彼の好きな人
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朝方、蓮吾は夢を見た。それがあんまり酷い内容だったので、いつもの起床時間より大分早く目覚めてしまった。幸い誰にも見付からずにトイレに駆け込むことが出来たが、出すものを出してすっきりしても、最低の気分は治らなかった。
今朝は兄の様子もおかしかったが、自分のことで手一杯だったため、誰ともろくな会話をせずに家を出た。
体育館で自主練して、授業がはじまるぎりぎりに教室に入ると、待ちかねていた友人達(相田や赤井、その他大勢)が窓際の席から彼を呼んだ。
「昨日の女子高生、誰?」
蓮吾が近付いて行くと、輪の中心にいた赤井が朝の挨拶を省略してたずねた。昨日の事件がすっかり知れ渡っているようで、聴衆は好奇心に瞳を輝かせている。わかっていたことだが、蓮吾は少々うんざりした。
「親父の同僚の娘さん。偶然会って、代役を頼まれたんだよ」
蓮吾はあらかじめ考えておいた適当を、尤もらしく披露した。「ふぅん、そっか」赤井が興味を失ったように素っ気ない相槌を打ち、気を緩めた次の瞬間……
「蓮吾、あの人のこと好きだべ」
不意打ちを食らって、蓮吾は固まった。咄嗟に切り返しが出来ず、不自然な空白が広がる。近くの席に陣取った他クラスの女子生徒達が彼の返答を聞き漏らすまいと耳をそばだてていて、蓮吾は我知らず緊張した。
「……ん」
こういうのは、意地になって否定するほど、相手の好奇心をくすぐるのだ。もともとあまり隠す気のない蓮吾は、ため息交じりに肯定した。色めきたった友人達の間から、「おぉー!」と驚きの声が上がる。
「なに、実は付き合ってんの?」
「相手美人?ギャル系?」
蓮吾はたちまち集団の中心に引っ張り込まれ、質問攻めにされた。冷やかされると少々気恥ずかしかったが、不思議と悪い気持ちはしなかった。
「写真あるよ。見る?」
好きなもののことを誰かに話したいという当然の欲求が、蓮吾の口をいつもより滑らかにしていた。日頃こういう話に入っていけないので、共通の話題で盛り上がれるのが嬉しかったし、青子(思い人)のことを褒められると、鼻が高かった。
謎めいた同級生のスキャンダルは、その日一日教室の話題を独占した。休み時間の度に集まって、誰が誰を好きだとか、誰と誰が付き合っているだとか、真偽の不確かな噂話に熱中する。そして年頃の健康男児が十余人も集まれば、当然の成り行きとして、話はあらぬ方向へ逸れていくわけで……
「俺も年上のお姉さまにいろいろ教えて欲しい。保健体育とか、子供の作り方とか」
「おっぱい大きい?もう触った?」
気の置けない男同士、放課後になってもみだらな話が尽きることはなく、(一晩中だって話していられる)夢中で議論し合っていると、近くの席に集まっていた女子のグループが、軽蔑の視線を投げて寄越した。「男子、最っ低ー」
「関係ないだろ。聞きたくなきゃ、あっち行けよ」
赤井の言う通りだった。もう放課後なんだから、さっさと帰れば良いのに。と、蓮吾は他人事のように思った。
女子のグループの中心は、瀬良春奈だった。初めは黙って成り行きを見守っていた春奈は、仲間の敗北を見て取ると、蓮吾を睨むようにじっと見て、徐に口を開いた。
「蓮吾君もしたいんだ。あの人と、エッチなこと」
春奈の直球な質問は、初心でにきびで助平な男子中学生達をどきっとさせた。がやがやと騒がしかった教室内が、水を打ったようになる。ずるい聞き方と、挑発するような口調に、蓮吾は少々むっとした。
「……そうだよ。悪い?」
青子に出会い、愛の信奉者となった蓮吾は、開き直ってたずね返した。誰にどう思われたって、構うもんかという風だった。放っておいても溢れ出す欲望に戸惑っているのは、情熱を持て余しているのは、他でもない自分自身なのに。どうして他人に責められなきゃならない。
八月の空みたいな少年が見せた雄の部分に、教室に残っていた彼のファンの女の子達はざわついた。しかし、たずねた本人が一番ショックを受けているのは明白だった。
「……へぇ……本気なんだね。でも、全然似合ってないよ。あの人と蓮吾君」
春奈は机の下でぎゅっと握った拳を震わせ、十人中八人が振り返る愛らしい顔を屈辱で真っ赤にして、断言した。
「高校生が中学生と付き合うなんて、おかしいよ。なんか、いやらしい。気持ち悪い……」
「…………」
「私、先生に言っちゃうから」
春奈が宣言し、傍で様子をうかがっていた彼女の友人達ははらはらした。蓮吾が怒り出すのではないかと思ったが、彼は机を叩くことも、椅子を蹴飛ばすこともしなかった。
「あの人のこと悪く言うの、止めて」
代わりに穏やかな、しかし厳しさのこもる声で言って、聴衆をはっとさせた。
「先生に言うのも止めて。たくさん迷惑かけてるから、これ以上、巻き込みたくない」
今や教室に残っていた生徒達の大半が、二人の動向に注目していた。学校と塾と自宅の往復という、退屈な日常を過ごす彼等にとって、学年一の美男美女の痴話喧嘩は、面白い見世物だった。
たくさんの観客が固唾を呑んで見守る中、蓮吾と春奈は静かに睨み合う。先に反らしたのは、春奈の方だった。
「瀬良が思ってるようなこと、なにもないよ。俺、全然相手にされてない」
言葉と共に、唇から遣る瀬無いため息が漏れる。恋敵(龍太郎)を前にして、拳を振り上げるどころか、追いかけることすらできなかった自分。あいつの方が身体がでかいから。年上だから。そんなのは全部言い訳だ。
「たぶんこれからも、あの人が俺を見てくれることって、ないと思う……」
青子に対する思いの深さを試され、敗北した。いや勝負する前から尻尾巻いて逃げ出したのだ。そのくせ、欲しがる心ばかり一人前ときてる。今のままじゃ、永遠に告白なんてできない。
「……帰るよ」
春奈の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちたのは、蓮吾が教室を出て行ってしまった後だった。教室の片隅から、廊下から、彼女に共感した少女達がわらわらと集まってきて、すすり泣く彼女に寄り添う。
「あんなに怒ることないのにね。冗談なのにね」
「春奈の方がかわいいに決まってるよ。蓮吾君、見る目ないよ」
「きっと騙されてるんだよ。とっちゃえ、とっちゃえ」
口々にやっかみ混じりの慰めを言いながら、青子のことを知らない少女等は考える。温厚な彼にあんな怖い顔をさせるのは、どんな女性だろう?
事件の目撃者達が、青子に関して様々な憶測を巡らせているその頃。蓮吾は人気のない校庭を歩きながら、激しく後悔していた。男のくせに意地悪く女子をやり込めたりして、最低だ。
「…………」
今朝方、無意識とは言えいやらしい夢を見てしまい、罪の意識に苛まれていたところへあの台詞。鋭い春奈に真っ黒な腹の底を見透かされたようで、ついかっとなってしまった。
少女を泣かせた天罰は早々に下った。校門を出てみるとすぐ先の自販機の前に青子が立っており、蓮吾に気付いて「よ!」と片手を挙げて見せた。
「青子……なにか用?」
複雑な事情から目を合わせられずにいる蓮吾をなんと思ったのか、青子はしゅんとして謝罪した。「昨日は、本当にごめんね。代役引き受けてくれたのに……」
怒ってる?
「べつに……」
「お礼になんでも好きなもの奢るから」
「いいよ。気を使わないで」
「そんなこと言わないでさ。ね、ね、行こう?」
青子は蓮吾のシャツの袖を引いて懇願した。触れられた箇所に電気が走り、かっと体が熱くなる。
『蓮吾君もしたいんだ』
春奈の言葉が鼓膜に蘇り、蓮吾は思わず青子の手を振り払った。まずいことをしたと気付いたのは、青子の瞳がまん丸に見開かれた後だった。
「ごめん……」
そよ風にカーテンがひらめくような微かな声だったので、青子に聞こえたかどうかはわからなかった。衝撃から回復すると、青子ははっとして、鞄の中をごそごそした。
「はい、これ」
青子は苦虫を噛み潰したような顔をする蓮吾に、香り付きの封筒を手渡した。
「?……なに?」
「都築さんって女の子から預かったの。蓮吾君に渡してくださいって」
「…………」
「うちの高校まで、わざわざ頼みに来たんだよ。すっごい行動力。よっぽど蓮吾が好きなんだね。もてもてだね」
滞納した請求書みたいに分厚い封筒の中身は、ラブレターだった。青子は彼女の勇敢な行いを褒めちぎり、冷やかし、蓮吾をいらいらさせた。
「こういうの、俺、困る」
「え?」
「自分で渡しに来いって言って」
蓮吾はむっと気色ばみ、手紙を青子に突っ返すと、背を向けて道を歩き出した。突然不機嫌になった蓮吾に、青子はおろおろした。「どうしたの?怒ったの?」
「ごめん。ごめんね。謝るから……怒らないで蓮吾」
「…………」
「ねぇ、蓮吾……蓮吾ってば」
「……もう。しょうがないなあ」
だんだん、青子の声に泣きが入ってきたので、蓮吾は仕方なく振り返った。ほら、と差し出された手に、青子がいそいそとつかまる。
「次からは、頼まれても断って」
「わかった。もう絶対受け取らない。約束」
青子が硬く誓うと、ようやく蓮吾の腹の虫がおさまった。青子はほっとした。彼が怒った理由は不明だが、とにかく、機嫌が直って良かった。
暮れ泥む秋の空の下、どさくさに繋いだ手を前後に振りながら、肩を並べて歩く。
「捻挫?」
「そうなの。……あ、でも、大したことないんだよ」
「どうして早く言わないの?」
蓮吾は青子の荷物を奪い、歩調を緩めて、彼女を喜ばせた。こんな風に優しくされると、思い出せる。ありがちな個性しか持たない自分は、世界でたった一人の、特別な存在だってこと。年上の青子だってドキドキするんだから、恋に目覚めたばかりの少女達には、たまらないんだろう。
「……さっきのラブレターさ、やっぱり読んであげてよ。そして、ちゃんと返事をしてあげて」
同じ彼のファンとして、気持ちわかるから。青子の要求に、蓮吾は表情を曇らせた。「べつに、良いけど……」
「前にも言ったけど、俺、好きな女がいる」
「知ってる。……幸せ者だね、その子」
青子が何気なく呟くと、蓮吾は足を止めて、じっと彼女を見た。
「……そう思う?」
「うん?」
「本当に、そう思う?」
青子はにっこり微笑んで頷き、蓮吾を少し意地悪な気持ちにさせた。真実を知れば、そう無邪気ではいられまい。物陰に連れ込んで、キスして、気持ちを打ち明けたら彼女は、どんな顔をするだろう?
蓮吾は途中までで良いと言う青子を、家の前まで送って行った。
「良子と舞香がね、一緒に文化祭の打ち上げやりましょーって。二人とも、蓮吾のこと他校生だと思ってるみたい」
本当は、中学生なのにね。思い出し笑いをする青子の横顔を盗み見て、蓮吾は繋いだ手に、ぎゅっと力を込める。今はこれが精一杯。
「そのまま、勘違いさせておいて。新郎役でも、彼氏役でも、引き受けるから。他の人に頼んじゃ駄目だよ」
「わかった。約束ね。お礼の件、考えておいてね」




