1 靴磨きの少年
少年編
私は寒空の中、カフェの中で談笑する貴婦人たちを眺めていた。
綺麗なドレスを着て、美味しそうにケーキを頬張る女性たち。
あれは住む世界の違う人たちだな、と私は自分の薄汚れた手を見下ろした。
日も暮れてきたしそろそろ帰ろう。
そう思っていると、小太りなおじさんが目の前の椅子にドンッと座った。
「お兄ちゃん、急いでるから1分で磨いてくれ」
おじさんはそう言って200レギンを私に差し出した。
「は、はい。ありがとうございます」
私はお金を受け取ると、キャップをグッと深く被り直した。
私は馬の毛で出来たブラシを木箱から取り出して、靴の汚れをササッと落とすと、クリームを付けたクロスで茶色い革靴を磨き上げた。
「終わりました」
「あぁ。ありがとな」
おじさんは光沢が蘇った靴を見て、満足そうに去って行った。
ここはアシュファーレ国の第二の都市ネイルデン。
私はこの街の中で「貧民街」と呼ばれている西地区に幼い頃から住んでいる。
そして私が今いるここは「貴族街」と言われている北地区だ。
私は靴磨きでお金を稼ぐために、毎日朝早くからこの北地区に通っていた。
私が悴んだ手で商売道具を片付けていると、ピカピカに光った黒い革靴が目の端に入った。
この靴はもしかして、と顔を上げると、端正な顔立ちをした男性が捕食者のような金色の瞳を輝かせて私を見下ろしていた。
彼はいつものように黒いスーツを綺麗に着こなして、肩まである黒髪を後ろで一つにまとめていた。
「リュウさん!こんにちは!」
「まだいたのか。こんな寒い中よくやるな」
リュウさんはそう言って椅子に座ると、200レギンを私に手渡した。
リュウさんは5年程前から通ってくれている常連さんで、靴がピカピカなのになぜか靴を磨きに来る変わった人だ。
見た目からしてすごく綺麗好きな人なのかな?と私は思っている。
彼は一月に1、2回しか現れないけれど、それが長く続くとだんだんと気心も知れてきて、今では軽く世間話をする仲になっていた。
「借金はもう返したのか?」
「ううん・・・まだあと半分くらいあるかな」
「借金を返すために朝から晩まで靴磨きとは、映画にでもなりそうな人生だな」
「あははっ。西地区に住んでる人は皆そんなもんだよ?北地区の人たちが恵まれているだけで」
「まあ・・・そうかもな」
リュウさんは私を蔑むことも、同情することもなく、ただ普通に接してくれる。
私にはそれが心地よくて有り難かった。
家に帰ると、お母さんが野菜スープを作って私の帰りを待ってくれていた。
「アニスおかえり。今日は遅かったわね」
お母さんは私の冷え切った体をさすりながら眉を下げた。
私はこの小さな小屋でお母さんと二人で暮らしている。
お父さんは私が生まれてすぐに亡くなってしまったようで、手に職のないお母さんは仕方なく私を連れて西地区に移り住んだらしい。
お母さんは栗色の髪に綺麗な新緑の瞳をしていて、以前はいい暮らしをしていたのではないかと思うくらいに綺麗な人だ。
私も瞳の色はお母さんに似ていて、髪の毛はお母さんよりも少しピンクがかっていた。
お母さんは心配性で、アニスは可愛いんだから男の子のフリをしてなさい、と言って昔から私に帽子を被らせていた。
それはお母さんが思ってるだけでしょ?って私は思うんだけど。
確かに西地区は治安が良くないから男の子のフリをしていた方が安全だろう、と私はずっとお母さんの言いつけを守ってきた。
でも私も今年で18歳になったし、いつまでも男の子のフリをするには無理がある。
胸はもともと大きい方ではないから、布をぐるぐると巻いてしまえばまったく目立たないけど、どう考えても体が華奢すぎる。
もっとご飯を食べて太れば体格も男らしくなるのかな?
私は短い髪の毛をクルクルと指で弄びながら太った自分を想像していた。
翌朝、ドンドンドンッという大きな音がして私は目を覚ました。
こんな時間になんなの??
ギシギシと鳴るベッドから体を起こすと、カーディガンを羽織ったお母さんがキッチンから急いで玄関に向かった。
「伯爵様・・・・」
扉を開けたお母さんの声が明らかに強張っていた。
「リンネ、こんなところに住んでいたのか」
「なぜこのようなところに・・・」
伯爵ということは、私たちが借金をしているロイデン伯爵のことだわ。
私がまだ幼くてお母さんの稼ぎが十分でない頃に、伯爵様からお金を借りていたらしい。
その頃の借金を返すために、私たちは朝から晩まで働いているけれど、完済するにはまだ程遠い額が残っていた。
「こんなみすぼらしい生活をするぐらいなら私の妾になればいいものを」
え?どういうこと?
伯爵はお母さんを妾にしようとしているの??
お母さんはそんなこと一言も言ってなかったのに・・・。
「もう借金を返すのは無理だろう?意地を張らずに私のところへ来い」
「伯爵様・・・ここには息子もおりますから、そういう話はやめてください」
お母さんはそう言ってチラッと私の方を見た。
これは私に隠れていなさいという合図だ。
私はベッドから飛び降りて奥のシャワールームに隠れると、急いで布で胸を締め上げて、シャツとズボンに着替えた。
「ここに来られては困ります。お金は必ずお返しいたしますから」
「いつまでそうやってもったいぶるつもりだ?もうお前も若くない。そろそろ自分の身の程をわきまえろ」
お母さんに向かってなんて失礼なことを言うのよあの男は!
私はシャワールームの扉の隙間から伯爵を睨みつけていた。
「次の返済日までに全額返せないなら私の屋敷に来てもらう。いいな?」
伯爵は母を舐めるように見てから去って行った。
お母さんは青ざめた顔でキッチンに戻ってくると、深いため息を吐いた。
「お母さんどういうこと?昔から伯爵に言い寄られてたの?」
「えぇ。彼が私を特別な目で見ていることには気付いていたのだけれど、お金を借りる宛が他になくて・・・」
「じゃあ、このままじゃお母さんはあの男のところへ・・・」
「大丈夫よ・・・。お金は私がなんとかするから。アニスは心配しなくていいの」
「お母さん・・・」
次の返済日は月末のはず・・・あと10日しかないわ。
それまでに200万レギン近く稼ぐなんて無理よ・・・。
「さあ!とりあえず朝ごはんを食べましょう。仕事に遅れてしまうわ」
お母さんは私に心配させないようにと明るく振る舞っていた。
お母さんは数年前から貴族たちの服を洗濯する会社で働いているけれど、給料を前借りしたところでそんな大金を用意することは出来ないだろう。
朝食を食べ終えた私は上着を羽織り、帽子を深く被って、商売道具の入った大きな鞄を背負った。
お金は私がなんとかするしかないわ。
「じゃあ行ってきます」
私は玄関を出ると、ぬかるんだ泥道を太陽に向かって歩き出した。