お見舞いに行こう
翌朝。青子は龍太郎と共に、閏が入院しているという、光命会病院に向かった。
「宮木様ですね。うかがっております」
受付で尋ねると、事務室の奥からスーツにネクタイの男性が現れて、二人を目的の部屋まで案内した。
閏の病室は三階の、政治家や芸能人が多く利用する、特別個室と呼ばれる部屋だった。
一般患者の病室とは階が分けられており、VIP専用のエレベーターを降りた先には、ホテルのような長い廊下が延びている。
「最近では、女優の中田貝美紀様がお泊りになられました」
完璧な空調と照明。不快な消毒薬の臭いもしない。ネイビーブルーの壁には、窓がない息苦しさを解消せんと、何枚かの風景画が飾られている。ショーケースに収められた縦長の頭彫刻は、モディリアーニのなんと真作だと言う。
参考までにたずねたところ、一日のベッド代は二十うん万円だそうだ。
「こちらになります」
「んじゃ、俺はここで待ってるから」
いざとなって龍太郎が入室を拒否したため、青子は仕方なく、一人で閏を見舞うことにした。
ドキドキしながら扉をノックすると、中から『どうぞ』という返事が聞こえてくる。
「……すいませんが、少しだけ待っていてください。もう終わりますから」
閏は恐る恐る部屋に足を踏み入れた青子に、借り物のノートパソコンから目を上げずに言った。彼は上半身を起こし、ベッドテーブルで作業をしていた。光沢のあるシルクの白いパジャマを着て、肩にベージュのカーディガンを羽織っている。
フレームレス眼鏡の奥の瞳が真剣なので、声をかけるにかけるにかけられず。青子は扉の傍に突っ立って閏の作業が終わるのを待った。
「…………」
ブラウンを基調としたシックな室内には、各界の要人を満足させるための、様々なアイテムが備っている。
重厚感のあるチェスターフィールドソファに、猫足がエレガントな無垢材のコーヒーテーブル。典雅な花瓶に活けられた紫の薔薇は、アフリカはケニア共和国より空輸されたその名も《ナイチンゲール》。木目が美しいダークブラウンの壁にはテレビの他に大型の水槽が埋め込まれ、鮮やかな水草が揺蕩う水底で全長四十センチもあるセネガルスのプラチナ個体が静かに息を潜めている。ボタンを押すだけで本格コーヒーや紅茶が楽しめるドリンク・バーまであって、正に至れり尽せりといった感じだ。
「お待たせしま……!?……青子!?」
閏は来客の正体に気付くと、驚き、慌てて床に足を下ろした。立ち上がった途端によろめいた閏を、青子の手が支える。
「悪い、気付かなくてっ……来てくれたんだ」
「当たり前でしょ。心配したんだからね」
青子がつんとして言うと、緊張で強張っていた閏の顔に笑みが広がる。姑はちゃんと約束を守ってくれたようだ。閏は胸の中で合掌した。(ありがとう、お母さん!)
「ごめんね、ちょっと、怒り過ぎたよね。……許してくれる?」
手を借りてベッドに戻った閏に、青子はしょんぼりして詫び入った。
「俺が悪かったんだ、本当に……どうしてあんな馬鹿なことをしたのか……」
「ん……わかってる。体調が悪かったんでしょ?あなたは直ぐ我慢しちゃうから」
青子はとんちんかんなことを言って、閏を驚かせた。誰がどう見ても閏が悋気をこじらせたせいだが、青子にしてみれば(閏が嫉妬?まさか!)という感じなのだった。
「子ども達のことは何も心配いらないから、ゆっくり休んで。いつも元気なうる君が弱ってると、心配になっちゃうよ」
誤解を解くべきかどうか迷う閏に、青子は小さい子どもを励ますように言った。その甘い響きに、ジレンマも忘れて胸の奥がきゅんとなる。
「寝ぐせが付いてる」
青子は止めに、うふふと笑って閏の頭に手を伸ばした。跳ねた部分を繰り返し、掌で押さえるように撫で付ける。
こそばゆい感触。心臓が鷲掴みされたみたいに、どっくん!と大きく収縮する。鼓動はどんどん速くなり、まるでマーチング・バンドのドラムロールのように気忙しく脈打った。血液が顔面に集まる。
「うる、大丈夫……?顔真っ赤だよ。看護婦さん呼ぶ?」
「へいきっ……へいきだから……」
もう少しだけ、このまま……
(……気持ちいい……)
それに、とっても良い匂いだ。
閏はしばらくの間、手の平が頭の上を行き来する感触に身を委ねていた。
ぬるま湯に浸っているような幸福感は、ほんの半年前まで、自分には生涯無縁だと思っていたもの。惜しみない愛情を注がれる心地よさも、溢れんばかりの母性に包まれる安心感も……
「んっ……んんっ……」
愛する人と唇を合わせる恍惚も……
「青子、だめっ……」
「…………」
「風邪うつっちゃ……んむっ……」
一度知ってしまえば、もう二度と元の自分には戻れない。繋ぎとめたい。失いたくない。触れ合う度に、凶暴な本性が目覚めていく。
「は、あっ……っ……」
濃厚な口付けの後。
青子は枕に背を預けてぐったりする閏の様子を観察した。
切な気に寄せられた眉。熱に浮かされたような眼差し。唾液に濡れた半開きの唇。赤い顔でハアハアと息を荒げる閏は、凄まじい色気だ。目脂が付いていないかとか、鼻水が垂れてないかとか、粗探ししてみたが、青子が期待したような綻びは見当たらなかった。
仕返しにならないどころか思わぬカウンターパンチを食らって、青子は狼狽えた。押さえ付けていた肩から手を放し、ベッドに乗り上げた片膝をおろす。
「じゃあ私、そろそろ行くね!」
「待って、青子っ」
「お大事に」
青子は急に恥ずかしくなって、お見舞いの自家製梅酒ゼリーを置いて、そそくさと部屋を出た。廊下のカウチで転寝していた龍太郎を叩き起こし、ぐいぐい腕を引いてエレベーターに急ぐ。
「どうだった?」
エレベーターの扉が閉まり、はあやれやれと息を吐いたところに質問攻撃を食らい、青子はほとんど心臓が止まるほど驚いた。
「えっ……!?ど、どうって?」
唇の感触とか?髪の毛の手触りとか?
「?あいつの具合。荷物とか、なんか必要な物ありそうか?」
「あーっ!……うん!なんか、大丈夫そう!」
青子は今し方見てきた部屋の様子を思い出しながら答えた。
ここには食事も着替えも最高級の物が揃っているし、看護師さんや天幸寺の家の人達が、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。青子が心配することなんて何一つなさそうだ。
「だから言ったろ。あいつはあれで日本一のぼんちなんだから」
こんなに急ぐことなかったんだよ。龍太郎はあくびを噛み殺して述懐した。
彼の言う通り。中身があれなので忘れがちだが、天幸寺閏はブルジョアである。やんごとなき家柄に生まれ、次世代のカリスマとなるべく幼少より英才教育を受け、心身とも健やか且つ清らかにお育ちあそばされた正真正銘の貴公子。朝食はクロワッサンとブルーマウンテン。湯上りはパイル地のバスローブとストレート・オレンジジュース。口に入る野菜はすべて有機栽培だし、人絹なんて着たことない。
誤解がないように言っておくが、これ等はあくまで設定の話だ。
雨霧家の食卓はフリーズドライのオンパレードで、たまの外食と言えば牛丼かハンバーガー。閏本人はジャンクフードをこよなく愛している。どのくらい好きかって言うと、ポテチをおかずにご飯が食べられるほどだ。洋服に関してもそう。襟付きのシャツも持っているのに、楽だからと言って寝る時はいつもよれよれのTシャツを着ている。靴下に穴が開いてたってへっちゃらだ。
実物と違い過ぎて臍が茶を沸かすイントロデューション。
話半分に聞いていたが、こうして実際にお坊ちゃまぶりを目にすると、ジョークでも何でもなかったことに改めて気付かされる。出会いからしてしっちゃかめっちゃかな二人は、実はまだお互いのことを良く知らないのだ。
手作りの梅酒ゼリーは愛情たっぷりとは言え、パティシエが作った一粒二千円のショコラには到底敵わない。今までいろんな料理を振る舞ってきたけど、本当はぜんぜん喜んでなかったりして……
「なんだかなぁ……」
「?なんか言った?」
「ううん。……私、ちょっとお手洗い。ロビーで待ってて」
「早くしろよー」




