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ナレソメ  作者: kaoru
こうして二人は出会った
6/80

仮面の下の激情

 問題の二人が次に再会したのは、憂鬱も忘れかけた、一週間後の帰り道でのことだった。

 青子はいつもの仲間たちと共に、駅前の繁華街にやってきていたのだが、丁度その頃、何の因果か閏も彼のリッチな友人達を連れて、付近の大型美術館の展覧会に足を運んでいた。

 舞香達を見失ってしまった青子が、慌てて次の角を曲がろうとした時だった。

「きゃっ……!」

 反対側からやってきた人物とぶつかり、転びそうになったところを彼に……閏に助けられた。

 思いがけない出会いに、青子も閏も声も出せないほどに驚いた。閏はついついじっと青子の顔を見つめ、青子も目を皿のようにして、彼を見返した。

「どうかしました?お知り合いの方?」

 二人が見つめ合ったまま動けずにいると、閏の背後からやってきた彼の友人が(綺麗な女の子だ。星学の制服を着てる)不思議そうに声をかけた。青子はハッとして、慌てて視線を引き剥がした。

「待って」

 そのまま逃げるように立ち去ろうとした青子の手を、閏が捕まえた。青子は不覚にもどきりとした。

「この間、財布を拾ってもらったんだ。慌てていたので、なんのお礼も出来なくて……」

 閏は青子の手を握ったまま、背後の友人達に言い訳した。

「まあ。閏君が財布を?案外そそっかしいのね」

 彼女はかわいらしい声で、ころころと笑った。青子にはとても真似できない感じで、余計に気持ちがささくれた。

「今、時間良いかな?」

 青子に拒否権はなかった。手をがっちり握られている。

「……悪いけど、俺はこれで失礼するよ。皆は食事、楽しんで」

 友人達と別れ、閏は青子を連れて人気のない路地に入った。

「ねぇ、どこ行くの……?」

 細い路地を縫うようにしばらく進むと、建物と建物の隙間に、(右手が元学習塾、左手が碁会所兼ダーツ練習場だ)細い、地下へと続く階段が現れた。

「こっち」

 閏は戸惑う青子の手を引いて階段を下りた。たどり着いた扉には、準備中の札が下がっていたが、閏は迷わず中に侵入した。

「すみませんが、まだ準備中で……なんだ。お前か」

「ホット二つ」

「へい、へい」

 こじんまりとした店だった。天井から吊り下がった大型のシーリング・ファンが、地球みたいにゆっくりと回転している。向かって右手の客席に人はおらず、左手の小さなバー・カウンターの中では、小太りの男が窮屈そうにパイナップルをカットしていた。彼の分厚い手の中では、ナイフがばかに頼りなく見えた。

 閏は一番奥の席を選び、青子をその向かいに座らせた。少しして、小太りの店員が(店長か?)コーヒーを持ってきた。青子のソーサーには、ポーション・ミルクと、ダイエット・シュガーの小袋が二つ、乗せてあった。「ごゆっくりどうぞ」

「……私に、何か用?」

 店長が店の裏に引っ込んだのを確認して、青子がたずねた。閏は答えようとしたが、彼女の顔を見ると、開きかけた口を閉じてしまった。それきり閏は口を噤んでしまい、長い長い沈黙が訪れた。

 チッ、チッ、チッ

 掛け時計の秒針が時を刻む音と、遠くに聞こえる車道の喧騒が、静寂をいっそう際立たせた。お互いに一言もしゃべらず、あっという間に十五分が過ぎた。青子はコーヒーを飲み干し、閏のそれは温度を失くして冷たくなった。

 閏が漸く言葉を発したのは、青子の最初の台詞から、二〇分も経とうかという時だった。

「……友達が、多いんだな……」

 閏はぽつりとそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。青子は仕方なく、自分から話しかけることにした。

「……この間さ、ごめんね」

 コーヒーの液面をぼんやりと見つめていた閏は、ふと顔を上げて青子を見た。青子は微笑んだ。

「蓮吾に聞いたよ。あなた、家族のために頑張ってるんだってね。感心しちゃった」

「…………」

「私、口悪くてさ。止めようって思ってるのに、つい、ああいう言い方しちゃうんだ」

 だから、本当にごめん。閏は無表情で、聞いているんだかいないんだかわからなかったが、青子は構わず続けた。

「蓮吾、言ってたよ。早く家族を守れるようになって、あなたを自由にしてやるんだって」

 そこへきて漸く閏は、表情らしい表情を浮かべた。驚きとも、困惑とも付かない奇妙な表情だったが、無反応よりは幾らかましで、青子の心は昂揚した。

「……蓮吾から、何か、聞いたのか……?」

「うん……お母さんのこととか、ちょっと……」

 閏があんまりじっと見つめるので、青子は気恥ずかしくなって視線を下げた。

「いい子だね。あなたに良く似てるよ」

 額に閏の視線を感じる。ほとんど無意識に、『嫌だな、前髪、変じゃないかな……』なんて考える。

「クラスの女の子達が放っておかないんじゃない?もう彼女とかいるのかな?いいなあ、中学校って楽しそう」

 動揺を悟られまいと、青子は努めて明るい声を出した。

「東中の制服、かわいいんだよね。友達がね、通ってたんだ。うちはブレザーだったから、セーラー服って珍しくて……」

 閏が何も答えないので、青子はだんだん不安になって、しまいには言葉を切った。二人の間に再び静寂が戻ってきた。

 開店前だからか、空調は中途半端な温度で、全体生ぬるかった。代わりにカウンターの傍では大きな扇風機が、設定を強にして回っていた。

 しばらくすると、天井に取り付けられたスピーカーから、チェット・ベイカーのバット・ノット・フォー・ミーが流れてきた。裏に引っ込んだ店長が、有線放送のスイッチを入れたのだった。少しして、曲はフランク・シナトラのマイ・ウェイから、ルイ・アームストロングのバラ色の人生に変わった。

 やがて曲目がビッグ・バンド演奏によるチュニジアの夜に切り替わると、店長が気を利かせてエアコンの設定温度を二度ほど下げた。

「……あのさ、余計なお世話かもしれないけどさ……」

 涼しくなった頃を見計らって、青子は切り出した。気持ちを揺らしたくなかったので、視線はテーブルの上にこぼれたダイエット・シュガーの粒に張り付けたまま、動かさなかった。

「無理しないで、家を出れば……?」

 遠慮がちな口調は、真に自分らしくなかった。その時の青子には、自分というやつが、さっぱりわからなくなっていた。(いつもはずけずけものを言う方だし、他人の顔色をうかがったり、話している相手の心情を推し量ったりしない。遠慮や慎重ってうつるのだろうか?)

「いくら頭が良くたって、全教科一番なんて無茶苦茶だ。兄弟たちが心配なのはわかるけど、また倒れちゃうよ。そんなの、蓮吾だって都ちゃんだって、望んでないんじゃないかな」

「…………」

「なにも一生会えないってわけじゃないんでしょ?……私には、難しいことは分からないけどさ……このままじゃ良くないってことだけはわかるよ。道端で行き倒れるほどきつい生活なんて、いつまでも続くはずないよ」

 青子は親切心から忠告した。ふと顔を上げると、閏の顔面が茹で落花生みたいな色になっていて、ぎょっとした。

「ねぇ、顔色が悪いよ。寝てないんじゃない?本当に大丈……」

「……黙れ」

 閏は小さな、しかし鋭い声で、青子の心配を拒絶した。

「黙れよ……前にも言ったが、あんたには関係ない」

「私はただ、心配して……」

「余計なお世話だって言ってるんだ」

 閏はとげとげしい苛立った声で、戸惑う青子を黙らせた。

「無理をするなって?家を出ろって?……勝手なことを言うなよ」

 閏は荒んだ瞳で、憎しみさえこもっていそうな瞳で青子を睨み付けた。青子は彼の身の内から滲み出す気迫に恐れをなした。なにかとてつもない大失敗を犯したのだと気付いたが、後の祭りだった。

「……三番目の母親はうつ病持ちのネグレクトで、俺が万引きやって児童相談所に入れられている間、蓮吾と恵は五日も飯をもらえなかった。四番目の母親はギャンブル中毒で、借金のかたに六歳の亮をヤクザに売っ払ってとんずらした」

 許されたと思って、ついふらふらと入り込んだ立ち入り禁止の札の向こうは、決して足を踏み入れてはならない絶崖だったのだ。青子は大した深さでないだろうと高を括って、奈落の底を覗き込んでしまったのだ。

 青子の身の竦むのを見てなお、閏の告白は止まらなかった。

「五番目の母親は万年色情狂の変態女で、まだ十歳だった蓮吾に悪戯して刑務所行き。……想像できるか?家に帰ってみたら、弟が裸でベッドに縛り付けられてるんだ」

 その時、ラジオではチャーリー・パーカー氏による神懸ったアルト・サックス演奏が披露されていたが、青子の耳は閏の声より他の、音という音を一切失っていた。一筋の光明さえ届かない真っ暗闇に立ち、彼の声だけ聴いているような、奇妙な感じだった。

「一番可哀そうなのは蓮吾さ。俺がはじめて会った時、あいつはまるでっ……まるで、潰れたミートボールだった!実の母親に顔の形が変わるぐらい殴られて、血だらけの毛布に包まってた。今だから普通にしてるけど、あいつは昔、喋れなかったんだ。泣くことも、笑うことも、出来なかったんだ」

 膝に置かれた拳が、肩が、怒りと悔しさに震えている。呆然と見つめながら、青子は迂闊な口を、浅はかな考え方しか出来ない我が身を、ただただ呪っていた。また、やってしまった。また、やってしまったんだ……

「親父は頼りにならない。間違ってるってわかってるさ。長く続くはずがないってことも……だけど俺は、例えどんな汚い手を使ってでも、あの成金学校のトップに君臨し続けてみせる」

 閏の目は、もはや青子を見てはいなかった。青子の向こう側にいる、彼を苦しめてきた悪夢のような日々を、醜い大人達を、射殺さんばかりに睨め付けていた。

「あいつ等の幸せのためだったら、誰だって、何人だって、殺してやる」

 それは、自分自身に言い聞かせているようだった。青子の瞳から、こらえきれずに涙があふれ出した。「ご、ごめん……」

「私はただ、あんたが……」

「…………」

「……あんたが、しんどそうだったから……」

 馬鹿の象徴みたいな制服のスカートを握り締めて、青子は泣いた。恥ずかしくて、恥ずかしくて、顔が上がらなかった。

「っ……」

 入ってきた時より一回りも二回りも小さくなったような青子を残して、閏は足早に店を出て行った。

 やがて、青子の耳には再び音が戻ってきた。スピーカーから、ジェーン・バーキンのイエスタデイ・イエス・ア・デイが流れてきて、小太りの店長が少しだけ音量を上げた。彼は青子を慰めなかったが、追い出しもしなかった。構われないのを良いことに、青子はその店の開店時間まで、さめざめと泣き続けた。



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