恋は卵焼き色
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「龍!龍太郎!起きなさい!」
「んー……」
「起きなさい!起きろ!急がないと遅刻するぞ!」
まことに不本意ではあるが、かつての危険な恋人が世話の焼ける弟へと進化して数日。寝起きの悪い龍太郎を叩き起こして、学校へ行く支度をさせるのが、毎朝の青子の日課となっていた。
「ほら顔洗って!着替えて!急いで!……私のヘアバンド、使っちゃだめよ!」
龍太郎が宮木家に居候するようになってから、青子の日常は劇的に……とまではいかないものの、そこそこ変化した。朝食の卵がオムレツから目玉焼きになり、味噌汁が合わせ味噌から赤だしになり、お風呂の温度が少し温くなって、睡眠時間が一時間短くなった。
「別に良いんだよ、遅刻したって。どうせ大した授業はないんだから」
「そんなら、お弁当食べに行っといで」
「……今日なに?」
「ハンバーグと焼きナス」
「残り物か」
「文句言わないの」
細かいことをあげればきりがないが、一番の変化はなんと言っても、毎朝二人分の弁当を作るようになったことだ。晃一に銀行口座を解約され、今までは際限なく使えていたお金がお小づかい制(一か月二万円!)になった。やり繰りに苦心している姿を見て、かわいそうになってしまったというのが、一番の理由だ。
「ちゃんと毎日学校行ってるんでしょうねー?まさかどっかでサボってたり……」
「うるさいな行ってるよ」
同情したのが運の尽き。今では「弁当がなきゃ学校行かない」なんて脅される始末。なにが悲しくて振られた男の世話を焼かなきゃならないんだと思いながらも、気分はすっかり子どもを甘やかす駄目な母親だ。
「夕飯はエビフライが食べたい」
まあ、ちゃんと約束を守っているようだし、多少のわがままは許してやるか。
「迎えに行くから、校門で待ってろよ。買い物は帰りにすれば良いだろ」
「付いてくる気?言っとくけど、なにも買わないからね。それから、今夜の晩御飯はアジフライです」
「なんで!エビは!」
「だめよ高いんだから。おじさんからもらってる生活費にも限りがあるの。贅沢してたらたちまち破産よ」
青子は尤もらしい嘘を吐いた。龍太郎の生活費として晃一からかなりの金額が通帳に振り込まれたが、公表はすまいと、青子は固く心に誓っていた。持っていてもろくなことに使わないので、お金なんかない方が本人のためだ。これを機に、彼にはまっとうな金銭感覚を取り戻してもらうつもりだ。
「エビ……」
「おいっしいーアジフライ作るから。ね!」
恨めしそうな視線を寄越す龍太郎を、強引な笑顔で丸め込んで、学校へ送りだす。ここ最近の宮木家で頻繁に見られる朝の光景である。小さな喧嘩はままあるものの、何事もなく日々を過ごせていることを思うと、出だしはまずまず順調と言えた。
「お願い!この通り!」
恙なく一日のカリキュラムを終了し、放課後の家庭科棟。友人の平井良子は、両手を合わせて青子に懇願した。
「うーん、でもなあ……」
「そこをなんとか!本当に困ってるの!」
良子が部長を務める千ヶ丘高校家政部の伝統である、ウェディング・ドレス製作。部員達は文化祭の目玉とも言えるファッション・ショーを成功させるため、一年もかけて準備を進めており、特に文化祭が間近に迫ったこの時期は、夜中まで家庭科棟の電気が消えることはない。服飾や美容の専門を目指す子も多い千ヶ丘高校家政部は運動部に負けないくらいスポ魂で、そんな彼女達の厳しい眼鏡にかなったモデルが、新郎役である彼氏と一緒に自転車で水道工事現場の穴に転落したというのだから、これは一大事だった。
「他にできそうな子がいないの!青子なら身長ぴったりだし、人前も平気でしょ?後でなんでも好きなもの奢るからさ!ね!お願い!」
「私は構わないけど……新郎役は大丈夫なの?」
模擬とはいえ、独りぽっちでランウェイを歩くのは勘弁してほしいところだ。ドレスのモデルはほとんどが恋人同士で、ただでさえ肩身が狭いと言うのに、まるでパートナーに土壇場で逃げられちゃったみたい。
良子は胸を叩いて保証した。「任せて。当日までには、代役を用意する」本当に大丈夫かなあ?
不安でいっぱいの文化祭当日を待つ間に、宮木家では第一回目の料理教室が開催され、和子がハート柄のエプロンを持参してやってきた。
「いらっしゃい和子ちゃん。準備できてるから、上がって上がって」
「お邪魔します」
和子は玄関に男物の靴を見付け、小声で青子にたずねた。「あの人、きてるの?」
大事な相棒を失くした龍太郎は、手持無沙汰に、朝からリビングのソファに寝そべって、だらだらとテレビなんか観ている。
「ごめんね。こっちには顔出さないように言ってあるから」
二人は、龍太郎がいるリビングの前をこそこそ通り抜けて、キッチンに移動した。
「じゃあ、まずは基本の卵焼きからね」
「はい、先生」
専用の小さな四角いフライパンに油を敷き、調味料を加えた卵液を流し込む。
「こつは卵を混ぜすぎないことと、その都度油をしっかり敷いて、強火で焼くこと。そうそう、大きな気泡を潰しながらね」
巻くのに手間取って焼き過ぎてしまったり、卵液を入れ過ぎて上手に巻けなかったり、焦って卵液をこぼしてしまったり、油が少なすぎて焦げ付いてしまったり。素直な和子は、失敗まで模範的だった。
「たくさんあるから、大丈夫。もう一回やってみよう」
落ち込む和子を励まして、市販の鶏卵(一〇個入り)二パックを使用し、色も形も様々な卵焼きを六個焼き上げた。その間に、退屈を持て余した龍太郎が三度冷やかしに来て「寿司屋でもはじめる気か」、三度青子に追い出された。
八個目の卵焼きの試食をしている時だった。
「やっぱり、こういうのは皆、お母さんに教えてもらうのかな……」
卵の殻が混ざったざりざりの卵焼きを咀嚼しながら、和子はため息交じりに呟いた。卵二十四個も無駄にしたのに、一向に上達しないので、少々悲観的になっているのだった。
「うーん……どうだろう?私は母と料理した記憶って、あんまりないなぁ」
「?……そうなの?」
「うん。お菓子を作ったことは、一度もないかも」
青子は記憶の引き出しを開け閉めした。
青子が和子くらいの時は、母が最も忙しく、精神的にも肉体的にも参っていた時期だ。彼女は新しい仕事に慣れるのに手いっぱいで、もう大きい娘に構っている余裕はなかった。テーブルの上にはよく、しわくちゃの野口英世と走り書きのメモが置かれていた。『夕食はこれで済ませて下さい』
(そうだ……)
料理は確か、本で覚えたのだ。学校の図書室からレシピ本を借りてきて、夕食代にもらった千円で食材を買って……どうしてもわからないところは、近所のおばさんや、幼馴染のお母さんに教えてもらった。まともなものを作れるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。頑張れたのは、失敗作を残さず食べてくれる、友達がいたから。
回想に耽っているとチャイムが鳴り、幼馴染がひょっこり顔を出した。
「岡野……なんか用?」
「ゲーム持ってきた。どうせ暇だろ?一緒に遊ぼうぜ!」
「悪いけど、来客中なの。また今度ね」
「来客って、その子?」
岡野は青子の背中を指差した。振り返れば廊下の向こうのキッチンから、和子が顔を出していた。
「こんにちは」
「!」
岡野が挨拶すると、和子は驚いて、キッチンに引っ込んでしまった。
「パツキン小僧。和子ちゃんを怖がらせないでよ」
「和子ちゃんって言うんだ。……おっ、いい匂い。なに作ってんの?」
岡野は靴を脱ぎ散らかして、いそいそと廊下に上り込んだ。青子は結局、和子に岡野を紹介する羽目になった。
「ごめんね和子ちゃん。これ、私の幼馴染の岡野貴志。外見は馬鹿みたいだけど、本当に馬鹿だから気にしないで」
「おい、おい」
甘酸っぱいボーイミーツガールを見届ける暇もなく、リビングででくの坊が叫んだ。「青子ー!雨ー!」
「いっけない洗濯物取り込まなきゃ」
「私も手伝う」
「いいって、いいって。それより、こいつ見張っててくれる?」
青子は慌ただしくキッチンを出て行き、和子と岡野は思いがけず二人きりになった。
和子は黙りこくって、(外見だけなら立派なチンピラに見える)岡野をちらちらと盗み見た。ロックだかビジュアル系だか知らないが、今時流行らない気合の入ったファッション。トウモロコシのヒゲみたいな金髪に、両耳を縁取る数珠つなぎのピアス。親しい家族や友人だけで構成された狭い世界を生きる和子には、岡野との出会いはまさに、未知との遭遇と言って良かった。
怯えて縮こまる和子に、岡野がたずねた。「これ、和子ちゃんが作ったの?」
彼の視線の先には、ダイニングテーブルに並べられた、たくさんの卵焼きがあった。和子が思わずうなずくと、岡野は手近にあった皿を引き寄せ、断りもなく、黒々とした卵焼きを一つつまんだ。
「だ、だめ!」
「?なんで?」
「だって、焦げてるっ……」
こんな不格好なものを、人様に食べさせるわけにはいかない。和子は大慌てで阻止しようとしたが、岡野はかまわず、素早い動作で口に放り込んだ。
「……なんだ。全然食えるじゃん」
「え……?」
「こんなの、焦げてるうちに入らないよ。青子が餓鬼のころ作った卵焼きより、全然うまいよ」
岡野は太鼓判を捺した。
「青子さんの、子どもの時?」
「そうそう。……ラッキー。味噌汁がある!」
岡野は勝手知ったる風に食器棚からマイ茶碗を取り出し、今朝炊いたばかりの白飯をよそった。冷蔵庫を物色して、カブの糠漬けやカツオ梅を食卓に並べると、立派な昼ごはんの出来上がりだ。
「親父さんが死んで、香苗さん……青子の母ちゃんが働きに出るようになってさ。料理作るんだって、張り切ってはじめたはいいけど、これがもう、まずくてねー」
岡野は青子特製の糠漬けを頬張りながら、当時を思い出し、懐かしそうに言った。
「最初はね、かっちかちの目玉焼からはじめたんだ。それから、涙が出るほど塩辛い卵焼き、黒焦げスクランブルエッグ、中身の飛び出したオムレツ、生肉のオムライス。あいつ、馬鹿の一つ覚えで、卵料理ばっかり作るんだ。一週間で卵百個は食ったね」
「百個も!?」
「そう。んで、卵攻撃がやっと終わったかと思ったら、次に来たのがホットケーキミックス地獄さ。天ぷら揚げるんだけど、衣がなぜかホットケーキミックスなんだ。とんかつも、から揚げも、お好み焼きの生地も、みーんなホットケーキミックス。笑っちゃうだろ?」
「…………」
「味はさておき、あいつの料理は高カロリーな上に、量が多いんだよな。毎日食べさせられたおかげで、小・中学校の時の俺のあだ名、横綱よ」
「うっそだあ。ぜんぜん、そんな風に見えないよ」
「ホント、ホント。小学校卒業する時なんか、なにを勘違いしたんだか、相撲部屋からスカウトが来たんだから。高校入って、死ぬ気でダイエットしたんだ」
お喋りしているうちに、岡野は和子が作った卵焼きをまるまる一つ平らげてしまった。
「この卵焼き、余ってるなら俺にくんない?」
「いいけど、どうするの?」
「持って帰って夕飯にするんだ」
岡野は残り七つの卵焼きのうち、三つと食べかけの数切れをサランラップに包んだ。
「そんじゃあ、うるさいのが戻ってくる前に、帰るとするか。またね和子ちゃん」
「あ、あの、岡野さん」
「貴志で良いよ」
「貴志さんっ……また、料理作ったら、食べてくれますか?」
「……俺は、ピーナッツから揚げとニンニクたっぷりの焼餃子が好きだよ」




