麦畑と私
「なにがピルスナービールよ!未成年のくせに!」
閏の急追をどうにか振りきり浴室に駆け込んだ青子は、ぐっしょりと濡れた衣服を洗濯機に放り込みながら怒り心頭を発した。
三つ編みを引っ張ったり、靴下の穴を披露したり、ソフトクリームを横取りしたり、つまらない悪戯ばかりして……
「子供なんだから!」
閏にしてみれば、軽いスキンシップのつもりだったのかもしれない。恋人同士のじゃれ合いと思えなくもない。意外な一面を垣間見られてラッキー!なんて喜んだのも事実だ。
しかし……
「私は彼女じゃなかったの……!?する!?普通!」
百歩譲って小さな悪茶利は見逃すとしても、デート中の寒中水泳はいただけない!
池に飛び込む一瞬、頭に浮かんだのは、テレビのバラエティ番組で見たスカイダイビング映像だ。
地上三千八百メートル。タンデム用の装備を背負った外国人インストラクターと、ハーネスで繋がれた逃げ腰の女性リポーター。緑豊かなグアムの大地と、果てしなく続く雲海。白光に包まれた地平線をバックに、泣きの入ったリポーターの懇願を無視して、いざ紺碧の空へ……レディ、セット、ゴー!
おかげで友人には、希代のどじっ子認定されてしまった。これでもご近所では、「しっかり者の青子ちゃん」で通っているのに……
(信じらんないっ……!!)
湿ったジーパンと靴下を苦労して剥ぎ取り、くしゃみを二回して、やっとシャワーを浴びられる状態になったところで、奇跡的に壊れなかったスマートフォンがぶるぶると震え出した。青子は怒りに任せて、即座に端末の電源を切った。
頭から熱い湯を浴び、人心地がついても、青子の怒りは一向に治まらなかった。
御機嫌取りの強引なキス。
魂胆はわかっているのに、どきどきしてしまう自分が悔しい。火傷しそうなほど熱い舌の感触を思い出せば、膝が震えて、へたり込みそうになる。
当時の青子は、とても恋人の唇を受け入れられるコンディションではなかった。義弟が選んだ甚だしく野暮ったいファッションに身を包み、ぶっとい三つ編みに枯葉や小枝をくっ付け、唇を寒さで紫色に染めて……
閏が見てくれに頓着がないのは知っているけれど、こちらは切ったり貼ったりが不可欠な一般人である。デフォルトで準備万端なパーフェクト・マンと一緒にしないで欲しい。
だいいち、ああいうのはもっとロマンティックなシチュエーションと言うか……そういう雰囲気の中でするものだ。
(でも……)
ちょっと、怒りすぎたかな……
「……だめだめ、簡単に赦しちゃ!」
見え見えの懐柔策に絆されると思ったら大間違い。乙女の唇を弄んだ罪は重いんだから!
憂さ晴らしに豪華な昼食を作って食べ、テレビのリモコンを片手に鬱々とした午後を過ごした。スマートフォンの電源を入れる気にはなれなかった。
夕方になり、青子が自室でふて寝していると、雨霧城から凱旋した義弟がご機嫌で青子の部屋の戸を叩いた。
「たっだいまーっ!Wie geht es Ihnen?」
「!?お酒臭い!……もう!飲み過ぎちゃだめって言ったのに!」
「だってー、みゃーこがどんどん注ぐんだもん。「はい、あなた」なーんちゃってさー」
「幼稚園児にお酌させないでよー」
「まあ、いいじゃないの細かいことは。そんなことよりさっきそこで……」
「はい、はい、小原庄助さん。私、もう寝るから。お重は水に浸けておいて。明日の朝片付けるから」
「Jawohl!」
龍太郎は、びし!と敬礼して見せ、ふらふらと階段を降りて行った。酔っぱらいが無事一階に辿りついたのをを見届けてから、部屋に引っ込む。
独りになってしばらくすると、青子は気になってスマートフォンの電源を入れてみた。
(おおっ……)
閏から何十回と着信が入っていて、ちょっとびびる。ショートメールやラインのメッセージも、馬鹿みたいに送られてきている。
謝るくらいならしなきゃいいのに、と思う反面、もしかしたら本当に具合が悪かったのかも、などと思う。そう例えば、寄り掛かろうと思って肩に捉まったら、バランスを崩して落っこちたとか……
(そんな馬鹿な……)
青子は無情にも、再びスマートフォンの電源を切った。とにかく週末までは連絡しないと心に決めて布団に入る。
この決心を後悔することになったのは、翌朝のことだ。
早朝。
約二週間ぶりに帰宅した宮木香苗は、実用性重視の味気ないスーツケースをセダンのトランクから引っ張り出したところで、漸くその存在に気が付いた。
家の門扉の前に、不審人物が蹲っている。
若者向けのファストファッション。フードを深く被っているため顔は確認できないが、体型から察するに男のようだ。それもかなり大柄な……
「!?……ねぇ!ちょっと!大丈夫!?」
恐る恐る近付いてみて、香苗はその人物が娘の知人であることに気が付いた。肩を揺すると、ぞっとするほど冷たい感触が掌に伝わる。
「あなた、いつからここにいるの……!?」
「……青子っ……?」
不審な男……基雨霧閏は、やけに白々しい顔を持ち上げ、焦点の定まらない眼で香苗を見た。
「ごめっ……俺、どうしてあんなことっ……」
「?はぁん?」
「俺のせいなのにっ……全部、俺のっ……」
閏は白い息を吐き出しながら絶え絶えに言うと、両腕を伸ばして香苗の首に抱き付いた。
「ちょっ……!ちょちょちょ!放しなさい!こら!」
「俺のこと嫌いになった……っ?キスしたこと、後悔してる……?」
「!?キスっ!!?」
あんた!うちの娘になにしたのよ!
「青子っ……好きだ……!」
閏は香苗の頭を有無を言わさぬ力で引き寄せ、ぐいと顔を近付けた。
霜で輝く金色のまつげ、凛々しい眉目、絶妙なバランスで配置された鼻。娘に集る害虫という先入観を抜きにして見れば、うっとりするほど美しい顔立ちだ。
「!!……ええい!目を覚ませ!!」
芙蓉の顔に見惚れていた香苗だったが、唇が触れ合う寸前で我に返り、強烈な頭突きをお見舞いした。
危ない、危ない……もう少しで娘に顔向けできなくなるところだった。
「何があったか知らないけど、取り敢えず中に入りなさいよ。……よく通報されなかったわね……ほら、しゃんと立って」
「ううっ……」
香苗は閏の腕を引いて立ち上がらせ、玄関まで連れて行った。
(重いっ……)
閏は香苗の肩につかまって、思うようにならない身体を、引きずるようにして付いてきた。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、どうにか扉に辿り付く。
「青子ー!起きてるー!?……ちょっと手伝ってー!」
香苗が三和土のところから叫ぶと、学校へ行く支度を終えた青子が、リビングから顔を出した。
「お帰りお母さん。……閏!?ど、どうしたの!?」
「こっちが聞きたいわよ。玄関の前に座り込んでいたのよ」
青子は鞄を放り出して駆け寄ってきて、閏の顔をのぞき込んだ。苦し気に眉を寄せ、荒い呼吸を繰り返している。
「うる!?……うる!しっかりして!」
薄く開いた瞼の奥の瞳は、どこを見ているかわからない。青子の声も聞こえていないようだ。指先は氷のように冷たいのに、頬は火傷しそうなほどに熱い。
(まさか、一晩中外に……?)
狼狽える青子に、香苗がてきぱきと指示を出す。
「外のスーツケースをお願い。それから、リビングにお布団敷いて」
「う、うんっ……」
「あと、龍太郎君に着替え借りてきて」
「わかった!」
香苗は閏を廊下に転がしておいて、「何を食べたらこんなに大きくなるのよ」とか、「図体だけは一人前なんだから」とかぶつぶつ言いながら、準備が整うのを待った。
少しすると、二階から龍太郎が下りてきた。
「あれ?こいつ、まだいたの?」
聞けば、昨夕彼が帰宅した時にはもう同じ場所にいたと言う。青子は憤慨した。
「なんで言わないのよ!」
「俺は言おうとしたぜ。けどお前が……」
「あー、はいはい。わかったから、あんた達はもう学校行きなさい」
香苗は廊下で口論をはじめた青子と龍太郎に、さも面倒臭そうに命じた。
「私、今日は学校休む」
「なに言ってるのよ。もう直ぐ試験でしょ?ちゃんと行かなきゃ」
「でもっ……」
「大丈夫、死にやしないから。後のことはお母さんに任せて。ほら、行った行った」
香苗はなかなか出かけようとしない青子を、問答無用で家から追い出した。
「……ふんっ。あんたなんかに青子の看病はもったいないわ」
静かになると、香苗は高慢に言い放ち、閏の腰をストッキングの爪先で蹴っ飛ばした。
大事な娘におかしな男を近付けてなるものか。
普段放任しているくせに、こんな時ばかり母親面するなんて我ながら噴飯ものだが、相手の男が無駄に顔が良くて、愛想が良くて、手が早いとなれば、親として心配になるのは当然だ。そもそも初対面で彼女の母親を「お母さん」なんて呼ぶやつは、ろくなもんじゃない。自分がかわいいって知ってる証拠だ。馴れ馴れしい。食えない男。先程の問題発言も含めて、じっくり取り調べる必要がある。
「さて、と……」
香苗はスーツの上着を脱ぐと、腕まくりして早速仕事に取り掛かった。
布団に寝かせる前に、濡れた服をどうにかしなければならない。
(しまった……)
苦労して上着とシャツを脱がせ、バスタオルでいい加減に上半身を拭き、スウェットに着替えさせたところまでは良かった。問題はその先だ。
「…………」
香苗は閏の下半身を前にして葛藤する。
緊急事態とは言え、婚約者のある身で別の男の(それも、娘の彼氏の!)下着に手をかけるのは、聊か抵抗がある。餓鬼んちょのほにゃららなんて見たって何とも思わないが、大らかさが自慢の彼女にだって、羞恥心はある。
こんなことになるなら、龍太郎を引き留めておくんだった……
腕を組んだり、上唇を噛んだり、眉間を揉んだり……たっぷり三分間逡巡した後、香苗はこれも人助けと割り切って、スカイブルーが目に眩しいボクサーパンツにそろそろと手をかけた。
落ち着け。慎重に。やればできる。なせばなる。なさねばならぬ、何事も!
「ごくり……」
一、二の、三で、一思いに引き摺り下ろし、現れた黄金の茂みに瞬きも忘れて見入ってしまったのは、海の向こうの婚約者には絶対に内緒だ。




