秋嵐来る
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九月。
新学期に入ると、それまでの穏やかな日々が嘘のように、青子の日常は多忙を極めた。
夏休み中に終わらなかった宿題を片付けるため、蒸し風呂みたいな放課後の教室でアホな幼馴染と肩を並べて連日居残り。自由を謳歌した代償、自業自得、同情の余地なし。その他にも、良子が部長を務める家政部の助っ人や、来月頭に開催される学祭の準備など、こまごました用事が次から次へと湧いて出て、普段は空白の目立つスケジュール帳を黒く塗り潰した。閏も忙しいのか、休日に訪ねて行っても、顔を合わせることはなかった。
繁多で、どこか物足りない日々を過ごしていたある日のこと。
「おーい、席着けー」
生徒指導で英語教諭の大下章介氏が、月初に行われた課題テストの答案用紙を引っ提げてやってきた。
「宮木は相変らず数学以外はだめだめだなー。Desertがプリンってなんだこりゃ。大喜利やってんじゃないんだぞー」
「佐々木は回答をカタカナで書くなー。岡野は欄外に絵を描くなー」
大下氏は採点済みの答案用紙を、いちいち小言を添えて生徒達に手渡した。
「平井は頑張ったなあ。八十二点、おめでとう」
青子の低空飛行はいつものことながら、驚くべきは、友人の平井良子の成績だった。夏休み前までは青子や舞香と一緒に、赤点すれすれのところをふらふらしていたのに。どういう風の吹き回しだろう?
答案用紙製の白い紙飛行機が、真っ青なキャンバスの上を、音もなく滑っていく。
昼休み。家庭科棟では家政部員達が、文化祭に出展するウェディングドレス製作に忙しんでいた。青子と舞香と良子の三人は、一心不乱にちくちくする彼等の邪魔にならないよう、角のスペースでお弁当を広げた。話題に上るのは、休暇中に補習組から才女へと華麗な変身を遂げた、良子のことだ。
家庭教師でもはじめたのかと青子が問えば、良子は少し迷って、そんなようなものだと答えた。
「そりゃあ、成績も良くなるわな。この子、夏休み中毎日図書館に通ってたんだもん」
「図書館?良子が?」
青子が知る限りでは、良子は普段あまり読書をする方ではない。少女漫画やファッション雑誌が置いてあるネットカフェならいざ知らず、図書館なんてよほどの理由がない限り、足を踏み入れないはずだ。
話さずには済まない雰囲気に観念し、良子はもったいぶって打ち明けた。「実はね……」
「……うそでしょ!?良子が、あの眼鏡と!?」
「しー!声が大きい!」
「だって……!いつの間に!?」
眼鏡とは。
夏休み前、良子を援交女呼ばわりした、魁星高校の生徒のことだ。青子の脳裏に、問題の人物の面差し(まあ悪くない感じの)が浮かび上がる。
「家の近くの本屋で偶然会ってね。彼、あの時のことちゃんと謝ってくれて……色々話してるうちに、良い人だなって」
目を白黒させる青子に、良子は気恥ずかしそうに、ざっくり説明した。はー!と、青子は驚きと感心のまじる溜息を吐いた。
「私のことは良いから。青子の方はどうなってんの?龍太郎君」
話を逸らしつつ良子がやり返して、青子はぎくりとした。
「少しは進展あった?青子、なんにも教えてくれないんだもん」
「……あれは、もう、良いの……」
ぽつりと青子が呟けば、付き合いの長い二人は、説明せずとも事情を察した。大方こうなることは予想が付いていた、という様子だった。青子は二人が驚かないのを見て、ますます自信喪失した。そんなにわかりやすく騙されてたんだ……
「まあ、ふられて良かったんじゃん。あの人、なーんか胡散臭かったし」
「青子に似合うのは、もっと硬派な人だよ。気は優しくて力持ち!みたいなさ!」
二人は青子に同情し、さぞ辛かったろうと、口々に慰めを言った。
「早速合コン、セッティングしなきゃね!」
傷付いた友人を失恋の痛手から救おうと息巻く彼女等に、嫌とは言えない青子だった。
夕方、補習を終えて帰宅してみると、玄関の前に和子が立っていた。
「?……和子ちゃん?……どうしたの?一人?」
「これ、クリーニングから戻ってきたので……」
和子は青子に大きな紙袋を手渡した。中には、先日の夏祭りで使用したナデシコ柄の浴衣が入っていて、青子は困惑した。
「返しに来てくれたの?これは和子ちゃんにあげようと思って……」
「うん。でも、高い物だから……うちに置いておくと、汚しちゃいそうだし」
青子は得心した。和子の言うことにも一理ある。なにしろ、遊び盛りのやんちゃな子どもが九人だ。(二人は見たことないけど)いつ箪笥の中から引っ張り出して、おもちゃにしないとも限らない。
青子はしっかりと請け合った。「じゃあ、来年の夏まで、預かっておくね」
「また、貸してくれる?」
「もちろんだよ。これは和子ちゃんの物だから、いつでも取りにおいで」
和子はにっこりと唇を引き延ばして、二つ返事で頷いた。
「ねぇ、お茶飲んで行かない?シュークリームあるんだ」
「でも、悪いし……」
「良いから、良いから」
遠いところを、わざわざ訪ねて来たのだ。ただで帰すわけにはいかないと、青子は和子を家に招き入れた。ちょちょこなる彼女をダイニングテーブルに座らせ、手早くお茶の準備をする。
「和子ちゃんが来るのは初めてだよね?迷わなかった?」
「友達の家の近くだから……あの、お家の人は……?」
「いないよ。うちは母と二人なんだけど……ツアーコンダクターって、わかる?」
「?ガイドさんみたいなもの?」
「そうそう。うちの母がそれでね、月の半分は帰ってこないの。今はT県に砂丘ツアーに行ってて、帰って来られるのは来週の月曜日」
「そうなんだ……じゃあ、寂しいね」
「まあね。でも、もう慣れちゃった」
はい、どうぞ。
青子は和子の前に、淹れたての紅茶とシュークリームを置いた。お客様用のカップを出したので、和子は変に気負って、膝と腰を直角にしてお行儀よく宣言した。「いただきます」
「……どう?おいしい?」
ほんの一口で、青子は待ちきれないように感想を求めた。「はい。とっても」
「良かったー。上手くいったの、はじめてなんだ。ちゃんとできてるか不安だったの」
「これ、青子さんが作ったの……!?……すごいっ……」
和子は大げさに驚き、青子を良い気持ちにさせた。「三回も失敗してるから、あんまり威張れないんだけどね」
シュークリームを食べ終えると、和子は改まって切り出した。
「お料理、教えて欲しいの」
「料理?」
「うん……あっ、でも、青子さんの気が向いた時で良いの。……だめ?」
「もっちろん、良いよ」
青子が快く了承すると、和子は肉付きの薄い頬に笑窪を浮かべ、歯を見せて笑った。
「強が……私の料理にはセンスがないんだって。こういうのは生れ付きで、練習は材料の無駄だから止めろなんて言うの。そんなことないよね?私だって、ちゃんと教えてくれる人がいれば……」
青子は深く頷き、任せなさいと胸を叩いた。
「今に強や律が唸るような、すっごいの作れるようになるから。早速、今週末からはじめよう。道具も揃ってるし、場所はここでいいよね?ボーイズに邪魔されたくないもんね。……あ、でも通うの大変か」
「ここがいい!定期持ってるから、平気」
「じゃあ、決まりね」
お喋りしていると、インターホンが鳴った。今朝ポストに不在連絡票が入っていたから、宅配業者かもしれない。セールスだったら断ろう。
青子は和子をダイニングに待たせておいて、応対に向かった。
「いきなり玄関開けたらインターホンの意味がないと思わないか?」
「…………」
開いて直ぐ、無言で閉じようとした扉の隙間に、革靴が割り込んでくる。青子はドアノブをぐいぐい引っ張りながら、扉の向こう側の男を睨み上げた。「なんの用よ!」
「なんの用とはずいぶんだな。未来のお兄様に向かって。開けろ」
「ちょっ……無理やり入んないで!警察呼ぶよ!」
青子の抵抗もむなしく、龍太郎はいとも簡単に扉をこじ開け、キャスター付きのキャリーバッグをごろごろさせて玄関に上り込んだ。
「……なに?その荷物」
「家を出てきたんだ。しばらく世話になるぜ」
「はあーっ!?」
「親父のやつ、俺のバイクを勝手に廃車にしやがった。おまけに今のマンションを出て実家で暮らせだと」
今更なに言い出すんだか、あの狸じじいは……
ぶつくさ言う龍太郎を見て、青子はにやりとした。どんなに世間慣れしていても、大人びて見えても、彼はまだ未成年。保護者の同意なしには、マンションの契約も、口座の開設も不可能なのだった。
「むかついたから、二度と帰らないと宣言して家を出てきた」
「そんなの、私には関係ないじゃんよ」
「こうなったのはそもそもお前がレッカー呼んだからだろーが。責任とって泊めろ」
「やだ!止めて!変なもの入れないで!」
龍太郎は青子の制止も聞かず、大きな水槽をリビングに運び込んだ。
「大声出すなよ。ミランダが驚くだろ。……それよりお前、この間までとえらく態度が違うじゃねーの。こっちが本性か?」
「そうだよ。あんたこそ、なーにが「青子みたいな妹が欲しかったー」よ。誕生日三月でしょ。年下のくせに」
「俺はこんなアホな姉いらん」
「そう思うなら出てって。あんたもてるんでしょ。女のとこにでも泊まれば良いじゃない」
青子は即刻退去を命じたが、龍太郎は耳が聞こえなくなってしまったかのように振る舞い、彼女をイライラさせた。
「そんなに邪険にするなよ。傷付いてるかと思って、様子を見にきてやったんじゃないか」
この間のこと、結構悪かったと思ってんだぜ。龍太郎はてきぱきと水槽を準備しながら、恩着せがましく言った。
思わず、青子は失笑した。誰が、なんだって?
「五歳児にスカートめくられて傷付く人間はいません」
「おい。誰が五歳児だ」
龍太郎はどうあっても居座るつもりのようで、あっという間にミランダを水槽に移しかえてしまった。
こうなったら、晃一に電話して、このドラ息子を引き取りに来てもらおう。青子がスマホを取りに行こうと、背を向けた瞬間だった。龍太郎の腕が脇からにゅうと伸びてきて、青子をがっちり抱きすくめた。
「なっ、なにすんのっ!?」
「五歳児なんだろ?」
「いやーっ!止めて!触んないで!」
龍太郎は暴れる青子を容易く御して、その首筋にキッスした。ぞぞぞ!
「拗ねるなよ。悪かったよ。知らなかったんだ。お前が処女だったなんて……」
「!!?」
「次からはもっと優しくしてやるから」
足を踏んだり、すねを蹴ったり。なんとか戒めを解こうともがいていると、青子はふと気配を感じて、そちらを振り向いた。リビングの入り口のところで、和子が真っ赤になっている。青子はぎくりとした。
「ごっ、ごめんなさいっ……お邪魔しました!」
「待って!和子ちゃん!……んもう!しつっこい!」
青子は手近にあった瀬戸物のアロマポットを、無暗に振り上げた。ごん!と鈍い音がし、腕が解かれたまでは良かったが、振り返ってみれば龍太郎が床に倒れて気を失っていた。
「あ、青子さんっ……」
「あちゃー……」
和子を駅まで送り届け、帰宅してみると、龍太郎は家を出た時のままの格好で床に倒れていた。青子が至近距離からじっと寝顔を見詰めてやると、瞼がぴくぴく動く。心なし鼻息も荒い気がする。
「こら。狸寝入り」
「…………」
「今日は仕方ないけど、明日には出てってよね。来週にはお母さんだって帰ってくるんだから」
「……オムライスが食べたい」
図々しいやつだと呆れながらも、材料を買いに出かける青子だった。




