その胸倉を開放する。
「事情は知らないが、嫌がる女性に乱暴をしようとは男の風上にも置けない」
「…………」
「もういい、行け。2度とこの娘に近づくな」
「あ、あの、俺……」
「聞こえなかったか?店から出て行けと言ったんだ。私が本気で怒りだす前に」
緑は額に青筋を立てた昴にぎろりと睨まれ、転がるように店を出て行った。がちゃん!と扉の閉まる音がして、ようやく気付いた店員が奥から顔を覗かせた。
「まったく……危ない遊びは止めろと、あれほど言ったのに……」
昴はのっそり屈み込み、放心する青子に代わって床に散らばったガラスの破片を片付けた。青子も店員に箒と塵取りを借りて、しばらく無言でそれを手伝った。
しゃがんだ青子はふと、昴のズボンの裾にアイスコーヒーが飛んでいることに気が付き、瞳を潤ませた。魁星学園のパーティの夜もそうだったが、昴は青子が困っていると現れて、颯爽と助けてくれるのだ。
「少し痕になっているが……このくらいなら直ぐに治るだろう」
新たにコーヒーを注文し、先ほどとは別の席に座りなおした。
昴は青子の手首を診て、大事ないこと確認した。青子は大人しくされるがままになった。同じ触られるでも、緑に触られた時とは全然違う。昴の手は、毎日たくさんの患者さんに触れる、お医者さんの手だった。大きく息を吸い込めば、指先に体温が戻ってくる。
「それで?どうしてこういうことになったんだ」
青子が話せる状態になるのを待って、昴がたずねた。
「べつに、大したことじゃないの。友達のことで、ちょっと言い争いになって……」
閏は先日まで昴が勤める病院に入院していたし、魁星学園のPTA会長だという昴が、超が付くほど有名な天幸寺グループのことを知らないはずはない。閏の名前は伏せた方が賢明だと考え、青子は曖昧な笑顔でお茶を濁した。深く追及されないよう、直ちに話をそらす。「それより、昴ちゃんはどうして?」
「この店、よく来るの?」
「いや……学校で君が変な男に連れて行かれたと聞いて、慌てて追いかけてきたんだ」
緑を『変な男』呼ばわりしたのは舞香に違いない。前にこの店を教えてくれたのは彼女だし、教室を出る時「なんで青子ばっかり……」とやっかんでいた。恋人との逢瀬を邪魔してやろうと言う、細やかな意地悪のつもりだったのだろう、おかげで助かった。青子は抜群にタイミングの良い友人に心の中で礼を言った。
「じゃあ昴ちゃん、私に会いにきたんだ。今日は授業の日じゃないよね?」
すっかり家庭教師と生徒の関係が板に付いた2人である。青子が首を傾げて問うと、昴は少しすまなそうな顔をした。
「そのことなんだが……来週から、しばらく授業を休みにしてくれないか。勝手な都合ですまないが……」
「私はもちろん構わないけど、どっか行くの?」
「付き合いで、あちこちのクリスマス・パーティに顔を出さなけりゃならないんだ」
「へー!お医者さんのパーティって豪華そう。ホテルとかでやるんでしょ?いーなー」
「挨拶ばかりで疲れるだけだよ。私は、できれば君と……」
「?なあに?」
「いや……」
昴は滑りそうになるお喋りな口元を片手で覆って、ほんのりと色づいた涙袋を隠すように顔をそらした。
思いがけず生まれた余暇に、青子は内心で小躍りした。この数日、ほとんど毎日教科書や問題集と睨めっこしているのだ。付き合ってくれる昴には悪いが正直もうお腹いっぱいで、近々こちらから休止をお願いしようと思っていた。
「自宅学習の予定表を作ってきたから、冬休みはこの通りに問題集を進めなさい。帰ってきたら宿題と一緒に見てやる」
思う存分だらけられると喜んだのも束の間、昴は当然のごとく命じて、青子をがっくりさせた。
「そうあからさまに嫌そうな顔をするんじゃない。ちゃんと冬休み中頑張ると約束するなら、いいものをあげよう」
「いいもの?」
昴は背広のポケットから、7、8センチ四方の小箱を取り出し、青子の前にすっと差し出した。
「もしかして、クリスマス・プレゼント?わあ!嬉しい!」
綺麗にラッピングされた小箱を見て、青子は無邪気な歓声をあげた。
「今開けても良い?」
「もちろん、どうぞ」
勧められるままいそいそと青いリボンを解き、包装紙を剥がす。外箱から出てきたのは、細やかな刺繍が施されたハート形のリングケースだ。蓋を開けてみて、青子はぎょっとした。
なめらかなシルバーのリング。中心に4つの爪で留められた宝石はブリリアントカット・ダイヤモンドで、薄暗い店内でも眩しいほどに輝いている。
「ご、ごめん。開けちゃった……」
青子は慌ててリングケースの蓋を閉じ、元通り小箱にしまった。婚約指輪を渡す相手を間違えるなんて、そそっかしいにもほどがある。
包装紙をかけ直そうとガサゴソする青子の手に、そっと昴の手が重なる。
「これは君へのクリスマス・プレゼントだ」
「ええ!?こんな高い物、受け取れないよ……!」
「そう言わずに、貰ってくれ。私は今日、君に交際を申し込むつもりで来たんだ」
軽いパニック状態に陥った青子に、昴は真剣そのものと言った表情で告げた。
「私を君の男にしてくれ」




