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残暑厳しい早秋の朝。熱気と二酸化炭素が充満する部屋で、青子は寝苦しさに目を覚ました。
背中でうんうん唸っている扇風機の風が当たらない。目覚ましが鳴る時刻まであと十五分。わざわざ立ち上がって窓を開けるのも面倒だ。
「?……きゃあっ!」
涼を求めて寝返りを打ってみて、心臓が止まるほど驚いた。リビングのソファで寝ていたはずの龍太郎が、いつの間にか隣で丸くなり、絶え間なく送り出される人工の風を独り占めしている。
「んー……なんだよ。うるさいなあ……」
青子が狼狽していると、龍太郎が目覚めた。汗でびっしょり濡れている髪をかきあげ、Tシャツをばさばさする。
「な、なんであんたが!」
「ソファ小さい。足伸ばせない」
「だからって!どうして私の布団に入ってくんの!」
青子のベッドはシングルで、お世辞にも広いとは言えない。寝苦しさで言えばソファとどっこいどっこいだ。
「じゃあ、なにか?お前は俺に、親父の婚約者のベッドで寝ろって言うのか?」
冗談だろ?
青子は思わず、床で寝ろ!と叫んで、龍太郎を部屋から叩き出した。
(信じらんない!)
いきなり家に押しかけてきたばかりか、酷い振り方をした女の布団に潜り込むなんて、どういう神経してんだか。昨日だってオムライスなんか作らされて……頼まれると嫌とは言えない性分が恨めしい。
青子は手早く支度を済ませ、「俺の朝飯は?」などとぬかす龍太郎を無視して家を出た。学校に到着した頃、冷静さを取り戻し、彼を家から閉め出し忘れたことに気付いてがっくりした。
「はあ……」
「?……青子、なんかあった?溜息多いよ」
「え?いやいや別に、なにもないよ」
青子はあくまでしらを切ったが、わかる者にはわかるもので、優等生の佐古さんは青子にだけ聞こえる声で「男物の香水の匂いがする」などと囁き、彼女を心底びびらせた。
放課後が近付くにつれ、青子は憂鬱になってきた。龍太郎は、まだ家にいるだろうか?出来ることなら、もう二度と顔を合わせたくない。断じて失恋なんかじゃないが(だって、最初からあんなやつだと知っていたら、絶対好きになんかならなかった)、赤っ恥の記憶まで消えたわけじゃない。
青子の願望とは裏腹に、隣のクラスの女子生徒が興奮した様子で教室に飛び込んできたのは、帰りのホームルームがはじまる直前のことだった。
「校門のとこにめちゃくちゃ格好良い人がいる!」
嫌な予感がして、裏門から帰ろうと心に決め昇降口に行ってみると、あれ、靴がない。
「捜してるのはこれか?」
青子は下駄箱の陰からひょっこり顔を出した龍太郎を、ぎっと睨んだ。
「靴返してよ。こんなとこまで、なんの用」
「迎えにきてやったんだろ。ほら」
龍太郎は両手の傘を掲げて笑った。ふと向こうを見れば、小雨が降り出していた。そうかと思うと、白っ茶けた校庭の砂が、みるみる黒く染まっていく。今朝は天気予報を確認する暇もなかったから、傘なんか持ってきていない。
「後ろのお二人さん、良ければこれ、どうぞ」
龍太郎は片方の傘を、青子の背後に向かって差し出した。振り返るとそこには舞香と良子が、ぽかんと立っていた。まずい。
ホームルームを終えた他クラスの生徒達が続々とやってきて、私服姿の龍太郎を珍しそうに横目で見て行く。誰彼かまわず愛想を振りまき、女の子達をきゃーきゃー言わせるのを見て、青子は呆れ返った。
「また宮木さん?」
彼女達の不思議そうな……はたまたやっかみまじりの視線が、青子のいら立ちを煽る。
このままじゃ、また学校中の噂になってしまう。一部の女子生徒から、青子は閏とステディな関係だと誤認されているのだ。これ以上面倒なことになっては堪らない。
「帰るよ太郎」
「太郎は止せ。なんでそっちをはしょるんだ。せめて龍にしろ」
「うるさいないいから早く靴返してよ太郎」
龍太郎はぶつぶつ言いながら、二十四センチの人質を解放した。
「解けてる」
「え?」
青子が黒いソックスに包まれた爪先を靴に滑り込ませて直ぐ、龍太郎が跪き、彼女の解けた靴ひもを結んだ。その瞬間を目撃したある者は目を逸らし、ある者は頬を染め、ある者は黄色い悲鳴を上げた。
「帰ろうか。お姉ちゃん?」
青子はふん!と鼻を鳴らした。なんのことはない。ただの人目を引くためのパフォーマンスだ。自分を売り込むためのデモンストレーションだ。屈折したところのある龍太郎には、周囲を動揺させて楽しむような、悪い癖がある。
二度と騙されるもんか。
青子は龍太郎を待たずに、土砂降りの雨の中を、さっさと歩き出した。
「うぇっくしゅんっ!」
「だから待てって言ったのに。風呂沸かしてやるから、入って来い」
「……いい。自分でやる」
家に帰り着いて直ぐ、タオルを取りに脱衣所へ向かおうとした青子は、ふと気が付いて玄関に舞い戻った。
「あんた、なんでまだいんの。一晩だけって約束でしょ」
「そんな約束した覚えはない」
「あのねぇ、そんな子供みたいな理屈が……」
通るわけないでしょ。と続くはずだった青子の文句を遮って、玄関のドアががちゃりと鳴った。
「ただいまー」
「?お母さん……?どうしたの?」
来週の月曜日まで某建築会社の社員旅行に同行しているはずの彼女が、なぜ。青子の質問に、香苗は水浸しの髪を小さなハンドタオルで押さえながら答えた。
「お客さんの一人が具合悪くなっちゃって。大事には至らなかったんだけど、心配だから付き添って戻ってきたの。それにしてもすごい雨ねー。昨日まであんなに晴れてたのに。嫌んなっちゃうね」
香苗は一息に言いきると、漸く龍太郎の存在に気が付いた。
「あら龍太郎君。もうきてたんだ?」
「どうも」
二人の挨拶に違和感を覚えた青子は、香苗に疑惑の目を向けた。
「話は後、後。ヒール乾かさないと駄目になっちゃう」
青子が風呂から上がってみると、リビングでは部屋着に着替えた香苗と龍太郎がマグカップを片手に話し込んでいた。楽しげな様子に、疎外感を覚える。青子が近付いて行くと、香苗は素早く立ち上がって、「青子もコーヒー、飲む?」とたずねた。
「さて、どこから話そうかな……」
全員が席について人心地ついた頃、香苗が口火を切った。親子にとって重要な話をする時、彼女は良くこうして言葉選ぶような仕草を見せるのだが、それにしても今度の間は長かった。龍太郎が話の内容をすでに知っている風なのも気に入らない。辛抱しきれなくなった青子は、いらいらと先を促した。「なんなの?はっきり言ってよ」
「実はね……晃一さん、来週から上海に出張することになったの」
「ふうん?……それで?」
まさか、青子を日本に一人残して、付いて行きたいと言うのだろうか?相談の内容を予測して、青子はドキドキした。
「それで……出張に行っている間、龍太郎君を一人にしておくのは心配だから、うちで預かって欲しいと言うのよ」
なんだって!?
「いつも晃一さんに助けてもらってばかりだし、こういう時こそ力になってあげたいって思うの。新しい家族が早く仲良くなるためにも、良い機会でしょう?だから……」
「お母さん!本気なの!?」
「おかしな声出して、どうしたの?あなたは喜ぶと思ったのに……」
その後の事情を知らない浦島太郎な母は、未だに青子が龍太郎に夢中だと思い込んでいて、彼女なりにハイティーンの娘の未熟な恋心に、精一杯の理解を示そうとしているのだった。
「そんなに心配しなくても……龍太郎君は大人だから、あなたの個性的な趣味の一つや二つ、見たってなんとも思わないわよ」
「ありません!そんなもの!」
「晃一さん、出発の準備で忙しいから。龍太郎君の準備ができ次第、こっちに移ってもらおうって話し合ったの。部屋は二階の角を使って。青子も、構わないわよね?」
「お母さん、でも、あの部屋はっ……」
青子が異論を唱えようとすると、不意に母の携帯が鳴った。「嫌だ、会社からだわ……なんだろ」
席を立ち、リビングを出て行く母の背中を、青子は複雑な思いで見つめた。
扉の向こうから、きびきびした余所行きの声が響いてくる。母はしばらくして戻ってきてすまなそうに告げた。
「ごめんね。呼び出されちゃった」
母は冷めたコーヒーをぐいぐいと一気に飲み干し、出かけの支度をするために、再びリビングを出て行く。青子は母の後を追いかけて行って、洗面所の手前で捕まえた。
「勝手に決めちゃって、悪かったと思ってるわ。でもこの間のことがあって、お母さん、ちょっと考えちゃって……」
この間のこと……閏と都が泊まった日のことだ。青子は困惑した。
「だから、説明したじゃない。あの人はただの友達で……」
「わかってる。青子のこと疑ってるわけじゃないの。雨霧さんだっけ?青子の友達だもん、あの人も、きっといい人なんでしょう」
口ではそう言いながらも、警戒しているのは明白だった。第一印象が最悪だったために、閏の信用は地に落ちているのだ。彼の身分について、包み隠さず……とはいかないまでも、話せることはあらかた話してしまった青子は、これ以上何をどう説明して良いかわからず、口を噤んだ。
「考えたって言うのは、私のことよ。青子や青子の友達のこと、お母さん何にも知らない。急に不安になっちゃった」
「お母さん……」
「ちゃんと話してみたら、龍太郎君、素直でいい子ね。これなら安心して青子を任せられるわ」
母は慌ただしく、少し小降りになった雨の中を出かけて行った。
「エビグラタンが食べたい」
肩を落としてリビングに戻ってみると、待ちかねた様子で龍太郎が言った。青子は深いため息を吐いた。
「部屋、案内するから。付いてきて」
青子は龍太郎を、階段を上がって突き当りの部屋へ案内した。
青子の部屋より少し狭い、八畳ほどのスペース。扉を挟んで両側の壁が本棚になっているため、実際よりだいぶ狭く感じる。
電気を付けて中に入ると、青子はまず、家具にかけられた埃よけの布を取り去った。日中、窓から差し込む日の光で暖められたインクや紙の匂いは、青子を懐かしい気持ちにさせた。
「この部屋、なんかあるのか?」
本棚にぎっしりと並べられた書物を珍しそうに眺めながら、龍太郎がたずねた。
「……お父さんの部屋……」
生前、読書家の父が書斎として利用していた部屋。使われなくなってからは物置になっていて、アルバムや、青子の子どもの頃の服なんかがしまわれている。
「いいのか?俺が使っても」
「いいんじゃない、べつに。……どうせもう使う予定もないんだから」
青子はてきぱきと思い出が詰まったボール箱を運び出しながら、やけくそに言った。
「この本も、そのうち片付けるから。今日はここにお布団敷いて」
「いや、本はこのままでいい。俺が読む」
「……あっそ。お好きに」
エビがなかったので、夕飯はマカロニグラタンとサラダになった。いつもは一人きりの夕食だ。ダイニングで向かい合って食べるのは変な感じがしたので、リビングのソファに隣同士に腰かけて(もちろん、クッションを挟んで!)、テレビを観ながら食べた。
「やけに物分かりが良いんだな?」
青子がキッチンでグラタン皿にこびりついたチーズと格闘していると、龍太郎が傍に寄ってきてたずねた。唐突な質問だったが、意味は直ぐに理解できた。青子自身、ドラマの内容なんかそっちのけで、そのことばかり考えていたのだった。
「反対したって仕方ないでしょ」
再婚するとなれば、いずれ相手の家族と同居することになるのはわかっていた。晃一の力になりたいという母の気持ちもわかる。今後のことを考えると甚だ憂鬱だが、和を重んじる心を唯一の取り柄としている彼女に、これ以上の抵抗という選択肢はなかった。とはいえ……
「これから一緒に暮らすにあたって、条件があります」
青子とてただ譲歩するわけにはいかない。いつだって、どこだって誰だって、プライバシーと基本的人権は自らの手で守らなければならない。
「第一に、お酒と煙草と無免許運転、その他諸々の不法行為をしないこと。第二に、いかがわしい店に出入りしないこと。第三に毎日きちんと高校に通うこと。第四に……」
「待て待て待て。ちょっと多くないか?」
「なにか異論が?」
「煙草は金がないから止めざるをえない。バイクの運転はしたくてもできない。けど酒くらい良いだろ?例えばだ。下戸の三十路男が缶ビール一気するのと、ざるの俺(十六歳)が一升瓶一晩で空けるの、どっちが危険だと思う?」
「そんなの、飲んだことないからわかんないよ」
「だから、例えば。なあ頼むよ。今時坊さんだって酒くらい飲まあ」
「……クリスマスとお正月だけ許可します」
禁酒がよほど苦痛と見え(未成年のくせに!)、龍太郎はごねにごねた。話し合いは深夜にまで及び、結果は青子の全面勝訴。かくして、新米姉と新米弟の健全で不健全な同居生活は、人知れず幕を開けたのだった。




