佐理の選択
「あっ、しまった!」
南玄関の昇降口まで降りていた希恭は、ビジルの部室に鞄を置いて来た事に気付いて立ち止まった。
「どうしよう……」
希恭は考え込んだ。
今更ビジルに戻る訳にもいかないし、戻りたくもない。
かと言って、集会が終われば鍵を掛けられてしまうのだから其の侭にしておく訳にもいかない……
そんな事を考えていると、突然目の前に黒い鞄が“にゅっ”と姿を現した。
「えっ…??」
振り返ると、いつの間に追い付いたのか、佐理が鞄を掲げて立っていた。
その鞄を希恭の胸に軽く押し付けて寄越すと
「相変わらず慌て者だなぁ…恭は」
と言って微笑んだ。
「佐理…あの…有り難う…」
まだ何か言いた気な希恭を横目に見ながら、佐理は靴箱から靴を取り出し、代わりに上履きを放り込んで履き替えてから
「帰らないのか?」
と言った。
「あ、うん…」
そう言われて、希恭も慌てて靴に履き替えると、二人は並んで歩き始めた。
「あの…佐理ごめん…勝手な事して……」
希恭は佐理の横顔をチラッと見て、バツが悪そうに言った。
「まったくだ」
そう言ったものの、別段怒っている様子もなく何時もと何ら変わりは無かった。
「怒ってないのか?」
希恭は遠慮がちに尋ねた。
「怒ってるよ」
「あ…だよな……」
「自分自身にね」
「え……?」
意外な答えに少し驚いて、佐理の顔をじっと見詰めた。
彼は少し伏し目がちになって
「恭の様子がおかしいのは分かってたのに…あの時どうしてもっとちゃんと問い詰めておかなかったんだろうって……」
と言った。
「佐理……」
希恭は何時も、おおよそ“他人を責める”という事を知らないのではないかと思える程、寛容過ぎるこの親友に何とも言い難い感情を抱く。
希恭はその思いを形容する言葉を知らないし、希恭が知りうるどんな言葉でもそれを言い表す事が出来ない。
そして、言葉に出来ないその代わりに、僅かに細めた目で慈しむように見詰めるしかないのだ。
「それで…?考え直す気は?」
佐理は気怠そうに、それでいて決して嫌味の無い独特な雰囲気で尋ねる。
「悪いけど…無い」
希恭はキッパリと答えた。
「だろうな」
答えを予め承知していたように、佐理が少し笑みを含ませて言った。
「ごめん…」
希恭はそう言って俯いた。
「お前は頑固で…言い出したら聞かないからな……」
美しい横顔が苦笑していた。
「他人を困らせて楽しんでるなんて…俺の性に合わない、これ以上やってたら俺…自分が駄目になりそうな気がして……」
「分かった。恭がそこまで思ってるのなら好きにすればいい」
「え……」
「お前を説得しろって言われたけど…止めた」
「やめたって……」
「後の事は俺が引き受ける、だから心配しなくていい」
佐理は微笑みながら希恭に向って言った。
「心配するなって言われても……
「大丈夫。後は俺に委せて恭は自分の思う様にすればいい、元々恭をビジルに引き入れたのは俺なんだし…」
「佐理…一緒に脱けないか?」
希恭は佐理の目を真っ直ぐに見て言った。
「何を言ってるんだ」
佐理は窘めるような口調で言った。
「な、一緒に脱けよう」
「そんな事…出来る訳ないだろッ!」
「どうして!?」
「どうしてって……」
佐理は口籠った。
「佐理だってビジルのやってる事が間違ってることくらい分かってるだろ?本当はお前も俺と同じ気持ちなんだろ?」
「俺は……残る……」
そう言った佐理の表情からは何も読み取れない。
「なんで!?」
「俺が抜けたら誰が……」
佐理はそう言いかけて目を逸らせた。
「佐理ッ!!」
希恭はもう一度同意を促すように強い口調で言った。
「とにかく、俺は脱ける訳にはいかない……」
「そんな……じゃあ俺はどうすれば良いんだ…?お前を残して……」
「恭はこのまま脱ければいい」
「でも……」
「言ったろ、心配するなって、恭には…誰にも手を出させない…」
「佐理……」
「だから恭は何も心配することない、じゃあな」
佐理は希恭の言葉を遮って、まるで話しを打ち切ろうとするかのように別れを告げて足早にその場を立ち去って行った。
(佐理……どうしてなんだ…お前だって、いや、寧ろ俺なんかよりずっとお前のほうが……)
去って行く佐理の後姿を見送りながら、心の中で呟いていた。
それからまた暫く穏やかな日々が続いている。
佐理はその事に触れようとはしないし、ビジルにもこれといった動きは見られなかった。
しかし佐理は、その穏やかな日々の中で葉月と交渉を交していたのだった。
「お話しがあります、今よろしいでしょうか?」
何時もの集会の後で、佐理はメンバーが居なくなったのを見計らって、まだ椅子に座ったままの葉月に話し掛けた。
「何だ?星河を説得でもしたか?」
葉月は素っ気なく答えた。
「いえ、まだ…その事についてお話しが……」
「言ってみろ」
葉月は椅子の背に凭れ掛かり、寛いだ姿勢で答えた。
「何も言わずに恭を……星河を脱けさせてやって下さい」
「………」
葉月は黙ったまま上目遣いに佐理を見上げた。
その表情を見て、佐理は直ぐ様
「課題は僕が承けます」
と言った。
「星河の代わりにお前が受けると?」
「はい。そうです」
「俺は星河を説得しろと言った筈だが?」
「ええ、承知しています」
「それが何故こういう展開になる訳だ?」
「元々星河をビジルに引き入れたのは僕です、星河の本意ではありませんでした」
「そうかな?――お前から話があった時、拒否しなかった時点で星河の本意と見做される…違うか?」
葉月は佐理を見詰めたまま穏やかな口調で言った。
「それは……」
佐理は葉月の言葉を否定出来ずに口籠った。
「まぁいい…お前がそうしたいなら聞いてやらないことも無いが……」
「本当ですか?」
伏し目がちだった佐理の視線が葉月に向けられた。
「但し…ひとつ条件が有る」
葉月はそう言って席を立つと、佐理の側に来て耳元である事を囁いた。
佐理は驚いたように葉月を見直って
「今……何て……?」
と聞き返した。
「二度とは言わん、嫌ならこの話は無かった事に……」
「分かりました。それで結構です」
佐理は葉月が言い終わらない内に返事を返した。
葉月は再び椅子の所へ戻って腰掛けると、また上目遣いに佐理を見上げて
「条件を呑むというのか?」
と念を押した。
「はい」
佐理は短く答えた。
「お前……そんなにあいつが大事なのか?これは女が男を引き留めるために自傷するのとは訳が違うんだぞ?」
そう言った葉月の顔が一瞬険しくなった。
「恭は…星河は僕にとって無二の親友ですから……」
佐理は葉月を真っ直ぐ見据えて言った。
「あいつの為なら体も差し出す……か?」
葉月は既に何時もの顔に戻っていたが、佐理の心を探るようにじっと見詰めている。
「ええ…それに命も」
佐理の口調は穏やかだが、葉月に強い意思を感じさせるものだった。
葉月は何かに思いを馳せるように暫く目を閉じた後
「交渉成立だな」
と言って立ち上がった。
そして、すれ違いざまに
「楽しみにしてるぞ」
と、佐理を見て、佐理が頷く程の軽い会釈をしたのを見ると、部屋から出て行った。
「恭、待っててくれたのか?」
ビジルの部室を後にした佐理は、昇降口の靴箱にもたれて退屈そうな様子の希恭を認め、声を掛けた。
「終わったのか?」
希恭も佐理の姿を見て尋ねた。
「うん、もう帰るだろ?」
佐理が答えると、二人は玄関を出て並んで歩き始めた。
暫くすると佐理が
「どうした?なんか元気無いな」
と希恭を気遣う。
相変わらず他人の様子に聡い佐理に感心してしまうが、希恭は
「別にそんな事ないよ、ただ……」
と答えて口を噤んだ。
「ただ…?」
佐理は口籠る希恭を促すように問いかけた。
「あれからビジルか何も言ってこないのが気になって……」
「何だそんな事か」
「そんな事って……」
「そんな事気にしてるなんて恭らしくないな」
佐理はそう言って顔を綻ばせた。
「………」
希恭が黙っていると、佐理が
「その事ならもう話は着いてる」
と言う。
希恭は少し驚いて
「は…なしが着いてると言っても……」
「だから、恭は晴れてメンバーではなくなった訳だ」
佐理が少しおどけて見せた。
「でも何か……」
「大丈夫。それとも…俺の言う事が信用出来ないのか?」
何時までも心配顔の希恭に、佐理は真顔で尋ねた。
「そんな事無いけど…」
「なら、もう余計な心配するなよ、そんな顔…恭には似合わない」
佐理がニッコリ笑った。
「あ…うん、分かった」
希恭はそう言って頷くと、微笑んで見せた。
「それでいい」
佐理は希恭の答えを聞くと、満足気に微笑んだ。
それから急に思い出した様に
「そうだ、襟章預かっとくよ、そのほうが良いだろ?」
と言った。
「うん、頼む」
希恭も同意してビジルのメンバーだけが着ける特別な襟章を外して佐理に手渡した。
メンバーの襟章にはカラーの縁取りが付けられていて
会長には皇帝の色【紫】が
副会長は生命を司る【緑】
参謀は知恵を表す【朱】
会計は金を意味する【黄】
その他のメンバーは【青】
と、各々色分けされている。
佐理は希恭から襟章を受け取ると、自分のハンカチに丁寧に包んでポケットにしまった。
それから二人はまた並んで歩き始めたが、希恭は何気なく見た佐理の横顔が何故か沈んで見えて、それが少し気になった。
「佐理…」
「ん…?」
小さく呼び掛けた希恭の声に佐理は直ぐに反応を示す。
「あ、いや何でもない」
「変なヤツだな、ハッキリ言えよ」
「本当に何でもないって」
「そうか?なら良いけど…」
佐理はそう言って微笑んだ。
笑みを含んだ思慮深い瞳が、穏やかに希恭を見詰めている。
その佐理に向って
「うち寄ってくだろ?」
今更のように希恭が尋ねると
「勿論」
と、佐理も当然のように答えて悪戯っぽく笑った。
何時もの集会の後で呼び止めておいた佐理に葉月が
「明日の放課後ここに来い」
と、その意味を分からせるために佐理の腰に腕をまわしてグッと引き寄せた。
佐理は抵抗することも無く
「分かりました」
と短く答えたのだった。
言われたとおり次の日の放課後、佐理がビジルの部室へ来ると、ドアの前で葉月が待っていた。
葉月はドアを開けて佐理を先に通してから自分も部屋へ入ると、後ろ手にドアを閉め〔ガチャッ〕と音を立てて鍵を掛ける“フリ”をした。
誰も居ない部屋は静まり返っていて、放課後のざわめきが何処か遠くで響いている。
葉月は佐理に奥へ行くよう促した。
佐理が奥へ行ってみると、葉月は先に一度来ていたのか、可変式のソファーがベッドのように設えてあった。
「この部屋、何に使われてたか知ってるか?」
中央に下がる暗幕を閉めながら葉月が唐突に言った。
「いいえ」
「ここは、教師が生徒を連れ込むために造られた部屋だ、この学校が建てられた頃はそんな事が当たり前のように行われてた、だからトイレもシャワー室も有る」
「…………」
「以前はベッドも置いてあったそうだ。戦後になってそういう事が無くなってから暫くここは空き部屋になってた、それをビジルが部室として使い始めたわけだ」
葉月は上着を脱いで肘掛けに放り投げると、佐理を引き寄せて首筋にねっとりとしたキスをする。
そして、自分のネクタイを引き抜いたのに続いて佐理のネクタイも引き抜いて放り投げた。
「脱げよ」
葉月がシャツを脱ぎながら佐理を促す。
「ここで……!?」
佐理は目を見開いた、予想はしていたがここでするのはリスクが大き過ぎるように思えた。
「俺に抱かれる約束だろ?」
「分かってます、でもこんな所で……」
「ここじゃ嫌か?」
「誰か来たらどうするんですか……?」
「集会が無い日は誰も来ない。心配しなくてもちゃんと鍵は掛けた、それとも……俺の家で一晩中抱かれたいか?」
葉月はそう言って佐理をベッドに押し倒して馬乗りになると、決断を迫る。
「どちらか選べ。ここで1回切か、俺の家で一晩中抱かれるか?」
「分かりました……ここで」
意を決するような答えを聞くと、葉月は佐理のシャツのボタンを外し始めた。
そしてこの日、佐理は初めて自分の中に“男”を受け入れたのだった。
しかしそこに佐理の跡を付けていた一年の九瀬がこっそりと忍び込んで、その様子を覗き見ていた事を佐理は気付いていなかった。




