目覚め
目を覚ますと 目の前に誰かが居た。全く知らない人が。
その人は僕の顔を見て悲しそうに でも嬉しそうに 笑ってみせたんだ。涙をいっぱいに溜めたその人の目からは一筋の涙が流れ落ちた。
「何で泣いてるの…?」
ぼーっとした頭でそんな風に尋ねてみる。
「…っやっと起きてくれたから」
彼は僕の手を掴み取り頬を擦り寄せてきた。僕の手に彼の涙が伝う。
この人は誰なんだろう。頭が痺れているような感覚で 何も考えられない。
ただ さっきから胸が痛い。この人の顔を見ているだけで 苦しいんだ。そう思いながら彼の涙を拭った。
自分は誰だろう。この人は誰だろう。此処は何処なんだろう。ベッドの上でぼーっとそんなことを思い、天井を見上げた。
彼に聞いたところ、僕の名前は“高崎明莉”というらしい。生物学上は女性だそうだ。しかし自分を 私 と呼ぶのは抵抗がある為、僕 と呼ぶことにした。
髪は長く緋色をしていて 目は金色。色白で細身な身体。薄っぺらい胸は女性らしいとは言い難いものだ。
「貴方は 誰?」
自分を確認した所で彼に尋ねてみた。
「俺を覚えてない…?」
悲しげな表情が僕に向けられる。ズキリと胸に痛みが走った。
「…分からない。自分のことも貴方のことも、何も」
ごめんなさい と俯きながら呟く。
「いいんだ。目を覚ましてくれて 声が聞けただけで嬉しい」
気付けば僕は彼の腕の中に収まっていた。どうして彼はこんなにも悲しそうなんだろう。
彼は“影婁”という名前らしい。吸血鬼だそうだ。何となく見てみると尖った牙が口元から覗いている。
どうやら僕が生きているのは彼が僕に血を提供してくれていたかららしい。吸血鬼の血は治癒力が高くそれを欲しがる者が絶えないそうで、彼はひっそりと暮らしていたそうだ。
高い背に細身の身体、色白い肌は日に当たっていないことを物語っている。少し長めの青い髪、切れ長の赤い目。睫毛が長く美形だ。
「かげ、る」
ドクン。心臓が脈打つ。
頭の中に僕と影婁の笑い合っている映像が流れた。知らない記憶。知らないものばかりが流れ込んでくる。
途中からノイズ掛かり映像は消えた。真っ黒なものが広がっている。
続きはどうなったのだろうか。全く思い出せない。思い出したく ない…?
「お前は五年間、眠っていた。…俺は明莉が起きるのをずっと待っていたんだ」
そして再び抱き寄せられた。冷たい身体が直ぐ傍にある。僕の身体も少し冷たいけれど 彼の身体はもっと冷たい。
まさか僕が五年間も眠っていたなんて。でも何も覚えていない。思い出せない。分からない。
記憶が無いのだろうか。何一つ思い出せない。思い出そうにも何かに遮られる。
「明莉…」
抱き締められて頭を撫でられ、ぎゅっと胸が苦しくなる。これは一体何なんだろう。
僕はこの人を知らない。いや、忘れているだけかもしれない。けれど何らかの繋がりがあるのは確かだ。
「何も分からない。…僕は貴方を知らないし、自分のことさえ分からない」
彼の腕の中に収まりながらそう返してみる。
「俺が覚えてる。忘れない」
抱き締める腕に力が入る。何だかそれに安心してしまった。
「貴方のこと知ってるはずなのに…っ分からない」
思い出してあげたい。そしてこの胸の痛みは何なのか知りたい。
「俺が思い出させてみせる。怖がらなくていいから」
痛い程に抱き締められ、更に胸の痛みも増す。
この人と僕はどんな関係だったんだろう。全く分からない。知らない。
多分 この人は良い人だ。そんな気がする。吸血鬼に良いと悪いがあるのかは知らないけれど でも、何だかそんな気がしている。
暫くして影婁が僕のことを教えてくれることになったが僕が着替えてからになった。
白いワンピースを着ていたが 古びてしまって年月を物語っている。影婁が違う服を持って来てくれたので、僕はそれに着替えた。
五年間も眠っていたというのに身体は腐ったり衰えたりしていない。やはりこれは吸血鬼の力なのだろうか。
因みに彼が用意してくれた服は普通のTシャツだ。僕の服が見当たらない為、影婁が服を貸してくれた。
案の定サイズは合わず、ぶかぶかでTシャツだけでワンピースのようになってしまった。
兎に角 着替え終えたので影婁を部屋に招き入れた。僕の姿を見て彼は少し目を見開き目を逸らした。
「…変?」
彼の動作を理解出来ないので尋ねてみる。
「変とかじゃなくて…その格好、久しぶりに見たから」
ということは五年前も僕はこんな格好をしていたのか。
「そう、なんだ」
ぼんやりしながらそう言ってみる。
ベッドから移動する為に立ち上がるとぐらりと目眩がした。立っていられない、倒れてしまう。
――――しかし僕は倒れなかった。固く瞑った目を開けると、影婁に抱き締められていた。
「あ……ごめん なさい」
ぐらぐらする頭で彼に謝ってみる。
「いい。お前は元々 貧血気味だから、よくあることだ」
優しく微笑む彼はしっかりと僕の身体を支えてくれていた。
ということは、僕は元々 病弱だったのだろうか。目眩が治まらない。影婁が支えてくれているから立っていられるようなものだ。
少し落ち着き、彼と共に違う部屋へ向かう。のろのろと歩く僕は 影婁の背中を追い掛けるのに必死だ。
すると急に身体が浮いたような感覚になった。というか、彼に抱き上げられていた。
「な、何…?」
少し慌てながら影婁に尋ねる。
「こっちの方が楽だろ?」
クスッと笑い彼はそのまま歩き出す。
チラッと影婁を見てみた。青い髪は無造作にされていてボサボサだ。何となく彼の髪に手を伸ばして触れてみる。最初は驚いた様子だったが、嬉しげに笑ってくれた。
ふわふわとした感触で手触りは良く、僕の手に自ら頭を擦り寄せて来る彼を少し可愛く思った。
いつの間にか部屋に着き、ソファへと下ろされる。薄暗くカーテンを締め切った部屋。しかしふかふかのソファで座り心地が良い。
すると僕の隣に影婁が座り、口を開いた。
「俺の血を飲め」
不意にそんなことを言われ、思考が着いて行かない。
「…僕って人間、だよね…?」
一応聞いてみる。
「半分だけ。もう半分は吸血鬼。だからお前は吸血鬼と人間のハーフ」
吸血鬼と人間のハーフ?僕が?…牙も無いし虚弱体質だ。そんな僕が…?
「お前は俺が助けたんだ」
赤い瞳が僕を捉える。逸らそうとしても逸らせない。
「たす、けた?」
分からない。覚えていない。
「血を飲めば思い出すかもしれない。だから…だから、飲んでくれるか?」
苦笑いしながら彼は言う。強制的にではなく 僕に聞いているのだ。
僕は意を決して血を飲むことに決めた。彼にとっても僕にとってもそれが一番の解決法なんじゃないかと思う。
そして僕は頷いた。
影婁はその動作を見ると突然、自分の牙で手首を引っ掻いた。ゆっくりとそこから血が流れ出す。
手首が口元に近付けられ 飲め と言わんばかりに僕を見据える影婁。逆らえない。赤い目が僕を捕らえて離してくれない。
血が流れる手首に舌を這わす。口内に彼の血液が流れ込んで来た。苦いものや不味いものだと思っていたのに、彼の血は凄く甘かった。
人間たちが欲しがるのが分かった気がする。こんなに甘く美味しい蜜を欲しがらない者が居ない訳が無いんだ。
血を飲んでいると頭の中に映像が流れ始めた。
僕は一人で廃墟へと入って行く。そう、今 僕等が居るこの場所だ。薄暗くどんよりとしていて蔦が壁のあちこちに巻き付いている。一人でどんどん進んで行くと、何処からか声がした。
「誰だ」
聞いたことのある声。
「…先に名乗るのが礼儀じゃないの?」
何だか強気な僕はそんな風に言い返す。
「影婁。…貴様は?」
そう、この声の主は影婁だ。しかし全く別人のように冷たい声と視線だ。
「僕は高崎明莉って言うんだ」
ニコッと笑った僕は彼にそう言ってみる。
そんな二人のやりとりを何処からか眺めていた。近いようで遠い。そこで目の前が真っ暗になった。
「…明莉。おい、明莉」
目を開けると影婁の不安げな顔があった。
さっきの映像と全く違う 優しい彼。
「僕と影婁はずっと前に出会ってるの?」
心配する彼に構わず尋ねてみる。すると彼は大きく頷いてくれた。
「思い出したのか…?」
彼によって僕の腕が掴まれる。
「ううん、あんまり。でも、廃墟で出会った…よね?」
首を横に振ってからそう言う。
「出会ってる。ずっと前、この廃墟で」
嬉しそうに笑って影婁は僕の身体を抱き寄せた。
「ねぇ、話して?僕は記憶が無いから分からないんだ。だから教えて欲しい」
抱き締め返しながらそう言ってみた。
分からないのが 怖い。貴方は僕を知っているのに、僕は貴方を知らない。凄く凄く切ない気持ちになって胸が締め付けられる。
不安や恐怖を掻き消すように影婁の身体を抱き締めた。そうすれば不思議とそんな気持ちが和らぐような気がして ただ必死に縋り付いた。
そう、これは 記憶喪失の少女と優しい吸血鬼の物語である。