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ナレソメ  作者: kaoru
はじめての冬
57/80

それぞれの対決



 この心胆を寒からしめる事件は、青子の胸にある教訓を刻み付け、雨霧家につかの間の平穏をもたらした。


 朝食のメニューは菓子パンかシリアルに。

 家の周りの落ち葉掃きは3日に1度。

 子ども同士の喧嘩には極力首を突っ込まない。

 自分でやれることは自分でやってもらう。手伝わせる。


 慌てず、騒がず、できることとできないことを見極めて、無理はしない。一度手を抜いてみると、良い具合に肩の力が抜けた。すると不思議なことに、それまでの混乱が嘘のように、ほとんどの事柄がスムーズに、すいすい運ぶようになった。青子の本気(マジ)切れにびびった子供たちが若干協力的になったことも、時短の大きな要因の1つだ。特にこの度の騒動の原因である都は、過剰なほどに青子の顔色をうかがっている。


「今日は青子、病院に寄ってから帰るからね」


 閏がインフルエンザで入院して早一週間。つまり、青子が雨霧家の一切を取り仕切るようになって一週間。

 ようやく学校に遅刻しなくなり、閏の見舞いに行ける余裕ができた。青子が食べ終えた朝食の食器を重ねながら告げると、都がずいっとテーブルに身を乗り出し、ぴょんぴょん跳ねる。


「うるくんとこ?都も行くっ!」

「だめだめ、インフルエンザだもん、うつったら大変。……恵くん、悪いけど都のお迎えよろしくね」

「おっけー」

「夕飯の買い物もしてくるから、ちょっと遅くなるかも」


 夕飯と聞き、雨霧家一の食いしん坊、強の双眸がきらりと光る。


「料理長!今夜の晩飯は?」

「宮木家秘伝のスペシャル麻婆丼。うまいぞぉ!」

「やり。新メニューだ!」

「兄貴かわいそ。食べ損ねた」


 律の呟きを受け青子は、それはどうだろう?と首をすくめる。

 あのリッチな病室から察するに、食事もさぞ豪華なものが出されているに違いない。キャビア入りお粥。高麗人参の栄養ドリンク。いい加減な発想がいくつか、脳内のスクリーンにぽやんと映し出された。


 上げ膳、据え膳の病院生活があまりに快適すぎて、いざ退院するとなったら、「家に帰りたくない」なんて言い出すかもしれない。


 などと青子は考えていたが、ところがどっこい。久しぶりの休暇を満喫しているだろうと思われた閏は、思いがけない災難に見舞われていた。


「事情を話したら、お前の身の回りの世話を買って出てくれたのだ」


 伯父に連れられてやってきたその女性は、カサブランカに薔薇の蕾をあしらった豪華な花束を胸に抱き、自信に満ち溢れた微笑みを浮かべて閏の前に立った。


「こんにちは閏君。お加減はいかが?」

「鷹司さんっ……」


 なぜここに……という疑問に対する答えは、前述の通りである。


「すみません。だらしない格好で……着替えますので、少々外でお待ちいただけますか?」


 午睡から目覚めたばかりで油断していた閏は、伯父のわざとらしい咳払いで我に返り、慌てて御曹司の仮面を被りなおした。閏が扉の外までエスコートしようとすると、百合絵はその腕をやんわりと押し返す。


「そのままで結構ですわ」

「しかし、パジャマ姿というわけには……」

「恥ずかしがらなくてもよろしくてよ、あなたは病人なのですから。それになんと言っても私は未来の妻ですもの。他の誰に見せられない姿でも、私には見せられる。そうでしょう?」


 ちょん、とかわいらしい仕草で小首を傾げて見せる百合絵に、閏は曖昧な笑顔を返した。


「……すみません、鷹司さん。やはりしばらく、外で待っていていただけますか?」

「まぁ、どうして?私は気にしませんのに」

「わかりませんか?相手があなただからこそ、情けない姿を見られたくないのです」


 両手で百合絵の肩をそっと包み、営業用の上品スマイルで説き伏せる。すると百合絵はほんのりと両頬を桜色に染め、「そういうことなら……」とそそくさ退室した。閏は、一緒に部屋を出ていこうとする昴を捕まえて小声で詰め寄る。「昴さん……!どういうことですか……!」


「どうもこうも、言葉の通りだ。お前1人のために何日も病院のスタッフを拘束するわけにはいかないからな」

「なら、今すぐ退院します!」

「バカ言うな、インフルエンザなんだぞ。そこら中に菌をばらまくつもりか」


 昴は閏の主張をにべもなく却下した。


「この機会に、百合絵さんと親睦を深めなさい。お互いのことを良く知らないから、婚約破棄などという馬鹿げた発想が生まれるんだ。きちんと向き合えば、案外馬が合うということもある」

「そんな……話が違います!俺は……俺には他に、思う人が……」

「例のアオコとかいう女のことか……ふんっ、馬鹿馬鹿しい。悪いが私には子供の恋愛ごっこに付き合っている暇はない。お前も、そんなくだらない事に現を抜かしている暇があったら、もっと他にやるべきことがあるだろう」


 昴は冷然とした態度で、ずばりと指摘した。


「お前はもっと利口な人間かと思っていたがな」

「待ってください!話を聞いてください!」


 言い捨てて立ち去ろうと昴の袖を、閏がわしとつかむ。


「恋愛ごっこなんかじゃありません!俺たちは真剣でっ……」

「しつこいぞ。弟たちのために、どんな犠牲も厭わないと誓ったのはお前自身だろう。これまでの血の滲むような努力を忘れたか?すべて水の泡にするつもりか?」


 厳しい口調で問えば、閏は今にも泣き出しそうな顔で唇を引き結んだ。卑怯な伯父さんは、甥っ子が家族のことに言及するとたちまち声を失くしてしまうことを知っているのだ。

 いつもなら昴の顔色をうかがってこの辺で諦めるのだが、俯いて床をにらむ閏の頭上には、「でも」と「だって」がまとい付いている。昴は人差し指と中指で眉間を揉み、いらいらとため息を吐いた。


「いい加減に目を覚ませ。本当に大切なことは何か、その胸に問いかけてみろ。お前がとるべき選択は、お前自身が一番良く分かっているはずだ」

「…………」

「それとも、逃避したいほど現実が辛いか?餓鬼どもの相手に疲れて、息抜きがしたくなったか。……それなら話は簡単だ。私が適当な相手を用意してやる。あんなどこにでもいる女子高生などではなく、同盟やギブ&テイクを理解できる、頭の良い女をな」


 閏は弾かれたように顔を上げ、自分によく似た顔だちを、ふてぶてしいまでに感情の見えない眼差しをまじまじと見つめ返した。


「?……調べたんですか……?」

「だったらなんだと言うんだ」


 挑戦的に問い返され、閏の瞳に怯えが浮かぶ。少年らしくほっそりと尖った顎が、小刻みに震え出した。震えはやがて全身に広がり、医師である昴に怪訝顔をさせた。


「止めてください……彼女に何かあったら俺は……いくらあなたでも……」


 掠れた声で、ぽつん、ぽつんと紡ぎ出された言葉に驚いたのは、閏自身だった。その先の台詞を直前で飲み込んだのは、鍛え抜かれた理性の賜物だ。激しい困惑と不安に、閏の瞳は上下左右に忙しなく揺れた。


「べつに、何もしやしない。お前の交友関係の調査など、いつもやっていることだ」

「……すみません……俺、どうしてこんな……」

「これ以上、つまらない話で煩わせるんじゃない。この話はこれっきりだ。わかったな?」


 昴は一方的に話を打ち切ると、放心する閏を残して足早に部屋を出て行った。入れ違いに、百合絵が入ってくる。


「まだ着替えていらっしゃいませんの?メイドを呼んで手伝わせましょうか?」

「はぁ……いえ、結構です。やっぱりこのままで」

「そう?なら、早くベッドに戻った方が良いわ。顔が真っ青よ。今、事務所に電話して温かい飲み物を持ってこさせますから。……そこのあなた、大至急加湿器を用意なさい。この部屋は乾燥していて、病人には良くないわ」


 百合絵は弾んだ声で、はきはきと采配を揮った。


「食べたいものがあったら、なんでも仰ってね。我が家のシェフを連れて参りましたの。キャビア入りのお粥なんてどうかしら?うふふ」


 百合絵のとんちんかんな提案に、どっと体の力が抜ける。このわずかの間に熱が上がったみたいだ。閏は細く時間をかけて息を吐き切ると、旱魃(かんばつ)に雨を乞う農民のような気持で、静かに天井を仰いだ。




 単位を獲得するためだけに出席した退屈な授業を消化し、意気揚々とやってきた青子を出迎えたのは、白衣を身に纏った長身の医師だった。


「やあ、待ってたよ」


 にっこりと細められた瞼の奥の、氷のように冷たい瞳が青子を捕らえる。青子は昴が発する不自然な空気に気付かず、親しい友人に再会した時のように相好を崩した。


「昴ちゃん、こんにちは」

「こんにちは。今日は寒いな」


 ととと、と青子が駆け寄ると、昴は白衣のポケットに突っ込んだ両手を取り出し、穏やかな仕草で青子の肩から荷物(お見舞いのスポーツドリンク、都のお便り他)を奪った。


「君を待っていたんだ。これから少し話さないか?宮木青子くん」


 きょとんとする青子の返事を待たずに、昴はロビーの真ん中を突っ切るように歩き出した。青子は訳が分からぬまま、小走りに後を追いかける。堂々とエレベーターに乗り込む2人を、物見高い女性職員たちが受付カウンターの中から見送った。


「待って昴ちゃん。私、これから友達のお見舞いに……」


 扉が閉じられた狭いエレベーターの中。迷わず最上階のボタンを押そうとする昴に、青子がストップをかける。昴は青子をちらりと横目で見て、


「特別個室の患者なら、面会謝絶だ」


 と告げた。


「インフルエンザだからな。当然だ」


 なあんだ、そういうこと。

 青子は安堵し、そういうことなら仕方がないと、昴に付き合うことにした。


 青子が連れて行かれたのは最上階の、院長室だった。勝手に入っちゃって良いの?と思った青子だが、昴は青子の戸惑いには気付かず、ずんずん中に入っていく。逡巡の後、青子も続く。壁際をゆっくり歩いて、エレガントな室内をしげしげと見まわした。


「コーヒー淹れるよ」


 昴はソファに青子の荷物を置き、ネクタイを緩めて、袖をまくった。大人の男性のそういう仕草を見慣れていないので、なんだか新鮮で、視線がくぎ付けになった。青子の珍しそうな眼差しに気付くと、昴は少し気恥ずかしそうに、片眉をくいっと持ち上げた。


「どうぞ。ミルクと砂糖は?」

「このままでいい」

「へー、大人」

「む……昴ちゃん、バカにしてるでしょ」


 顎をそらしてかかかと笑う昴をじろりと睨み、青い花柄が美しいマイセンのカップに口を付ける。舌の上で味わってみて、おや?と思う。病院の院長先生なんかが飲むのは高級なやつかと思ったら、存外チープな味がした。この部屋の主は、豪華な内装に似合わず、倹約家なのかもしれない。


「格好良い彼氏だな」


 青子がカップをソーサーに置いたところを見計らって、昴が切り出した。


「この間、一緒に来ていただろう?垂れ目でこう、髪の毛がカールした……」

「ああ、龍太郎のこと?べつに、彼氏じゃないよ」

「隠さなくてもいいだろう?私と君の仲だ」

「本当に違うんだって。わけあって、一緒に住んでんの。弟みたいなもんだよ」


 青子はけらけら笑って、純然たる事実を告げた。


「あいつ、付き合ってる女の子いっぱいいるんだ。別れたって言ってたけど、本当のところはどうかな?」

「……そうか……」

「昴ちゃんは?付き合ってる人とか、いないの?」


 青子が問い返すと、昴は虚を衝かれたように目を丸くした後、苦笑した。


「わかってるくせに」

「まあね、あの部屋じゃね。……結婚は?考えたことないの?」

「ない」

「ぜんぜん?」

「ぜんぜん」

「ふぅん?案外もてないんだ、お医者さんって。じゃあ、家族は?兄弟はいる?」


 青子が何気なく尋ねると、カップを口に運ぼうとした昴の手がピタッと止まった。昴はカップをソーサーに戻すと、長い足を組み、両手で膝を抱える。


「甥が1人」


 じ、と青子の目を正面から見つめて、徐に告げる。


「?甥御さん?」

「ああ。君と同い年だ。魁星学園に通ってる」

「へー!じゃ、頭いいんだ?」

「さあ、どうだろうな。……少なくとも、利口とは言えんな。騙されているとも知らず、たちの悪い女に入れあげている。どうしようもない愚か者だ」


 昴は軽蔑を含んだ声で言って、青子は気のない相槌を打った。なんとなく、首を突っ込んだらいけない気がして、それ以上の質問は避けた。そんな青子の腹の内を探るように、昴は彼女の一挙一動をつぶさに観察する。


頬にかかった長い髪を、すっと耳にかける。

両手を膝に置いたまま、背中だけをぐーっと伸ばし、はぁっと気を抜いて、背もたれに沈む。

コーヒーカップをテーブルの上で一回転して、そこに描かれた絵柄を楽しむ。


「……止めよう。参った、降参だ」


 昴は1度諸手を頭の両脇に掲げ、その勢いでたんっと両ひざを叩いた。


「恐れ入ったよ。君は若いが、大した女優だ」

「?女優って?」

「とぼけるのは止してくれ。もうすっかりばれてるんだ」


 青子が瞳に疑問符を浮かべると、昴は苦虫を噛み潰したような顔をした。昴は短く1つ息を吐いて心を整えると、立ち上がって青子の隣に座りなおした。背もたれに腕をかけて、青子の方に体を寄せる。


「なにか、困っていることがあるんだろう?」

「ええー?」

「かわいい顔して、悪女だな。私の目を欺こうとしても無駄だよ。打算的な人間は臭いでわかる。我々はそういう風に訓練されているんだ」


 覆い被さるように至近距離で凄まれて、青子は膝の上できゅっと拳を握りしめた。打ち明けようかどうしようか迷っている風に、唇を指先でつまむ。もうひと押し……


「どうした?正直に言ってごらん。条件次第では、聞いてやらないこともないぞ」

「…………」

「私と君は友人だ。私が君を助けたいと思うのは当然だよ。そうだろう?」


 策略を見透かされ、いよいよ観念した青子は、胸の中の息を残らず吐き切って項垂れた。「すごいね、昴ちゃん……」


「どうしてわかったの……?私が、困ってるって……」


 そーらきた。

 疑いが確信に変わると、手足からゆるゆると力が抜けていく。大きな手で顔面を、額から顎に向かって拭うように撫でた。憎しみはなかった。代わりに木枯らしに吹かれがような寂しさが胸に広がった。


「わかるさ。君のことだもの」


 ため息交じりに呟いて、彼女から距離を取る。

 ボンド映画みたいなセンセーショナルな出会い。真夜中の再会。掃除に手料理、携帯番号。なんと鮮やかな手口だろうか。認めたくはないが、憎からず思っていた。彼女の顔を思い描くとき、名前の付けられない淡い感情が、いつも心を苛んでいた。


―――あいつ、付き合ってる女の子いっぱいいるんだ。


 先ほどの彼女の台詞が、鼓膜によみがえる。なんでもない顔をして、切ないことを言うのか。加害者である彼女も、ある面では被害者なのだ。


(嘆くことはない)


 囁いて、胸につかえているものを飲み込む。

 たかだか女子高生のおねだりくらい、かわいいものだ。金銭でもなんでも、それで彼女の望みが叶うなら、結構なことじゃないか。


(楽しかった)


 甘酸っぱい思い出などとは無縁だった青春時代を、取り戻したようだった。貴重な経験をさせてくれた彼女に感謝を込めて。騙したとか騙されたとか言うんじゃなく、友達として、喜んで協力しよう。


「……それで?君は私に、何をしてほしいんだ?」

「なんだか悪いな……本当にいいの……?」

「もちろん。私にできることなら」


 青子はぱーっと顔を輝かせて、荷物の中から一冊のノートを取り出した。「じゃあ、はいこれ!」


「?なんだいこりゃ?」

「何って、ポルカの振り付け。苦労したんだから」


 青子は朗らかに告げて、メランコリーな気分に浸る昴を困惑の渦中に突き落とした。元は英語の授業に使用していたであろうノートには、確かにポルカの振り付けが描かれていた。手書きのかわいいイラストの上に、ここでターン!と記されているのを見て、昴はますます混乱した。


「良かったー。誰も練習相手になってくれなくて、困ってたの!みんな恥ずかしがっちゃって」

「…………」

「インターネットに動画があるから、今度来る時までに覚えておいてね!」


 ポルカ被害、拡大中。









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