パーティーパニック
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「野城君?」
小鳥のさえずりのようなかわいらしい声に呼び止められ、龍太郎が立ち止った。ぎくっとして振り向けば、上品なブラウンのドレスを着た少女が、目を丸くしてこちらを凝視している。以前、閏と二人で歩いているところを見かけたことがあるので知っている。名前は確か……
「これはこれは、鷹司嬢」
彼女の白く細い腕が、朝顔の蔓のように、閏の腕に絡まっている。誂えたように似合いの二人を見て、青子は頭をやかんで殴られたようなショックを受けた。彼女こそ、龍太郎が以前ちらっと漏らした、閏の婚約者なのだ。
「嫌だ、クラスメートじゃないの。百合絵と呼んで下さいな」
彼女……百合絵が近寄ってきたため、隠れてこそこそ退散というわけにはいかなくなってしまった。
「あなたが学校行事に参加するなんて、珍しいわね。……そちらの方は?」
「紹介します。友人の宮木青子嬢です」
龍太郎が得意げに紹介すると、知人の応対に気をとられていた閏の視線が、こちらに流れてくる。驚愕の色を浮かべたアイスブルーの瞳が、愧死寸前の青子を捉えて揺れる。ああ!最悪!
「あら。ご友人なんて、嘘でしょう?社交嫌いのあなたが、ただのお友達をこんなところに連れて来るはずありませんわ」
「敵いませんね、あなたには。なにもかもお見通しというわけだ」
実は、そうなんです。龍太郎は青子の腰をぐいと抱き寄せた。
「卒業を待って、結婚するつもりです」
「!!?」
突然、龍太郎が大法螺を吹いて、青子を仰天させた。
「まあ!それじゃ婚約なさったのね!素敵!」
そうとは知らない百合絵が、手を叩いて祝福した。慌てて訂正を口にしようとした青子を、龍太郎が鋭い眼差しで黙らせる。(余計なことを言うと……わかっているよな?)
「お二人とも、式には是非いらしてください」
「もちろん、喜んで出席させていただきますわ」
龍太郎の腕の中で靴の先を見つめながら青子は、泡になって消えてしまいたいような気持ちだった。閏に睨まれて、額が焼け付くようだ。羞恥で顔が上げられない。
「どんな女性があなたの心を射止めるのかと思っていましたけれど、こういう方とはね。気を悪くなさらないでね。彼はほら、非凡な人だから」
「正直に変り者と仰ったらいかがです?」
「もう、冗談ばっかり。青子さん、こんな人で良いの?別の方に乗り換えるなら今のうちよ。……?青子さん?どうかしまして?」
「いえ……」
満足に答えられない青子に、龍太郎が助け船を出す。「疲れたんでしょう。こういう集まりは初めてなので」
「まあ、そうなの?……野城龍太郎の妻になるつもりなら、慣れなければ駄目よ青子さん。これほどの才能に恵まれた人ですもの。今後こういう機会は増えてくるわ。公の場で夫に恥をかかせないのが、妻として最低限の勤めよ」
百合絵は訳知り顔で、いらん忠告をした。捻くれ者の青子には百合絵が「閏に恥をかかせないのが私の勤め」と言っているように聞こえて、人知れず唇を噛んだ。
「手厳しいですね。彼女は一般人なんです。生まれながらの貴婦人であるあなたのようにはいきませんよ。……すみませんが、今夜はこれで失礼します。私も疲れましたので」
「お帰りになるのなら、うちの車を使うと良いわ。まだ近くにいるはずですから、迎えを呼ぶより早いでしょう」
「いえ、ご心配には及びません。上に部屋をとってありますから」
黙って成り行きに任せていると、青子はふと、閏の拳が固く握られていることに気が付いた。そんなに力を入れたら、掌が傷付いてしまう。
「!」
一言注意しようと閏の顔を見て、青子はぎょっとした。三日も食事を抜いたような冷めた色合い。そのくせ目だけは赤く充血し、ぎょろぎょろしている。
「ねぇ、顔色が……」
悪いよ。おずおずと差し伸べられた青子の手を、閏は素早く身を引くことで避けた。背けられた顔には、はっきりと拒絶の二文字が書いてある。青子は行き場を失った手を引っ込めることも出来ずに凍り付いた。
「閏君?どうかしまして?」
「……申し訳ありませんが、挨拶があるので先に失礼します。……野城。君はラッキーだ」
閏は苦い顔で言い残し、足早に歩き去った。百合絵は別れの挨拶もそこそこに、慌てて後を追いかけて行く。
「大丈夫か?」
二人が去った方向を、呆然自失といった様子で見つめる青子に、龍太郎が確認した。
「え?……うん……」
胸中は言い表しようがないほど荒れていて、手指も震えていたが、青子は取りあえず頷いた。動揺するあまり、憤りさえ忘れていた。
「ごめん。私、ちょっとお手洗い……」
青子は龍太郎の返事を待たずに、化粧室へ急いだ。一刻も早く独りにならなければならない。今の青子にできるのは、心の扉を閉め、岩のようにじっと動かず、悲しみに耐えること。走って行って弁解したい衝動を堪え、燃え上がりかけた嫉妬の焔を揉み消し、何事もなかったように家に帰ることだ。自分が選んだことの結果に怯えながら。
「あのいやらしいドレスを見まして?それに下品な髪色。きっとホステスね」
閏と共にパーティ会場まで戻ってきた百合絵は、先ほど紹介された問題児(龍太郎)の婚約者に関して、ついつい声を弾ませて推測した。
「婚約者なんて嘘。あのプライドの高い男が、あんなみっともない女を相手にするわけないわ。またなにか、ろくでもないことを企んでいるんだわ」
「…………」
「今後は低俗な人間を会場に入れないよう、ガードマンを置くべきね。だから正式な招待状を作るべきだと言ったのよ。早速お母様に相談して、理事会に抗議して頂かなくちゃ」
百合絵は使命感のナイフを振りかざし、とうとう閏の鋼鉄製の忍耐の糸を切った。
「今時、髪を染めるくらい普通ですよ。ドレスも……良く似合っていた」
「あら……あなた、ああいう方が好みなの?」
「……見ず知らずの他人のことなど、放っておけば良いでしょう。それより俺はあなたの口から、蔑みの言葉を聞きたくない」
閏は苛立ちを舌に乗せ、刃のように鋭く言い放った。叱責を受けた百合絵は赤面し、瞳に涙をためて小さくなった。「ごめんなさいっ……私ったら……」
「気分が優れないので、少し外の風に当たってきます。許してくれますね?」
「ええ。ええ。どうぞ行っていらして。私はいつまでも待っていますから」
「ありがとう」
閏は百合絵のそばを離れ、飛天の間を後にした。可能な限りのスピードで廊下を横切り、通行人がいなくなったところを見澄まして駆け出す。
「っ……」
目的の場所にはもう誰もいなかった。カチカチ、カチカチカチ。閏は衝動のまま、壁に取り付けられたボタンを連打した。エレベーターは最上階に停まっていて、よぼよぼの亀が地べたを這うような、ゆっくりとした速度で下りてくる。
(来い……早くっ……)
じれったい。もう待っていられない。堪りかねた彼が、非常階段を探すべく駆け出そうとした、その時だった。
「どこへ行くつもりだ?」
パニックで真っ白になった頭に、あいつの声が響いてくる。
閏は声のした方を振り向いた。観葉植物の陰に設置された一人掛けのソファに、龍太郎が腰かけていた。優雅に足など組んで、慌てふためく閏を嘲笑うかのような態度だ。
「五分十二秒か……結構かかったな」
龍太郎は腕時計を確認して呟いた。頭の切れる龍太郎は、閏が追いかけてくることを予想して、待ち構えていたのだった。
閏はぎりりと奥歯を噛みしめ、射殺さんばかりの形相で龍太郎を睨み付けた。「青子はどこだ」
「部屋でシャワー浴びてるよ」
一緒に入ろうって言ったら、叩き出されちゃった。
龍太郎はおちゃらけて言って、閏の平常心を滅茶苦茶に打ちのめした。
「俺としてはさっさと終わらせたいんだけど、心の準備っての?必要だと思うんだよね」
絶望という名の崖縁に立ち、憎しみや恐怖が渦巻く奈落の底を見下ろす。選択肢は二つ。突き落とされるのを待つか、振り返って戦うかだ。正解なんてわからないが、確実に言えるのは、今戦わなければ愛する人が今夜、この男の物になってしまうということ。
(青子っ……)
ドイツ土産のネックレス。露店で買った安物だが、彼女は甚く気に入って、肌身離さず身に付けていた。閏から彼女への、はじめての贈り物であり、二人の絆の象徴でもある。
(青子……いやだっ……)
今夜は付けていなかった。ただそれだけのことが、まさかこれほど堪えるなんて……
「悪いな天幸寺。俺はお前が、ここまであいつに本気だとは思わなかったんだ。そうと知っていたら、くどかなかったんだけどな」
龍太郎は血の気を失い、病的に白くなった閏の顔面に向かって畳みかけた。この機会に、二度と立ち上がれないように、徹底的に痛めつけてやろうと言うのだった。
「土下座するってんなら譲ってやっても良いぜ。もっとも、青子がいいって言えばだけど」
「…………」
「うそ、うそ、冗談。そんな怖い顔するなってー。……ゲームしよう。十分やるよ。その間に青子を見付けられたら、今日のところは手を出さずにおいてやる」
龍太郎は先ほど閏を待っている間に閃いた名案を、嬉々として口にした。
「……ゲームより、もっと良い方法がある」
閏の固く握られた拳が震えているのを見て、龍太郎は素早く距離をとった。「おっと!」
「暴力は止せよ。青子に軽蔑されたくなきゃな。言ってたぜ。あんな乱暴なことする人だとは思わなかった!って……」
「っ……」
「優しい女だよな。馬鹿だけど、そこもかわいい。……お前には感謝してるんだ。あの日、お前が俺の首を絞めてくれたおかげで俺達……」
どん!!
閏の行き場を失った拳が、壁に叩き付けられる。あんまり強く打ちつけたので、骨が折れたかもしれない。龍太郎は内心でほくそ笑んだ。見たか、この苦々しい顔を!
「べつに、止めてもいいんだぜ。青子を悪いようにはしねぇよ。俺は持ち物は大事にする主義だ。お前のように、なんでもかんでも手に入る身分じゃないんでな」
「…………」
「……どうする?」
選択肢なんて、あってないようなものだった。三秒後、閏は非常階段に向かって一目散に駆け出した。そうそう、そうこなくっちゃ!
「十五分におまけしてやるよ!」




