年上の花嫁
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いつの間にか眠りこけてしまい、目を覚ましたのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。ぼんやりした頭に、トン、トン、トン、と包丁がまな板を叩く音が響いてくる。ソファから身を起こすと、かけた覚えのないタオルケットが体から落ちた。漂ってくる肉の焼ける匂いに、空きっ腹がぐーっと鳴く。
「ただいま。遅くなってごめんね」
龍太郎が戸口のところに顔を出すと、いつの間にか帰宅していた青子が、キッチンの前を慌ただしく行き来しながら詫びた。せっかちな彼女は、おかえり、と返事する隙を与えずに、小言をならべてかかる。「もー、待ってないで先に食べてれば良かったのに。冷凍庫にピラフがあったでしょ?」
「なんでわかるんだ?」
「うん?」
「俺が晩飯食べてないって」
なんでってそりゃあ、流しに食べ終わったお皿がないからだ。よしんば洗ったとしても、龍太郎は食器を拭いて食器棚に戻そうなんて面倒なことは考えない。
「外で買って食べたかもしれないだろ?」
「お小づかい、もう残ってないでしょ。ちゃーんとわかってんだから」
青子は得たり顔で言い当てて、龍太郎をこそばゆい気持ちにさせた。龍太郎は青子の尻に纏わりついて、食事の支度の邪魔をした。「火を使ってる時は傍に来ちゃだめ。危ないから、あっち行ってなさい」
「今日、どこ行ってたんだよ」
生姜焼きにインスタントみそ汁、作り置きのポテトサラダとキャベツの浅漬け。食卓に並んだ料理から目を上げず、龍太郎がたずねた。
「文化祭の準備なんて、嘘なんだろ」
「うん?」
「……会ってたのか、あいつと」
『あいつ』が誰のことを指しているか、改めて聞くまでもなかったが、青子はしらばっくれてみせた。「あいつって?」
「とぼけるなよ。天幸寺」
「なんでそう思うの?」
「…………」
龍太郎はむっつり顔で黙り込んでしまい、青子はため息を吐いた。
「……ねぇ、知ってる?よく疑う人は、よく嘘を吐く人なんだって」
「…………」
「文化祭の準備はしたよ。でもその後、パパとデートしてきた。朱華って料亭で、あわび食べてきた」
「?……パパ?」
「お休み。お皿は水に付けておいてよね」
「待てよ!パパって……!」
青子は引き留める龍太郎を無視して、バスルームに引っ込んだ。
しばらく悶々として、真相に気が付いたのは、二時間も後のことだった。実の父親にやきもち焼いていたことを知ると、龍太郎は羞恥に身悶えた。
翌朝、日も明けきらぬうちに起きてきた龍太郎に、青子は目を丸くした。
「おはよう。随分早いね。寒かった?」
龍太郎は毒気ない青子をひと睨みして、しかしリビングから出て行くわけでもなく、洗濯物干しに忙しい青子に見せ付けるように、どかっとソファに腰かけた。
「なに?怒ってんの?」
「……昨日のデートの相手、親父だろ」
「ああ、そのこと」
不意を突かれて、青子は破顔した。龍太郎をからかったことなんてすっかり忘れてた。
「親父のやつ、俺には会いに来ないくせに」
青子は苦笑して、口を尖らせる龍太郎を見た。同じ思いを経験している彼女には、彼を責めることは出来なかった。
「あんたが邪険にするからでしょ。お父さん、心配してたよ」
女手一つで青子を育ててくれた母。仕事が忙しくて、それが自分のためだとは分かっていても、独りぼっちは寂しかった。友達をたくさん作っても、男の子と付き合っても、心の隙間が埋まることはなかった。だって彼等には、帰りを待っている家族がいる。どんなに楽しく遊んでいても、夜になったら「また明日」だ。
「……怒らないんだな。疑ったこと……」
思案する青子を、龍太郎がとんちんかんなことを言って脱力させた。
「あのね。勘違いしないでね。私があの人に会いに行かないのは、あの人に迷惑かけたくないからなの。それだけなの」
九人分の未来を人質に取られていては、会いたくたって会えない。恐喝犯が何を言う。
青子が図星をつくと、龍太郎は俯き、叱られた子供のようにしょぼくれてしまった。青子はうんざりしてため息を吐いた。これじゃあどっちがいじめっ子か分かりゃしない。
「……まあ、良かったわよ。ばれたのが小悪党で」
例えば秘密を知られたのが、閏の過去をねたにして天幸寺の家から金品を巻き上げようなどと考える卑劣な人間だったら。悔やんでも悔やみきれなかったろう。
「それに、あんたに言われなくても、もう会うつもりないし」
大財閥の御曹司と、ど庶民の女子高校生。もともと、不自然な組み合わせだったのだ。その不自然さが龍太郎の過剰な興味を引き、閏の経歴や前科を調べるに至ってしまった。今後、同じことが起きないとも限らない。
「さあ、この話はもうおしまい。早くご飯食べちゃおう。急がないと、遅刻するよ」
五時限目の体育の授業中。第三東中学校に通う雨霧家の次男、雨霧蓮吾は、地面に落ちた自らの濃い影を睨んで、陰鬱なため息を吐いた。父親譲りの端正な顔を歪ませる原因は、昨朝、こうと決めたら梃子でも動かない頑固な長兄が下したある決断にあった。
『もう、会いに行っちゃだめだ』
学校を移ったり、引っ越ししたり、電話番号を変えたりと、今までにもこういうことは何度かあった。具体的な理由はわからないが、家族の不都合になりそうな『何か』が起きて、人一倍危機管理に敏感な兄が、予防線を張ったのだ。
「はあ……」
人並みの暮らしが出来るようになってなお、未だ多くの問題を抱えている雨霧家には、仕方がないことだとわかっている。しかし今回関係を絶つと決めた相手は、朴念仁の兄の思い人で、蓮吾自身もささやかな憧れを抱いている女の子。いきなりお別れと言われても、そう簡単に割り切れるもんじゃない。
「おい蓮吾、蓮吾……」
都は出禁になったのは自分のお行儀が悪かったせいだと勘違いして酷く落ち込んでいる。事情を知っている様子の和子は、何を聞いても『知らない、分からない』の一点張り。長兄の命令は絶対だし、妹達が堪えているものを、兄である自分が率先して言い付けを破るわけにもいかない。だからと言って、このままじゃあ……
「蓮吾……蓮っ!!」
「うわっ!……びっくりしたな。なんだよ?」
ふと気が付くと友人の顔が目の前にあり、蓮吾はぎょっとした。
「なんだよじゃないよ。お前も行くだろ?」
「?行くって、どこへ?」
「文化祭!千ヶ丘高校の文化祭。明日一般公開だから、みんなで行こうって話してたんだ」
「えー?俺は……」
いつものように断わろうとして、蓮吾ははっとした。千ヶ丘と言えば、青子が通っている高校だ。
「女子のグループと、俺とお前と相田の六人でさ。なあ頼むよ。お前が女苦手なのは知ってっけど、瀬良さん、お前が行かなきゃ行かないって」
青子に会いに行くのではなく、友達と文化祭を見に行くだけなら、言い付けを破ったことにはならないのでは?
「……いいよ。行くよ」
渡りに船とは正しくこのことだ。蓮吾は深く考えることなく、一も二もなく了承した。
翌朝、早起きして支度を済ませた蓮吾がおりていくと、スーツとネクタイでびしっと決めた長兄が台所に立っていた。食卓にはコーンスープやス クランブルエッグ、パストラミビーフを挟んだサンドウィッチなど、雨霧家の食卓では滅多に見ることのない、手の込んだ朝食が並んでいた。
「お前達に元気出してもらおうと思ってさ」
蓮吾が不思議そうに見つめていると、閏が彼の頭の中の疑問に気付いて言った。
「お兄ちゃん学校の行事で遅くなるから、夜はレトルトで勘弁な。戸締りとガスの元栓、頼むな」
「わかった」
「蓮吾は学校の友達と図書館だろ?車に気を付けて行けよ」
嘘を吐いたのが後ろめたくて、蓮吾は朝食をかき込むと、慌ただしく家を後にした。「行ってきます」
かなり早めに家を出たので、待ち合わせ場所のバス停には、まだ誰も来ていなかった。半時ほどすると、学年一の美少女と名高い瀬良春奈が、桃色の膝丈スカートをひるがえし、軽やかな足取りでやってきた。肩まで伸ばしたさらさらの黒髪に、目尻がきゅっと吊り上った瞼。さくらんぼみたいに赤くふっくらした唇から覗く、小さくて納まりの良い前歯。道行く男性十人のうち、八人が振り返るような愛らしさだ。噂では、財布の中に芸能事務所のスカウトマンの名刺がわんさか入っているとかいないとか……
「おはよう蓮吾君」
「ん……」
春奈とは、以前告白されて断った経緯があるので、蓮吾は少し気まずい思いをした。彼女の瞳の奥に煌めく期待には、気付かないふりをした。
「俺、知り合いを捜したいから」
学校に到着すると、蓮吾は早々に単独行動を申し出た。友人の赤井康則は、春奈と二人きりになるチャンスを今か今かと窺っていたため、快く送り出してくれた。
「事前に食券を購入してくださーい!」
「三の二の教室で一人芝居やりまーす!よろしくお願いしまーす!」
校内は、学生はもちろん、近所の子ども等や保護者で大いに賑わっていた。辺りの喧騒に負けない呼び込みの声が、あちらこちらで飛び交っている。広々としたグラウンドの外周にはフランクフルトやクレープなどの屋台が並び、中央に設置された電気部の手作りサーキットでは、白熱したミニ四駆レースが開催されている。
友人達と別れた蓮吾はまず、二年生の教室に足を運んだ。
「宮木さんなら家庭科棟にいると思うよ。階段下りたら右曲がって、廊下の先」
口端にべったりと血糊を付けたお化け屋敷の受付嬢のおかげで、目的の人物は直ぐに見つかった。
生徒達から家庭科棟と呼ばれるプレハブの二階の教室。彼女はミシンや端切れが散乱した作業台に突っ伏していた。他には誰もおらず、室内は静まり返っていた。彼女の驚く顔を想像しながら、そーっと忍び寄る。目標まで一メートルほどの距離を残し、蓮吾は立ち止まった。
繊細なレースの手袋に包まれた細い腕。大人っぽく結い上げられた髪と露わになった白いうなじ。剥き出しの華奢な肩。なめらかな背中に浮き出した、鳥の羽を思わせる貝殻骨。
「…………」
恋人は花嫁衣装を身に纏い、白い日差しに包まれて、昏々と眠り続けていた。なぜ?どうして?と頭が疑問を抱く前に、心臓がどきどきしはじめて、無意識にごくりと喉が鳴る。
「ん……」
彼女が身じろぎすると、蓮吾はパニックに陥り、伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。拍子に、近くにあった裸のマネキンががたーん!と派手な音を立てて倒れる。数秒後に、青子は目を覚ました。
「閏っ……」
薄らと瞼を開くと、瞳に飛び込んできたシルエットに、青子は心臓が止まるほど驚いた。夢の中で青子の記憶は、閏にさよならを告げた日の朝に戻っていた。さっき駅で別れたはずの彼が、なぜここに……?
次第にぼやけていた視界がクリアになり、焦点が定まる。
「……蓮吾……」
そこにいたのは、裸のマネキンを抱きかかえ、ホオズキみたいに赤い顔をした蓮吾だった。青子は人気のない、雑然とした室内を見渡し、やがて眠り込んでしまっていたことに気付いて赤面した。夢とは言え、どうして彼が追いかけてきたなんて思ったんだろう?
「青子?どうしたの……?」
不意にあふれ出した涙が、頬を伝って顎の先から落ち、柔らかな生地に吸い込まれる。自分の顔を見て突然泣き出した青子に、蓮吾は困惑した。怖い夢を見たのか、具合が悪いのかと尋ねてみたが、彼女は最後まで涙の理由を明かさなかった。
「大丈夫……?」
「ん……もう平気。ありがと」
激しい感情の波は、スコールみたいにものの二、三分でどこかへ行ってしまった。蓮吾がひとっ走りして買ってきたスポーツドリンクで失った水分を補うと、崩れてしまった化粧を直す。
青子がファンデーションを塗ったり、アイラインを引いたりするのを珍しそうに見ながら、蓮吾は変にもじもじして聞いた。「青子、化粧なんてするんだ?」
「まあ、たまにはね。……おかしい?」
「ん、良いと思う……」
蓮吾は青子の作業が終わるのを、黙って待った。コンパクトがパチン!と閉じる音を合図に、青子が切り出した。「お兄さんに聞いた?」
なにを、とは言わずもがなかだ。
「ごめん。会いに来たりして……迷惑だった?」
「ぜーんぜん。来るかなーって思ってた。って言うか、来なかったら拗ねてた」
青子の正直過ぎる回答に、胸のつかえが取れた蓮吾は、あははと笑った。
「みんな、どうしてる?」
「どうもこうもないよ」
家中暗くて、毎日葬式みたいだ。蓮吾は今朝の朝食時の様子を思い返して答えた。
それを聞いた青子は、不謹慎なことに、ちょっぴり喜んだ。
「なんか、急にごめんね。実は……」
「彼氏が出来たんだろ?知ってるよ。前にハンバーガー屋で会った人?」
「うん。そう、かな……」
言葉を濁して自嘲したのを照れ笑いだと勘違いした蓮吾は、むっと顔を顰めた。
「俺はあの人、止めた方が良いと思うな。……って、違う。そうじゃなくて……」
聞きたいのは、彼氏のことなんかじゃない。青子と閏が決別した本当の理由。これが知りたいのだ。日頃から警戒心の強い兄の方から別れを切り出すならともかく、青子の方から拒絶したとなると、余程のことが起きたに違いない。
「青子、あのさ……」
蓮吾が核心に迫ろうと口を開きかけると、突然家庭科室の扉が開き、友人の平井良子と佐々木舞香が飛び込んできた。驚いた蓮吾は出かかった言葉を飲み込み、身をかがめて作業台の陰に隠れた。
「青子ー!ごめーん!」
「良子?どうしたの?」
「竹下君、昨日一年の女子に告られて、付き合うことにしたんだって。それで、彼女に悪いから今日の新郎役は辞退したいって言い出して……」
良子は胸の前で両手を合わせて、申し訳なさそうに打ち明けた。
「そんなあ」
「ごめんね、ごめんね。今から急いで代打探すから!」
青子は時計を見上げた。そうは言っても、ショーの開演まであと一時間もない。不安顔の彼女に、舞香が勇ましく約束した。「いざとなったら、私がタキシード着て一緒に歩いてあげる」
「あ、そうだ!岡野!岡野は!?」
「美術部はボディ・ペインティングやるって言ってたから、今頃絵の具まみれじゃない?」
「くぁー!いつもは青子にべったりのくせに、どうしてこういう時に限って!」
とにかく、暇そうな男子に片っ端から声をかけてみるしかない。
「あのー……」
あいつはどうだ、こいつはどうだと言い合っていると、作業台の下からそろそろと手が挙がり、良子と舞香はぎょっとした。
「俺、やっても良いよ」
蓮吾が申し出て、青子は驚いた。剣道部顧問の戸田の話では、蓮吾はあまり目立つことが好きではないとのことだった。絶対断わられると思ったから、頼まずにいたのに……
「本当に良いの?」
「うん。あ、でもサイズが……」
「大丈夫!十五分で直すから!」
家政部部長は保証して、蓮吾の腕を引いた。誰だか知らないが、助かった!
「お礼は後ね!時間ないから、こっちきて!急いで!」
蓮吾は男性モデルの控室に連行され、舞香は他の部員達を呼びに出て行った。嵐が過ぎ去ると、家庭科室に静けさが戻ってくる。青子はほう。と安堵の息を吐いた。
それにしても驚いた。兄弟と言うだけあって、閏と蓮吾は良く似てる。外見と言うより、雰囲気や気配、目には見えない部分が……
こんな心臓に悪い展開は二度とごめんだと思った青子だったが、二十分後には更なる衝撃が、彼女を待ち受けていた。
「やっぱり、おかしい?」
確かな審美眼を持つ家政部部長と熱心な部員達の手によって、華麗に変身させられた蓮吾は、不安でたまらない様子でたずねた。
「本当はジャケットもあったらしいんだけど……」
スズランのブートニアを飾ったグレーチェックのベストに、黒のパンツ。頭にはベストと同じ生地で作られたキャスケットを被り、首には白い蝶ネクタイを絞めている。髪型や眉を綺麗に整えられ、唇には薄く色をのせられ……他にも青子が気付かない工夫が、たくさん施されているに違いない。
「青子……?どうかした?」
「ううんっ……すっごい、格好良い。モデルの人みたい」
青子は手を叩いて絶賛した。
蓮吾は照れた風に笑って、青子に掌を差し出した。「行こう。みんな待ってるよ」
家庭科室を出ると、下で待っていた良子が、腕を組んで階段を降りてくる二人に向かって、写真部から借りてきた一眼を構えた。「二人とも、そのままストップ」
「はい、笑ってー」
この時撮影された写真は引き伸ばされて、長い間家庭科室の窓辺に飾られることになるのだが、緊張した面持ちの新郎と、ピースサインではにかむ新婦には知る由もなかった。




