F O L I E ― フォリィ?
かなり残酷な表現や流血表現が多いので、苦手な方はご覧にならないで下さい。また、気分が憂鬱になる可能性が高いので、気分が落ち込んでいる方などはご注意下さい。ちなみに、R-15は流血表現が多いので付けました。
「お嬢様、こちらはいかがですか?」
「あら、こちらもどうです? お嬢様はこちらもお気に入りでしたよね?」
華やかな、女達の声。
「こらこら、貴女達? いくらこの子が可愛いからって、そんなに沢山はいらないわ。困っちゃうでしょ?」
優しく穏やかで、慈しみに溢れた母親の声。
「いいの、母様! 私、み~んな大好きだもん! だから、ぜ~んぶ遊ぶの! いいでしょ? みんな!」
無邪気で、――そして、愚かな子供の声。
聞こえてくる、女達の笑い声。
そこに、男の声が交じった。
「おや、随分と楽しそうだな?」
「あら、お帰りなさいまし、貴方。リィレイナも、ほら」
「お帰りなさい、父様!」
「ああ、ただいま、リィレイナ。元気にしていたか? 我儘を言って、皆を困らせてはいないだろうな?」
父の意地悪な言葉に、子供は無邪気に笑う。
「してないもん! そんなこと! 私はそんな子供じゃないわ!」
「はは、そうだよなぁ。リィレイナももう、八つになるんだよなぁ」
「そうよ! もう小さくないもん!」
家族団欒の――温かい、笑い声。
それを物陰から覗く、子供。
歳は、十歳くらいだろうか。
その歳にしては、腕が細い。
表情にも、乏しい。
その顔が浮かべているのは、紛れもない……憎悪。
けれど、よく見れば――その顔は、部屋の中で笑い声を上げる子供と、よく似ていた。
そして……その子供の傍で笑っている、母親とも。
部屋を覗いている子供は、ついに耐え切れずに部屋の中に入ろうとした。
だが、彼女が一歩踏み出した途端、一体どこに潜んでいたのか、厳つい男がそれを無言で止める。
子供は、それを無表情で見上げた。
男も無表情でそれを見下ろし、無感動な声で告げる。
「これより先への立ち入りは、まかりなりませぬ。リィフィイナ様」
そう言われた子供は、何も映さない瞳で、部屋の中を見詰める。
部屋の中では、彼女の家族が仲良く語り合っている。
「リィフィイナ様」
男が駄目押しのような硬い声で告げると、少女は諦めたのか、くるりと背を翻した。
その姿を見送った男は、微かに息をつく。
そして、室内の主に目配せをする。
それを受けて、子供の父親はこちらに歩み寄って来た。
「何か、あったのか?」
「ええ、少々……あの、無能がこちらに」
その言葉に、父親は顔を顰めた。
「何と……あの忌み子が? 厄介な……」
「ご安心下さい。追い払いましたので」
「そうか……苦労を掛けたな。あとで、罰を受けさせなければ」
「は。承知致しました。内容は、いかが致します?」
「そうさなぁ……いつも通り、部屋に閉じ込め丸一日は食事抜きだ。それと、鞭打ち三十回が妥当だろう。さすがに食事抜きの最中にはきついだろうからな……下手をすれば、躾ではなく虐待になる。鞭打ちは、明後日だ」
「では、それで。伝えて参りましょう。あの厄介者も旦那様のご慈悲に、きっと地にひれ伏して感謝するでしょう」
「そうだろうな。そうでなければ、生かしている意味がない。では頼んだぞ」
父親はそう言うと、部屋の中に戻って行った。
「あら、どうかなさったの? 貴方」
「父様?」
「いや、何でもない。ただ、『あれ』がこの近くまで来ていたようだからな」
そう言って肩を竦める父親に、子供は顔を歪めた。
「『あれ』って、あの能無しの邪魔者? 何でここまで来るの? 閉じ込めてこっちに来させないようにしたって、この前言ったじゃない!」
癇癪を起こす幼い娘に、父親はなだめるように言う。
「ああ。勿論だとも。だが、見張りが間抜けだったのだ。次からは、絶対に外に出ないようにさせるとも」
父親に、母親も言った。
「そうですか……貴方、次からは完全にして下さいね? わたくし、あれがこの近くをうろついているかと思うと、寒気が致しますわ」
「そうよ、父様! いっそのこと、うちから追い出してよ! あの邪魔者!」
娘の訴えに、父親は悔しそうに顔を歪めた。
「勿論私だって、やれるのならばやりたいさ。だが、我がブランシャール家にあんな無能がいると知られたら……。別宅に押しやりたくても、まだあれは十だからな。せめて、十五くらいになるまでは……」
「そんな! あと五年も待てって言うのっ? そんなの耐えられないわ!」
足を踏み鳴らして喚く娘に、両親は慌ててそれをなだめる。
「ああ、そんなに嘆かないでくれ、愛しい我が娘。たった一人の娘」
「そうよ。愛しいわたくし達の希望」
姉が無能だった為に、リィレイナ=エスポワール=ブランシャールと名付けられた少女――『希望』を意味する名を持つ我儘で傲慢な少女は、頬を膨らませ、不機嫌そうに佇んでいた。
その少女は、ただぼんやりと外を眺めていた。
最低限の明かりを取り入れられるかどうかも怪しいほどの、小さな採光窓。
けれど、部屋が真っ暗な中では、それは頼もしい光源だ。
少女がこの部屋に戻ってから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。
少なくとも、真夜中が来て、朝になって、また夕方が近いのは確かだ。
全く微動だにしなかった子供が動いたのは、扉が微かに開く音が聞こえてからだ。
子供が視線だけを扉に向けると、黒い影が入ってくるところだった。
子供が無感動な視線を投げ掛けると、それに怯えたのか、影はほんの僅かに身動ぐ。
しかし、影はそのまま室内に入ってくると、無言でトレーを卓の上に載せ、室内の蝋燭に火を燈した。
そしてそのまま、足早に立ち去る。
少女は、ぶらりとトレーの元に歩み寄った。
そして、そこにまともな食事があることに、驚いて目を瞠った。
今までの経験上、部屋を抜け出した後にまともな食事が出ることがなかったからだ。
そこで、少し計算をして納得した。
そういえば、部屋を抜け出してからもう丸一日経っていたのだ。
それに、自分の記憶が確かならば、今日は妹の誕生日だ。
だから、今日の食事が普通なのは、いつもと違って特別な日だからなのだろう。
少女は無言で食事を口に運び掛け、そこで瞬きをした。
そういえば、妹と自分は同じ誕生日だった。
つまり、今日で自分は十一歳になったのだ。
まあ、今日ももうそろそろ終わる時間だろうが。
それを思い出した少女は、けれど、それに自嘲する。
少女の家では、代々子供に二つの名を付ける習慣がある。
一つは、代々受け継がれてきた名前に手を加えたもの。
少女の場合、それはリィフィイナという名であり、少女の妹の場合はリィレイナである。
これは、大抵は子供の祖父が付けるものである。
そしてもう一つは、両親が子供を祝福する為に付ける名だ。
妹の方はそれが特に顕著で、希望と名付けられた。
少女のものは、生まれた時と今のものでは差がある。
生まれた時に付けられた名は、フィュ。
『娘』を表す言葉だ。
これはたったの一言だが、娘に娘と名付けるということは、それだけ大切に思っていたと――そういうことだ。
けれど、少女の今の名前は違う。
リィフィイナ=シニスター・フィュ=ブランシャール。
不吉な娘。
少女の名前が変えられたのは、少女が七つの時だった。
その時から、少女は家族と話した記憶がない。
特に妹とは、『無能が感染る』、『忌み子ごときが我らの希望に近付くな』、『この邪魔者が』、『生かしてやっているだけでも感謝するがいい、この厄介者めが』などと言われて、言葉を交わした記憶すらない。
けれど、少女には――何故、そこまでして自分が嫌われるのか、その理由が分からないのだ。
まず、顔立ち。
少女は、蝋燭が照らし出す微かな灯りの元、両手で持ち上げられる程度の大きさの鏡を持ち上げる。
そこに映し出される自分の顔は、妹と瓜二つなもの。
勿論、完璧に同じな訳がない。
けれど、一目で姉妹と分かる程度には似ていた。
だから、顔立ちで嫌われる訳がない。
次に、目や髪の色。
鏡に映る自分の髪は、限りなく銀に近いプラチナブロンド。
微かに波打っていて、髪質は柔らかく、とても珍しい色合いだ。
瞳の色は透き通るような水色で、秘色と呼ばれるような、少々珍しい色だ。
青緑に近い瞳の子供はそれなりにいても、薄氷のような瞳の子供もいても、その間のような色を持つ子供はそうそういない。
妹の方は、少女より珍しいストロベリーブロンドで、髪質は少女と同じだ。
瞳の色も翡翠そのものの色であり、確かに珍しい容姿をしている。
けれど、相対的な評価で言えば、この姉妹の容姿の珍しさはまさに同格。
だから、家族が少女のことを疎むのは、容姿が問題ではないのだろう。
次に思い付くのは、頭脳。
少女は視線を巡らせて、部屋に作り付けの本棚を見詰めた。
そこには、膨大な量の本があった。
子供向けの絵本から、小説、詩集、神話、哲学書、数学や理学の専門書、などなど、実に多種多様な本が、この部屋にはある。
これは、この少女の為に用意された物だった。
ここから、厭きて逃げ出さないように、と――。
それに、微かに残る幼い頃の記憶では、自分は頭が悪いどころか、度々頭が良いと褒められるほどだったはずだ。
そして、その頃からの積み重ねがなければ、こんなに難しい本は読めない。
妹の方も、大して自分と変わらない程度の頭の良さだったはずだ。
自分も妹も文字などの物覚えも早く、微かに覗き見た様子では、ちょうどこの頃の自分がやっていたのと同じ範囲をやっているようだった。
いや、むしろ、妹の方が遅いかも知れない。
だから、これも違う。
一体、何故なんだろう。
どうして、自分は――自分、だけは……
子供の瞳に、昏い焔が灯った。
憎い、にくい、ニクイ……
自分がここにいるのは何故だ、こんな所に閉じ込められているのは、サミシイ思いをしているのは、辛い孤独を味わわされているのは、ろくな扱いを受けられないのは、蔑みの、嫌悪の視線を向けられるのは、屋敷中から迫害されているのは一体誰のせいだ――
自分は、何も悪くない。
だって、どんなに考えてみても、自分が蔑まれる理由が解らない。
いいや、解らないのではなく、最初から、そんな理由がないのではないか?
そうだ、そうでなければ、可笑しい。
オカシイ――
ミンナ、オカシイ。
ソノ、原因ハ、
ミンナガ、変ワッテシマッタ、ソノキッカケハ、
アレガ、アノ悪魔ガ、生マレタカラダ――
自然と、少女の口が嗤いの形を作る。
ソウダ、アレガイナクナレバ、ミンナ、正気ニ戻ル。
イナクナレバ、キット……
ソウ、アレガ、イナクナレバイインダ。
邪魔者ハ、私ジャナクテ、アイツノ方ダ。
アイツガイナクナレバ、キット、絶対ニ、ミンナ私ヲ見テクレル。
私ヲ、顧ミテクレル――
ウン、ソウ、イナクナレバイインダ
殺セバ、イインダ
ニタリと、不気味な笑みが零れる。
微かな笑声が、部屋に響いた。
少女は、寝台から立ち上がった。
華奢な素足が、冬用に敷かれている毛足の長い絨毯に沈み込む。
少女はゆっくりと足を進め、絨毯から抜け出した。
真冬の季節に似付かわしく、床は凍えるほど冷たい。
凍て付いた冷気に、吐息が白く煙る。
けれど、少女はそれを全く意に介さなかった。
少女は、手に握り締めていた鏡を高く持ち上げると、勢いを付けて床に叩き落とす。
ガシャン、という呆気ない音と共に、鏡は砕けた。
細かい破片が散らばる中に、四、五センチ片の大きな欠片がある。
少女はニタリと笑みを浮かべ、それを持ち上げた。
途端に、その白魚のような指に鏡の破片が突き刺さり、鮮血を零す。
少女は、それがまるで見えないかのように、平然と扉へと足を進めた。
そして、無造作に押し開く。
外に出た途端に、驚きに目を瞠る男に行き当たった。
彼女が部屋を抜け出してから、まだ一両日しか経っていない。
だから、見張りがいるのは仕方のないことなのだろう。
「……リィフィイナ様。お戻りを」
僅かに怯えを滲ませた男の言葉に、少女は興味なさげに視線を巡らし、その真横を素通りした。
「?! リィフィイナ様……リィフィイナ=シニスター・フィュ=ブランシャール様! 直ぐ様、お戻りにっ……!」
男に二の腕の辺りを掴まれて、少女は気怠げに男を見詰めた。
そして、微かに唇を動かす。
男は、当然のことながらそれを聞き取れずに首を傾げ、膝を付く。
「リィフィイナ様、今、何と……?」
男の言葉に、呆気なく罠に引っ掛かった哀れな男の態度に、少女は嘲笑を洩らす。
「私が、その名前を嫌いなこと――知らない訳じゃ、ないんでしょ?」
妙に子供らしさを孕み、それでいてどこか大人びた、アンバランスな狂気の言葉に――
男が嫌な予感を覚えて身を引くよりも前に、少女は鏡の破片を、迷うことなく男の頚動脈に衝き立てた。
「…………!?」
男は、苦しみの声すら上げず、その場に倒れ伏した。
頚動脈を切り裂かれた為に、あり得ないほどの出血量がある。
そしてそれは、大部分が少女の体に降り注ぎ、真っ白な夜着を濡らし、足元に血溜まりを作った。
濃い血臭が、辺りに漂う。
少女はそれに怯えることなく、くすくすと狂気に染まった笑いを洩らす。
「ふふ……せめて、『リィフィイナ』で止めてれば、死ななかったかも知れないのに……誰が、あんな名前を好きになるって言うの? 『不吉な娘』、なんて……。昔の『リィフィイナ=フィュ=ブランシャール』なら、まだ好きだったけど……一言も二言も、余計なんだから」
それは、人を殺したばかりの――血に塗れている少女の言葉とは思えないほど、とても軽やかなものだった。
「だから――死ぬのよ」
少女はそう言うと、自らの手に視線を移した。
左利きの少女は、幼い頃から矯正されていた為、両手を支障なく操ることができる。
だから、特に意識して鏡を持ってはいなかった。
その鏡が右手にあったのは、幸運だったのか、不運だったのか――
それは、深く深く、少女の柔らかな掌に食い込んでいた。
指にも食い込んだそれからは、男のものだけではなく少女の血も滴り落ちていた。
少女はそれを見て、くすくすと笑う。
そして、その不気味な笑みを浮かべたまま、少女は歩き出した。
もし誰に聞かれても良かったら、大きな声を出して笑っていただろう、そう思わせるほどの、あり得ないくらいの機嫌の良さで。
リィレイナは、突然不快感に目を覚ました。
あまり憶えていないが、どうやら夢見が悪かったようだ。
あまりの不快感に、ごろりと寝返りを打つ。
今日は折角誕生日だったのに、何だか気分が悪い。
それもこれも、全部あいつのせいなのだ。
一昨日の夜、またあいつは脱走した。
そのせいで、その後の家族団欒はすっかり台無しになってしまったのだ。
リィレイナは、ぎりぎりと歯軋りを洩らす。
あいつは今頃、きっと訳もなく自分が嫌われているのだと、そう被害者じみた悲壮感に浸っているに違いない。
決して、そんな訳はないのに。
父も母も、そして親戚達も、基本的に優しい。
勿論、今の世の中貴族というだけで生活していける訳もないから、色々と後ろ暗いことをしていることも、弱冠九歳の子供ながらも理解していた。
そこで言えば、妹である自分の方が二歳年上の姉よりも頭がいいのだろう。
何しろ、あの姉は世間から隔離されていて、自分は貴族達の茶話会などにはかなり参加している。
だから、あの姉よりも自分が優れているのは、当然のことなのだ。
実の弟を殺し――そして、それに耐え切れずに記憶を失った、あの愚かな姉とは、比べられない。
むしろ、比べられると屈辱を感じる。
リィレイナは、四年前のことを思い出した。
あの時自分はまだ五歳だったが、とても衝撃的だったからよく憶えている。
今自分達には、同母の男兄弟がいない。
異母兄弟――いわゆる妾腹の男兄弟ならいるが、それを嫡流の子として扱う訳にはいかないのだ。
けれど、何年か前は違った。
四年前、母に待望の男の子が産まれたのだ。
その時は酷い難産だったそうで、それ以来、母は子を産めなくなった。
でも、その頃の自分にはそれがよく分からず、けれども生まれたての弟が可愛くて、姉にねだってよく連れて来てもらった。
……そう、あの頃は、仲が良かった。
けれど、弟が産まれて二ヶ月が経った時、姉は突然豹変したのだ。
ふにゃふにゃと柔らかく、まるで壊れ物のような弟を、自分にねだられて抱き上げたかと思うと――突然、落とした。
途端に、弟は凄まじい声を上げて泣き出す。
まさに命を懸けた、必死の泣き声だった。
けれど、姉はそれを無感動な目で睨んだかと思うと、再度弟を抱き上げ、再び落としたのだ。
弟の小さな体は、それきりぴくりとも動かなかった。
手足や首を、奇妙な角度に曲げたまま――
情けないことに、自分は、それを茫然と眺めているしかなかった。
弟の泣き声に駆けつけた乳母達が絶叫を上げるまで、動けなかったのだ。
そして、乳母達の絶叫を耳にした途端、姉はその場に崩れ落ちた。
父と母は、何故こんなことをしたのかと問い詰めようと、姉の目が覚めるまでずっと姉の枕元にいた。
――けれど、目覚めた姉は、そのことを全く憶えていなかったのだ。
それからも姉の奇行は続き、飼っていた猫や、犬や……そういった動物達を手に掛け、けれども憶えていないということが続き。
結局、姉を閉じ込めることで、皆の意見が一致した。
けれど、何も憶えていない姉はその扱いに納得できず、度々というのにも限度があるほど脱走を繰り返した。
脱走だけならばともかく、様々な生き物を手に掛けることも少なくなかった。
最初のうちは、皆同情して労わっていた。
けれど、それも四年もの間続けば、その状態を保つことも難しくなる。
今は誰も、姉のことを気に掛けていなかった。
むしろ、厄介者――赦されるならば、その存在すらも抹消したい存在と成り果てていた。
何故なら、いつ自分が殺されるのか、自分の大切なモノが殺されるか分からないのだ。
いつ狂うかも分からない、爆弾。
それが、不吉な娘だ。
本音を言えば、今すぐにでも殺してしまいたい。
でも、それは法的に赦されない。
あの弟の件だって、『子供の不注意』の事故として片付けられたのだ。
彼女の精神異常を報告すれば、法的には捕まえられなくても、精神病院送りにはできる。
けれど、それではブランシャール家の名に傷か付いてしまう。
最も良い方法は、姉が十五になるのを――頑張れば、もう一年ほど早められるかも知れないが――それを待って、別邸に厳重な警備を付けて管理し、幽閉するしかないのだ。
死ぬまで、一生。
リィレイナは、思わず溜息をついた。
眠れなくて思考を巡らしたら、嫌な記憶が次々と溢れ返ってきてしまった。
けれど、今はまだ夜中だ。
眠らないといけない時間だ。
だから、今は無理矢理にでも眠らなければならない。
再び溜息をつき、寝返りを打った時――カタン、と、音がした。
「え……?」
不意に、嫌な予感で胸が締め付けられる。
リィレイナは身を起こすと、扉を凝視した。
「何……? 誰なのっ?」
その言葉に応えるように、気配がした。
それも、彼女が凝視する扉ではなく、その背後――テラスの、方で。
驚愕に目を瞠り、振り返る。
そこにいたのは……彼女が、この世で最も会いたくない者だった。
彼女は、家族が大嫌いだった。
周囲からの愛情を一身に受け、それを当然と思い込んでいる妹が、特に。
彼女は、時々自分の記憶が途切れていることに、気が付いていた。
そして、その度に周囲の態度が硬化していくのにも。
でも……誰も、何も言ってくれないのだ。
いっそのこと、追い出してくれたら、どれだけ気が楽になっただろう。
もしくは、家族から阻害される悲しみに、幸せだった頃の記憶をなくしてしまえれば。
けれど、無理だった。
心に傷が付くのを防ぐ術もなく、家族を想うこともやめられなかった。
傷付けられて憎しみと狂気を覚え、暖かな思い出に傷を癒され正気に戻る。
その相反した感情は、彼女を狂わせるには充分だった。
そして、家族の態度で――暖かな思い出も、ほとんど思い出せなくなった。
こうなってしまえば、あとは、狂気への路しかない。
家族への情も何もかもなくなってしまえば、あとはもう狂うしかないのだ。
だから、自分がこうなってしまったのも、仕方のないことなのだろう。
彼女は、驚きと恐怖に歪んだ妹の顔を見て、ぼんやりと思った。
ぽたり、ぽたりと、リィフィイナが足を進めるたびに、地が滴る。
リィレイナは、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
濃い血臭が、部屋に漂う。
「な、んで……あんたが、ここにいるのよっ?! さっさと帰りなさいよ!」
リィレイナの絶叫に、リィフィイナはただ無言で嗤った。
「な……何よ、何よ、何なのよっ!! 何でよっ!」
ただ喚き散らすリィレイナに、リィフィイナは歌うように言った。
「リィレイナ=エスポワール=ブランシャール。ブランシャール家の次女。全く表に出て来ない姉に代わって、母と共に社交の場に出る」
「え……?」
目を瞬くリィレイナに、リィフィイナはくすくすと笑声を洩らした。
「そんなこと、どうでもいいわ。私は。ただ、ねぇ……どうしても、許せないの。どうして、何にも言わずに私を閉じ込めたの? どうしてみんな、私を蔑むの? どうして、私を迫害するの? どうしてお前だけ、みんなに愛されるの? 希望って呼ばれて、私は不吉な娘って呼ばれるの? ねぇ、どうして?」
その、憎しみを含んだ視線に、リィレイナは凍り付いた。
何も、言うことができない。
それを見て、リィフィイナは益々大きな声を上げて嗤った。
「そう、そうよ! いつもいつもそう! お前だけはみんなに可愛がられて、私は放って置かれて! お前が産まれてから、ずっとそうだったわ! 部屋に閉じ込められる前までも! お前のせいよ……お前なんかが産まれてきたせいよ!」
「はっ……? 何、言ってんの……? 逆よ! あんたなんかが産まれてきたせいで、うちはぐちゃぐちゃになったんじゃない! 自分で弟殺しといて、よくそんなこと言えるわね! あんたが産まれてなきゃ、私はブランシャール家の長女として堂々としてられたし、嫡男になる弟だっていたわ! あんたさえいなきゃ、うちは安泰だったのよっ!」
「は? そっちこそ、何を言っているのか分からないわ。お母様は、私とお前しか産んでいないもの。弟なんて、お前の妄想でしかないわ。この家に嫡男がいれば良かったのにって、そういう期待から生まれた幻想」
リィフィイナはそう言うと、ゆっくりと足を進めた。
いつにない迫力に、リィレイナはじりじりと後退る。
この時、気付いていれば良かったのだ。
リィフィイナの右手に握られた凶器に。
リィレイナは追い詰められ、そしてとうとう寝台の脇に追いやられた。
だが、リィフィイナの迫力に呑まれて、それに気付かない。
だから、バランスを崩して倒れてしまった。
そして、リィフィイナはそれを見逃さなかった。
まるで狂ったように――いや、実際に狂いながら、右手を振り上げる。
そこに、ギラリと光る『何か』に――リィレイナは、喉を鳴らした。
無防備にさらけ出された喉元に、リィフィイナの右手が食い込む。
ああ……終わる。
そう思った最後の思惟で捉えたのは、ギラリと光る破片と、狂気に酔いしれ歪んだ姉の顔、そして、異様に光る秘色の瞳だった。
喉元から、泉のように血を湧かせている妹の姿を、リィフィイナは無感動に眺めた。
もう、これで邪魔者は死んだのだ。
これで何の憂いもなくなった。
なのに、腹の底でドロドロと渦巻く『何か』は、このままでいることを赦してはくれない。
もっと、もっと、もっと――
強い衝動が、体を突き動かす。
今度は腹を斬り付けようと振り上げた右手は、何故か妙に軽かった。
見ると、右手には――親指と、小指と、千切れかかった薬指しかなかった。
無造作に左手を伸ばし、薬指を引っ張ると、ブチッ、だか、グチッ、だかと嫌な音を立てて、恐らく神経や骨なのだろう物を露わにして、落ちた。
けれど、痛みはない。
妹の喉元を見ると、そこには鏡の破片の他に、千切れた人差し指と中指が転がっていた。
「ああ……こんな所にあったの」
リィフィイナは、自分の人差し指にも中指にも目をくれず、左手で鏡の破片を拾い、握り締めた。
途端に、無事だったはずの左手も、自らの血に塗れる。
そして、既に身動きもしない妹の腹にめがけて左手を振り下ろす。
面白いように、簡単に腹は裂けた。
そこからはもう、衝動だった。
リィフィイナは、狂ったように嗤いながら、リィレイナを斬り続けた。
翌朝、屋敷中がパニックに陥った。
いつものように、跡継ぎ娘のリィレイナ=エスポワール=ブランシャールを起こしに行った侍女が、彼女がぐちゃぐちゃの血塗れになって死んでいるのを発見したのだ。
それを見た侍女の大半は失神し、報せを受け駆け付けた母親も気を失った。
そしてその隣には、狂気に引き攣った顔で笑い続ける、この屋敷の『禍』が、右手の指をほとんど失くし、左手の指も欠けた状態でいたのだ。
彼女には、最早正気というものがなくなっていた。
その後彼女は、出血多量と気が触れたせいで、数日後に狂い死ぬこととなる。
彼女の母親は、大切な娘が殺されたという事実に寝込み、そのまま一年も経たないうちに心労で亡くなってしまった。
それからほどなくして、ブランシャール家の人間は、病や精神病で全滅することとなる。
そのことと、その家に狂った『不吉な娘』がいたことを知った人々は、口々に噂し合った。
あのブランシャール家の悲劇は、その子供がいたからだ、あの子供のせいで、ブランシャール家は壊滅したのだ、と。
その噂の真偽は、定かではない。
けれど、確かにその出来事の引き金となったのは、リィフィイナ=シニスター・フィュ=ブランシャールという名の、哀れな一人の少女であったことには間違いなかった。
(終)
Forie=狂気