第三章
新米の小野はここに来て初めて、殺人事件の現場を訪れることになった。
刑事になり、まだ一年未満であり、小野にとっては記憶にこれからも残り続けるであろうと彼自身も思っていた。
上司の岸本の側に付きながら、十番宿と呼ばれる旅館へと足を運んでいた。
石段を登っている途中にその十番宿が姿を見せた。二階建ての小ぶりな旅館であるものの、戦後すぐに建て直された旅館は四十年程の古さがあった。
岸本が宿の入口で一寸足を止め、小野もそれに習った。岸本の目には何が映るのだろうかと小野は思いながら、その若さだけに身を委ねた自身の心情に喝を入れた。
宿の玄関へ足を踏み入れ、岸本は既にいた刑事に軽く頭を下げた。小野も岸本の後に続き、彼の背を目にしながら、これから目にする殺人現場の衝撃に耐えられるよう用心しながら、階段を登った。
やんわりとした古臭い木の匂いと軋む階段の音がまた緊張感を高め、やがてそれは殺された遺体を見た時にピークに達した。
被害者の女は首を切られ、辺りに血が飛び出ていた。その有様に小野は痛々しさに体を蝕んでいるようであった。
小野は岸本と共に遺体を拝んだあとに一旦その場を後にした。
岸本は近くの刑事に被害者の情報を聞いた。
被害者は飯塚由紀子。五十三歳で埼玉の社会福祉協議会で働いている女性であり、宿には旅行で訪れていた。
ざっとしたところであるとこんな所で、岸本は詳しい情報を更に聞き出した。
仕事に関しては評価はあるもののの、傲慢で意地の悪い性格をしており、他の職員からはあまりよく思われておらず、恨みを買うような人物であったという。
元々仕事人間であり、旅行などに行く性格ではないそうで、ここでまず不可解な点が浮かび上がり、岸本は眉を顰めた。
「被害者が何故、一人で旅行しようと思ったかだな。それがわかればいいんだが」
「署の方に連絡して、調べさせておきましょうか?」
「そうしてくれ」
飯塚が犯人に呼ばれて行ったとなれば犯人への糸口が見えるだろうと小野は思った。そうなれば犯人は飯塚の知り合いであり、恨みを買う性格の飯塚であれば飯塚の知り合いが飯塚に恨みを想うことも容易である。小野は寧ろそうであって欲しいと思っていた。しかし、そのような性格の故、容疑者が広がってしまうことも懸念していた。
まず飯塚は刺殺されている。だが、その時の武器は当たり前であるが現場にはない。だが、その血は部屋から廊下までは続き、部屋の玄関で血を拭き取ったのであろう。廊下にはもう血はなかった。
部屋を荒らされた後はなく、決して強盗目的ではないのは明らかであった。寧ろ部屋は綺麗なままで犯人はそれに目もくれてないように思えた。
だが、その異様な空気は小野にはあまり良く思えなかった。岸本の許可を得て、一度部屋を後にした。
一度廊下に出て、外の景色を小野は眺めた。先程までに見た光景とあまりにも違い過ぎて、一種の夢のような感覚に陥る程であった。穏やかな空模様を見ると、先程の現場を見るのが余計に躊躇ってしまいそうになるが、その気持ちを抑え、小野は再び、殺人現場へ足を踏み入れた。
その日はそのまま現場検証に留まり、小野は岸本について、旅館に泊まることになった。
小野は伊香保に滞在する際、岸本の実費で、石段の横の小道の先にある立川という旅館でしばらく世話になることになった。
大正の大火事以降に建てられ、伊香保の中では一番古い建物である立川は入り口の光り輝く、蛍の光の大群のような美しさに目を奪われ、歩む足がいつの間にか止まってしまった。
「岸本さん、僕がこんな所にいてもいいんでしょうか?」
「俺の金だ。事件が解決したらさっさと引き上げるが、それまではここにいよう。狭っ苦しい宿にいたんじゃ気が滅入っちまうからな」
岸本の荒々しい言葉の端々に小野を思いやる優しさがあり、小野はそれを直に受け止めていた。
玄関の先に階段があり、そこにシャンデリアが垂れ下がる。その先に大きな窓があり、岩崖に滝が流れていた。
小野はその様をじっと眺めていた。小野の中の一瞬の騒がしさが姿を消した。横に岸本が立ち、小野はその騒がしさを戻した。
翌日に、十番宿に鑑識がやってきて、改めて、調査を行なった。
遺体は既に病院の方に送られ、検死をしているという。残ったのは血が壁についた生臭い部屋である。
小野はその部屋を見ると、昨日は感じなかった恨めしさが部屋から漂っているのを感じた。
「まずは話を聞いていこう」
岸本はそう言い、小野は岸本と共に旅館の従業員達に聞き込みを行った。
そしてまずは旅館の館長の部屋に行くことになり、一階の奥にある従業員専用の部屋に二人は座って、館長を待つことになった。
少しして館長は痩せ頬に青白い髭を見せながら、ゆったりとそれも疲れがみられるような足取りでやってきて椅子に座った。その座り方が倒れるようであったので、小野は思わず体を前に出してしまうほどであった。岸本も体は動かさなかったが、その表情は驚きが見られるものであった。
「館長の野中です」
野中の短い言葉にはひびがはいるような重みがあった。
「警部の岸本です。隣が刑事の小野です。この度は忙しい中申し訳ございません。ほんの少しの間、聞き取りをお願いします」
「ええ、大丈夫です。今は営業を一時的にしておりませんので、時間はあります」
館長の言葉に皮肉めいたものを小野は感じながら、岸本の横顔に目をやった。
「では、野中さんは殺人があった夜は何をされていたのかお話を願えますか?」
「私はここの部屋で書類業務をしていました。館内のことはある程度は把握しているつもりですが、どんな客がいるかということまでは手が回ってなく、殺人事件があったのも、事件のあった夜中に知ったのです。従業員が青い顔をしながら、伝えにきましたので、最初は耳を疑いました。その言葉がその通りの意味なのかを一度考えて、それが現実と知ると、倒れてしまいそうになってしまいました」
野中はそう言うと煙草に火をつけた。このやつれ具合はやはり、今回の事件が原因なのかと小野は思った。
「誰か野中さんが、この部屋で仕事をしている事を証明できる方はいらっしゃいますか?」
「女将ですかね。時折、愚痴を言いに来るんですよ。私としてもお客様の相手を女将が全面的に受け持ってくれてるので、話を聞かない訳には行かず。ですので、女将に聞けば私のアリバイは証明できると思います」
「そうですか。では女将の方に話を聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、では今電話の方を掛けますので、少々お待ちください」
野中は電話を掛け、女将の承諾を得ると、岸本と小野を別の部屋に通した。部屋には既に女将がおり、二人を見ると頭を下げた。
「女将の猪瀬です。私に話せる事であれば全てお話ししますので」
「ありがとうございます。では、まず、館長の野中さんのアリバイについてなんですが、猪瀬さんは時々、野中さんの元に話をしに行くとお聞きしました。それはアリバイになるほど野中さんの元に行ってるのでしょうか?」
「まあ、そうと言えばそうでしょう。私もその時の気分で話をしに行くので、気分が良い時は館長の元には行かないこともあります。ただ、あの日は殺されたお客様の態度も良くなかったですし、時間を見つけては五分ほどですか。愚痴を言いに行ったりしてましたね」
「何度かですか?」
「ええ、忙しくなる十九時前に二回は行きました。それから、三十分後に一回、その後に二十時過ぎに一回行きました」
女将はそう言うと、一つの汗を見せた。
「ありがとうございます。猪瀬さんは何かアリバイの証明はありますか?」
「ええ、基本的にお客様の対応を行なってますので、滞在したお客様や他の従業員は証明になります」
「なるほど、それでしたら、他の従業員の方も猪瀬さんと同じように滞在客の対応をしていたらアリバイがあることになりますね」
「ええ、そうだと思います。私のように時間を見つけて、館長の元に行くような、少しだけ休憩を取ることはできますが、人殺しをするような怪しい行動をするのであれば流石に気づくと思います」
「どのように?」
岸本の言葉には刃物を刺すような強さがあった。猪瀬は少しだけ怯んだ顔をした。
「ですので、刃物なんかを使って殺すのであれば、隠していたとしても服は血で汚れますし、声だって聞こえてしまうでしょう。だけど、声も聞こえなかったし、そんな長い時間、従業員が何かをすることもなかったと思います」
小野はここで被害者の声が聞こえなかった事に何かを怪しんだ。岸本も同じように思ったようで、顔を下に向け、考えに耽っていたようであった。
その後に、二人は残りの従業員の話を聞いたが、やはり全員、アリバイはあり、容疑者となるものはまだ出ていなかった。
ただ、そこで当日は十番宿に芸者が来ていた事がわかった。そして飯塚が芸者を呼んだらしいこともわかった。
「どうやら、容疑者はこの中だけではないらしい」
岸本はそう言って、煙草を手に持っていた。
その日の午後に検死結果出され、飯塚は首を刺され、即死であったそうである。また、睡眠薬の服用が見られ、小野は旅館の聞き込みで、叫び声は聞かなかったという理由はこれかと納得をした。そして死亡推定時刻は二十時から二十一時の間であると判明した。




