4.白薔薇の告白
王宮の小書斎は、朝日に満ちていた。
書類の山に囲まれた机の前で、シリウス様は眉間に皺を寄せている。王位継承に関する書類の確認は、想像以上に複雑な作業のようだった。
「シリウス様」
私が差し出した紅茶に、彼は感謝の微笑みを向けた。
「ありがとう、ティア」
公の場では決して見せない、柔らかな表情。
それを見ていると、私の心まで温かくなる。
「星祭までの準備は大変そうですね」
「ああ」シリウス様は少し疲れた様子で椅子に深く腰掛けた。「特に儀式の細かい規定が・・・」
その時、私は思い切って彼の背後に回り込んだ。
「ティア?」
そっと、肩に手を置く。
「少しだけ、休んでください」
「・・・!」
驚いたような声を上げたシリウス様だったが、すぐにリラックスした様子で目を閉じた。
私の手の下で、彼の肩の力が徐々に抜けていく。
「君は本当に・・・」
シリウス様が囁くような声で言った。
「不思議な魔法を使うんだね」
「魔法、ですか?」
「ああ」
彼は目を開け、首を傾けて私を見上げた。
「僅かな仕草で、私の心を癒してしまう魔法」
「もう・・・」
思わず頬が熱くなる。
「でも」
シリウス様が突然立ち上がり、私の手を取った。
「その魔法に掛かれるのは、この私だけだと願いたい」
「シリウス様・・・」
彼の紫の瞳が、真摯な想いを湛えている。
「ティア」
私の手の甲に、そっと唇が触れる。
「君という魔法は、私だけのものだ」
心臓が大きく跳ねる。
こんな風に甘い言葉を囁くシリウス様も、私だけが知る特別な姿。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
私たちは慌てて距離を取る。
「失礼いたします」
執務官が書類を抱えて入ってきた時には、私たちは既に適度な距離を保っていた。
「では、シリウス様」
私は礼儀正しく一礼する。
「また後ほど」
去り際、チラリと見た彼の横顔に、かすかな笑みが浮かんでいた。
まるで、秘密を共有する子供のような——。
「お嬢様、とてもお似合いです」
王室専属の仕立て屋、マダム・ロゼットの声に、私は大きな鏡の前で身を翻した。
星祭のために用意された衣装は、深い夜空のような紺青のドレス。裾には無数の小さな水晶が散りばめられ、動くたびに星のように煌めく。
「シリウス様も、きっとお喜びになるでしょう」
マダム・ロゼットが意味ありげに微笑む。
「まあ!」
思わず頬が熱くなる。
まだ正式発表前というのに、宮廷の人々は既に私たちの関係を察しているようだった。
「あら」
マダム・ロゼットが突然、優雅な仕草で口元を押さえた。
「噂をすれば・・・」
ドアをノックする音。
「失礼します。セレスティアは・・・」
シリウス様が顔を出した瞬間、私たちの目が合う。
彼もまた、星祭用の正装姿だった。深い紺の軍服に金の装飾、胸には青い薔薇の刺繍。
その姿に、思わず息を呑む。
シリウス様も同じように、私のドレス姿に見とれていた。
「これは・・・」
彼の声が、僅かに震えている。
「星の女神が目の前に現れたかと思った」
「シリウス様・・・」
「まあまあ」
マダム・ロゼットが、にこやかに部屋を後にする。
「お二人でごゆっくり」
扉が閉まる音。
部屋には私たちだけが残された。
シリウス様が、ゆっくりと近づいてくる。
「本当に・・・美しい」
「私も、シリウス様のお姿が素敵で・・・」
言葉が途切れる。
近すぎる。心臓が早鐘を打つ。
「この衣装」
シリウス様が私のドレスの裾に触れる。
「まるで、私たちが出会った夜のよう」
「え?」
「覚えていないかな」
懐かしむような微笑み。
「10年前、星祭の夜」
記憶が蘇る。
幼い私は、初めての星祭に緊張していた。
そして、宮廷の片隅で迷子になって・・・。
「あの時、私を見つけてくれたのは・・・」
「ああ」
シリウス様が柔らかく頷く。
「星空のドレスを着た、小さな女の子がいてね。泣きそうな顔で空を見上げていた」
「そして、シリウス様が・・・」
「『迷子の星を、お姫様の元へ』って」
彼が私の手を取る。
「今でも覚えているよ。君の小さな手を握った時の、温かさを」
「あの時から、ずっと見ていたんです」
シリウス様の紫の瞳が、懐かしさと愛おしさで潤む。
「君が笑う時、悲しい時、迷う時・・・」
「そんな・・・」
胸が熱くなる。
原作には描かれていなかった、大切な記憶。
「ティア」
シリウス様が、そっと私の頬に触れる。
「今度は、二度と迷子にはさせない」
その言葉に、突然、涙が溢れてきた。
前世の記憶を持つ私には、この優しさが染みる。
「物語」の中の「悪役令嬢」ではなく、一人の女性として、この人に愛されている——。
「あ・・・ごめんなさい」
慌てて涙を拭おうとする私の手を、シリウス様が優しく止めた。
「これも、君らしいところだよ」
彼が微笑む。
「強くて、優しくて、でも時々、こんな風に可愛らしい」
「もう・・・シリウス様ったら」
「ねえ、ティア」
シリウス様が、真剣な表情になる。
「星祭まで待つつもりだったけれど・・・今、言わせてほしい」
「え・・・?」
彼が、ゆっくりと片膝をつく。
私の左手を取り、そこに青い薔薇の指輪を滑り込ませた。
月光の色をした、神秘的な輝きを放つ指輪。
「セレスティア・グランツヴェルト」
シリウス様の声が、深い愛情を込めて響く。
「幼い日の星祭で出会い、そして今、再び星の下で結ばれる私たちの物語」
私の心臓が、大きく跳ねる。
「君を、永遠に愛し続けることを、ここに誓おう」
「シリウス様・・・」
涙で彼の姿が滲む。
でも、確かに感じる。
この人との未来が、星のように輝いている。
「はい」
私は、精一杯の笑顔で答えた。
「私も、シリウス様と共に、新しい物語を紡いでいきたいです」
その時、窓の外で小さな流れ星が光った。
まるで、私たちの誓いを祝福するように。
夕暮れ時、星が一つ二つと瞬き始めた空の下。
私は月光の庭園で、青い薔薇の指輪を見つめていた。
「やはり、ここにいたか」
振り返ると、シリウス様が静かに近づいてくる。
執務を終えた後なのに、その姿は少しも疲れを感じさせない。
「陛下に報告してきました」
シリウス様が、私の隣に立つ。
「父上は、とても喜んでくださった」
「まあ・・・」
「『シリウスが、やっと本音を言ってくれたか』とね」
シリウス様が柔らかく笑う。
「どうやら、私の想いは父上にも見透かされていたようだ」
月光が、二人の間に静かな光を落とす。
庭園に咲く青い薔薇が、銀色に輝いて見える。
「シリウス様」
私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「どうして、青い薔薇なんですか?」
「ああ」
彼は一輪の青い薔薇を摘み取り、私に差し出した。
「アストラティアに伝わる言い伝えを知っているかい?」
首を傾げる私に、シリウス様は続ける。
「星の女神が地上に降り立った時、彼女は白い薔薇を月光で染めたという」
シリウス様の声が、物語を紡ぐように優しく響く。
「それが、不可能を可能にする『青い薔薇』の始まりだ」
「まるで・・・私たちのよう」
思わず口にした言葉に、シリウス様の瞳が優しく揺れる。
「そうだね」
彼が、私の髪に青い薔薇を飾りながら言った。
「婚約者がいる君を想い続けることは、青い薔薇のように不可能だと思っていた」
「シリウス様・・・」
「でも」
彼の手が、私の頬を優しく包む。
「君が自分の意思で運命を変えた時、私の不可能も、可能になった」
月明かりの中、シリウス様の紫の瞳が、深い愛情を湛えて輝いている。
その瞳に吸い込まれそうになりながら、私は小さく息を呑んだ。
「ティア」
シリウス様の声が、囁くように優しい。
「君を守り続けることを、もう一度誓わせてほしい」
月光の庭園で、青い薔薇に見守られながら、私たちの唇が重なった。
*
庭園から戻る道すがら、シリウス様が突然立ち止まった。
「ティア、こちらへ」
私の手を取り、螺旋階段を上っていく。
「シリウス様?」
「もうすぐだよ」
彼の声には、どこか少年のような期待が混ざっている。
階段を上り切ると、そこは天文台だった。
アストラティア王宮の最上階に位置する、星を観測するための特別な場所。
普段は天文学者たちが使用する場所だが、今夜は私たちだけのために用意されているようだった。
「まあ・・・」
天文台のドームは開かれ、満天の星空が広がっている。
望遠鏡の傍らには、温かい飲み物と毛布が用意されていた。
「実は、ずっと君とここへ来たかったんだ」
シリウス様が少し照れたように告げる。
「星を見るのが好きな君に、この景色を見せたくて」
胸が熱くなる。
幼い頃から、私が星を見上げては物思いに耽っていたことを、ちゃんと覚えていてくれたのだ。
「それに」
シリウス様が望遠鏡を覗きながら言う。
「今夜は特別な星が見えるはずなんだ」
「特別な・・・星?」
「ほら」
私を招き寄せ、望遠鏡を覗かせてくれる。
「あの青い星が見えるかい?」
「はい・・・とても綺麗」
「アストラティアの守護星と呼ばれている星だよ」
シリウス様の声が優しく続く。
「星の女神が最初に降り立った時、導きの光となった星だという」
望遠鏡から顔を上げると、シリウス様が毛布を私の肩にかけてくれた。
「寒くないかい?」
「大丈夫です」
でも、彼の優しさが嬉しくて、思わず寄り添ってしまう。
「ティア」
シリウス様が、私を抱き寄せながら言った。
「君は私の導きの星だよ」
「え?」
「いつも正しい方向を指し示してくれる」
彼の声が、夜空に溶け込むように柔らかい。
「そして、どんな時も美しく輝いている」
「シリウス様こそ」
私は彼の胸に顔を埋めながら答えた。
「私の道を照らしてくれる、大切な星です」
満天の星空の下、私たちは静かに寄り添っていた。
青い薔薇の指輪が、星明かりに優しく輝いている。
これは、「物語」の中の「悪役令嬢」の結末じゃない。
私たち自身が紡ぎ出した、新しい物語——。
星々が祝福するように、いっそう明るく瞬いていた。