満月の夜の来客
僕等はいつものように廃墟の中で生活していた。薄暗い廃墟だ。しかし僕にはその暗さが丁度良かった。半吸血鬼の僕は暗い場所でも見えるようだ。今はもう夜。
牙は無いし瞳も赤くはならない。しかし血が飲みたいという願望はある。尋常ではない程に喉が渇くのだ。
「影婁、血を頂戴…?」
影婁の部屋へ行きベッドに座っている彼にそんな風に言ってみる。
「喉が渇くのか?それなら、やる」
彼はいつものように牙で深く腕を傷付け、血を流す。
「うん、ありがとう。…ごめんなさい」
滴る血をごくりと飲み込む。甘い甘い血が喉を伝う。
血を飲みながら涙が流れてくる。その涙を見て影婁は指で拭ってくれる。
ひとしきり血を飲み終え、彼の腕を見た。牙で傷付けた痛々しそうな傷痕が残っている。僕はそれを優しく撫でた。
まだ流れている僕の涙を見て、影婁は何故泣いているのか尋ねてくる。
「僕が血を貰う度に影婁が痛い思いをしなきゃいけないから」
僕にも牙があればいいのに、と訴えてみる。
「吸血鬼になんてなるものじゃない。それに、俺のことなら心配ない。…ほら」
そう言うと影婁の腕の傷痕はすうっと消えていった。
「もう、痛くない?」
腕に触れながら聞いてみる。
「…ああ、大丈夫だ」
お前が心配する必要はない、と優しい手で頭を撫でてくれる。
「良かった…」
僕は小さく微笑む。
突然、影婁が何か察したようにバッと顔を上げる。見たことのない険しい表情。何だか焦っているようにも見える。
「どうしたの?」
そんな彼に尋ねてみた。
「…何か来る」
僕を引き寄せ彼が言った。そう言われても僕は何も感じ取れない。
「かげ……」
名前を呼ぼうとすると手で塞がれてしまう。
「誰か来た。静かにしてろ」
黙って影婁を見ていると、彼はハッと目を見開いた。一体どうしたのだろうか。
ぐいっと引っ張られて簡単に彼の腕の中に収まってしまう。影婁はドアをじっと見つめている。
足音は部屋の前で止まった。ギイ、と音を立ててドアが開かれる。緊張した面持ちの影婁は僕を抱き締める腕に力が入る。
「こんばんは」
無表情なその人は、まるで感情が無いかのように言った。灰色の髪、赤い瞳、白い肌。吸血鬼だ。
「何故お前が此処に居る?」
警戒心丸出しの影婁は彼を睨み付け尋ねた。
「妙莉が目覚めたみたいだね」
輝きの無い瞳でうっすらと笑い、彼は言う。
「僕のこと、知ってるの?」
影婁の知り合い…だよね、多分。
「ああ、知っているよ」
相変わらず薄ら笑いのその人。
「確認は出来ただろ。帰ってもらおうか」
ずっと僕を抱き締めたまま、影婁は言った。
「せっかく来てあげたというのに、もう追い返すの?」
違う声がその人の後ろから聞こえ、瓜二つの顔の持ち主が現れた。同じ薄ら笑いで笑っている。
髪をポニーテールにし、少しウェーブがかかっている。どうやら女の子のようだ。
「妙莉、こんにちは。私は藍音。こっちは琉」
「藍音さん、と…琉さん…?」
年上らしきその人たちを見上げる。
「呼び捨てでいい」
琉さんの言葉に僕ははい、と頷く。
「…さて、妙莉の目覚めを確認出来たことだし帰ろう藍音」
琉は藍音の手を引き外へ出て行こうとする。
「あ、ちょっと待って」
いそいそと藍音は大きな鞄を持ってくる。重たそうなのに軽々と持ち上げている。
「…これは?」
鞄を見ながら僕は尋ねてみた。
「貴方の服。妙莉ちゃんに似合うと思って持って来たの」
うふふ、と笑み藍音は鞄を開けベッドに服を広げる。レースが誂えてあるスカートや可愛らしいシャツ等が沢山あった。
何だか思っていたより吸血鬼っぽくない。吸血鬼とかいう以前に、藍音はお姉さんという感じだ。
「藍音、帰ろう。…そこの吸血鬼さんが怖いよ」
クスッと笑んだ琉の視線の先を見た藍音はくるりと向きを変えた。
「またね、妙莉ちゃんと影婁」
薄く笑んで二人は闇に溶けていった。
「綺麗な人たちだったね。影婁の知り合い?」
未だに僕を抱き締めている彼に尋ねた。
「………ああ、ちょっとな」
そっぽを向いた影婁は言った。
「…ふーん」
そう言い彼の手に触れる。
「どうした?」
キョトンとして彼は首を傾げる。
「さっきの影婁、少し怖かった」
敵意というか殺気というか、そんなものが窺えた。
「すまない」
彼は僕の背中に頭を擦り寄せ謝る。
「もう大丈夫」
そんな風に言って頭を撫でる。
優しい影婁。でも少し怖かったのは本当。あの二人が来た時、怯えるような 威嚇するような そんな感じだった。
初めて会ったあの人たちのことを僕は知らない。でも何故か初めてな気はしなかった。…一度どこかで会った?考えてみたけど覚えがない。
「影婁、僕はあの人たちに会ったことある?」
記憶を失う前に。
「一度だけ」
素っ気ない返事が返ってくる。
「そうなんだ」
どうやら聞いてほしくないようだ。彼の気持ちを察し僕は大人しく黙った。
不意に抱き締められる力が強くなる。驚きつつもどうしていいか分からず影婁の頭を撫でる。その手に彼の頭が擦り寄せられた。柔らかい髪。
「妙莉」
名を呼ばれ優しい手が髪を撫でてくる。大きな手。冷たい手。
「ねぇ、外に出よう」
振り向き影婁に言ってみる。
「…今日は駄目だ」
あっさり否定されてしまった。
「どうして?」
曇った影婁の表情を見て尋ねる。
「――今夜は満月だから」
満月の夜は、獣が血気盛んになるらしい。満月の夜はいつも以上に血に飢えてしまうのだ。
「…今日もう自分の部屋行け」
そんな風に言って影婁に部屋を追い出されてしまう。
影婁に触れられた感触が残っている。撫でられた頭 抱き寄せられた身体 冷たく優しい手。
廊下にはコツコツと僕が歩く音だけが響く。静かな夜。
何だか月を見たい気分になり外へ出た。丸い月が真っ黒な夜空に浮かんでいる。影婁に何も言わず出て来ちゃったけど、大丈夫だよね…。
月を見ていると人の気配が。ふと見ると暗闇に人が佇んでいた。人ではないことは一瞬で理解できた。艶やかな黒髪、猫のような耳と尻尾。それは多分 黒猫。蒼い瞳が僕を見ている。
「君、ここで何して…」
思わず言葉が止まった。
彼はそう 例えるなら獣だった。手は血で染まっている。ニタリと笑んだ口元からは牙が覗いていた。
その人は僕を引っ掻こうと勢い良く手を振りかざした。微かに頬を爪が掠め血が流れる。ついその場にへたり込んでしまった。そして腕が振り下ろされる―――
殺される。
そう確信した。
「――――妙莉っ…!!」
影婁の声がしたかと思うとグサリと鈍い音が聞こえた。
甘い血の香り。でもこれは僕のものじゃない。これは 影婁の血の匂い。
「影婁!」
僕を庇い彼の背中を鋭い爪が引っ掻いた。
影婁は苦痛に満ちた顔で無理に笑ってみせる。
「大丈夫か?」
僕の頭をあの手が撫でた。
「う、うん。ちょっと血出ただけだから」
そう言うと影婁は僕を抱き締めるもすぐに離し瀬を向ける。
獣は影婁に向かって走り寄り、尖った爪を振りかざす。弱った身体でも影婁はそれを避け彼の首に手をかける。
「妙莉に血を流させたな」
許さない、と影婁は憎しみのこもった瞳を獣に向ける。
「ぐ…っあ」
首を締め上げる影婁の腕を掴みもがく獣。
「影婁、殺しちゃ駄目!」
思わずそんなことを口走っていた。それを聞いて影婁はするりと手を離した。獣は荒々しい息遣いで影婁を睨み付けている。
―――――――グサリ。
一体何が起こったのか分からなかった。
獣の首にはナイフが刺さり、影婁の腹部を獣の爪が深く突いていた。
「がは…っ」
影婁と獣は一気に崩れ落ちる。ナイフが首に刺さった獣は既に息絶えていた。
「影婁!!」
僕は急いで彼に向かって走る。
「きちんと始末をつけないから悪いのよ」
声の主を見てみると、藍音だった。彼女は獣に刺さったままのナイフを抜き取りピッと振りかざして血を拭い去る。
「藍、音…」
影婁は僕に寄りかかりながら彼女を睨み付けた。
「助けてやったんだから礼くらい言ってほしいな」
うっすら微笑みながら僕等を見据えるのは琉。
「あんたら…どうしてここに居るんだ」
帰ったんじゃなかったのか、と影婁が言う。
二人によれば血の匂いがしたから来てみればこんな状態になっていたそうだ。
兎に角、影婁を部屋に運ばないと。二人に手伝ってもらい、何とか影婁の部屋まで辿り着いた。彼の服に血が滲んでいる。破れた服の隙間からは痛々しい傷痕が見える。
「じゃ、妙莉ちゃん。あとは任せて大丈夫?私たちは外に行ってるわ」
血の匂いに酔いそう、と藍音。
「運ぶの手伝ってくれてありがとうございました。あと、影婁も助けてくれて…」
頭を下げていると急に琉が頭を撫でてきた。
「妙莉は本当に良い血の香りをしているね。君の血を飲めば影婁はすぐ治るんじゃない?」
ニッと笑いながら僕の頬の血を拭い舐めとる琉。何だか恥ずかしくなった。
「ほら、琉」
藍音は少し怒ったような口調で琉を外へ連れ出す。
「影婁、服脱げる?手当てしないと」
ベッドに倒れ込んでいる彼に伺いながら着替えの服を持ってくる。
「ん…自分でするから大丈夫だ」
服を着替え終わりボロボロの服を脱ぎ捨てる。
「ごめんなさい、僕なんかを庇ったから…」
自分の服をぎゅっと掴み謝る。大怪我させておいて、こんな謝罪で償えるなんて思ってはいないけれど。
「気にするな。お前を守れただけでいい」
冷たい手が頬を撫でた。苦しそうにしながらも笑む影婁。
彼の身体の血を濡れたタオルで拭い包帯を巻く。痛々しい傷痕。包帯の上からキスを落とす。僕のせいで付いた傷。きっと凄く痛かっただろう。
「着替え、取ってくれ」
影婁は僕の身体をぐいっと引き離し言った。
「う、うん」
いそいそと着替えを渡す。袖を通した服のボタンを留めていく。
ボタンを留め終え影婁の傍らに背を向けて座る。するとシーツの擦れる音が。
後ろから急に抱き締められた。弱々しい力で少し震えている影婁。
「お前が 殺されてしまうんじゃないかと思うと…凄く怖かった」
掠れた声で彼は呟く。
「大丈夫、ここに居るから…」
彼の腕に触れ、そんな風に言ってみる。
するりと腕を解き僕の顔を自分の方へ向かせる影婁。しかし彼は俯いたままだ。
「どうしたの?かげ…」
思わず言葉が詰まってしまう。彼があまりに辛そうな顔をしていたから。
何か言おうとしたのか一瞬口を開いたものの影婁は黙ったままだった。
「部屋、戻れ」
僕の背中をポンと軽く叩き影婁は言う。
「嫌だ。影婁が心配だもん」
それに逆らい彼の部屋に止まる。
「俺が吸血鬼だということを忘れたのか?」
急に彼は僕をベッドに引き込み片腕を掴む。固く握られた腕は解くことが出来ない。
そう、彼は吸血鬼だ。忘れかけていた。だってこんなに優しい瞳をしているんだもの。
「影婁、どうしてそんなに怯えるの…?」
そう言って彼と視線を交える。彼は驚いたような顔をした後 哀しげな目を伏せがちにしていた。
「俺がいつ理性を失うか分からない。…それが怖い」
僕の腕を離し俯く影婁。
「僕が影婁を守ってあげる」
頭を撫で微笑んだ。
僕が守ってあげないと。影婁はとても強い人。だけれどずっと一人で何かを抱え込んでいる。支えてあげたい。
この優しい吸血鬼を僕なんかが守れるか分からないけれど、でも 守りたい。
「……ぐ、ぁ…っ」
突如として影婁が苦しみだした。
「影婁、どうしたの!?」
彼は顔を手で覆い隠している為、表情が分からない。
「妙莉ちゃん、離れた方がいいよ」
声の主を見ると藍音と琉が立っていた。
「暴走しかけてる」
藍音が険しい面持ちで言う。
“――今夜は満月だから”
そんな影婁の言葉を思い出す。血が欲しくなる夜。ただでさえ飢えている彼には苦しい日だろう。
「影婁、私の血を飲みなさい」
飢えているんでしょ、と藍音が言い出す。
「何 言って…」
僕は呆気に取られてしまった。
「いら、ないっ…!!」
そう叫ぶと影婁は自分の腕に噛み付いた。
「やめて」
何だか涙が浮かんでくる。
そんな 自分で自分の血を飲むなんて。何も変わらないじゃないか。ただ痛いだけじゃないか。
つかつかと影婁の傍に歩いて行き藍音は何か囁く。それは僕には聞こえない。急に琉が僕の腕を引っ張り外に連れ出した。僕が部屋から出る瞬間 見たものは、影婁が藍音の首筋に牙を立てている姿だった。
外は満月で明るく、綺麗な月がぼんやりと夜空に浮かんでいた。何が起こっているのか分からない僕はただただ月を眺めた。
暫くして藍音が外に出て来た。
「影婁、もう大丈夫よ」
行ってあげなさい、という藍音の言葉に影婁の部屋に走って行く。
勢い良く扉を開けた。すると彼は起き上がって僕を見た。どうやらもう苦しくはなさそうだ。
「大丈夫…?」
薄暗い部屋に入り尋ねる。
「…多分」
目を逸らし影婁は言う。
後ほど藍音に聞いたら、深手を負った影婁は大量に血を失った為 身体が血を欲し暴走したのだそうだ。
満月の夜は 獣を呼び覚まさせる。例えどれほど優しい人でも容易に獣へと変化してしまうのだ。