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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Blue Sky

作者: 憑火

  0


 ジギーという名前は聞いたことがあった。だがそれを空で思い出すことはない。思い出したということはその瞬間に迷いが生まれる。そしてその瞬間、もしそいつがジギーでジギーが噂通りの実力ならば、撃たれるだろう。

 俺はジギーに関して思い出したわけではない。ただ、別の感情を思い出した。

 トリガを引く。光が敵に吸い込まれ、敵を破壊する。キャノピィが赤く染まったのが一瞬見えた。

 離脱して上昇に転じる。すぐ周りには敵はいない。6機が混戦しているのが見えた。記憶が正しければ4機が味方。別の方向に2機の軌跡を見つける。6機の方は3、3だと判断。

 どちらも数の上では互角。半ロールして2機の方へ倒れる。フルスロットル。左の翼端が雲を引いた。低い唸りがコックピットも揺らす。

 後ろに着いているのが敵だった。最新のシュバルベだ。俺たちのスパルナと最高速度が100違う。分が悪い。しかしそれはこちらが新エンジンを開発するまで変わらない。

 舌打ちはしない。まっすぐ狙うようにダイブ。直線的に、明らかに撃ち抜こうとしているかのように。いくら性能が違うとは言え、逃げるスパルナを追うシュバルベは重力を味方にした俺より遅い。

 スロットル中スロー。トリガを引こうとした瞬間にそいつは反転した。腕がいいと判断。シンプルにそれを追う。逃げていたスパルナは瞬間インメルマンターンを入れた。それを見て彼女はサエイだと気付いた。

 予想に反してそいつは速度をあげない。

 右に左にターン。

 嫌な感じにタイミングをずらしてくる。後ろを取っているのにトリガを引けない。

 相手は急旋回を入れてきた。

 スパイラルで追う。

 ナイフエッジに切り替わる。

 エルロンを切って上昇を誘う。

 スロットルハイ。

 しかし左に急ターン。

 エルロンを逆に切ってエレベータを思い切り引く。

 頭から血が抜ける。

 揺れるのを我慢する。

 一瞬視界が暗くなった。

 否、一瞬日陰になったのだ。

 太陽の中にサエイがいた。相手の死角を的確に突こうとする、彼女の飛び方。

 一瞬過った嫌な予感。

 そいつは機首を上げた。

 更にエルロンを逆に切ってエレベータを引く。

 スパルナのエンジンパワーはシュバルベに勝てない。

 サエイを誘っていたのだ、と気づいた時には遅かった。

 誘っても俺に勝てると思われたことへの嫌悪感。

「サエイ、左だ!」

 シュバルベから光が放たれた。スパルナからは破片が出た。

「サエイ!」

 手を伸ばした。

 伸ばした先にあったのは2段ベットのアルミフレームだった。ジュラルミンのコックピットではなかった。嫌な汗をかいていた。腕を降ろして溜息を吐いた。

「またあの夢?」

 女の声がした。ゆっくりと起き上がる。重力があることを確認できた。

「ああ」

 彼女に振り向く。壁を背に膝を抱えて座っているのはセツヒだった。上目使いで俺を見ている。少なくとも寝る時には彼女はいなかった。

「だが夢の内容をお前に話したこともなければ俺が夢を見てるということをお前に言ったこともない」メカニックの顔を思い浮かべる。「オーリに聞いたのか」

「ううん」彼女は微笑む。「何となく思っただけ。魘されていたけど、起きた時またこれか、って顔してた。だからいつも見ている悪夢なのかなって。どんな夢? 聞かせて」

 セツヒは2週間前からここに配属された新人だ。どういうわけか配属された時から絡んでくる。今は一時的な停戦状態で、哨戒で飛ぶことはあっても戦闘はなかった。だから彼女は未だ実戦というものを経験していない。

「言うわけないだろ」

窓の外に目をやる。晴れの光が射し込んでいた。

「それより勝手に入ってくるなよ」

「鍵開いてたから」

「何しにきた」

「冷たいね」

 沈黙が流れた。彼女に目を戻す。

 セツヒは窓の外を見ていた。或いは何も見ていないかもしれない。口元は見えない首をかしげていてその目は何だか憂鬱であった。単純に眩しいだけなのかもしれないが。

 今更ながら今は夏であることを思い出した。30回目の夏だ。夏だから暑い。慣れてしまった身体はそこまで深刻に暑さを訴えないけれど、思い出した瞬間暑いなと思った。

 そこにいるのはサエイだろうか、と思ってみる。

 悪夢を見るたびに彼女を思い出す。

 悪夢を見なくてもふと彼女を思い出す。

 今まで俺の周りから消えていった人間はたくさんいた。

 離陸する時と着陸する時で人数が合わない時がある。

 しかし彼らのことはまるで思い出せない。

 1ヶ月前に墜ちた奴は誰だっただろうか。

 ただ覚えているのは、そいつが墜ちた瞬間を誰も見なかったということだ。

 その時墜ちなければそいつは停戦状態の今をこの世で過ごしている。

 ただそれだけ。

 いつの間にか俺の記憶はそんな風になっていた。

 記憶は忘れる。

 思い出も忘れたい。

 サエイ、兄、それらは思い出。

 ジギー、思い出のつもりはないが、忘れることができない。

 それは復讐心か?

「近くのシュラインで夏祭りがあるの」彼女は囁いた。「だから一緒に行きたいなってお誘いに来た」

「行かない」即答。

「うん。それは予想してた。だからどうやって説得しようかなって思ってた。違うな。思っているところ」

「無駄だから諦めろ。そんな遊びには付き合わない」

 セツヒはにっこりと笑った。ベッドのすぐ傍まで這ってきた。彼女は俺をまっすぐ見透かそうとする。俺の後ろにあるのは壁だ。

「私、浴衣持ってるの」セツヒは首を傾げた。「だって夏だよ? 綿菓子食べたいしかき氷も食べたい。1人で行けばいいなんて駄目。独りは嫌だから」そして逆に傾げる。「私の直感が正しければココンさんはずっと祭りとかそういうの行ってないよね」

「直感なんてないだろ。そんなことに」

 嫌気が刺してくる。否とっくに嫌気に満たされていて諦めが混じってくる。手っ取り早く追い払う方法を考える。

「お前、今日飛ぶだろ」スケジュールを思い出して言う。「オーリが昨晩鼻歌を歌ってた。フェニックスについて何かうまくいった証拠だ。スロットルの注意を聞きに行っとけ。いざって時に知らないと死ぬぜ」

 セツヒは顔を膨らませた。そして壁に掛けられている時計を見た。

「まだ2時間ある」

「2時間かかるかもしれない」

 セツヒと目を合わせる。先に目を逸らした方が負け。そんなくだらない勝負だろうか。先に目を逸らしたのは彼女だった。

「わかったよ。ああもう、フライト終わったらまた来るから。鍵開けといてね」

 セツヒは部屋から出ていった。溜息。ベッドから降り、思い出したように机の上の煙草に手を伸ばす。意識していたわけではない。忘れていたのとも何か違う。煙に向かっておはようとでも言うぐらいの、いつもの感じで手を伸ばした。セツヒがそこにいたのは夢だったのだろうか。火をつけて煙を吐き出す。煙を日の光が照らす。屈折して虹になったら、煙草は嫌われなかっただろうか。


  1


 2時間が経った。否、どれだけの時間が経ったかは時計を見ないと確認できない。離陸するエンジンの音が聞こえたのだ。最新のフェニックスが6機飛び立った。低い唸りをかき消すかのようなタービンの響きはここまで聞こえてきた。時計を見ると予定より30分も飛び立っていることがわかった。

 部屋を出る。

 宿舎を出る。

 夏の太陽は容赦なく照りつけてくる。

 格納庫に着く。

 格納庫ではメカニックが無骨なベンチで寝ていた。

「起きてる?」

彼は右手を挙げた。

「オーリいる?」

「2番格納庫に行きましたよ」

「ありがとう」

 2番格納庫にはスパルナがある。スパルナは旧式化しつつある軽量戦闘機だ。フェニックスに置き換えられつつある。もともと最も機器が充実していた1番格納庫にあった俺のスパルナは今は2番にある。フェニックスを整備するためだ。オーリはフェニックスにつくことになっている。

 シャッタが開け放たれた格納庫でオーリはエンジンが降ろされた俺のスパルナを調べていた。

「明日飛ぶぜ。間に合うか?」

 声をかける。オーリは右手を挙げた。

「諸々の計測をしているだけだ。夜にはついでに綺麗になって元通りだ」

「あっそう」

「何でスパルナ弄っているかという疑問については、フェニックスが一段落ついたからだ。無理だろうがスパルナにH-7載せられないかなって思ってな」

H-7はフェニックスに搭載されている新型エンジンだ。

「そいつは無理だろ。物理的に可能だとしても重心が変わる。翼面負荷上げないといけないし、そう、そもそも翼型を変えないといけない」

「案外換装するだけで100上がるかもしれないぜ。重心はさすがに問題だが、俺たちは飛行機というストルメントについて知らないことの方が多い」

「頼むから勝手にエンジン変えるなよ。ブースト入れたら翼が砕けたなんて冗談じゃない」

 オーリはわかっているとでも言うように笑ってスパルナから離れた。

「このインテークじゃ50も上がらないだろ。ストール起こすかもな。H-7は繊細なんだ」

 歩きながら彼はポケットから煙草を取り出す。禁煙と掲げられているが気にする者はいない。気にしていた者は気にしなくなった。俺もポケットから煙草を出した。

「軸流式ってのがまずチャレンジャーだ。確かに流量は大きく扱えるが技術的に無茶した。チャレンジには成功したかもしれないが、全く、現場泣かせだぜ」

「ふん。楽しそうだな」

「コストと安定性を捨ててまで遠心式を選ばなかった理由な」

「パワーだろ。データじゃシュバルベのj003を超してるらしいじゃないか」

「そうだ。遠心式じゃ多段はきつい。圧縮比上げるには回転数か直径かその両方を上げないといけない。どちらにしても遠心力が課題だな。遠心力で圧縮する皮肉さ。あちらさんも軸流式に乗り換えるって情報だ」

「安定性は?」

「聞いた話じゃストールは遠心式が少ないらしいが、どうだろ、それは技術の蓄積だろう」

 煙を吐く。風は穏やかだ。滑走路は暑さで淀んでいる。アスファルトはきっと裸足では歩けない。

 スパルナにはそもそもコンプレッサがない。タービンは響きさえない。排気速度は頭打ちでこれ以上の速力は望めない。

 対しフェニックスには新しい速力の可能性がある。数年のうちに音速だって超えてしまうだろう。そして今はスパルナが圧倒する運動性能もフェニックスがいずれ追いつくだろう。

 俺はフェニックスのライセンスは持っていない。取得する気もないことに気が付いた。いずれスパルナは消える。同時期に開発されたオービットはすでに生産は終了している。

 オーリはもう1度煙を吐いて言った。

「セツヒが来た」

「正解だったか?」

「半々だな」

 溜息を吐く。面倒臭い話になりそうだ。だが何を確認したくてここに来たのだろうか。

「彼女ふてくされた顔してスロットルについて聞いてきたよ。それに関してはまあ答えた。火吹いたらスロットルは絞れって。俺がやったのは信頼性の向上だから何も変わらんよ。まあ彼女からちょっと現場の意見は聞けたな。だから半分」

「で?」

「彼女と話してやれよ」

と、オーリは笑った。俺は笑わずに外を見る。

「俺の夢の話をしたか?」

「聞かれたがな。答えはしないぜ。それよりお前をどうやって祭りに連れて行くかで根掘り葉掘り聞かれた。ジンクスというわけではないがあんまり気分のいいものではなかったな」

「サエイのことか?」

「そのつもりで言った」

「サエイは関係ない。人が集まるところが嫌いなだけだ」

「なら関係ない質問をしよう。セツヒはどのぐらい飛んでいられそう?」

 深呼吸をする。心臓が強く脈打った。普段頭の隅に追いやっていた事実を唐突に射抜かれたような感覚。否、まさしくその通りだ。

 飛び続けている限り俺はいつか死ぬ。同僚だってそうだ。セツヒだけでなく、パイロットは飛び続けている限りある瞬間にいつか墜とされる。かつての同僚はいつだったか墜ちた。

 当たり前のように俺の周りを漂ういつか死ぬという感覚。それはパイロットに限らない。

 いつかの誕生日に彼は生まれた。

 いままで彼は生きていた。

 それは当たり前。

 だから。

 これからも当たり前のように生きているのか?

 そして。

 いつか。

 当たり前かのように。

 死ぬ。

 それはいつだ?

 漠然と漂っていた死の感覚。

 唐突に具体性を持った刃となった。

 俺に突き付けられたそれを見ないふりと決め込んだ。

 たぶん切られた。

 天井の水銀灯を見て考えるふりをした。1列だけ数を数えて動揺を押し殺して答える。

「すぐ墜ちる」

 オーリは存外真面目な顔をしていた。煙草を落とし靴で消火し2本目を点けた。

「そうだろうな。それでこういうのはどうだ? セツヒはそう、孤児だった。孤児というのは贅沢ができない。それこそ祭りでアイスを買うことも躊躇する。或はそもそも行っていないのかもしれないな。だが成長した彼女はパイロットになり金を稼げるようになった。実際それは重要ではないが、何にしても祭りを楽しむだけの余裕が存在するようになった。しかし彼女がなったのは戦闘機パイロットだ。今日明日死ぬかもしれない」

「だから楽しめるうちに楽しんでおけと? くだらない」

「まあな。くだらないから却下だ」

「で?」

「セツヒはジギーを知っている」

 ジギー、その瞬間俺は空へと舞い上がった。否、意識が戦闘モードになったのだ。コックピットに入り、右手は操縦桿を、左手はスロットルを握り、足はフットペダルを踏んでいる。トリガを引く瞬間を待ち始めた。

 だけどここは地上であることを思い出す。エルロンなど俺にはない。ロールしたところで頭をぶつけるだけ。

 ジギー、その名を俺は知っている。その翼を知っている。5年前の夏だった。遠くに積乱雲が見えた。噂だった。

 サエイが墜ちた。

 オーリはもう一言続けた。

「関係あるか?」

 何のつもりだと問い詰めたかったけど、オーリは俺の結論を知っているかのように悠々と煙を吐いていた。

「確かに関係ない」

 答えた。溜息を吐く。煙草を地面に落とし踏みつけた。オーリは最後にもう一言だけ付け加えた。

「ちなみに件の夏祭りは今夜だ。明日もやってるが予報は雨だな」


  2


 司令のカサに電話で外出許可を求めるとあっさり許可が下りた。セツヒについても聞くと彼女はすでに申請していてついでに俺の外出許可も準備するよう求めていたらしい。

「デンジャラスだな」カサは笑った。

「ああ、デンジャラス」

 部屋に戻って本を読んだ。昔誰かから貰った。戦記物。敵国が1万の兵を率いて突然攻めてきて5千の兵で立ち向かうそのある将軍の話。面白いとは思わないが何度も読んだから将軍が採った作戦からロマンスまで覚えている。これが10万の兵で立ち向かう話だったら面白いのにと思う。

 休戦状態とは言え全く危険がないということではない。協定を破るか破られる可能性だって十分ありえるし、そうでなくても突然機体のリンケージがいかれてフラットスピンに陥るかもしれない。そうしてセツヒが死んだ場合、約束したわけではないがは残留しどこへ漂うのだろうか。

 心配というわけでも期待というわけでもなく思っただけで、着陸してきたエンジンは6つだった。フェニックスは勿論単発だ。

 1時間後ノックと伴にセツヒが来た。

「何があった?」

 まず聞く。1時間も経ったのだ。

「えっと、それは」

「勿論空でだ」

「あーうん、ちょっとやばかった」

 向かった空域で敵の戦闘機と遭遇したらしい。否、遭遇という言葉は生温く、1度トリガを引いてしまうだけで戦闘になった、それだけ接近し危険な状態だったということだ。それも普通の戦闘機ではない。敵の新型だ。双発だったらしい。

「それより、祭り…」

「ああ、行くよ」

「え……」

セツヒはきょとんとした顔になった。

「何だ、オーリから聞いてないのか」

オーリに言った記憶はなかったが。

「え、本当? やった嬉しいっ! 絶対行ってくれないと思ってた」

思った以上にセツヒは飛び跳ねた。

「外出許可取ってたんだろ」

「バーで飲んでようかと思ってた」

「デンジャラスだな」


  3


 門で双発の戦闘機について考えているとセツヒが浴衣姿でやってきた。背後の無機質な建物に似合わない明るい色だ。守衛がつまらないジョークを言ったから「おもりだ」とジョークで返した。

 何も言わずに門を出る。

「何か言ってよ」

「あんまり似合わないな」

「酷いな。可愛いでしょ。車じゃないんだね」

「ああ。車じゃない」

 懐かしい言葉が出てきたと思った。

 ステーションまで黙って歩いた。それほどの距離はない。

 報告によると敵の新型は翼の付け根にエンジンを入れた双発の大型戦闘機らしい。翼に筒のようなものを抱えていてそれは最近噂の誘導型のロケット弾ではないかとのこと。多くの爆弾を載せるだけのパワーはあるはずだから爆撃機という側面もあるかもしれない。或は厚い装甲を持っているのかもしれない。

 そして、音速を容易く超えるのかもしれない。翼に強い角度がつけられていたらしい。詳しいことはオーリも知らなかったが、翼が角度を持っていると圏音速以上で有利に働くのではないかと言われているそうだ。

 超音速はスパルナではありえない。フェニックスでもいくつか報告があるだけだ。

 乗った路面電車はその時は乗客は少なかった。少なかったが吊革に掴まった。夏の太陽は粘っていたけどそろそろ沈む。いくつかのステーションで電車は止まり、その度に乗客は増え中には浴衣の者も多々いた。

「その恰好暑くないのか?」

「意外と涼しいよ。甚兵衛とか来てみたら?」

「遠慮しておく」

 どこかのタイミングでそんな会話をして、それ以外はずっと黙っていた。目的の駅に着くころには電車は人が多すぎて息が詰まった。香水らしい匂いと汗の臭いが酷く混ざって頭痛がするのだ。セツヒと俺ぴったりくっつく状態になった。俺より背が頭1つ低い彼女は俺の胸に手をあてて体重を乗せて顔をうずめてくる。疑問は何のつもりだということ。印象は彼女の香りは悪くなかったということ。どちらも口には出さなかった。

 ステーションで電車を降りると人の流れができた。俺達はそこから離脱した。太陽は沈んだ。

「ココンさん香水嫌いでしょ」

 セツヒは人の流れを眺めながら言った。

「ああ。お前持ってるのか」

「1つだけね。開けてないけど。パイロットになろうって思う前に誕生日プレゼントで貰ったの。その頃は子供だったから香水は嫌いだったけど、いつか必要になったら使おうって思って大事にしている」

「今は香水好きなのか?」

「ううん。好きじゃない。でも耐えられると思うの」

 行こ、と言ってセツヒは俺の左腕に手を伸ばした。腕を組むというやつだ。左腕と目で拒絶を示すとセツヒはほんの少し目を細めて俺を睨んできた。面倒臭さと天秤にかけて溜息を吐いた。再び疑問は何のつもりだということ。今度は口に出す。

「歩きづらい」

「祭りではこうするのがマナーなの」

 拒絶はサエイが脳裏に現れるということ。諦めて歩きだす。人ごみに向かって。

 ステーションからシュラインは近く、すぐに人口密度は高くなった。多数の人間が同時に喋り、意味を持たない音の塊となって身体にぶつかってくる。出力ではエンジンの方が圧倒的に大きいのだがこの不快感は何なのだろう。

 ぶつかってくるのは音だけでない。見知らぬ人間が当たり前かのように接触してくる。間を縫って子供が駆け抜ける。窮屈に感じる。音が混ざる。意味を成す音など存在しない。肌に感じるこの湿気は人間が身体のあちこちから出す水蒸気だろうか。そうだとするとなおさら気持ち悪い。

 不確かな明日を口を開けて待ち続ける連中だ。知っているか? 俺は人を殺しているんだぜ。それも何人も。

「あ、綿菓子食べたい」

 適当に答えた。

 すぐそこにあった屋台で綿菓子を買う。

「私初めてこれ食べる」

 セツヒは言った。人ごみにのまれながら彼女はそれを器用に食べる。

「甘いね。おいしい」

 そう感想して俺にそれを向ける。一口食べた。

「甘ったるいな。そう、思い出した。軽い砂糖だったな」

「昔食べたことあるの?」

「5年前だ」

「5年前」

「そうだ」

 5年前。それはいつだ?

 その時俺の隣にいたのはサエイだ。拒絶していなかった。否、受け入れ求めていた。

 彼女の大きな瞳が笑うだけで幸せだった。それはとても不思議な感覚で初めてのことだった。

 初めて人間を好きになったのだ。そしてそれは最後なのだろう、という確信がある。

 だけど、サエイは墜ちた。ジギーに墜とされたのだ。

 それは5年前。

 サエイはもういない。

 ここにいるのはセツヒだ。そう思い出す。

 エルロンが利かなくなって松の種のように落ちる光景。

 エンジンが死んで重力と狙う目に挟まれている光景。

 尾翼が吹き飛んでフリスビーのように回っていく光景。

 血の赤に染まるキャノピィ。

 彼女はその全てを見たことがない。

 彼女はその全てを見た。

 トリガを引けば誰かが死ぬ。

 トリガを引かなければ自分が死ぬ。

 墜ちていく。ここに。

「大丈夫?」

 セツヒが心配そうな顔で俺を見ていた。しかめ面をしているのが自分でもわかった。

「人ごみ苦手?」

「得意なやつがいるのか?」

「私は、耐えられる」

 ふと疑問がわき起こる。否、それはすでに頭のどこがで感じていたものだ。避けていた。口に出す。

「何でパイロットになんかなろうと思った? 戦闘機パイロットに」

「え?」

 セツヒは目を大きくした。それは多分俺がそれを問われた時にする表情とは違う。何でそんなこと聞くんだ、と俺は返す。くだらないと。

 セツヒは目を伏せた。

「ちょっと休もっか」

 セツヒは俺を引っ張って人ごみから抜け出した。屋台の裏側の薄暗い方だ。喧噪は遠く他人事となる。他にも人ごみから逃げ出して煙草を吸っているやつはいた。

「ここにいて。飲み物買ってくる」

 セツヒはまら人ごみの中へ消えていった。雲の中に突っ込んでいったみたいだ。雲に入るのが嫌いなやつは多い。迷子になるからだ。右もわからなければ左もわからない。下というものを失うのだ。その瞬間無重力になる。

 もちろんそれは幻想だ。重力はどんなに抗おうとも常にある。下に、墜ちていく。機体を操れない者ほど、ジャイロを信じないのだ。だから空間の迷子になったやつはそのまま墜ちる。

 近くの木に寄りかかりポケットから煙草を出して火を点けた。苦い煙を吸い込み頭をクリアにする。

「何でパイロットになんかなろうと思った?」呟く。

 理由なんてない。

「他に道はなかったのか?」呟く。

 あったと思う。どこも行き止まりだったように思える。

「ジギーを恨んでいるのか?」呟く。

 ノー。

 白い煙を吐く。暗闇の白はやはり白だ。

 ラムネを2つ持ってセツヒは戻ってきた。

「悪い」

 受け取ってそれを飲んだ。甘ったるい炭酸だと思った。

 しばらく黙ってラムネを飲んでいた。セツヒは俺の隣で明るい喧噪を眺めていた。俺は喧噪を眺めたり空の星を探していたりしていた。

「どうして」

 セツヒは前を見たまま言い出した。

「どうして戦闘機パイロットになろうと思ったのかな」

 俺は何も言わない。ただ能天気な喧噪を眺めていた。

「そう、5年前。ジギーに会った。戦線が動いて今は違うだろうけど、私の故郷の近くの基地に彼がいたの。こんな感じに夏のお祭りがあって、私、そのお祭りに行ったの。そこで彼に会ったの。ずっと後になって彼がジギーだって知ったんだけど、フライトジャケットを着てたわけじゃないけど、パイロットってすぐわかった。それでちょっと話したの。どんな話だったか全然覚えてないけど」

 セツヒの独白を煙草を煙を目で追いながら聞いていた。エンジンの音がした。空からだ。無意識に探そうとした。木の枝のせいで全く見えなかったけど、双発の輸送機タイプだと思った。

 セツヒも空を見上げていた。

「こんな風にあのときもエンジンの音がした。戦闘機だったと思う。それを追っていたジギーの目が、綺麗だった。無限に広がるブルースカイが広がっているようだった。自由が見えた。私もたぶん、地上から飛び立ちたかったんだと思う」

 セツヒの右手が俺の頬に伸びた。それに導かれて俺はセツヒの方に顔を向ける。彼女はまっすぐに俺の目を見ていた。

「あなたの瞳にもブルースカイが見えたの」

 何もないヴォイドの世界が見えた。

 セツヒの顔が近づいてくる。

 彼女は瞳を閉じる。

 俺は見ていた。

 唇が触れた。

 何に?

 何故?

 少しの間だった。彼女は離れた。

 煙草を地面に捨て靴で消火した。

 溜息。

 ゆっくり息を吸った。

「ブルースカイの意味を知っているか?」

「青い空」

「さあな。無価値だ」

「えっ」

「帰るぞ」

 セツヒは目を伏せた。

「ごめんなさい」


  4


 夢を見た。5年前、サエイと行った夏祭りの夢。彼女はタンクトップにカーゴパンツだった。互いにそういうのに行くのが好きというわけではなかった。だけど、何となく意味もなく行くことになった。意味がなかったのがよかったのだ。

 目が覚めてもサエイもセツヒもいなかった。

 まず煙草を出して火を点けた。

 昨夜はその後何も会話しなかった。昨日のフライトで遭遇した1機がジギーだったかもしれない、とセツヒが言ったのに対して報告したかどうか聞いただけだった。ここ数年の彼の機体の塗装である白い鳥があったかもしれなかったらしい。彼女は頷いた。

 時計を見ると今日のフライトまであと2時間といったところだった。目覚ましをかけていたわけではないが、フライト前に目が覚めるように身体がなっていた。気分は良くない。これは体調ではなくて気持ちの方だ。どうしても何もしたくなかった。立ち上がることもドアを開けることも食堂で食事をとることも、あまつさえ飛ぶことさえ億劫になっていた。それでもすでに煙草を吸っていて吸うために起き上がっているのだから不思議なものだ。たぶん、この一連の作業は身体に染みついていて、煙草を吸ってから気分が悪いとか思い始めるのだ。

 3分の1が灰になったところで火を消し立ち上がった。

 食堂に司令のカサがいた。彼は俺を見て左手を挙げた。右利きだからだ。適当に食事を受け取って彼の前に座った。

「協定はいつまで持ちそう?」聞いた。

「噂になってるのか?」

「噂というか状況判断。昨日の件は別にシークレットじゃないだろ」

「協定は5日後に破棄される。延期する可能性はあるらしいが早まる可能性はない。怪しいがな」

「なるほどな。それで?」

「ああ」

 カサは曖昧に返事した。言いづらいと顔に書いてあった。検討はつく。

 食堂に誰かが入ってきて、見るとセツヒだった。一瞬だけ目が合って彼女はすぐに目を逸らした。

「お前、フェニックスに変えるつもりはあるか?」カサは言った。

 深呼吸してゆっくりと答える。

「そこのあいつに関することだったら笑い飛ばそうと思ってたんだが」

 それから考えだした。

 何故、スパルナに拘る。ロジカルな理由はもうほとんどないのかもしれない。例えば、エンジンの信頼性を言い訳にできるかもしれない。だけど、そんなことは関係ないということはとっくに自覚していた。

 たぶん、考えたくない。時間の流れを。置いて行かれたい。

「どうにも好きになれない。エンジンが信用しきれないんだ。怖くて飛べない」

「怖いか。ココンの台詞とは思えないな」

「何にしてもそういうことだ」

「わかった」カサは笑った。「そう報告しておくよ」

 双発の敵の新型はリーパと言われているらしい。カサとのその後の雑談でそういう話が出た。おおよそ情報通りらしい。

 フライトまでの時間を適当に潰した。

 フライトスーツで格納庫に向かい、そこで飛ぶ奴らと最終確認をする。スパルナ4機で飛ぶ。

 スパルナのコックピットに入り、エプロンに牽引されるのを待つ。不思議と朝の憂鬱は綺麗に消えていた。

 エプロンでイグニッションオン。エンジンスタート。エンジンの低い唸りが響き渡る。それぞれ舵を切って動作を確認。キャノピィを閉める。

 滑走路までタキシングし、フルスロットル。ギアからの振動が身体に響く。翼が風を掴むのを我慢して待つ。

 翼がしなる。それを見ないで確認した。

 エレベータを引いた。振動が消えた。

 その瞬間、そこは空だ。ただいま、と言いたくなる。ギアを仕舞った。

 西に向かって4機で飛ぶ。周辺には雲はない。北のずっと向こうに高く構える積乱雲が見えた。あの中に突っ込むのは自殺行為だ。風に煽られ次の瞬間にはフラットスピンだ。あの上に上るのもスパルナでは難しい。空気が薄いと推力が落ちるし失速速度も高くなる。10分ほどで下は海になった。

 1時間を更に飛んだ。時々艦艇が海に見えたがうろうろしている漁船に比べて数は圧倒的に少ない。漁船の中に敵の諜報船が紛れていてもきっと気づかないだろう。

 この辺りは海の上に戦線がある。それも海岸から300離れていて、もしここで墜ちて落下傘を使ったら、冷たい海で衰弱死するだろうなという幻想を抱く。海で泳いだことはなかったが、最後にそんなことをしてみるのも悪くないかもしれない。

 戦線の近くを10分近く飛ぶ。敵の様子を見るのだ。スクランブルをかけたのならもうそろそろ敵もここに着いていてもおかしくない時間だ。

 あと10分何もなかったら帰投する、というところで無線が鳴った。

「南西上空に何か。2機かな」

 その方向を睨む。不自然な点がすぐに見つかった。

「オーケィ、見えた。2だな。俺が見てる。他は確認したら索敵を再開。10分経つか向かってくるかしたら帰る。しつこく追ってきたら戦闘だ」

「了解。機種はわかるか?」

「さあな。リーパかもしれない」

「リーパ?」

「双発」

「ああ」

 はたしてそれはリーパだった。否、リーパをちゃんとに知っているわけではなかったからはっきりとしたことは言えないが、見たことない機体とその大きさと翼にぶら下がる筒と直感からリーパだと判断した。

 それがわかる程度には近づいたわけで、実際にはどちらかが戦線を超えている可能性が高い。だけど空に線など存在せず、境界線なんて現場を知らない奴らの口約束でしかない。

 そんな口約束を頼りに俺たちはトリガに安全装置をかけたままにしている。

 10分間何もなく互いに距離を保ったままだった。リーパの1機に白いマーキングが見えたが言わないでいた。ジギーという名前が浮かんだがすぐにそれを追い払った。

 例えば、今ここで1人離脱しジギーに向かうことに意味はあるのか?

「帰投だ」

 リーパは追ってこなかった。


  5


 それから3日間は何もなかった。セツヒは俺に近づいてこなかったし、俺はもともと彼女に近づかない。フライトも誰かしら1日1回は飛んでいたが何か特別なことはなかった。実に平和な日々だったし夕立以外はずっと晴れていた。

 4日目、休戦協定が破棄されるらしい日の前日も晴れだった。相も変わらず強い夏の日差しがアスファルトに照り付けていた。午後になってフェニックス4機が飛び立った。その中にセツヒはいた。

 その離陸を耳に聞いてから滑走路に出た。走ろうと思ったからだ。熱を投げかける日差しと熱を蓄えたアスファルトに挟まれて走るのは中々デンジャラスだがそういう気分になったのだ。或いは、明日から戦闘の可能性があると思ってトレーニングをしようと思ったのかもしれない。

 滑走路は砂漠の様に暑かった。砂漠なんて行ったことないからこれは想像だ。コックピットには空調はないが、しかしこの暑さを感じた記憶はなかった。瞬く間に汗がにじみ出た。あっという間に倒れてしまいそうだ。滑走路のど真ん中で倒れて、着陸するフェニックスに轢かれて死ぬかもしれない。戦闘機だってそんなに脚が丈夫ではないから、折れて吹き飛んでパイロットだって死んでしまうかもしれない。そんな馬鹿げた想像。

 格納庫の方に振り向くと手を振る人影が見えた。オーリだ。手を振りかえすと彼はこちらに歩き出した。それを立ったまま待つ。

 張り上げなくても声が届く距離になるとオーリはもう一度手を挙げた。

「やっぱりココンか。お前じゃなかった時の言い訳を考えてた」

「見えなかった?」

「メカニックは数字が読めれば十分なんだ。しっかし暑い。何で暑いか知ってるか?」

「夏だから?」

「太陽に近いからだ。知り合いの天文マニアが教えてくれた」

「ああ。だが北半球の夏も同じぐらい暑いぜ?」

「そういやそうだな。まあいいか。ランニング? 俺も10年ぶりに走ろうかな」

「やめとけ。オーリを日陰に引っ張る力は俺にはない。歩こう」

「肥満って言われてるみたいだな」

 オーリは太っているわけではない。俺の筋力不足だ。体重は軽いほうがいい。

 酷い暑さの中を歩きだす。少しの間暑さをまじめに味わった。

「何で休戦だったか知ってるか」

 独り言のように聞く。

「さあな」オーリは言った。「ロクな理由なんてないだろ」

「ロクな理由ではないな。たぶん、試験運用のためだろう」

 フェニックス、そしてリーパ。

「カサさんが言ってたのか?」

「いや」

「まあ、でも」

 オーリは笑った。そんなことわかりきっているとでも言いたげだった。だけど笑っただけで続きは言わなかった。

 俺としては、この戦争のくだらなさを確認できたから十分だった。何度も何度も確認しているような気がするが、時々それは夢なのではないかと思えてしまう。誰もかもが真面目に戦争に勝とうとしているのではないかって思ってしまう。

「やっぱり走る」

「俺は歩いてる。無理だ」

 一度空を見上げて走りだした。たぶん浮かれている。と思った。

 滑走路は1往復だけした。その日滑走路を走ったのは俺が最後だった。

 3時間経ってもフェニックスは帰って来なかった。日が沈んでも帰ってこなかった。航続時間を超えても帰ってくることも生存報告もなかった。

 格納庫でフライトスーツで待機していた俺たちのところに苛立った表情でカサが来た。23時を回っている。

「今日付けで協定が破棄された。スケジュールを変更する。目を通しておいて」

 あちらこちらからため息が聞こえたような気がした。

 ふざけるな。言いたくなった。だけど、その言葉は全くもって意味がわからないと自覚した。

 セツヒは死んだ。それが頭に残留した。


  6


 あの日あの空域にジギーが存在したという情報があった。

 2週間が経ち俺も4度戦闘をした。記録ではシュバルベを6機、リーパを1機墜としたことになっている。リーパには重大な問題があることに気づいていた。エンジンが片方ストールを起こすことがある。その時左右の推力のバランスが著しく悪くなる。その結果運が悪いとフラットスピンに陥るのだ。これはストールがほとんどない旧式エンジンを積んだ双発機では問題にされなかったし、単発のフェニックスなんかでは発生しなかった。フェニックスもエンジンストールはあるが、その時はスロットルを一度絞って安定するのを待てばよかった。(もちろんその間も危険である)

 しかし、リーパでは、おそらくスロットルを絞るという判断をする前にバランスを崩してしまうのだろう。それは高迎角時なんかでは顕著だ。

 そしてそういった失速による敵の墜落はカウントされないから、もしカウントすればリーパの撃墜数はもっと多くなる。

 どちらにしてもこの速いペースは開戦直後の盛り上がりだろう。

 しかしジギーには会わなかった。

 そしてこの日、

 白い鳥のマーキングを発見した。

 それはサエイの恨み? 自嘲。

 それはセツヒの恨み? 自嘲。

「ジギーがいる」

 言った。どこだ? という焦りとあれか、という焦りが聞こえた。

「俺が相手する。他を任せる」

「了解」

 一瞬で気分が高揚した。今までにないくらい。歌いだしてしまいそう。

 ジギーは左にいた。エルロンを切って直線的に向かう。

 ジギーも気づいて倒れこんでくる。

 互いに正面。撃てない。翼を立ててすぐそばをすれ違う。

 今のは挨拶。通じたか。

 ジギーが繰っているのはリーパだった。速力の差は100どころではない。一撃離脱を取られたら勝ち目は薄い。否、容易に狙い撃ちされるつもりは全くないからどちらも墜ちないで終わるだろう。

 フルスロットルでそのまま舵を切る。相手はインメルマンを入れた。

 遠くの空に積乱雲が見えた。

 彼を上に見ながらゆっくり上昇。

 小回りの利いたインメルマン。単調に後ろを取ろうとする。

 ゆるやかな右旋回。ちょうど届かない距離。

 深呼吸。右に入れたらきっと上から狙われる。

 我慢してついていく。スロットルはハイだったが相手はまだまだ余裕のはず。

 突然左に倒れる。

 反応してエルロンを切る。

 フェイントだ。

 反転。

 ダイブ。

 また反転。空はどっち?

 右へ。フラップを下ろす。

 ラダーを右に。

 エルロン左。エレベータ。

 感情なんて消えてしまっている。相手が誰かなんてとうに忘れている。

 1回スナップ。ラダーでフェイント。駄目。

 今度はゆるやかな左旋回に入った。違いは高度がだいぶ落ちたこと。

 我慢しないふりして一瞬左に振ったが通じず。少し高い位置をとる。少しだけ周りを見渡した。大丈夫。ここにいるのはこの2人だけ。

 太陽が背に入る前にフルスロットルを入れる。

 機首は少し上に、左に切る。

 相手は少し反応が遅れた。

 右に倒れる前に反転。

 斜めに切り込む。

 更に反転。

 相手は機首を上げた。

 このタイミングで? 一瞬思った。

 反応してエレベータを思い切り引こうとす。

 否。

 右手は止まらなかった。

 相手は止まったように見えた。

 エルロンを右に切る。相手は左に倒れたように見えた。

 一瞬で見えなくなる。

 否。

 エルロンを逆に切ってエレベータを引く。スロットルは中スロー。

 キャノピィの上に見えた相手は明らかに悪い位置だった。

 きっと左エンジンが落ちた。

 思った。

 失速からは抜けられているようだけど。

 他のやつだったらそのままフラットスピンだ。

 動かない的みたいだった。

 鼓動が聞こえた。

 冷徹に狙いをつけ、

 右手の指でトリガを引いた。

 道で繋がっているかの様に弾は走り、

 そのリーパに吸い込まれた。

 キャノピィが赤く染まった。

 遅れて記憶にくる機銃に振動。

 離脱。

 ジギーのリーパはもう意識もなく回り始めた。

 深く息を吐いた。

 深く深く息を吐いた。

 その瞬間にスパルナのエンジンの低い唸りが耳についた。

 ジギーを墜とした。その思考がかすめる。

 だけど、左手はスロットルを押し上げることを忘れていないで、

 右手はエルロンを切りエレベータを引き、

 足はそれに合わせてラダーを踏んだ。

 口はずっと黙ったまま。

 耳はエンジン音を注意深く聞いていて、

 目は次の敵を探していた。

 頭だけが置いて行かれているような気がした。

 その思想だって、次の瞬間には過去のことだった。


※エブリスタでのあとがきと違います


エンジンについて模索していた時代に書いた小説です。


ガスタービンエンジンの存在を匂わせていて、主人公側の陣営はその開発に遅れているという風になっています。

ならば主人公が乗るスパルナはレシプロ戦闘機かと言えばそうでもないです。

フェニックスのエンジンも厳密にはガスタービンではありません。


この世界にはスラスタという推進装置が存在していて戦闘機にはこれが搭載されています。

フェニックスのエンジンはスラスタにガスタービン機関を組み込んだ複合エンジンです。



最後に、この小説はエンジンなどの世界観以外は「スカイ・クロラ」シリーズへの憧れでできています。

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