はじめましてお母さん
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市街を見下ろす高台に建てられたフレンチ・レストラン、シャ・ペルサンでは、フォーマル・ウェアに身を包んだ高尚な客達が、ミシュラン・ガイドで三年連続二ツ星を獲得した某有名レストランで六年もの修行を積んだS氏の、趣向を凝らした料理に舌鼓を打っていた。
いつもなら、男達が経済や政治に関して議論を戦わせるその横で、連れの女達は退屈を持て余し、メニューの陰であくびを噛み殺すものだが、その日は少し様子が違った。
店内奥の席に向かい合って座る、男女のカップル。その男の方が、美しい物に目がない彼女達の関心を一身に集めていた。テーブルマナーを覚えたばかりの少女も、外出時には杖を手放せない老婦人も、ほんの一瞬でも彼の視界に入りたいと考え、わざとナプキンを落とし、何度も化粧を直しに席を立った。
「閏君?どうかしました?」
つい零してしまった溜息を見咎められ、閏はぎくりとした。
「なんでもないんです。申し訳ありません、鷹司さん」
相手の女性に失礼だと気付いた閏は、直ちに彼女……鷹司百合絵に謝罪した。
「遠慮なく仰って。なにか、悩みがあるんでしょう?」
「いいえ、特には……なぜ、そう思われるのですか?」
「だって、最近様子が変だわ。嬉しそうだったり、時々、悲しそうだったり……」
上品な仕草でナプキンで口元を抑えながら、百合絵が指摘した。
「?そうでしたか?」
「婚約者ですもの。わかります」
「……まいったな。鷹司さんに隠し事は出来ませんね」
「他人行儀な呼び方はお止めになって。どうぞ百合絵と呼んで下さい」
百合絵の要求に、閏は遠慮がちな微笑みで答えた。彼の笑顔の意味をネガティブに捉えた百合絵は、俄かに表情を曇らせた。
「私、気が気じゃあないんです。あなたはとてもおもてになるから」
「そんなことは……」
「あるんです。気付いていらして?先ほど給仕にきたセルヴーズ、あなたを見て真っ赤になっていたわ」
百合絵は虫も殺さないような顔をして、あの娘はクビね。なんて笑えない冗談(だったら良いが)を囁いた。
「取り越し苦労だと、わかっているんですのよ。あなたに釣り合う女性なんて、この世にはいませんもの」
いいえあの世にだっていないわ。などと、百合絵は大げさな物言いをした。彼女の妄想半分の買い被りは、日頃から全く困ったものだった。
「きっと神様が、特別手をかけてお創りになったのね」
閏は内心で自嘲した。もしも彼女が言うように、自分が選ばれた人間だったなら。コンビニで弁当万引きしたりしない。
「あなたは完璧な男性よ。外見も、人格も、家柄も……どれをとってもパーフェクト」
漁港で屑魚拾うために弟を負ぶって深夜の線路を歩いたり、二月の空の下、ダンボール体に巻き付けて工事現場で野宿したりしない。
「……そういう鷹司さんこそ。お美しくて、私にはもったいないくらいです」
「まあ、お上手ね」
「本心ですよ。あなたは自慢の婚約者だ」
閏がよいしょすると、百合絵は満更でもなさそうに、にっこりと赤い唇を引き延ばした。
「美味しいわ、このお料理」
「……ええ。本当に」
素直に同意しながら、あべこべのことを考える。生粋の庶民である自分は、ザリガニなんかちまちま食べるより(おいしいけど)、芯まで味がしみ込んだほくほくの男爵を、大きな口で頬張る方が好きだ。正確に言えば彼女が……宮木青子が作った料理が好きだが、今後の風向き如何によっては、二度と食べられなくなるかもしれないのだった。
メインのロブスター・テルミドールを切り分けながら、閏は先日仕出かした大失敗を思い出し、再びため息を吐いた。
それは三日前の金曜日。終電車を逃し、仕方なく妹の都と一緒に彼女の家に泊めてもらった時のことだ。
夜明けと呼ぶにはまだ早い、東の空が微かに白みはじめた頃。深い眠りから目を覚ました閏は、しっかりと腕に抱きしめていた温かな物の正体に気付き、飛び上がるほど驚いた。
(青子っ……!?)
都だと思っていた抱き枕が、いつの間にか、彼の秘めやかな恋の相手にすり替わっていたのである。咄嗟に飛び出しそうになった悲鳴を飲み込み、慌てて身体を(特に下半身を)離す。片腕は彼女の腰の下に敷かれてしまっていて、動かせそうもなかった。
はじめこそ狼狽した閏だったが、時間が経って頭がはっきりしてくると、考えを改めた。もう少しくらい、こうしていても良いだろう。起きるにはまだ早いし、こんな機会はめったにない。
「…………」
起さないよう細心の注意を払って触れた頬は、露に濡れた朝顔の花弁のようにしっとりとしていて、冬のガラス窓みたいにひんやり冷たかった。枕の上に散らばる長い髪は、幅の広い、緩やかな河の流れを思わせた。
規則正しく上下するTシャツの胸をじっと見つめていると、むらむらと危険な衝動が沸き起こる。少しでも身じろごうものなら、全身の毛穴と言う毛穴が開いて汗が噴き出してくる。相手にその気がないとわかっていても、誘われているのかも……なんて期待してしまう。
天幸寺閏……雨霧閏は、自他ともに認める鉄の精神の持ち主である。赤んぼの頃ならいざ知らず、物心が付いてからは一度も泣いた記憶はないし、滅多なことでは驚かない。そんな彼をこれほどまでに動揺させる人物は、この世のどこを捜したって彼女以外にない。
彼の邪な思考を責めるように、分厚い遮光カーテンの隙間から一筋の清浄な光が差し込み、彼女の額の中心に吸い込まれた。
(……きれいだ……)
そう遠くない未来。彼女には、恋人ができるだろう。美人で情に厚くて、料理も出来るとなったら、周りの男達が放っておくはずはない。願わくは彼女の相手が、自分が足元にも及ばないくらい、いい男でありますように。外見なんてどうでもいい。優しくて逞しくて、彼女を決して悲しませないような、頼もしい男でありますように。
「…………」
でなけりゃ、とても諦めきれない。
差し込む日差しが輝きを増し、朝焼けの空を分割する電線の上を、どこからともなくやってきた鳥達が我が物顔で占拠する。
安らかな寝顔を見つめていると、そのうち腹が立ってきた。
仮にも男の前で、なんて無防備な寝顔だろう。彼女が自分を老人のように思っているなら、それは大きな間違いだ。幾つになっても男は狼だし、自分は肉食獣として……いや雄として、極めて獰猛な部類に入る。
ちょっと悪戯するくらいなら、許されるだろう。決して実ることのない恋の、成就することのない願いの、憂さ晴らしに。
閏は身体を起こすと、青子の細い腰を跨いで、馬乗りになった。自由になる片手で、鼻の頭をつまんでやろうとした、その時だ。
リビングのドアがバタン!と開き、見知らぬ女性が現れた。ショートカットに明るいパンツスーツ。顔立ちは……青子に良く似ている。
「っ……きゃあああああっ!!」
閏が何かしらの感動を抱く前に、弾かれたように彼女が……香苗が叫び出した。
「娘から離れなさいっ!この変質者!」
なにがまずいって、Tシャツがまずかった。閏の正体を一目で見抜いた香苗は、手に持っていたハンドバッグで、閏の背中を無茶苦茶に引っ叩いた。
「ちがっ……!違うんです!お母さん!」
「誰がお母さんよ!……出て行って!出て行きなさいよお!」
片腕が青子の身体で下敷きにされているため、逃げるに逃げられず、閏はされるがままになった。閏がいつまでも退こうとしないので香苗はパニックに陥り、しまいにはわんわん泣き出した。
「うーん……なによぉ……?」
「あっ……青子!助けてくれ!」
「?……閏?……おっ、お母さん!?」
青子が飛び起きたことで漸く戒めから解放された閏を、香苗がリビングから追い立てる。弁解も説明もする暇なく、閏は裸足のまま戸外に叩き出された。
「青子!警察よ!警察!警察!警察に電話!」
「ちょっと待ってお母さん!違うの!あれはっ……!」
青子が制止するまでもなかった。廊下の真ん中で不思議そうに目を丸める幼児の姿に、母は今度こそ腰を抜かした。
「おばちゃん、だあれ?」
うさん顔の都に、母は半泣きで叫んだ。「あなたこそ誰よ!私の家で何してるの!?」
その後、誤解は解けたが、香苗は最後まで閏を毛虫を見るような目で睨んでいた。非常識だの(ご尤も!)破廉恥だのと(仰る通り!)説教され、幼い都などはすっかりびびってしまい、しばらくは口も利けなかった。
相当怒り狂っていたので、もしかしたら、今夜のお祭りには来られないかもしれない。
閏の心配は、杞憂に済んだ。百合絵との食事を終えて家に帰ってみると、玄関に女性物のサンダルがあった。居間の方から楽しげな笑い声が聞こえてきて、閏の心は昂揚した。
いそいそ顔を出すと、都を膝に乗せた青子が、首だけで振り返って「よ!」と挨拶した。
「いらっしゃい。良かった。出て来られたんだ」
「うん?」
「お母さん、大分怒ってたろ?心配した」
都なんか、今朝からそわそわし通しだった。青子はあっけらかんとして答えた。「平気、平気。あの人、どうせ直ぐ忘れちゃうから」
「でも、よっぽど怒られたんじゃないか?悪いことしたなあ」
「アオコちゃんのママ、怖いね。アオコちゃん、かわいそう」
都が憐れみを示し、青子は破顔した。
「怖くないよ。お母さん、都ちゃんにごめんねって言ってたよ。お詫びに、今度は蓮吾と遊びにおいでって」
「?レン君といっしょなら、ママ怒らない?」
「うん」
初対面の印象が良かったためか、母は蓮吾がお気に入りだ。彼の少年らしい潔癖さや初々しさを、年頃の娘の友人に相応しいと判断したらしかった。
「ねぇ、そういえば、どっか行ってたの?」
俺は……?と怪訝がる閏の格好を見て、青子がたずねた。スーツにネクタイなんて、葬式か結婚式でもない限り、高校生が着る機会なんてないだろうに。
「仕事でザリガニ食ってきた」
「ザリガニ?変わったアルバイトねぇ?……ま、いいや。おはぎ作ってきたの。冷蔵庫に入れとくから、お腹減ったら食べて」
「ん、今食う」
「?食べてきたんじゃないの?」
閏は箸と皿を持ち出して、大きなおはぎを二つ、口の周りを粒餡で汚しながらぺろりと平らげた。
「そっちの紙袋は?」
閏は青子の傍らに置かれた紙袋を目ざとく見付け、またなにかうまい物が入っているに違いないと、期待を込めてたずねた。「ああ、これは……」
青子が答えようと口を開いた矢先。玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。友達と図書館に行っていた和子が帰ってきたのだ。
青子は閏への返答を保留にし、紙袋を持って和子の後を追いかけた。都も付いてきた。
「何か御用ですか?」と、不審そうな顔をする和子に、青子は紙袋を手渡した。中身を覗き込んだ和子は、危うく目玉がこぼれ落ちそうな程に、大きく眦を裂いた。
「これっ……」
「私のお下がりで悪いんだけど。新品同様だから、使って」
子どもの頃に買ってもらった、ナデシコ柄の浴衣。成長期でぐいぐい身長が伸び、二回しか着る機会がなく、ずっとクロゼットの奥にしまわれていたのを引っ張り出してきた。
「良いの……?」
「もちろん。和子ちゃんに着てもらえれば、私も嬉しい」
虫食いがないか隅々までチェックしたし、ちゃんとクリーニングに出したので、防虫剤の臭いもしない。安心して使ってくれて構わない。青子は保証したが、和子には別に気になることがあるようだった。和子はちらりと都の方を見た。癇癪持ちの妹が不公平だと騒ぎ出さないか、懸念しているのだ。
都と青子は顔を見合わせて、うふふと笑った。
「二人で話し合って決めたの。古い物だし、何年か後には都ちゃんが着ることになるんだから、遠慮することないよ」
「汚しちゃだめだからね!」
都の許しを得ると、花のつぼみが開くように、和子の顔に笑みが広がった。
「ありがとう……!」
青子が着付けをしてやり、全ての支度が整った頃。友達が迎えに来て、彼女はお祭りに出かけて行った。
入れ違いに蓮吾や恵が帰ってきて、夕闇が迫る頃、一行は祭り会場である神社へ向かって歩き出した。




