青子のけじめ
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料理どころの気分ではなくなってしまい、青子は和子を駅まで送り届けた。
未だ日の傾き切らない明るい道を、てくてく、てくてく。お互い別々の思考に囚われていて、終始無言だった。和子が漸く口を開いたのは、駅の改札口を抜け、ホームで電車を待っている時だった。「ねぇ青子さん、うちにきなよ」
「あの龍太郎って人、危険だよ。青子さんのお母さん、ほとんど帰ってこないんでしょ?あんな人と家に二人きりなんて、なにをされるかわからないよ」
耳年増の和子は龍太郎を女の敵と決め付け、青子の貞操を案じているのだった。
「ありがと和子ちゃん。でも、私は大丈夫」
青子は和子を安心させるように、しっかりと保証した。
龍太郎は確かに助平で、飲兵衛で、悪太郎だが、取り敢えずの常識は持っている男だ。無一文の上、居候の身では、そう大胆なことも出来ないだろうと踏んでいる。それよりも心配なのは、かっとなった龍太郎が閏や子ども達の秘密を、世間に公表してしまうことだ。
「本当にごめんね。私のせいで、こんなことになって……」
この度の一件は紛れもなく、青子の軽薄さ、迂闊さが招いた事態だ。一つは、龍太郎の人柄や性格を良く調べもせず、彼に近付いたこと。もう一つは、リスクがあると知りながら、閏や雨霧家の子ども達と交際を続けていたこと。いずれも、もっと慎重に行動していれば防げたはずだ。
「そんな……青子さんのせいじゃ……」
「ううん。今回のことは、全部私の責任……皆には、どう謝って良いかわからない」
今日、閏は気付いただろう。いやもっと以前から……出会った時から気付いていたのかもしれない。身分違いの友人を持つことに、なんのメリットもないってこと。青子の存在が、閏の大切な家族を傷付け、彼自身の将来まで台無しにしてしまうかもしれないってことに……
「あのバカ(龍太郎)のことは、絶対私がなんとかするから。取引のことは、閏には内緒ね」
「でも……」
「つまらないことで、あの人を煩わせたくないの。邪魔になりたくないの。それだけは嫌なの」
「青子さん……」
「お願い、和子ちゃん」
青子は有無を言わせぬ切実さで懇願した。
「青子さん、何を考えているの……?」
青子は微笑んで答えなかったが、和子の心配は的中することになった。
その夜一晩かけて、青子は考えた。これまでのことや、これからのこと。正解はシンプルで、驚くほど簡単に出た。煩悶するまでもなかった。とはいえ眠れるわけでもなく、長い夜を、楽しかった夏休みの思い出に浸って過ごした。
空が白みはじめるまで待って、青子は閏にメールを打った。『話があるので会いたい』直ぐに返信がきた。『俺も』
「どこへ行く気だ?」
出かけの支度をして玄関に下りてみると、物音に気付いた龍太郎が後を追いかけてきた。
「けじめを付けに行くのよ」
「……俺も行く」
「あんたは寝てなさい。まだ早いんだから」
「…………」
「直ぐ帰ってくるから。朝ごはん、帰ってきたら一緒に食べよう」
ふてくされた顔をする龍太郎に言い聞かせて、青子はドアノブに手をかけた。
「……俺は、いやなやつか?青子は、俺が嫌いか?」
いざ出て行こうとすると、龍太郎がその背中に向かってたずねた。青子はきょとんとして振り向いた。昨日はあんなに強気だったのに、今は悪戯した子供みたいに、拗ねた目をしている。青子は苦笑した。
「何があったか知らないけど、お友達とは仲良くしてほしいな。お姉ちゃんとしては」
「……五歳児か」
「でしょ。学校で会ったら、ちゃんとゴメンすんのよ」
人目を考えて、待ち合わせ場所は青子が住む町から二駅目の、無人駅にした。休日で朝早いせいもあり、小さく簡素なホームには、彼以外人っ子一人いなかった。
「おはよう」
長い足を投げ出しベンチに座っていた閏は、立ち上がって青子を出迎えた。昨日の一件が尾を引いているのか、少し緊張している風だった。強張る彼の顔に向かって、青子はにっこりした。
「今朝は涼しいね」
近くの民家から、朝食の良い香りが流れてくる。あまり遅くなるわけにはいかない。聞かん坊の弟が、やきもきしながら青子の帰りを待っているだろうから。
「龍太郎と、付き合うことにした」
青子が何気なく告げると、閏の蒼い瞳が揺れた。動揺は一瞬だった。閏は胸にため込んでいた諸々を、小さな吐息一つで消化した。
「じゃあ、もう、会えないな」
青子は彼の口から呟かれた言葉の裏側に……未練や期待に気付かないふりをして、はっきりと頷いた。「そうだね。会えないね」
「短い間だったけど、楽しかった。皆に会えて良かった」
「…………」
「今まで本当に、ありがとうね」
言いながら、青子は閏の蒼い瞳を、これで見納めだという風にじっと見つめた。これからは、町で偶然会っても、他人のふりをする。きっとそうする。そのことを寂しく思う日もあるだろうけれど、それが大人というものだ。肝心なのは、閏と子ども達の生活を守ること。後悔はしない。
「……青子……俺っ……」
何事か言いかけた閏は、青子の下瞼に薄らと苦悩の痕を見付けて、のど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「……俺達は、友達だったかな……?」
口から出てきたのは、言おうと思っていたのとは、全く別の言葉だった。
「友達だよ。今までも、これからもずっと。ずーっと」
気軽に会えなくはなるけれど、困った時はいつでも力になるし、助けが必要な時は飛んでいく。青子が約束すると、閏の顔に笑が戻った。
「さよなら。あんまり無理しないでね」
「青子も、元気で」
「和子ちゃんに伝えてくれる?お料理、ちゃんと教えてあげられなくて、ごめんねって」
「わかった」
戻りの電車が鉄の身体を軋ませながらやってきて、二人は別れの握手を交わした。閏は油断していた彼女の身体をぐいと引き寄せ、しっかりとその腕に抱きしめた。
「ありがとう、青子。俺の方こそ、あんたに出会えて良かった。あの日、俺を拾ってくれたのがあんたで、本当に良かった」
閏の厚い胸は、もう二度と会わないという青子の決心を揺るがすほどに頼もしく、逞しかった。一瞬で全身を駆け抜けた激しい喜びに、青子は放心した。
ワンマン列車の窓からは、ジャージ姿の学生達が、目下で固く抱き合う二人を珍しそうに見ていた。近くの扉から下車したサラリーマンは、鬱陶しそうな視線で彼らを一瞥して、足早に脇を通り抜けて行く。
扉が閉まる直前、閏は青子を解放し、どこかぼんやりしている彼女を車内に押し込んだ。いくらもしないうちに電車が動き出して、青子を本来あるべき場所へと運んでいく。
暗く沈んだ民家の屋根。河川をまたぐ鉄橋。秋になり、輝きを失いつつある緑。窓外の景色が飛び去っていくのを奇妙な心地で眺めながら、不規則な揺れに身を任せていて、青子ははたと気が付いた。
(私……あの人のこと……)
剣だこだらけの大きな手や、一見冷たく見えるけれど、表情豊かなアイスブルーの瞳。無信条を装いながら実は情熱家なところとか、なんでも完璧に出来るくせに、料理は苦手なところとか。努力家で、頑固で、他にもたくさん、たくさん……
(……好きだったんだ……)
切なさは水面に広がる波紋のように、青子の心を揺らした。過ごした時間は短いけれど、真心を尽くし合える友人。心の底から尊敬できる、兄のような人。それだけだと思ってた。ほんの、今の今まで。
「……大丈夫ですか?」
派手な蛍光グリーンのジャージを着た学生の一人が、呆然と立ち尽くす青子に声をかけた。
「大丈夫です。どうもありがとう」
しっかりと答えて、青子は強張った肩の力を抜いた。
手遅れになる前に気付けて、本当に良かった。おかげで、かけがえのない人の未来に傷を付けてしまわずに済んだ。
家に帰り着いた青子は、肌身離さず身に付けていた友情の証を、胸中に散らかった思いと一緒に、机の引き出しの奥にしまい込んだ。少し寂しくなった胸元には、微かな痛みと、楽しかった記憶だけが残った。




