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ナレソメ  作者: kaoru
秋嵐来る
30/80

青子のけじめ

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

 料理どころの気分ではなくなってしまい、青子は和子を駅まで送り届けた。

 未だ日の傾き切らない明るい道を、てくてく、てくてく。お互い別々の思考に囚われていて、終始無言だった。和子が漸く口を開いたのは、駅の改札口を抜け、ホームで電車を待っている時だった。「ねぇ青子さん、うちにきなよ」

「あの龍太郎って人、危険だよ。青子さんのお母さん、ほとんど帰ってこないんでしょ?あんな人と家に二人きりなんて、なにをされるかわからないよ」

 耳年増の和子は龍太郎を女の敵と決め付け、青子の貞操を案じているのだった。

「ありがと和子ちゃん。でも、私は大丈夫」

 青子は和子を安心させるように、しっかりと保証した。

 龍太郎は確かに助平で、飲兵衛で、悪太郎だが、取り敢えずの常識は持っている男だ。無一文の上、居候の身では、そう大胆なことも出来ないだろうと踏んでいる。それよりも心配なのは、かっとなった龍太郎が閏や子ども達の秘密を、世間に公表してしまうことだ。

「本当にごめんね。私のせいで、こんなことになって……」

 この度の一件は紛れもなく、青子の軽薄さ、迂闊さが招いた事態だ。一つは、龍太郎の人柄や性格を良く調べもせず、彼に近付いたこと。もう一つは、リスクがあると知りながら、閏や雨霧家の子ども達と交際を続けていたこと。いずれも、もっと慎重に行動していれば防げたはずだ。

「そんな……青子さんのせいじゃ……」

「ううん。今回のことは、全部私の責任……皆には、どう謝って良いかわからない」

 今日、閏は気付いただろう。いやもっと以前から……出会った時から気付いていたのかもしれない。身分違いの友人を持つことに、なんのメリットもないってこと。青子の存在が、閏の大切な家族を傷付け、彼自身の将来まで台無しにしてしまうかもしれないってことに……

「あのバカ(龍太郎)のことは、絶対私がなんとかするから。取引のことは、閏には内緒ね」

「でも……」

「つまらないことで、あの人を煩わせたくないの。邪魔になりたくないの。それだけは嫌なの」

「青子さん……」

「お願い、和子ちゃん」

 青子は有無を言わせぬ切実さで懇願した。

「青子さん、何を考えているの……?」

 青子は微笑んで答えなかったが、和子の心配は的中することになった。

 その夜一晩かけて、青子は考えた。これまでのことや、これからのこと。正解はシンプルで、驚くほど簡単に出た。煩悶するまでもなかった。とはいえ眠れるわけでもなく、長い夜を、楽しかった夏休みの思い出に浸って過ごした。

 空が白みはじめるまで待って、青子は閏にメールを打った。『話があるので会いたい』直ぐに返信がきた。『俺も』

「どこへ行く気だ?」

 出かけの支度をして玄関に下りてみると、物音に気付いた龍太郎が後を追いかけてきた。

「けじめを付けに行くのよ」

「……俺も行く」

「あんたは寝てなさい。まだ早いんだから」

「…………」

「直ぐ帰ってくるから。朝ごはん、帰ってきたら一緒に食べよう」

 ふてくされた顔をする龍太郎に言い聞かせて、青子はドアノブに手をかけた。

「……俺は、いやなやつか?青子は、俺が嫌いか?」

 いざ出て行こうとすると、龍太郎がその背中に向かってたずねた。青子はきょとんとして振り向いた。昨日はあんなに強気だったのに、今は悪戯した子供みたいに、拗ねた目をしている。青子は苦笑した。

「何があったか知らないけど、お友達とは仲良くしてほしいな。お姉ちゃんとしては」

「……五歳児か」

「でしょ。学校で会ったら、ちゃんとゴメンすんのよ」


 人目を考えて、待ち合わせ場所は青子が住む町から二駅目の、無人駅にした。休日で朝早いせいもあり、小さく簡素なホームには、彼以外人っ子一人いなかった。

「おはよう」

 長い足を投げ出しベンチに座っていた閏は、立ち上がって青子を出迎えた。昨日の一件が尾を引いているのか、少し緊張している風だった。強張る彼の顔に向かって、青子はにっこりした。

「今朝は涼しいね」

 近くの民家から、朝食の良い香りが流れてくる。あまり遅くなるわけにはいかない。聞かん坊の弟が、やきもきしながら青子の帰りを待っているだろうから。

「龍太郎と、付き合うことにした」

 青子が何気なく告げると、閏の蒼い瞳が揺れた。動揺は一瞬だった。閏は胸にため込んでいた諸々を、小さな吐息一つで消化した。

「じゃあ、もう、会えないな」

 青子は彼の口から呟かれた言葉の裏側に……未練や期待に気付かないふりをして、はっきりと頷いた。「そうだね。会えないね」

「短い間だったけど、楽しかった。皆に会えて良かった」

「…………」

「今まで本当に、ありがとうね」

 言いながら、青子は閏の蒼い瞳を、これで見納めだという風にじっと見つめた。これからは、町で偶然会っても、他人のふりをする。きっとそうする。そのことを寂しく思う日もあるだろうけれど、それが大人というものだ。肝心なのは、閏と子ども達の生活を守ること。後悔はしない。

「……青子……俺っ……」

 何事か言いかけた閏は、青子の下瞼に薄らと苦悩の痕を見付けて、のど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「……俺達は、友達だったかな……?」

 口から出てきたのは、言おうと思っていたのとは、全く別の言葉だった。

「友達だよ。今までも、これからもずっと。ずーっと」

 気軽に会えなくはなるけれど、困った時はいつでも力になるし、助けが必要な時は飛んでいく。青子が約束すると、閏の顔に笑が戻った。

「さよなら。あんまり無理しないでね」

「青子も、元気で」

「和子ちゃんに伝えてくれる?お料理、ちゃんと教えてあげられなくて、ごめんねって」

「わかった」

 戻りの電車が鉄の身体を軋ませながらやってきて、二人は別れの握手を交わした。閏は油断していた彼女の身体をぐいと引き寄せ、しっかりとその腕に抱きしめた。

「ありがとう、青子。俺の方こそ、あんたに出会えて良かった。あの日、俺を拾ってくれたのがあんたで、本当に良かった」

 閏の厚い胸は、もう二度と会わないという青子の決心を揺るがすほどに頼もしく、逞しかった。一瞬で全身を駆け抜けた激しい喜びに、青子は放心した。

 ワンマン列車の窓からは、ジャージ姿の学生達が、目下で固く抱き合う二人を珍しそうに見ていた。近くの扉から下車したサラリーマンは、鬱陶しそうな視線で彼らを一瞥して、足早に脇を通り抜けて行く。

 扉が閉まる直前、閏は青子を解放し、どこかぼんやりしている彼女を車内に押し込んだ。いくらもしないうちに電車が動き出して、青子を本来あるべき場所へと運んでいく。

 暗く沈んだ民家の屋根。河川をまたぐ鉄橋。秋になり、輝きを失いつつある緑。窓外の景色が飛び去っていくのを奇妙な心地で眺めながら、不規則な揺れに身を任せていて、青子ははたと気が付いた。

(私……あの人のこと……)

 剣だこだらけの大きな手や、一見冷たく見えるけれど、表情豊かなアイスブルーの瞳。無信条を装いながら実は情熱家なところとか、なんでも完璧に出来るくせに、料理は苦手なところとか。努力家で、頑固で、他にもたくさん、たくさん……

(……好きだったんだ……)

 切なさは水面に広がる波紋のように、青子の心を揺らした。過ごした時間は短いけれど、真心を尽くし合える友人。心の底から尊敬できる、兄のような人。それだけだと思ってた。ほんの、今の今まで。

「……大丈夫ですか?」

 派手な蛍光グリーンのジャージを着た学生の一人が、呆然と立ち尽くす青子に声をかけた。

「大丈夫です。どうもありがとう」

 しっかりと答えて、青子は強張った肩の力を抜いた。

 手遅れになる前に気付けて、本当に良かった。おかげで、かけがえのない人の未来に傷を付けてしまわずに済んだ。

 家に帰り着いた青子は、肌身離さず身に付けていた友情のネックレスを、胸中に散らかった思いと一緒に、机の引き出しの奥にしまい込んだ。少し寂しくなった胸元には、微かな痛みと、楽しかった記憶だけが残った。



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