永久に変わらない ー常磐ー
「常磐」
優しく名前を呼ばれた。
節くれ立った痩せた手、彼はまるでかわいそうなものに触れるように私の頬に触れた。
抱きしめてくれた。
それだけがすべてだった。
◇
常磐が育った〝沙羅の街〟は、砂漠に隣接する緑地だった。
西の砦というところに将軍さまが住んでいて、この街を守ってくださる。
戦乱が続いていたけれど、街の中まで敵軍が攻めてくることはなく、街の外に出なければ平和だった。
常磐は美しい娘だった。
西の国に近いこの街では、時々呪術師を見かける。
将軍さまも呪術の使い手で、だから戦も強いと噂になっていた。
街の外に出なければ平和だと言っても、戦は続いている。
常磐の父親は出陣して命を落とし、後を追うように母親も亡くなったが、街の人々に支えられ、親からひとつだけ教えてもらった霧を生み出す呪術を使って、常磐は生計を立てていた。
霧はたくさん生み出せば、水に変わる。
雨が少ないこの街では、バケツ一杯の水でもあれば助かると言われていた。
術を教えてくれた母は、よく言っていた。
触媒を使えば、術は威力を増す。
でも、使いすぎてはだめだよ。
何かと同化してしまったら、人間ではなくなってしまうから。
◇
ある日、十八歳になった常磐は一人の男に出会う。
三十代後半くらいのその男は、肩まで伸ばした髪を揺らし、皮肉げに笑った。
「その霧を生み出す呪術は面白い……俺と一緒に来てくれないか?」
どこに、と常磐は問わなかった。
その男の細く冷たい瞳に魅入られたように口もきけず、ただ頷いていた。
なぜって常磐は、誰かに求められたことがなかったから。
ただ、うれしかったのだ。
戦で父も母も亡くした。街の人々は優しいけれど、呪術を使う常磐はどこか遠巻きに見られていた。
一緒に来てくれないか、なんて頼まれたのは初めてだったのだ。
男は常磐を、西の砦から南に数キロ行った先にある、林の奥にぽつんと建つ簡素な庵に連れて行った。
男は呪術に長けているようだった。
そこにはとても大きな孔雀石と呼ばれる緑色の石があった。
孔雀石は精神を癒し、疲れた身体を回復させると男は言った。呪術と親和性が高い、とも。
そして常磐に松ぼっくりや胡桃などを与え、それを依り代にして、風狼という呪いの獣を、霧の呪術を応用して作るやり方を教えた。
そして、出来上がった呪いの獣は男がどこかに連れて行く。
一体作るにも常磐の精神力も体力も削られたが、作れば褒めてもらえた。
大きな孔雀石に守られるように寄りかかって眠ると、気力も体力も回復していた。
いつしか常磐はその孔雀石を、自分の分身のように感じるようになっていた。
男は衣服と水と食事を常磐に与え、時には泊まり、夜の営みを常磐に教えた。
常磐は男に溺れた。
男は常磐になんでも与えてくれたし、優しかったから。
「……キョウ」
文字を知らない常磐は、ただ響きだけで彼の名を呼んだ。
その男のために風狼を作り続けるうちに、次第に常磐の髪が孔雀石に吸い付くように同化していた。それを興味深げに眺めて、男は言った。
「面白いな。切ると痛むか?」
一房、常磐の豊かな黒髪が切り落とされる。痛みはない。
「いたくないわ」
「そうか。では、繋がってしまったら自分で切るといい」
「でも、髪が石とくっついてから、あまりお腹がすかないの」
伝えると、男は薄く笑った。細い瞳がきらりと光る。
「呪術の書の中に、同化の呪というものがある。よほどの強い術者しかできないようだが、石や、物と同化することができる。呪いの獣も、ある種の〝物〟だ。場合によっては風狼と同化することもできるのか……? どのようにやったらできたか私に教えてもらえるか?」
常磐は教えた。
自分の能力をほめられた気がしてうれしかったから。
峡は真面目にそれを、紙に記しながら聞いていた。
そして、何体もの風狼を霧から作りだし、一所懸命に峡に術の詳細を教えるうちに……常磐の長い髪は吸い込まれるように、石と同化する速度が強まった。
数日が経過したとき、常磐の肩までもが石に接して、それはハサミで切ろうとしても離れぬものとなっていた。
「……外れんな」
「いいよ、別に。キョウが私を抱くことはまだできるよ」
「……腹は減らないのか?」
「うん。おなかはすかないし、眠る時間が長くなったよ。石から生気をもらってる感じ……水浴びしなくても気持ち悪くないし、石になっていってるみたい」
「そうか……礼を言う。常磐のおかげで、物と同化する術のやり方を私も理解できたのだからな」
抱きしめられて、常磐は目を閉じる。
よかった。
できることが私にもあったのだ。
それだけが常磐の喜びだった。
◇
しばらく、峡は庵に来なかった。
常磐は何も感じなかった。
根をつめて彼に術のやり方を教えていた時、半分が石に取り込まれていた自分の髪は、今や肩の辺りまで一体となり……身体も、片腕は完全に石と同化していた。
動くことも叶わないが、自分が石の精になるような不思議な感覚で、水分も必要なく、排泄もしたいと思わず、食欲もない。寒くもないし、暑くもない。ただ、気持ちよく眠ってばかりいた。
ある冬の日の夕方、久しぶりに峡が庵を訪れた。
扉が開くような物音に、ねむいな……と思いながら常磐は目を開ける。
そこには、何か旅支度のような外套に身を包み、峡が無表情に立っていた。
「……我が主君は、私たちを裏切った。
私は今日、この地を去る」
怒りを含んだ声で彼は告げる。
行ってしまうんだ。
ぼんやりと常磐は考えて、でも不思議と何も感じなかった。
だって、眠いのだもの。
でも、もしできるなら、もう一度だけ。
彼女は言った。
「……もういっかい、抱きしめて……」
声もうまく出せないほど、石との同化が進んでいた。
やりすぎたんだわ。
人間ではなくなってしまった。
おかあさんに言われていたのにね。
彼は、残った常磐の半身を、軽く抱きしめてくれた。
「術を教えてくれたこと、感謝している、常磐」
最後に名前を呼ばれた。
去って行く背中を眺めて、常磐は目を閉じる。
このまま眠ってしまおう。
ごはんもいらない。水もいらない。
思い出だけが残ればそれでいい。
その思い出は永久に変わらず、私の中に残るだろう。
だって私は石になってしまったのだから。
Caita ホラー部Ⅳに寄稿した掌編となります。




