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ナレソメ  作者: kaoru
秋嵐来る
38/80

その夜

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

「車を回してくる」

 治療を終えると、昴は閏に外へ出ないよう言い残し、医務室を出た。直ぐ目の前の廊下には心配を隠しきれない様子の鷲見がいて、昴の顔を見るなり「いかがですか。坊ちゃまのお加減は」とたずねた。

「綺麗に折れてますよ。全治二か月ってとこです」

「二か月……!そんなに!」

「自業自得ですよ。まったく、いつまでも子供みたいに……いい加減、立場というものを自覚してもらわないとね」

「はあ……お言葉ですが、昴様。閏坊ちゃまは、今でも十分過ぎるほど努力されていらっしゃいます……」

 控えめに呟かれた鷲見の言い分を、昴はくすんだ笑顔と共に否定した。

「まだまだ、足りないんですよ。何しろ彼は、日本経済界の首領ドンと呼ばれる天幸寺栄三氏の孫。天幸寺グループ及び傘下企業という、巨大な組織の行く末が、彼一人の肩にかかっているのです。義兄あに達に負けないよう、もっともっと頑張ってもらわないと……」

 顔中に塗りたくった疲労を押し退けて、負の感情が滲み出す。暗い笑みを湛える昴を、鷲見は恐れとも憐みともつかぬ瞳で見つめた。長く天幸寺の屋敷に仕えている鷲見は思う。

 いつからだろう?快活で、朗らかで、人が良いばかりだった彼が、こんな目をするようになったのは……

「まだ、憎んでおいでなのですね。妹君の……楓様のことを……」

 核心に触れようとすると、昴は強引に話を切った。「……もう止めましょう、この話は」

「それより鷲見さん、今回の騒動の原因に、心当たりはありませんか?閏のやつ、梃子でも口を割ろうとしない」

「はあ……心当たりと言いますか、現場に居合わせた従業員の話ですと、坊ちゃまは頻りに、アオコと叫んでいらしたそうです」

「?……アオコ?なんですそれは?」

「察するに、女性の名前ではないかと……」

 鷲見が推測して、昴はしばし考え込んだ。その名前、どこかで聞いたような気がするが、果たしてどこだったか……

「……鷲見さん、仕事を増やしてすまないが、大至急そのアオコとかいう女性を調べてください」

「かしこまりました」

「魁星の生徒で間違いないでしょう。念のため、教師やPTAもお願いします」

 言いながら昴は、憔悴しきった閏の様子を思い返す。あの甥をあそこまで追い込むとは、余程性質の悪い女に違いない。さては弱みを握られたか……何にせよ、大抵の人間は金を握らせれば口を噤む。

 早急に対処することを心のメモに書き留め、昴は廊下を歩き出した。

「?……昴様、どちらへ?」

 車なら、私が回してきましょう。鷲見の申し出を、昴はくたびれた笑顔で断った。

「百合絵さん(お姫様)を捕まえて、事情説明しないと。今頃、半狂乱で館内を捜し回っているでしょう」

「ああ、なるほど……」

「すみませんが、鷲見さんはもうしばらくここにいて、あのやんちゃ坊主が外に出ないよう、見張っておいてください」


 龍太郎が自宅に戻って見ると、案の定青子の部屋には灯りが付いていた。先に帰ってしまったことに腹を立てつつ、それも已むなしと思い直す。今日は色々あったから、疲れていたんだろう。今のうちにゆっくり休んでおくと良い。夜は長いのだから。

「…………」

 龍太郎は手早くシャワーを浴びると、キッチンで冷たい水を一杯、一気に飲み干した。口端から水滴が零れて、裸の胸に跳ね返る。一度部屋に戻ってシャツを着るべきかと考えたが、直ぐに必要ないと思い直した。今夜こそ、逃がすつもりはない。

「青子?……いるんだろ?入るぜ」

 ドアに鍵はかかっていなかった。青子は灯りを付けたまま、うつ伏せでベッドに寝そべっていた。眠っているのか、怒っているのか、龍太郎が傍によっても無反応だ。

「…………」

 彼女が横たわるベッドの端に浅く腰かけ、背を流れる細く長い髪を数回撫でる。上体を倒して口付けると、今まで寝たふりを決め込んでいた青子がようやく反応した。「嫌だ!なにするの!」

 両手で患部を抑えはするものの、青子は枕に顔を埋めたまま、起き上がろうとしなかった。龍太郎はそんな彼女の背に覆いかぶさり、頭頂部や耳の裏にキスする。

「青子……」

 熱っぽい声で名前を呼ばれると、青子の脳内で警報が鳴った。

「恋人ごっこはもう終わり!離れてよ!」

 龍太郎がしようとしていることに気付いた青子は、手足をばたつかせて束縛を解こうとした。しかし青子が逃げようとすればするほど拘束は強まる。

「何もしないって約束でしょ!」

「……そのつもりだったが、気が変わった」

「嫌だ!止めて!」

 Tシャツが捲れ上がり、露出した肌の上を、水気を含んだ前髪が滑る。唇から漏れ出した熱い息から、龍太郎の興奮が伝わってくる。恐怖とは違う奇妙な感覚が背筋を駆け抜け、青子は全身を戦慄かせた。

「俺の物になれ、青子」

 腕の中で子犬のように震える青子に、龍太郎が張り詰めた声で命じた。

「……私は、あんたの彼女にはなれない」

「俺のこと、好きじゃない?絶対愛せない?」

「違うっ……そうじゃない……」

 青子は顔面に枕を押し付け、激しく頭を振った。龍太郎は青子の複雑な心情を察し、ため息を吐いた。

「聞け、青子。あの男は、お前のものにはならない」

 そんなこと、言われなくてもわかってる。青子は心の中だけで反論した。

「あの男には、家族がある。大切な物や、守らなきゃならない物がたくさんある。お前一人じゃない」

「…………」

「けど俺は……俺には、お前だけだ」

 龍太郎が囁くような声で訴え、青子をはっとさせた。

「俺はこんな性質だから。欲しいものなんて……ましてや好きな人なんて滅多にできない。俺の方が、お前を必要としてる」

たぶん、あいつよりずっと……

「良く言うよ。女の子いっぱいいるくせに」

「そんなもん!……とっくに全員手を切った。あの日に……」

「?あの日?」

「……お前に、睡眠薬飲ませた日」

 そう言えば、そんなこともあったっけ……青子はぼんやり思い出した。

「お前だって見ただろう?あいつの婚約者……鷹司百合絵は、衆議院議員鷹司敬三の孫娘で、旧華族の血を引く正真正銘の姫君プリンセスだ。お前には、万に一つの勝ち目もないよ」

「…………」

「そんなにあいつが好きか?あいつじゃなきゃ駄目か?」

 龍太郎の真剣な問いは、青子を弱らせた。青子は迷いに迷って回答した。「私ね、みんなが好きなの……」

「雨霧家の子ども達、みんなが好きなの……だって、やっと仲良くなれたんだよ」

「餓鬼なんか!……女なんだから、自分で産めば良いだろ。あっちが九人ならこっちは十人だ。種なら優秀なのがここにある。俺は餓鬼の扱いはわからんが、よく稼ぐ良い旦那になる」

「俺を選べ青子。ほんの三か月前まで、お前は俺を好きだったはずだ」

「…………」

「こっち向けよ」

 龍太郎は、いつまでも枕から顔を上げない青子に焦れて、強引に彼女の顔を反転させた。そのまま唇に吸い付いてやろうと顔を近づけ、はたと気付く。

「?……お前、これ、腫れてる……?」

 不自然に赤く色付いた頬。疑いの目で観察すれば、薄らとだが、爪で引っ掻いたような跡が残っている。唇の端に微かに血の塊がこびり付いているのを見付けると、龍太郎の脳内に最悪の想像が浮かんだ。

「退いてよ」

 青子は龍太郎を押し退けて身を起こした。夏掛けの下から現れた、小麦色ののびやかな足。その左足首に白い包帯が巻かれているのを見て、龍太郎は悟った。

「……諸神か……?」

 青子は答える代わりに、拒絶を口にした。「……疲れた。もう寝るから、出てって」

 青子がぷいっと顔を背けると、龍太郎は目に見えてうろたえた。

「っ……青子、ごめん……ごめん青子っ……」

「…………」

「ごめんっ……」

 背に縋りついて謝罪を繰り返す龍太郎に、青子は一つため息を吐いた。そんな風に謝られたら、怒れない。

「一つ聞くけど……今日、どうして私を連れて行ったの?」

 別に、私じゃなくても良かったのに。青子は、嘘を吐いたら絶対に許さない。そんな瞳で龍太郎を凝視した。

「だって、それは……」

 折角与えられたチャンス。ここで不正解するわけにはいかないと、龍太郎は慎重に言葉を選んだ。緊張でごくりと喉が鳴る。

「……一人で行きたくなかったんだ……」

「…………」

「青子がいたら良いなと思ったんだ……」

 特殊な価値観を持った同年代の少年少女達。曰く、異分子である自分は、そこにいるだけで謂れのない中傷や蔑視に晒される。真っ直ぐ立つためには、味方が必要だ。つまらない劣等感を笑い飛ばし、胸の底にたまった汚泥を洗い流してくれる、そんな存在が。

彼の言葉に嘘はないと判断した青子は、溜飲を下げた。

「焼プリンが食べたい」

「買ってくる。直ぐ買ってくる」

「次の試験、あんなやつに負けんじゃねーぞ」

「任せろ。一番とってきてやる」

「それは駄目」

 龍太郎が焼プリンを買いにコンビニに出かけて行くと、青子は再びベッドに寝転がり、天井を仰いだ。捻挫の痛みのせいか頭は冴えており、考えたくないことばかりが次々頭に浮かぶ。

(あの子、好きなんだ……)

 自信に満ち溢れた笑顔。得意そうな口調。一目見てわかった。あの百合絵という子は、閏に恋してる。全身から、幸福そうなオーラが溢れ出していたもん。自慢の彼氏なんだろうな……

「…………」

 想像していたよりも気さくで、優しそうな人だった。近い将来彼女は閏の妻となり、子ども達の母親代わりになる。品の良い彼女は、彼等の良き手本となるだろう。また持ち前の美貌は、幼心をつかむに違いない。

「……あぁあっ……」

 こんなつまらないことで、泣くなんて。

 その夜、青子は三度洗いざらいぶちまけてしまいたいという誘惑に駆られ、三度思い止まった。ため息ひとつで揺らぐ、マッチみたいに小さな正義の炎が、青子の精神をぎりぎり支えていた。


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