真夜中の拾得物
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青子は友人達と別れて、学校帰りの学生達で賑わうカラオケ・ボックスを出た。
大手観光バス会社に勤め、ツアーコンダクターとして働く青子の母は、仕事の都合で月の半分は家を留守にしている。その日は三泊四日の婚活ツアーでY県に出張していた彼女が、約一週間ぶりに帰宅する予定だった。
スーパーに立ち寄って食材を買い込み、早くから夕食の準備をした。メニューは母が好きな中華と、昨夜遅くまでかかって焼いたケーキ。時間が余ったので、お風呂を沸かして、部屋もきれいに掃除した。
「…………」
七時になり、八時になり、夜の九時を過ぎても、母は帰ってこなかった。青子は買ったばかりのスマートフォンを握り締め、玄関前のステップに座り込んで彼女の帰りを待った。
『青子……?申し訳ないんだけど、お母さん、帰れそうにないの……新しい子が急に休んでしまって、今K県に向かうバスの中なの……』
電話がかかってきたのは、夜中の十一時十分頃だった。青子は裏切られたような気持ちで、母の言い訳を聞いた。
『約束したのに、本当にごめんなさい……お詫びに、あなたの好きなプリン、買って帰るから……』
「…………」
『青子、聞いてる?青……』
青子は無言で電話を切った。唇からは、いら立ち半分、諦め半分のため息がこぼれた。
(いつも、いつも)
いつもこうだ。
父親を早くに亡くしたため、女手一つで青子を育てなければならなかった母は、良くも悪くも仕事人間の放任主義だ。子供の学校の成績なんかに興味はないし、彼女の友人の名前も覚えられない。十七歳の娘の好物が、未だに三個パックのプリンだと信じてる(まあ、好きだけど)。そんな人だ。
仕事で帰れないのは仕方がないとしても、電話一本くらいできただろう。いや、すべきだ。こっちは準備万端整えて、帰りを待っているんだから。
「カレーにすれば良かった……」
悔しい。腹立たしい。青子は作った料理に手を付ける気になれず、財布を持って家を出た。時間も遅いし、コンビニでサラダでも買おう。雑誌を斜め読みして、レジのお兄さんに微笑みかけてもらって、気持ちが落ち着いたら、良子に電話をかけよう。
青子の計画は、玄関を出た途端にとん挫した。
「な、なにっ……?」
異変を感じた青子は、扉に背中を張り付けたまま、暗がりにじっと目を凝らした。防犯灯の陰気な明かりの下に、何かが……いや誰かが倒れている。
ただ事ではない気配を感じた青子は、腰をかがめ、足音を忍ばせ、恐る恐る近寄った。もしかしたら死体か、それに準ずるモノかもしれない。だとしたら、まだ犯人が近くにいるかもしれない。
(なんてね)
冗談はさておき、夕方、市内放送で行方不明者の捜索協力依頼が流れていた。彼は(彼女だったかも……)まだ見つかっていないはずだ。
そっと門扉を開いて、横たわる人物の全身を確認し(若い男性だ)、最後に顔を覗き込んで、ぎょっとした。
「う、うそ……!なんで……!?」
一ミリのずれもなく、顔の中心を真っ直ぐ走る高い鼻。薄く知的な唇。今は固く閉じられた瞼の奥には、青い瞳が眠っていることを、青子は知っていた。
「ちょっ……ちょっとぉ……!なんで家の前で倒れてんのよっ……起きなさいよぉ!」
名前は確か、うるう、とか言ったか。混乱した青子は彼の肩を掴み、がくがくと前後に揺さぶった。閏は俄かに眉を寄せただけで、目覚める気配すら見せなかった。
(どうしよう……)
病院はもうやっていない時間だし、いきなり警察は可哀そうだ。(もしかしたら、酒を飲んでいるかもしれない)かと言って、家の前に転がしておくわけにもいかない。
青子は仕方なく、閏を家に入れることにした。夜中に男の子を引っ張り込んだなんて知ったら母は卒倒するだろうが、構いやしない。どうせ彼女は帰ってこないのだ。
「重ぉっ……!」
青子は苦労して閏をドアの内側まで運んだ。途中で脱げた彼の靴と靴下を拾って玄関に放り込む頃には、発見してから十五分が経っていた。
一仕事終えた青子が、キッチンで水でも飲もうかと考えていた時だった。ブルーグレーのパンツのポケットからこぼれた閏のスマートフォンが、突然に震え出した(いつだって突然だ)。一度は無視しようとした青子だったが、もしかしたら、彼の家族かもしれないと思い、考えを改めた。
「え?お迎えの時間?二時間もオーバーしてるって?……知りませんよそんなこと」
事情を説明して引き取りに来てもらおうと思ったのだが、早速当てが外れてしまった。聞けば彼女はシッターで、閏の幼い妹を預かっていると言う。
「わかりました……西町通りですね。……はい。はい。直ぐ行きます」
青子は仕方なく、仕方なく、証明書がわりに閏の鞄から生徒手帳を拝借し、会ったこともない少女を迎えに行くことにした。
「困るんですよね。こう何度もだと」
「はあ、どうもすいません」
「次からは、もう少し早くいらして下さい。超過分は会社から請求しますから」
シッターを名乗った瀬川という人物は、五十代半ばの、太った女性だった。彼女は迎えが変わったことすら気にならない様子で、うつらうつら船を漕いでいる幼女を青子に押し付け、荒々しくドアを閉めてしまった。
青子は呆れ返ったが、腹を立てている場合ではなかった。
「お姉ちゃん、だあれ?」
大きなまん丸の目が、不安そうに青子を見上げている。青子は腹をくくった。
「……みやこちゃん、だっけ?私はお兄さんの知り合いで、宮木青子っていうの」
「アオコちゃん?」
「そうだよ。とにかく、ここにいると怒られそうだから、行こう」
青子が閏の妹……都の手を引いて、瀬川氏の自宅前から立ち退こうとした、その時だった。
道の向こうから銀色の自転車が猛スピードで走ってきて、青子と都の目の前で、鋭い音を立てながら急停車した。
「お前は誰だ!妹をどうする気だ!」
自転車に乗っていたのは、中学生くらいの少年だった。少年は青子を誘拐犯を見るみたいな目で睨め付けた。青子はうんざりしたが、彼の顔色が暗がりの中でも分かるほどに真っ青だったので、許してやることにした。
「この人、お兄さん?」
「れん君」
青子は都に向かってたずね、都は力強く保証した。救世主の登場だ。青子は胸を撫で下ろした。
「理由あって、あんたのお兄さんをうちで預かってるの。お兄さん、動ける状態じゃないから、仕方なく私が迎えに来たの」
「本当か!?もし嘘だったら……」
承知しないぞ!と続くはずだった言葉は、彼自身の腹の音にかき消された。
ぐー!
立て続けに都の腹も鳴り、三人は顔を見合わせた。
「……ねぇ。もしかして、ご飯食べさせてもらってないの?」
「けいやくに入ってないんだって」
なんてこと!
青子は瀬川氏の自宅の方をぎろりと睨んだ。瀬川氏はカーテンの隙間から様子を見ていたが、青子と目が合うと、そそくさと家の中に引っ込んだ。
「なにか食べないとね。二人とも、一緒においで」
「……兄貴の彼女?」
「冗談。お断り」
青子は閏が目覚めていることを願いながら、二人を商店通りにある自宅まで案内した。道々、青子は少年の名前を確認した。彼は雨霧蓮吾といい、雨霧都の兄であり、閏の弟で間違いないそうだった。
「ここがアオコちゃんのお家ー?わー!きれい!」
「しー、静かに。真夜中なんよ。近所迷惑でしょー」
都は我勝ちに家の中に駆け込むと、未だ夢の中にいる兄の顔の上を一跨ぎに飛び越え、キッチンとお風呂とトイレの場所をチェックした。
「あんたも入って。早く。入って入って」
「良いの?」
「どうせ誰もいないから。それより家に連絡してみてよ」
「……お邪魔します」
蓮吾は恐縮した様子で上り込むと、都の分と合わせて、脱いだ靴をそろえて端の方に寄せた。青子は『へぇ。』と感心した。今時珍しい、礼儀正しい子だ。
蓮吾がスマートフォンで電話している間に、青子は玄関に転がった閏を、なんとかリビングまで運び込んだ。両手首を持って無理に引きずったので、シャツがめくれて腹部が露出した。舞香みたいに腹筋に点数を付けることは出来なかったが、臍にピアスはしてなかった。都は青子を応援した。
「ねぇ、この人、本当にあんた達のお兄さん?」
廊下を引きずりながら、青子は都にたずねた。
世の中に似てない兄弟なんていくらでもいるが、こんなにちぐはぐなのも珍しいというくらい、三人は似ていなかった。特に閏と都は性別云々を通り越して、人間の種類がそもそも違う様子だった。祖先は同じ猿でも、同じ霊長類でも、農耕民族と狩猟民族とか、チンパンジーとテナガザルといった風に、二人の螺旋の間には、大きな隔たりを感じる。
「うん。うる君」
「ふうん?まあ、事情は起きたら聞くか」
四苦八苦してやっとこ閏をリビングのラグの上まで移動させ、一息付くと、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきた。とはいえ、仕事は未だ終わらない。
冷凍庫にしまった料理を皿にうつしてレンジで解凍し、夕食の準備をする。かき玉汁の鍋を火にかけていると、電話を終えた蓮吾が戻ってきた。
「お家の人、出た?大丈夫?」
「うん。親父が、今日は仕事を休んで家にいるって。……それでその、迎えに来られないらしいんだ……」
蓮吾は言い難そうに、すまなそうに告げた。
「そう……家はどこ?ここから近いの?」
「M町」
「M町……!?って駅四つも離れてるじゃん。その制服、東中学校だよね?電車で通ってるの?」
「うん。それとチャリ」
「学区外じゃないの。中学って、そういうのありなの?」
「俺、この辺に住んでることになってるから」
青子は時計を見上げた。電車なんかとっくに動いていない時間だ。
「お兄さんも動かせそうにないし、仕方ないね。ソファになるけど、泊まっていきな」
「……ごめん……」
「いいってことよ。さて、夕飯にしよう」
二人暮らしには広すぎる食卓の上には、母と食べるために用意した、麻婆豆腐やエビチリや回鍋肉なんかがずらりと並べられた。
「わー!ごちそうだー!」
都は大げさに感嘆し、青子を喜ばせた。しめしめ。
「これ、あんた……じゃない。宮木、さんが作ったの?」
「そうだよ。青子で良いよ」
「食べちゃって良いの?誰かと食べるために作ったんじゃないの?」
「その予定だったんだけど、帰ってこれなくなっちゃって。あんた達がこなきゃ、無駄になるところだったの。……あ。ひょっとして軽いものの方が良かった?真夜中に中華はないか?」
「全然平気。全部食える」
まさかと思った青子だったが、食べ盛りの子供の食欲というのは凄まじかった。麻婆もエビチリも回鍋肉も、あっという間に平らげてしまった。
「おいしー!昨日のマヨネーズごはんよりおいしー!」
「ばか。余計なこと言うなよ。みんなには絶対内緒だからな」
デザートのケーキを口いっぱいに頬張る都に、蓮吾がくぎを刺した。
「みんな?他にも兄弟がいるの?」
「俺と兄貴と都を入れて、九人」
「九人!?」
ぎりぎり、野球チームが出来る人数だ。
洗い物は翌日にまわすことにして、順番でお風呂に入って出てくると、時刻は深夜一時を過ぎていた。
いつの間にか寝てしまった都を自室のベッドに寝かせ、蓮吾の寝床を準備すると、軽く眩暈がした。
「これ、お兄さんにかけてあげて」
「ん」
「明日、何時?」
「部活あるから七時。大丈夫、自分で起きられる」
「そう。じゃ、おやすみ」
「おやすみ、青子」
家の中に自分ではない誰かの気配を感じながら、青子は眠りについた。身体はくたくたに疲れていたが、不思議と悪い気分ではなかった。