第一話 少年と少女
◇――少年と少女――◇
……――少女が全力疾走している、この深い森の中で。
彼女の名前は「レト」、どこにでもいる一般的な平民の少女だ。
つい先日に、やんごとなき事情から【冒険者登録】をして、この深い森を走っている。
足を繰り出す度に揺れる黒いショートボブが、木々の織り成す葉っぱの天井――その隙間から差し込む木漏れ日を反射していた。
リスのように躍動的で大きな瞳が、ただただ正面を捉えて大きく見開かれている。
額には汗の粒が……彼女は酷く焦燥していた。
それもそのはずである。
背後から迫る大きな獣……――【魔物】である。
遠くからでも一本一本が目視できそうなほどに太い毛に覆われた、大岩を思わせる茶の巨躯。
――通称【ボアボーア】。
この森でも高い位に君臨する危険な魔物だ。
近隣の村では死を纏う【大猪】と称される。
そんな危険な存在に、この森で少女は追いかけられていた。
死の予感が足元から這い上って、蔦のように少女の心を締め付けている。
……随分と息が荒くなってきた。
もう残された時間は少ない。
それでもレトは諦めずに、一心不乱に走り続けていた。
――こんな所で諦めてたまるかッ!!
……――が、そこで少女の身体が浮き上がる。
現実とは残酷である。
宙に浮く中で見えたのは、地面から露出する木の根であった。
レトは躓いてしまった。
ゴロゴロと地面を転がって、目の前の木に衝突する。
よほどの勢いだったのか、大きく木が揺れて、数枚の木の葉がヒラヒラと降って来る。
中途半端な逆立ちのようにひっくり返って、そんな少女の顔に一枚の木の葉が乗った。
腐葉土が優しくレトを受け止めたので、さほど痛みは伴わなかった。
あるいは、圧倒的な現実を前にして、脳が痛みを処理しきれなかったのか。
……――見下ろしているのだ、間近にてボアボーアが……レトを。
これ、死んだわ――と、大口を開けた魔物を見てレトは思った。
彼女の下へと、徐々に口が迫る。
視界の殆どが赤に覆われていく。
鼻を抓みたくなるような異臭が漂って、ヌラヌラと艶のある口内に視線が奪われる。
後は口を閉じるだけ――……
……――ズバンッ!! 異音が鳴った。
大きな音では無かった。
命の危機に感覚器官が研ぎ澄まされて、ようやく聞き取れた程度だった。
しかし、それでボアボーアは止まったのだ。
レトはキョトンとして、目の前の大きな口を見つめる。
しばらくして――……ボアボーアの頭部が落ちた。
まるで、ふと思い出したみたいに。
赤い肉に覆われた白い脊椎、その切り口が目玉のようにも見えた。
同時に降り注ぐ鮮血が、シャワーのように少女を濡らした。
特有の生臭さに、レトは激しくむせてしまった。
地面を這いつくばって、何とか血の雨から脱出する。
ペッペと口を窄めて、口内から異物を追い出さんと努めていた。
だから、新たな存在の接近に気付けなかった。
何時の間にか、自分の下に影が降りている。
木漏れ日を塞ぐソレに、レトは怯えながらも視線をやった。
慎重に、鈍重に、ガクブルと顔を震わせて。
◇―◇―◇
「……1.1倍か。売り物にはなるかな」
純白の長髪が木々の隙間を通る風を受け止めて、まるで宙を撫でるように広がって揺れていた。
東洋に伝わる和装こと着物、真っ黒な生地に白い点が散らばって、あたかも宇宙を映した絵画かのようであった。
長髪は額にて二分し、耳を通って後ろに流れている。
眉は線のように細く、すっと通る高い鼻に、薄桃色の唇、全体的に色素が薄いのか肌も白め――いわゆる中性的な顔立ちをした15歳くらいの少年である。
そして、一つ特筆すべき点がある。
着物の右袖から、黒っぽい木製の義手が覗いている。
彼の右腕は、肩口から【魔動義手】に挿げ替えられているのだ。
そんな義手にて、少年は一本の杖を握っていた。
背丈ほどもある長い品だ。
一言で表せば「捻じれた枝」だが、見る者が見れば杖だと断定するはずだ。
若干だが濃いめの茶色で、あとは特筆すべき点は無い。
それを軽く振って、左手に弾きパンパンと音を鳴らしていた。
溜息を一つ落とす。
それから……――へし折ってしまったのだ、膝を使って。
半ばから二つに分かれた杖が、腐葉土にポツンと転がった。
少年は首を横に振るってから、小さく背中を丸めて静かに振り返る。
「――ちょちょ、ちょっと待ってッ!!」
しかし、そこで背後から呼び止められた――が、少年は止まらなかった。
すると、今度は足首に何かが絡みつく。
五歩ほど歩いて、流石に煩わしくて視線を降ろせば、何者かが彼の足首を握っている。
腕を辿って視線をやれば、黒いショートボブの少女が、まるで筆のように腐葉土に赤い線を引いていた。
「おぉ、見事な直線」
「…………あの、助けてくれませんか?」
血の粘土のせいか、少女の顔にはベッタリと腐葉土が付着している。
「これを……見て下さい」
と言って、少女が差し出したのは折れた杖だった。
先ほどの少年がやったように、へし折れたといった状態である。
しかし、少女の杖と少年の杖には、決定的な違いがある。
彼女が見せてくれたのは、金属を使った杖であった。
「……銅の杖か。見事に折れているな。……まさか、打撃に使ったのか?」
「い、いえ、そうではなくて……魔法を使ったら勝手に――……」
「どれ、貸してみろ」
少女から杖を受け取って、少年はジッと観察を始める。
しばらくして――……
「これは粗悪品だな。幾らで買った?」
「セ、セールで銀貨十枚が一枚で買えたんです」
「俺だったら銅貨一枚で売るな。一般的な所で言えば……まぁ銅貨50枚くらいか」
少女は愕然としていた。
微かに唇を震わせて、まさしく絶望といった感じだった。
それもそのはずで、平民であれば銀貨が十枚もあれば一ヶ月は暮らせる。
それも自給自足分を含めて、である。
つまり、彼女は生活費の十分の一を費やして、粗悪品を購入してしまったわけだ。
だが、やや過剰な反応にも見える。
少なくとも、そう少年は思った。
「とにかく聞いて下さい。杖を失ったまま森を彷徨えば……いずれは殺されてしまいます。だから、脱出するまで保護を……」
「いや、見てなかったのか?」
「……えっと、何をですか?」
「たった今、オレも杖を失ったところだ」
「ア、アレは予備があったからじゃ――……」
「――ないよ、別に。アレが最後で……ムカッとしたから折ってやった」
少女は横を見る。
そこにはボアボーアの亡骸がある。
見間違いでなければ、この少年に一撃にて葬られたのだ。
間違いなく実力は本物。
きっと問題が無いから杖を折ったんだ、と少女は考えた。
「……高名な魔導士の方だと推察します。どうか助けてください」
「いや、魔導士じゃない」
少女の希望を、少年は鼻をほじりながら堂々と否定した。
「で、でも、ボアボーアを一撃で――……」
「ニッシッシ、杖があったからな。なければ無理だ」
「あ、あのッ……私は……こんな所で死ぬわけには――……くッ」
押し問答の最中に、少女は気絶してしまった。
少年から見るに、明らかに少女には面倒事が透けている。
だから、これまでは冷たい態度をとってきた。
しかし、ここで放っておけば、間違いなく少女は死ぬだろう。
彼女へと視線を降ろして、少年は暫く沈黙していた。
「……はぁ、仕方ない。恨むなよ。オマエが望んだことだからな」
そう言って、少年は少女の足を掴んだ。
ズルズルと引きずりながら、この深い森の中を歩き始める。
別に嫌がらせをしていた訳ではない。
あくまで少女の身を案じて、彼は冷たい態度を取っていたのだ。
この森より危険な場所に、少女を誘わなければならないのだから。
◇――杖工房とは――◇
ふと目を開ける。
背中には柔らかさがあって、視線の先には木目が見える。
どこかの木造住宅の中にいる、と少女は気づいた。
右手を支えに、ゆっくりと上体を起こす。
手の平に柔らかな感触が生じる。
自分がベッドに寝ていたのだと少女は知った。
警戒しながら視線を巡らせる。
決して広くはない部屋である。
隅には鉢植えがあって、観葉植物が天井を掠めている。
開かれた窓から風が吹き込んで、細長い木が揺れて葉で天井を掃いているみたいだった。
それ以外には木製の棚と机と椅子が一つずつ、棚と机は背中を壁に預けて、背もたれの無い丸椅子は机の下に姿を隠していた。
何の変哲もない部屋だな、と少女は思った。
それから立ち上がって……――グッと奥歯を噛みしめる。
腹部に鋭い苦痛が走った。
それを切っ掛けに、直前までの記憶が脳を駆け巡る。
ボアボーアに襲われて腹部を負傷、それから森を逃げ回って……少年との会合、今は謎の家の中にいる。
そっと腹部に視線を降ろせば、幾重にも包帯が巻かれていた。
おそらくは少年の家だろう。
そんな予感をしつつも少女は部屋から出た。
左右に通路が伸びている。
右手側には階段が見えた。
下へと続いている――ここは二階だったのか、と思考が脳を通り過ぎていく。
彼の姿を探して、レトは階段を下った。
その先には扉が一つ、左手側には「L」の字に通路が折れて続いている。
とはいえ、今は少しも気にならなかった。
目の前の扉からは音が聞こえていた。
また生活音とは違うような感じだ。
ドアノブに手を添える。
不思議と力がこもる。
後から追ってくるような緊張だった――が、それでも少女は扉を開いた。
ゆっくりと窺うように、自分を急かすことなく。
……――少女は息を呑んだ。
長い白髪を揺らしながら、筆を振るう少年の姿を見て。
目が離せなかった。
揺れる黒い着物や、そこに描かれた軌跡を伸ばす白い斑点は、まるで少年を基点に宇宙を広げているかのようだった。
少女は感動していた。
すらりと伸びる右腕……――義手の先には筆が握られている。
よく磨かれた艶のある木製の【魔動義手】で、やや黒っぽい色味がある。
魔動義手とは、魔力を注げば実際の腕のように動く義手のことだ。
少年の印象から逸脱することなく、とてもマッチした逸品である。
彼の視線を辿れば、その先には紙――ではなく、一本の杖がある。
次に少女が抱いたのは……――危機感だった。
杖は真っ二つに割れていた。
それも縦に、だ。
あの状態は魔導士なら誰もが知る一つの事実を示唆している。
もはや反射的に、少女は頭部を庇いながら床へと伏せた。
頭上に危険があるわけではない。
危機意識に急かされて、動物的な直感が自動的に身体を動かしていた。
間もなく来るはずの瞬間を予感して、悪寒が駆け巡って鳥肌が立つ。
――パチュンッ! 奇妙な音が鳴った。
目撃してから十数秒、まだ問題のないタイミングであるはず。
恐怖に震える身体を制しつつ、少女は鈍重かつ慎重に視線を上げた。
少年の口元には笑みが浮かぶ。
視線の先には、ひとつに戻った杖があった。
確実に割れていたはずの杖が、傷も残さず元通りになっている。
まるで、割れる前に戻ったかのように。
一週間ほどは毎日投稿を続けます。是非、お気に入りして頂ければと思います。その後は不定期投稿になってしまうかもしれません。




