彼と彼女のはじめまして
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人が動き回る気配に目を覚ました雨霧蓮吾は、目に飛び込んできた室内の様子に驚き、ソファを飛び起きた。
「…………」
ここは一体どこだろう?兄弟たちは?
ふと視線を下げると、傍らに、タオルケットを抱きしめて眠っている兄がいた。蓮吾は漸く昨夜の出来事を思い出した。妹のシッターから連絡があり、慌てて迎えに行った先で出会った、女の自宅だ。
耳を澄ませば、キッチンの方から軽やかな足音が聞こえた。美味しそうな朝食の香りが、ぴんと張った朝方の空気を華やかに彩っている。メニューはたぶん、卵と味噌汁だ。
蓮吾はリビングを出ると、足音を忍ばせてキッチンへ向かった。Tシャツ短パン姿の、ロングヘアーの女が、右へ左へ忙しく動き回っていた。蓮吾は扉の所に立って、彼女が皿を出したり、キュウリをつまみ食いしたりするのを、じっと見ていた。
「あ、起きた?おはよう」
しばらくすると、女は……宮木青子は蓮吾に気付いてあいさつした。
「おはよう」
「朝ごはん、食べられそう?」
「ん……食う」
朝食のメニューは、オムレツにナスの味噌汁。キュウリの漬物、炊き立てのご飯だった。蓮吾がそれ等を残らず平らげた頃、青子に連れられて、支度を済ませた都が起きてきた。
「おいしー!ケチャップ食パンよりおいしー!」
「だから、余計なこと言うなってー」
兄の閏が目を覚ましたのは、全員の朝食が終わって、片付けものをしている時だった。青子が洗った食器を、蓮吾が拭いて、都が応援する。三人でわいわいやっていると、だだだだ!と廊下を駆け抜ける音がして、閏がキッチンに飛び込んできた。
「都!」
目を覚まして、見覚えのない景色に驚いたんだろう。そして妹のお迎えのことを思い出し、更に驚いたんだろう。閏の顔は真冬のプールに飛び込んだみたいに真っ白だった。
「良かった……!無事で……」
「うる君。おはよう」
「ごめんな。お兄ちゃん、昨日……」
「良いの。アオコちゃん、迎えに来てくれた」
「?アオコちゃん?」
閏は漸く、彼女の存在に気が付いた。青子は閏に背を向けて、一心不乱に洗い物を片付けていた。閏はその隣に立つ呆れ顔の弟に、眼差しで問いかけた。『お前、なんでここにいるんだ?その子、誰だ?』
「兄貴、昨日の晩、この家の前で倒れてたんだ」
蓮吾は皿を拭く手を休めることなく、青子に代わって説明した。
「そうだ……都を迎えに行こうとして急いでて、電柱にぶつかって、そのまま……」
どんだけそそっかしいのよ!青子は思わず心の内で突っ込んだ。
「親父は迎えに来られないって言うし、俺一人じゃ兄貴を動かせないから、泊めてもらったんだ」
「そうだったのか……」
閏は納得して、青子の頑なな背中に近付いた。
「アオコさんと仰いましたか。本当にありがとうございました」
「…………」
「妹ばかりか蓮吾まで、すっかり迷惑をかけてしまったみたいで……」
青子は漸く振り返って閏を見た。髪は寝ぐせで跳ね上がり、目頭には目やにがこびり付いている。昨日の昼間のような輝きは、感じられない。近所のコンビニやレンタルビデオ店で見かけそうな感じだ。少なくとも青子の目にはそう映った。
『アオコん家は母子家庭だから、男に夢見てんだよね』
青子はふと思い出した友人の言葉に反論した。
「……んなこたない」
「は?」
「べつに。……それより、良子に謝んなさいよね」
「?良子?」
「忘れたとは言わせないよ。昨日の昼間、あんた達が虚仮にした私の親友。あの子、傷ついてた」
しばらく考えて、閏は昨日のトラブルを思い出した。
「あの時の威勢のいい啖呵、君か!」
「思い出したみたいね」
「しかし、あれは……」
「俺が悪いんじゃないって言いたいんでしょ。あたしに言わせりゃ、黙って聞いてたんだから同罪だ。よってたかって女の子いじめるなんて、男の風上にも置けないやつ」
面倒をかけられた腹いせに、言いたいこと言ってやった。蓮吾は触らぬ神にたたりなしとばかりに気配を殺していて、都は青子の尻にまとわりついて、「どうざいってなに?かざかみってなに?」と聞きまくった。
「悪かった……あの時は、俺も限界で……」
「私に謝ったってしょうがないでしょー。さあさあ、起きたなら早く出てってよね。偏差値三十の馬鹿にだって、休日の予定くらいあるんだからさ」
青子は厭味ったらしく言って、三人を(主に閏を)家から叩き出した。
帰り際、閏は玄関先で再度青子に陳謝した。
「この礼は、近いうちに必ず……」
「べつに、あんたのためにやったわけじゃないから」
ただの口約束だと思った青子は、素っ気なく拒否して、蓮吾に包みを手渡した。
「これは?」
「お弁当。部活って言ってたでしょ?簡単なサンドイッチだけど」
「あ、ありがとっ……」
「本当はケーキの残りも持たせてあげたいんだけど、生クリーム溶けちゃうから、また今度ね」
頬を染めて包みを受け取る弟の姿を見て、閏は驚愕した。見間違いじゃないかしらと思って、瞼を擦ったり、瞬いたりした。
「いいなあー!いいなあー!」
「都ちゃんの分もね」
都は酷く喜んで、自分の分の弁当を大事そうに抱えて駆けて行った。蓮吾がその後を追いかけて行き、二人きりになったところで、青子は再び閏に向き直った。
「言っとくけど、良子に謝らない限り、お礼も謝罪も受け付けないから」
言い捨てて、青子は荒々しくドアを閉め、トラブルという名の彼を視界から遮断した。
ぞんざいな扱いをされた閏が、仲間を引き連れて青子の学校に乗り込んできたのは、その三日後のことだった。
「なー、青子。帰りに映画行こうぜ。お前が観たいって言ってたやつ、今日からだろ?」
「パース。そんな気分じゃなーい」
「んだよ。最近のり悪いのなー。なんかあったんかー?なー、なー」
昼休み。幼馴染の岡野貴志の誘いを素気無く断り、青子は机に突っ伏した。雨霧兄弟との一件があってからというもの、勉強にも遊びにも身が入らない。青子は後悔していた。
(ちょっと、言い過ぎたかな……)
舞香が言う通り、閏本人が良子を虐めたわけじゃない。付き合っている友人が下衆だからって、彼自身もそうだとは限らない。だとすれば、あの態度はあまりにも酷かった。
「潔癖かあ……」
「あん?なんか言ったか?」
「べーっつにー」
とはいえ、終わってしまったことだ。気にしたって仕方がなかった。なぜなら、もう二度と彼に会う機会はないだろうし、彼が青子の態度を気にしているとも思えなかった。なにしろあっちは、インテリ・イケメン・金持ちと、三拍子揃ってる。許しや触れ合いを必要としない、付き合いたい人間とだけ付き合っていける、ラッキーで上等な人種である。「ねえ!あれ、見て!」
「うそ!魁星学園の生徒じゃない!?なんでうちの学校に!?」
青子がぐずぐず悩んでいると、教室の後ろの方が騒がしくなった。
「アオコ!アオコ!ちょっと来て!」
「なに?なんかあったの?」
「この間の星学の連中が、乗り込んできたんだって!」
「ええー?」
窓辺からグラウンドを見下ろせば、確かに魁星学園の生徒達が校舎に向かって歩いてくるところだった。集団の先頭を歩いているのは、閏だ。青子は目を疑った。
「あの真ん中の人、誰!?超やばいじゃん!」
「モデルみたーい!足長ーい!顔小っちゃーい!」
「私知ってる。二年の学年首席で、東大合格確実って言われてる人だよ。名前は確か……天幸寺。天幸寺閏」
クラスメートの女子達の話に聞き耳を立てていた青子は、はて?と首を傾げた。……天幸寺?雨霧じゃなくて?
「天幸寺って、あの天幸寺グループの?」
「うっそ。大金持ちじゃん!」
「そ。捕まえれば玉の輿間違いなし!おまけにスポーツ万能で、去年の全国高等学校剣道大会の優勝者だって」
へぇ。と、青子は思った。青子の脳裏にふと、三日前の閏の姿が浮かんだ。
(……人違いじゃない……?)
「競争率高そー。彼女とかいるのかな?」
「それらしい人はいるみたいだよ。許可なく近付くと抹殺されるらしい」
「怖っ!」
「だが、危険を冒す価値はある」
いかにも。と、少女たちは頷き合った。インテリで、イケメンで、金持ちで、彼女いない男なんて希少生物だ。絶滅危惧種だ。ハンターの血が騒ぐってもんだ。
「そう言えばあんたは何でそんな詳しいの?」
「うちの親せきのお姉ちゃんの友達の従弟の弟が、魁星だから」
「遠いなー……」
魁星学園の生徒達が視界から消えると、彼女達は我勝ちに教室を出て行った。残ったのは先日トラブルに巻き込まれた青子と良子、舞香を含めた数人と、俗事に興味のない孤高の民達だけだった。
「きっと抗議しに来たんだよ。青子が鞄なんか投げるからー」
「ええ?私のせいかい?」
「どうする?このまま逃げちゃう?」
そうこうしている内に、頭上のスピーカーから、校内アナウンスが鳴り響いた。
『二年一組、宮木青子と愉快な仲間達。直ちに校長室に出頭しなさい。繰り返します。宮木あんぽんたんと愉快な……』
青子と友人達は仕方なく、校長室に向かった。
「なんか用ですか?」
校長室には、やはりと言うべきか閏と、先日トラブった魁星の男子生徒達がいた。青子は良子や舞香を背に庇いながら、室内にいた全員の顔をじっくり、一人一秒ずつ睨め回した。
「実はな。こちらの生徒さん達が、どうしてもお前等に謝罪したいと言うんだ」
影の薄い校長先生の代わりに発言したのは、生徒指導の大下章介先生だった。さっきの放送も、お茶目な彼の仕業に違いなかった。
「改めて謝るような連中じゃないって、言ったんだけどなぁ」
「大下、酷い。教育委員会に訴えてやる」
「おほほ、やってみんしゃい」
軽口を叩き合っていると、閏がずいっと青子の前に進み出てきた。青子はぎくっとしたが、彼の視線は青子を通り越して、彼女の背後の良子に注がれていた。
「先日は、申し訳ありませんでした。あの後、女性に取るべき態度ではなかったと猛省しました」
「え?え?」
「あなたを傷付けたこと、とても後悔しています。私が責任を持って、二度と彼等に卑劣な真似はさせません。お怒りはごもっともですが、今回だけ。私の顔に免じて、許してやっては下さいませんか?」
美しい顔面から繰り出されるスマイル攻撃に、良子はたちまちノックアウトされた。友人達は黄色い悲鳴を上げ、青子はちょっぴりジェラシーした。
目を白黒させる良子に、青子は助け船を出した。「どうする?許してやる?」
「ゆ、許すもなにも、私も悪かったんです……こっちこそ、ごめんなさい」