出会い
俺は六百年生きている吸血鬼。人間は嫌いだ。いつも俺たちは血を狙われていて そして邪魔者扱いされ忌み嫌われる。ただひっそりと生きていたいだけなのに。
いや、生きていたくないのかもしれない。永い年月を生きていたっていいことなんて特に無い。何千人もの人間が死ぬのを見て来た。そのせいか俺は心も喉も渇いて いつしか冷たい者になってしまっていたのだ。
吸血鬼の血は寿命を延ばしたり肉体の衰えを無くしたり出来る代物だ。だから汚い人間はそれを欲し 奪い合う。俺はそんな人間が嫌いで仕方無かった。
俺は廃墟に住み着き、毎日をぼんやりして過ごしていた。そんなある日、廃墟へと足を踏み込む人間が居たのだ。薄暗い廃墟に足音が響く。俺はそんな中、ゆっくりと足音の聞こえる方へと忍び寄った。
よく見てみるとそれは小さな少女だった。とても小さな だけれと凛々しいような、そんな雰囲気を纏っていた。長く綺麗な緋色の髪、金色の瞳に細い身体。色白の素肌はまるで吸血鬼のようで人間かどうか疑ってしまった位だ。
彼女の様子を影から伺う。どうやらこの場所を前から知っているようで、部屋の隅へとうずくまる。そんな彼女へと黒猫が近寄る。
「猫さん、こんにちは」
優しい笑みを黒猫へと向け、彼女は猫を撫で下ろす。
黒猫は人懐っこいのか彼女の手に頭を擦り寄せゴロゴロと喉を鳴らしている。
「僕ね…皆に嫌われてるの」
寂しげな表情を浮かべた彼女は一筋の涙を流した。綺麗な涙を。
しかし渇いた心は満たされなかった。人の泣き顔なんて何度も見て来た。だからもう 慣れてしまっていたのだ。
それでもその光景に見入っていた俺は、音を立ててしまった。黒猫が驚いて俺の方を見る。少女も涙を拭い猫の見ている方を向く。
「…誰か居るの?」
暗闇を凝視する彼女にはまだ俺の姿が見えていないようだ。不安げな面持ちで此方を見つめている。
俺は答えずにジッと少女を見据える。赤い目に驚いたのか彼女は目を見張った。しかし悲鳴も挙げずジッと赤い目と見つめ合っている。
「お前、人間だな。何故こんな場所に居る?」
長い沈黙の後 面白半分で来たのではなさそうだが、念の為に目的を聞いてみる。
「貴方は…“何”?」
俺の質問には答えないで自分の疑問を投げかけて来る彼女。人間ではないことは察しているようだ。
「俺は吸血鬼。ヴァンパイアとも言うな」
わざとニヤリと笑ってみながらゆっくりと足を近付けて行く。大抵の人間なら逃げ去る。どうせこいつも人間だ、慌てて逃げるだろう。そんな風に思っていた。
「吸血鬼…。…素敵だね」
そんな彼女は驚く様子もなく笑ってみせた。それどころか目の前に居るものを素敵だと言ったのだ。
初めてそんなことを言われた。今までの奴とは違う、そう思った。大抵の奴は逃げ去るか血を欲するかどちらかだ。穢らわしい、欲望の塊。
「お前は誰だ?」
動揺を隠すように尋ねる。
「そっちこそ誰?先に名乗るのが礼儀じゃないかな」
彼女はそう強気に言い放つ。
「…影婁。お前は?」
質問に答えた後に彼女の名を聞いてみる。
「影婁…、僕は高崎明莉って言うんだ」
微笑むその表情は強気な性格なのを表している。
闇へと足を踏み込む明莉に怯えた様子は無い。むしろ落ち着いた様子で俺の方に向かっている。他者に有る恐怖心というものがこの少女には無いのだ。
今は夕方頃で少し辺りが暗くなってきている為、吸血鬼の目には丁度いい。俺は日光が苦手だ。長時間ではない限り灰になったりはしないものの、やはり日光を好きにはなれない。
「影婁はいつも一人なの?」
直ぐ近くまで来て彼女は不意に尋ねてきた。
「当たり前だ。人間は嫌いだからな。群れるのは嫌いだから仲間なんてものも俺には居ない」
フンと鼻で笑いながら言ってやる。
「…じゃあ、僕と同じだね。僕も独りなんだ」
明莉は小さく笑ってみせた。それは哀しげな笑顔で でも強がっているような笑顔だった。
返す言葉が見つからず、ただ黙り込んでいることしか出来ない。彼女は共感してくれたのだ。俺の価値観や生き方に。他者は誰も理解してくれなかったし理解しようとも思ってくれなかった。近付いて来る奴すら居なかったから。
「お前は俺が怖くないのか?」
吸血鬼の 俺のことが。
人間の少女なんて容易く喰ってしまえる。分かりきっているのに何故俺はこいつを喰わないのだろう。
共感してくれたから、なのだろうか。でもそれとは違う何か。俺はこいつを守ってやりたいと思った。いっそ吸血鬼にしてしまおうか。
「怖くなんかないよ、外の世界の方が怖い。ねぇ…影婁に触れてもいい?」
小さな笑みを湛えた少女は俺に要求してくる。
「ああ」
そう言った俺の手に明莉が触れた。温かい手が冷え切った俺の手を握る。
「冷たい…氷みたいだね」
小さくも美しい手。とても細くて少し力を入れたら折れてしまいそうだ。
反対側の手で彼女の頬を撫でてみた。びくりと身体が跳ねる。表面上強がっていてもやはり怖がっているのだろうか。強気な彼女からは想像出来ない。
頬から撫で下ろし首筋に指を這わせる。細く色白で綺麗な首筋は思わず欲望を駆り立てられる。噛み付きたい、という欲望が脳裏を巡る。
「僕の知ってる吸血鬼は 冷酷で恐ろしい、人を喰らう者。…影婁も同じ…?」
暗闇の中、赤い目と視線を交え明莉は尋ねてきた。
「もし、そうだと言ったら 明莉、お前は逃げ出すのか?」
わざとそんな風に言ってみる。
「ううん、影婁は違うよ。何か違う気がする」
曖昧な答えを出し俺に笑顔を向ける明莉。もし目の前に居る者が狂っていたとしたら絶対こいつは喰われているだろう。
「俺は冷酷で 忌み嫌われる独りの吸血鬼。長年、人間を喰らっていないから飢えている」
耳元でそう囁いて警告する。
「影婁は僕を襲わないよ。だって本当はいつでも僕なんか殺せるはずでしょ?…それをしない影婁は、僕を殺さない」
確かに彼女が言うことは間違いではない。こんな小さな少女、いつでも殺せる。八つ裂きにすれば済む話だ。第一、正体を知られたのに殺さない俺がおかしいのかもしれない。
「…早く帰った方がいい。夜が来てしまう前に」
そう囁き明莉から離れ背中を押す。
「明日も居てくれる…?」
振り向きながら少女は尋ねる。まるで子供のようなその瞳は可愛らしかった。
「ああ、同じ時間に来れば居てやる」
そう言えば明莉は笑顔になって手を振り此処を去って行った。
俺も彼女もどうかしている。人間を殺さない吸血鬼と吸血鬼を怖がらない人間。どちらも異端者だ。
だが俺が人間を殺さないのは事実。死を看取ることは何度となくあったが殺したことはない。それ故に血は長年飲んでいない。人を殺さない理由はただ一つ、化け物になりたくないから。
吸血鬼にとって血を飲まないということはかなりの負担になってしまう。身体も弱って行く一方だ。何年血を喰らっていないのだろう。忘れてしまった。
前までは死体の血を飲んでいたが最近ではこの廃墟から移動していない為、死体すら見ていない。動物も廃墟へなんか来ない。きっと俺が居ることを察しているのだろう。
人間は殺したくないが血を欲する身体は制御出来ない。理性が無くなりそうになる。今日此処へ来た少女への欲望に抗うのに必死だった。身体は血を欲しがっている。飢えているのだ。
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次の日、夕方頃まで彼女を待った。しかし来ない。何となく廃墟から出てみることにした。すると何処からともなく血の香りが漂ってきた。その咽せてしまう程の香りにつられるように其処へ足を運んだ。
道路に誰かが倒れている。周りには沢山の人間が集まり騒いでいる。倒れていたのはよく見ると昨日の少女だった。
どうやら交通事故に遭ったようで身体から大量の出血をしていた。苦しそうに呼吸する彼女は空をぼーっと見つめている。
救急車で病院まで運ばれる彼女の後を追いかけた。手術は終わったようだが別室に移動させられる。窓からその部屋へと足を踏み入れた。風で俺に気付いたのか少女は目を開け俺を見た。
すると彼女はニッコリ笑ったのだ。細い腕を俺に伸ばし触れる。昨日までの温かかった手ではなく、死人に近い冷たさだ。
「ごめ、んね…会いに行け、なかった」
消え入りそうな声で明莉はそう言って涙を流した。俺は何も答えないで彼女を見下ろしている。
「…お前、生きたいか?死にたくないなら今答えろ」
耳元で囁いて答えを待つ。
「生きたい、影婁と…生きたい、よ」
ボロボロと涙を流し彼女は訴えかけてくる。
「俺の血を飲め」
牙で傷付けた手首から血が流れ落ちる。それを明莉の口元へと当てがった。初めは躊躇っていたが彼女はごくごくと血を飲み下す。
どうやら吸血鬼の血はよほど美味いらしい。それは彼女の様子からも受け取れる。人間の噂によると、吸血鬼の血はとろける程に甘く美味いそうだ。
その美味く甘美な血を人間は欲し、俺たちを狩る者まで出て来ている。
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そしてあの日、俺は明莉を病院から連れ出した。“俺と共に生きたい”と彼女が決断したから連れ去ったのだ。
彼女には親が居ないらしい。生まれつき身体が弱く、学校では虐められ、誰も助けてはくれなかったそうだ。言われてみれば最初に出会った時に泣いていた理由にも想像がつく。
明莉はあの日から半分吸血鬼の身体になった。半分は俺の血が流れている。あの時 俺が血を分けなければきっと彼女は死んでいただろう。いわば俺は命の恩人、という所だ。彼女も少し日光が苦手になったようだ。
人間と共に生活するのは初めてだから何が起こるか分からない。人間がどんな生活をしているのかも知らない。
本心を言うと血が欲しいけれど、俺が噛んだら彼女から血が無くなり死んでしまうかもしれない。それが怖くて抑えてきたのに、煽られてしまっては理性を抑えるのが難しい。
俺は明莉を死なせない為に血を飲むのを我慢している。吸血鬼にして共に生きるのも構わないが彼女がそれを望んでいるのか分からない。
「俺はお前の血を飲まない…お前を守る為に。それが明莉、お前を拒んでいる訳じゃないことを分かってくれ」
そう言い彼女の身体をきつく抱き締める。
「でも僕は嫌だよ…影婁にだけ苦しい思いさせたくない」
弱々しく身体を抱き締め返す明莉。
「本当は明莉の血が欲しくて堪らない。でもお前の命を危険に曝すような真似、したくない」
冷えた身体で抱き締め合う。
「影婁が守ろうとしてくれてるのは知ってる。だから助けてくれたんだよね」
泣きながら彼女はそう言った。
「あれは明莉が選んだことだ」
生きるか死ぬか、選んだこと。それを選択したのは明莉本人だ。
あの時 助けたことを後悔していない。でも俺が明莉の血を求める心は制御が難しい。明莉には血を与えないといけないし、俺は明莉の血を飲まない。俺の身体は弱る一方だ。
本当に彼女の血を飲んでも構わないのだろうか。そんな考えが頭を過ぎった。
「血を飲んで?影婁が死んじゃうよ…前より細くなってるし」
不安げな面持ちで彼女は俺に訴える。そして何処か切れているのか血の香りが充満する。
「手、切れたのか?」
腕を掴み血の流れる手の平を見た。
「うん。飲んでいいよ、僕は大丈夫だから…ほら」
出血する手が俺の口元へ近付けられる。吸血鬼にとっては恰好の食事だ。
本能に抗えず、つい彼女の手へと舌を這わした。甘い血液が口内へと広がる。甘い甘い血が。
牙が当たったのか明莉はピクリと身体を跳ね上げる。貪るかのように俺は彼女の血を啜る。久々に喉を血液が潤してくれる。
「影婁、もう駄目だよ」
優しい手付きで頭を撫でられる。しかし俺の理性は止まらず彼女の血をまだ貪り続ける。きっと彼女には今の俺が獣のように見えているだろう。
「影婁、影婁っ…!!」
必死な明莉の声に何とか理性を取り戻し手から口を離し口元に付いた血を舐めとる。
「…ごめん」
少し彼女から離れ背中を向ける。そんな俺を背後から明莉が抱き締めてきた。
「大丈夫だよ。僕は居なくなったりしない、だから 大丈夫」
泣いているような声で彼女は言う。
「泣いているのか?」
後ろを振り向かず尋ねる。
「…うん」
肩に温かい涙が零れ落ちているのを感じ、振り返り彼女の涙を拭ってやった。
やっぱりこいつは人間だ。こんなに綺麗な涙を流すことが出来る。優しい心を持っている。俺なんかとは違う、優しい心を。
明莉はよく泣く人だ。人を思いやれる、とても優しい人。そして怖いもの知らずで吸血鬼の俺すら怖がらない。それどころか俺に自ら近寄って来る位の好奇心旺盛な人間。
そして強がりな人。本当は怖いくせに強がって無理に笑うような人だ。俺はそんな強い心を持っている彼女が好きになった。
「影婁が好きだよ」
耳元でそんな言葉が聞こえ、自分の耳を疑ってしまう。
「…お前、何 言って…」
「影婁のことが、好き」
もう一度繰り返される言葉に空耳ではないことを物語る。
「……。俺もお前が好きだ、明莉」
後ろから抱き締める彼女の手に触れつつ本音を言う。
他の人間とは違う彼女が好きだ。人間を愛するなんてどうかしているのかもしれないが、俺はこいつを愛しているのだ。優しく強い彼女を、愛している。
愛しているからこそ血を求めてしまう。明莉の血は俺の理性を掻き乱し狂わせる。本当は首筋に噛み付きたくて仕方無い。首筋に牙を穿ち甘い血を啜りたい、という考えが過ぎってしまう。
何度も何度も抑える欲望。明莉の為なら何でもする。俺はそう心に決め、彼女と生きていくことを誓った。いつまでも傍に居ることを。
これが 明莉との出会いだった。