彼の秘密
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「あれー?どこやったんだろうー?」
翌朝。青子はお気に入りのピアスを捜して、床に這い蹲っていた。どこかに落としたようで、いつの間にか耳からなくなっていたのだ。
ピアスはどこを捜しても見付からず、青子は酷く悲しい気持ちになった。
「アオコ、どうしたのー?なんか元気ないじゃん」
「あんた、近頃変だよ。昨日だってテストぶっちぎって出てっちゃうしさぁ」
「昨日の男の子は誰よー?あんたの子どもー?」
友人達は青子を心配したが、青子には説明することも、相談することも出来ないのだった。なにしろ彼女自身、この心をかき乱している気鬱とジレンマの理由がわからないのだ。青子は力なく笑って、なんとか事情を聴き出そうとする友人達を煙に巻いた。
青子を余計うんざりさせる出来事が起きたのは、二時限目の、体育の授業中のことだった。種目は長距離走で(水族館のマグロみたいに、トラックの周りを延々ぐるぐるするやつだ)その時青子は、集団の後ろの方を、良子や舞香と共にだらだら走っていた。
先頭の方が騒がしくなったかと思うと、休むことなく走り続けていた魚の群れが停止した。見れば、同じクラスの男子達がサッカーをしているコートのど真ん中を突っ切って、魁星学園の生徒がずんずん歩いてくる。青子は思わず、「げ」と顔を顰めた。
「ねえ!あれ、閏君じゃない!?」
隣を走っていた舞香が、黄色い声を上げた。先日の一件があってからというもの、彼はお友達認定されたのか、仲間同士の間で、『うるう君』なんて呼ばれて親しまれている。本人が鼻持ちならないやつだとは知りもせず、いい気なものだ、なんて青子は思っている。尤も、舞香に言わせれば『そこがいい』のだそうだが……
「ねぇ!こっちに来るよ!」
「やだ!どうしようー!」
青子は素早い動作で、集団に隠れるようにしゃがみ込んだ。靴ひもを解いては結ぶ。解いては結ぶ。三回くらい繰り返したところで、閏の高そうなローファーが、青子の目下に食い込んできた。
「なんで宮木さん?」
「あの二人って、知り合い?なに友達?」
ひそひそ。ひそひそ。事情を知らない多くは、小声で疑問をぶつけ合った。羨望の見え隠れする懐疑的な瞳は、青子の気をいっそう滅入らせた。
「話がある」
頑なに顔を上げようとしない青子に向かって、閏が言った。付いてこい。という意味だと解釈した青子は、断固拒否した。「私にはない」
「いいから、来い」
「あっ……!ちょっとぉ!」
閏は青子の二の腕辺りを掴んで立ち上がらせると、強引に引っ張って行った。若い女性体育教師は呆気にとられてしまって、おろおろするばかりだった。
人目を避けて二人がたどり着いたのは、体育倉庫の裏だった。一年坊が数人、授業をサボタージュして煙草などふかしていたが、ひと睨みして場所を譲らせた。
「痛い!放して!放してよ!」
青子は閏の手をやっと引き剥がした。
「なんなの!?もう!」
閏は黙って、青子に向かって拳を突き出した。青子が恐る恐る手を出すと、失くしたと思っていたピアスが、転がり落ちてきた。
「……都が持ってた」
「…………」
「昨日のこと、全部蓮吾から聞いた」
青子は黙って、ピアスをジャージのポケットにしまった。
「……どういうつもりだ?」
何食わぬ顔をする青子を、閏は疑念に満ちた瞳で睨んだ。
「お前、何故弟たちにかまうんだ?なにが狙いだ?」
青子は首をすくめた。「べつに、狙いなんかないけど……」
「なら、誰かに頼まれたのか?誰だ?金をもらったのか?」
「…………」
あきれ果てて、もはや一言も口を利く気になれなかった。踵を返した青子の手首を、閏がぱっと掴んだ。「待て。まだ話は……」
「……あのねぇ」
青子は大きなため息を吐いた。
「なーんで私があんたの被害妄想に付き合わなきゃなんないのよ?」
「?……被害妄想?」
「そうでしょ。あんたの目には私が何に見えてるわけ?誘拐犯?殺人犯?……こんなかわいい女子高生捕まえて、冗談じゃにゃーわよ」
閏はその時はじめて、青子の顔をまともに見たようだった。少なくとも青子にはそのように感じた。
青子は閏の手を乱暴に振り払うと、呆然とする彼を残し、今度こそグラウンドに向かって歩き出した。
「ねぇー青子ー。閏君、あんたに何の用だったのー?」
「それが、私にも良くわかんなかったのさ」
「とかなんとか言って、本当は告白だったんじゃないのー?あの様子はただ事じゃなかったもんね」
「なに、まさかあんた、またふっちゃったの?」
もったいないことを!舞香が大げさに嘆いて、青子をうんざりさせた。「だから、そんなんじゃないってー」
閏の派手なパフォーマンスのおかげで、青子は一躍時の人となった。彼に手を引かれて校庭を横切る姿を、他クラスばかりか、他学年の生徒達までもが、ばっちり目撃していたのである。休み時間の度に女子に呼び出され、アホな男子にすれ違いざまに冷やかされ、帰りのホームルームが終わる頃には精神も肉体もへとへとになっていた。
「なー。今朝の星学の男、青子とどういう関係?なー」
「うっ!るさいなあ……なんでもないってばー。髪引っ張んないで」
「なー。まさか彼氏じゃないだろー?なー。なー」
しつこく纏わり付いてくる幼馴染の岡野を適当にあしらいながら校門に向かって歩いて行くと、表札の前に、所在なさそうに立ち尽くす蓮吾の姿があった。
綺麗な顔をしている蓮吾は、下校中の生徒達の……特に女子生徒達の関心を過剰に引いていた。あの真面目な佐古さんまでも、単語帳から視線を上げて、穴が開くほど彼を凝視していた。(ノート返さなきゃ……)
「ねぇ、誰か待ってんのー?」
青子がぼけっと見ていると、三年生のグループが蓮吾に声をかけた。まずい。
「あたしら、呼んできてあげようか?」
「名前はー?この制服、東中学だよね?何年?」
「かわいいー。彼女とか、いるのー?」
青子は慌てて駆けて行って、女子生徒達の隙間に割り込んだ。
「ごめん!待った!?」
青い顔をしていた蓮吾は、青子の顔を見るとほっと表情を和ませた。青子は蓮吾を連れて、直ちに現場を離れた。背後の方で岡野がギャーギャー喚いていたが、完無視した。
青子と蓮吾は、ひとまず学校近くのファースト・フード店に入った。レジで購入した百円のアイス・コーヒーとウーロン茶を持って、奥の方の席を選んで座った。その間、蓮吾はずっと暗い顔をしていた。
「ばれちゃったね。お兄さんに」
青子はアイス・コーヒーを一口飲んで、切り出した。(失敗した。大人ぶってコーヒーなんか注文してみたけど、苦い)
「ごめんっ……俺、知らなくて……」
「うん?」
「……あの日、試験だったのに……」
蓮吾は膝小僧を見詰めたまま、悲痛な面持ちで謝罪した。自責の念にかられ、顔を上げられないでいる彼を見て、青子はにっこりした。
「なんだ、そんなことー?……いいの、いいの。追試の方が点数甘くなんだから」
「…………」
「男の子がそんな顔しないのー」
蓮吾は漸く顔を上げて、青子をおずおずと見た。
「今日、兄貴が来たろ……?」
「あー……うん」
「なにか、言われた……?」
「?どうして?」
「……なんとなく……」
蓮吾はウーロン茶を吸って、からからに乾いた喉を潤した。
蓮吾はそれから少しの間、押し黙ってしまった。なにをどう伝えようか、言葉を探しているようだった。青子も黙って、彼の背後の嵌め殺し窓から、表通りをぼんやりと見つめていた。ホームルームを終えた千ヶ丘の学生達が、次々通り過ぎて行く。
「……兄貴のこと、怒らないでやって欲しい」
二、三分の沈黙の後、蓮吾が呟くように言った。聞き漏らさないように、青子は耳を澄ました。
「本当は、優しい人なんだ。ただ、必死なだけなんだ。約束だから……」
「約束……?」
「兄貴と俺と都、似てないだろ?」
青子は頷いた。まるで地球の表と裏で生まれたみたいに、ちぐはぐな兄弟だ。
「……親父と血の繋がりがあるのは、俺と兄貴だけなんだ。母親も、全員違う」
「?えーっと……?」
青子は混乱した。
「下の七人は、新しい母親の連れ子なんだ。って言っても、その母親達は子供を親父に押し付けて、どっかへ逃げちゃったんだけど……」
蓮吾は淡々と話し、青子は絶句した。
「親父は、女を見る目がないんだ。そのうえ人が良いから、利用されるだけ利用されて、後はポイ。……あの人は、駄目なんだ。何度繰り返しても、懲りないんだよ……」
諦めの滲む声で語る蓮吾の瞳は、終電車に揺られる仕事帰りのサラリーマンみたいに、くたびれていた。
「でもまあ、去年九番目のお袋が出て行ってからは、落ち着いてる」
「……それは、お兄さんの苗字が違うことと、何か関係があるの?」
「天幸寺は、兄貴のお袋の苗字。兄貴のじいさんは、天幸寺グループの総裁なんだって」
なるほど。それで一人だけ、あんな私立の名門高校に通っているわけだ。
「在学中は全教科一位を死守すること。天幸寺の名に恥じない、完ぺきなルックスと立ち居振る舞いを身に付けること。不義の子だと言うことは、決して周囲に知られないようにすること。トラブルを起こさないこと」
「え……?」
「俺が高校を卒業するまでの間、兄貴が雨霧家で暮らすための条件」
青子は瞳に疑問を浮かべ、蓮吾が付け加えた。
「知ってる?星学って通常授業の他に、バイオリンやらダンスやらフェンシングやら……意味わからん必修科目が山ほどあってさ。おかげで兄貴は毎日寝る暇もないんだ」
「…………」
「あの日、青子の家の前で行き倒れてたのも、前日までスピーチの試験があったからなんだ。兄貴や親父は言わないけど、天幸寺の家には、かなり援助してもらってるみたい。親父の給料と兄貴のバイト代だけじゃ、とてもじゃないけど、暮らしていけないから」
諸々の理由で、閏は絶対に試験を落とすわけにはいかないのだそうだ。
蓮吾から事情を聞くと、青子は妙に納得した。閏のハリネズミみたいな態度と言動には、理由があったのだ。
「そうだったの……」
「俺はさ、兄貴みたいになりたいんだ。早く家族を守れるようになって、あの人を自由にしてやるんだ」
蓮吾は照れ臭そうに告白した。青子の目には彼が、朝日を受けて白く輝く海面のように、母の宝石箱に大事そうにしまわれたサファイアの指輪のように、眩しく映った。
二人がをファースト・フード店を出る頃、表通りはすっかり静かになっていた。
「兄貴はきっと、青子のこと嫌いじゃないよ。兄貴は嫌いな奴とは、目も合さないから」
去り際、蓮吾は振り返って言った。
「そうかなあ……?」
「そうだよ。俺が言うんだから、間違いないよ」
蓮吾はしっかりと保証して帰って行った。
(なによ……)
青子の胸の中の澱は、また一段と嵩を増したようだった。
(自分ばっかり、重いもの背負ってるような顔しちゃって……)
帰り道を歩く足は、鉛のように重かった。