剣と夕暮れ
享保八年(1723年)、江戸。浅草橋のたもとに立つ松崎蔵人は、夕陽に染まる隅田川を眺めていた。二十二歳の若者にしては、どこか疲れた影が顔に刻まれている。腰に差した打刀――父から譲られた名もなき一振りが、薄汚れた鞘の中でかすかに軋む音を立てていた。
蔵人は旗本・松崎家の次男坊だ。禄高三百石の小さな家柄で、長兄の蔵之介が家督を継ぐことが決まっている。蔵人には扶持米が月に二俵ほど支給されるが、それだけでは満足に暮らせない。享保の改革が始まって以来、幕府は旗本や御家人への締め付けを強め、扶持米の減額や借金の返済を迫るようになった。松崎家も例外ではなく、蔵人の母は「このままでは家中が立ち行かぬ」と嘆き、父は酒に溺れる日々だ。
「次男坊など、いてもいなくても同じよ」と、母がこぼした言葉が、蔵人の胸に刺さって離れない。だからこそ、彼は剣にすがった。町道場で汗を流し、木刀を手にすれば、せめて自分を無駄な存在と思わずに済む。だが、現実は無情だ。どれだけ剣を磨いたところで、家を救う力も、兄を超える才も、彼には与えられていなかった。
その日、蔵人は浅草の道場で稽古を終え、帰路についていた。暮れなずむ空の下、町人たちが慌ただしく行き交う。享保の改革で倹約令が出され、派手な着物や髪飾りを身につける者が減ったせいか、町全体がどことなく色褪せて見える。蔵人はそんな風景をぼんやり眺めながら、両国橋へ向かう道を歩いていた。
と、そのときだった。
「ひぃっ!」
鋭い悲鳴が路地裏から響いた。蔵人は反射的に足を止め、刀の柄に手を置いた。享保の世は平和とはいえ、江戸の町には不穏な影が忍び寄る。浪人や貧民の不満が溜まり、辻斬りや掏摸の噂が絶えないのだ。蔵人は用心しながら路地を覗き込んだ。
薄暗い路地の奥で、黒い影が動いていた。刀を抜いた男が、倒れた町人を前に立っている。血の匂いが風に乗り、蔵人の鼻をついた。男の顔は暗くて見えないが、その手には確かに刃が光っていた。
「お、お助けを……!」
町人が這いながら助けを求める声が、蔵人の耳に届いた。だが、次の瞬間、男の刀が振り下ろされ、声は途切れた。蔵人は息を呑み、思わず一歩後ずさった。――殺しだ。辻斬りか、それとも何か別の理由か。
男がこちらを振り向いた。目が合った瞬間、蔵人の背筋に冷たいものが走った。男は顔を隠すように布を巻いていたが、その眼光は鋭く、まるで獣のようだった。蔵人が刀を半ば抜いたとき、男はさっと身を翻し、路地の奥へと消えた。
「おい、待て!」
蔵人は叫び、追いかけようとしたが、足がすくんで動かない。町人の血が石畳に広がり、赤黒い染みが夕陽に映えていた。やがて、周囲から野次馬が集まり始め、蔵人は我に返った。
「何だ、何だ!」「人殺しか!」「町奉行に知らせろ!」
ざわめきが広がる中、蔵人はそっと刀を鞘に戻した。心臓が早鐘のように鳴り、手が震えている。道場での稽古とは違う、生々しい死の気配に、初めて触れた気がした。
その夜、蔵人は松崎家の狭い屋敷に戻り、囲炉裏の前に座った。母は台所で夕餉の支度をし、父は寝所で鼾をかいている。蔵人は黙って手を洗い、血の匂いを消そうとしたが、指先に残る感覚が消えない。あの辻斬りの男は、何者だったのか。単なる狂人か、それとも――。
「蔵人、飯だよ」
母の声に顔を上げると、質素な粟飯と味噌汁が膳に並んでいた。蔵人は小さく頷き、箸を取った。だが、心の中では、あの鋭い眼光がちらついて離れなかった。
享保の江戸に、何かが蠢いている。そんな予感が、蔵人の胸に重くのしかかっていた。