ママという名の天罰
香苗が慣れない看病に孤軍奮闘しているその頃。
始業時間ぎりぎりに登校した青子は、気もそぞろに一時限目の授業をやり過ごした。
出掛ける間際の様子を思い出し、心配を募らせる。
女だてらに外で働くことに生きがいを見出し、忙しくも充実した日々を送っている青子の母、香苗は、家の仕事があまり好きではない。昔はそこそこ料理もしていたようだが、父が亡くなり、家事全般を青子が担当するようになってから、彼女がキッチンに立つことはほとんどなくなった。青子の記憶によれば、最後に彼女の手料理を食べたのは、一年近くも前のことだ。
そんな彼女が果たして、生米からおかゆが作れるのかという……
(心配だなぁ……)
青子は教師に見付からないよう、机の下でスマートフォンを操作した。ショートメールで香苗に、体温計がしまってある場所と、最寄りの病院が開く時間を送信する。返信はなく、人知れずため息を吐く。
今頃は足りない物を探し回って右往左往している頃だろうか……
(私のせいだ……)
青子は閏から送られた無慮数十通の謝罪文を読み返し、意地を張ったことを猛省した。
池に落ちたくらいで大騒ぎして、理由も聞かずに怒って……我ながらなんて心の狭い女だろう。恋人を死の淵に立たせるなんて言語道断。まして雨霧家の実質の大黒柱兼子ども達の生命線である長兄の健康は、彼個人の問題ではない。
こんなことになるのなら、引っ叩くなり奢らせるなりして、さっさと許してあげれば良かった……
陰陰滅滅とした気分を遮るように、授業終了のチャイムが鳴り響く。
(そうだっ……蓮吾に電話)
スマートフォンを持って席を立った青子だが、教室を出ようとしたところで舞香と良子に捉まった。二人は青子を人気のない階段下に引きずり込み、鼻息も荒く詰め寄る。
「昨日、閏君に送ってもらったんでしょ?ね、どうだった?」
「ど、どうって……?」
「とぼけちゃって!今更誤魔化せると思ってんの!」
「そうだよ。怒んないから、言ってごらん」
舞香と良子は「青子が今朝遅刻した理由」を勘繰り、問い詰めようと、授業が終わるのを今か今かと待ち構えていたのだった。
「閏君、ずっと青子のこと目で追ってたもんね。あつーい視線でさ」
「アオもとうとう大人の仲間入りかー。今度一緒にかわいい下着、買いに行こうね」
舞香と良子は感慨深い口調で言って、青子を不思議がらせた。「?なんの話?」
「「したんでしょ?エッチ」」
「なっ……ななななに言ってんの!!?」
青子は素っ頓狂な声を上げ、通りすがりの男子生徒をぎょっとさせた。
「え?うそ、まだなの?」
「当たり前じゃん!」
「じゃあ、なに?まさか、送ってもらっただけ?何もなかったの?」
「それはっ……」
刹那、青子は情熱的な口付けを思い出し、耳まで赤く染め上げた。なにかありましたと言っているようなものだったが、青子はあくまで白を切り通した。「……そうだよ……送ってもらって、ちょっと話しただけ……」
「それにあの人、彼女いるよ……同じガッコの人」
「え?そうなの?」
「そうなの。……もう、いいでしょ。私、ちょっとトイレ」
一方的に会話を打ち切り、逃げるように去って行く青子の背中を、舞香と良子は困惑気味に見送った。
二人と別れた青子は宣言通りトイレで時間を潰し、頃合いを見て教室に戻った。舞香と良子の心配そうな視線に気付かぬふりをして、何食わぬ顔で席に付く。隠し事をする罪悪感は、思い切って無視した。
(……不思議……)
私って、こんなに簡単に嘘を吐ける人間だっけ?
舞香も良子も大切な友達。以前は何でも相談できたのに、今は肝心なことを話そうとすると、喉にピンポン玉が詰まったみたいに言葉が出て来ない。
(……自分が自分じゃないみたい)
恋の前には女の友情なんて!と、訳知り立てに語る大人びたクラスメートを斜めに見て、「自分は絶対ああはならない」なんて思っていた。様はない。蓋を開ければ、完全にどつぼにはまってる。恋人がいる男の子に横恋慕するなんて、一年前の自分には考えられなかった。
間違ってるってわかっているのに、気持を止められない。どんどん好きになる。秘密が増えて行く。
誰にも言えない恋は、密やかに進行中。
午前中泥のように眠り、午後一時を少し過ぎた頃。
閏が目を覚ました時、宮木家のリビングでは熱帯雨林の気候が再現されていた。
ぶううんと頭上で唸るエアコン。持ち込まれた石油ストーブの上では湯が焚かれ、枕元では涙型の加湿器が、絶え間なくバラの香りのミストを噴き上げている。
暑い……
閏はなによりもまず、身体にかけられた羽毛布団と毛布をいっぺんに剥がした。頭を持ち上げると、後頭部がびっしょり濡れていることに気付く。見れば氷枕の口金の隙間から、水が漏れ出していた。
「???」
奇妙なのは、周りの様子だけではなかった。
飲み過ぎた翌朝のように目が回る。上半身を起こそうとしたが、力が入らず、うまくいかない。全身汗だくなのに、背筋がぞくぞくする。
「あ、起きた?……良かった目が覚めて。もう少しで救急車呼ぶとこだったわ」
これは一体なにごとだ……?
閏がきょときょとしていると、キッチンの向こうからTシャツ姿の香苗が顔を出した。
だんだんと状況を思い出してくる。
昨日、無茶をして青子を怒らせ、許しを得るまでは帰らないと宮木家の玄関前で座り込みを決行し、今朝やっと面会が叶ったところで、眠気に負けてしまったのだ。
「どう?具合は」
「……くさいです……」
それになんだか、胸の辺りがひりひりする……
「にんにくを塗り込んだの。鼻風邪に効くのよ」
閏が力なく訴えると、香苗は得意気に説明した。
なるほど、この眩暈は熱のせいか。どうりでふらふらすると思った。
「あの、青子……じゃない。青子さんは?」
身を起こすと同時に、額にいくつも張り付いたアロエのスライスが一枚、ぺろっと剥がれ落ちる。
「まだ学校。……はい、これ飲んで」
「?……なんです?これ」
「生姜湯よ。のど風邪にはこれよ」
閏は勧められるままカップを受け取り、飲み物とも思えない、おぞましい色の液体に恐る恐る口を付けた。
「げほっ!……げほっ、ごほっ!」
筆舌に尽くし難い味が口内に広がり、ごくりと嚥下すれば、喉に焼け付くような痛みが走る。噎せ返って激しく咳き込む閏に、香苗がのんきに言う。
「あ、辛過ぎた?……変ねえ、作り方間違えたかしら?」
「……お母さん、わざとやってませんかっ……」
胡散顔で睨まれても、香苗はどこ吹く風といった様子だ。
(まあ、いいや……)
閏は一つため息を吐き、早々に思考を打ち切った。身体がだるくて、文句を言う気力がないのだ。
今は生姜湯の成分を追及するより、一秒でも早くこのアマゾン奥地みたいな部屋から抜け出したい。べたつく汗と、充満した湿気と、にんにくの臭気が、体調不良でただでさえ低下した体力を急速に奪っていく。
(?……うん?)
キッチンに戻ってがちゃがちゃしている香苗に、シャワーを借りられないか尋ねようとしたところ。閏は自分が見覚えのないスウェットを着ていることに気が付いた。まさかと思ってズボンの中を確認し、ぎくりとする。股間を包み込むジャングルの王者もびっくりの豹柄マイクロビキニ。時々冗談半分でこういうものを贈って寄越す女性がいることは知っている。多くが身に付けることなくタンスの肥やしになることも……
「???……?」
閏は錯乱した。今朝意識を失う直前までは確かに、運転手の山崎さんの息子さんに借りた「今っぽい若者の服装」に身を包んでいたはずだ。当然、自分で着替えた記憶はない。
赤くなったり青くなったりしている閏を、香苗が生温かい眼差しで一瞥して、ひと言。
「安心しなさい。(下着は)新品だから」
キャ―――ッ!!
「あうっ……あうっ……」
「仕方ないじゃない。青子にやらせるわけいかないでしょ」
「~~~っ!!」
「地毛は金髪なのねー」
―――チーン!
ガラスハートに追い打ちをかけるように、電子レンジが調理を終えた。燃え尽きて灰になった閏を、香苗が豪快に笑い飛ばす。
「いいじゃないの、減るもんじゃなし。小さなことでくよくよしない。男でしょ」
「はぁっ……。?あの、それは……?」
「味噌粥。これ食べて元気出しなさい」
香苗は勿体ぶって土鍋の蓋を開けて見せた。
味噌ベースのだし汁で煮こまれた米。斜め切りにした根深ネギが散りばめられ、冷凍のから揚げが、三つ子岩みたいに沈んでいる。
ネギが生っぽいが、見た目は普通だ。
「……いただきます」
鼻を蠢かす香苗に食欲がないとは言えず、さりげなく臭いを確認してからひとくち口へ運ぶ。
(!?これはっ……!!)
口に入れた瞬間舌の上に広がる素朴な味に、激しい既視感を覚える。
日本人なら誰でも一度は食べたことのある、最もポピュラーな料理の融合。即ち、冷やご飯に煮詰まったお味噌汁をぶっかけて食べるアレ……
「おいしいれす……」
「いいわよ気を遣わなくて。わかってるから」
閏は芯が残るご飯をカリコリ噛み砕きながらやけくそ気味に感想を述べ、香苗を苦笑させた。
「やっぱり青子みたいにはいかないわねー。見よう見真似で作ってみたんだけど」
香苗は閏の手からちりれんげを奪い、自分も一口食べて、「げ。まじぃ」と顔を顰めた。
それから閏は時間をかけて、味噌粥という名の猫まんまを半分ほど腹に収めた。
香苗はその間、ダイニングチェアにだらしなく腰掛け、病人のために調合した酒精きつめの卵酒をちびちび舐めていた。少しするとつまみが欲しくなり、冷蔵庫から魚肉ソーセージを出してきてかじった。
いい感じに酔いが回った頃……
「あなたさ、青子のどこが好きなの?」
二本目のソーセージに手を伸ばしながら、リビングを支配する奇妙な沈黙を破って、香苗がたずねた。
「なんですか?いきなり……」
「いきなりじゃないわよ。ずっと不思議に思ってたの。だってあなた、見るからに女の子にもてそうじゃない。どうしてうちの娘なの?」
閏は土鍋を脇に置くと、布団の上で居住まいを正し、神妙にした。
二人の交際を認めて貰うためにも、ちゃんと答えなければ……
そう思うのに、熱のせいか暑さのせいか、「どうしてもこうしてもない」なんて身も蓋もない切り返ししか頭に浮かんでこない。
めまぐるしくあれこれ考え過ぎて首を捻る閏に、心気が湧く。「もう、いいわよ。無理に答えなくて」
「青子はねぇ、親の私が言うのもなんだけど、良くできた娘なのよ」
香苗はちっと舌打ちして、閏に言い聞かせるように、親馬鹿然として言った。
「がさつな私と違って几帳面で、気配り上手で……私の理想の女の子なの。わかる?」
「はあ……ええ、はい。わかります」
絡まれた閏は内心で(参ったなぁ)と思いながら、適当な相槌を打った。足を崩すふりをして、素早く石油ストーブのスイッチを切る。少しずつ気温が下がってきて、はあやれやれと思う。
香苗は閏の不審な動作に構わず、調子よく続けた。
「……小さい頃は不器用だったのよ。同い年の子ども達より、なんでも少し遅かった。靴ひもが結べないとか、ボタンが一人でかけられないとかね。折り紙が上手に折れないって、幼稚園から泣いて帰ってきたこともあったわ。……でも、いつの頃からかな……仕事で忙しい私の代わりに家事をするようになって……今じゃ炊事も洗濯も、私より全然上手。私はあの子に頼りっ放しなの」
椅子の背に頬杖を付き、ほぅ、と酒気を帯びたため息を吐く。伏し目がちな横顔が青子にそっくりで、少しドキッとする。
「正直言うとね、あなたには少し感謝してる」




