3.静かな決意
アストラティア王宮の謁見の間は、朝日を受けて厳かな雰囲気に包まれていた。
壁一面を飾る双翼の獅子の紋章が、今日という日の重要性を物語っている。
「グランツヴェルト侯爵令嬢、セレスティア」
呼びかけに応じて、私は一歩前に進み出た。
今日は純白ではなく、グランツヴェルト家の正装である銀と青のドレスを身につけている。
「フォン・ヴァイスクローネ第一王子、ジークハルトとの婚約解消の意思を、改めてここに表明いたします」
私の声は、予想以上に澄んでいた。
横には、エドワード兄様が立っている。昨夜、兄様との長い話し合いを経て、この日を迎えた。
「お前の決意は、確かなものだな?」
国王陛下が、穏やかな声で問いかける。
「はい」
私は凛として答えた。
「グランツヴェルト家の令嬢として、そして一人の人間として、この決断に偽りはございません」
その言葉に、謁見の間に集まった貴族たちの間で、小さなざわめきが起こった。
しかし、それは非難の声ではない。むしろ、驚きと敬意が混ざったような空気が漂う。
「ジークハルト」
国王が、息子に目を向けた。
「私も、セレスティアの意思を尊重し、この婚約の解消に同意いたします」
ジークハルト様もまた、凛とした態度で答える。
「では——」
その時、思いがけない声が響いた。
「陛下、一言、よろしいでしょうか」
紫の瞳が真摯な光を放つ。
シリウス様が、一歩前に進み出ていた。
「シリウス?」
国王陛下の声には、明らかな驚きが混ざっていた。
普段は静かに控えめな次男が、こうして発言を求めることは稀だ。
「グランツヴェルト侯爵令嬢との婚約解消に際し、一つの提案がございます」
シリウス様の声は、落ち着いているようで、かすかに緊張が滲んでいる。
私の心臓が大きく跳ねた。まさか・・・。
「この婚約解消により、グランツヴェルト家と王家の繋がりが途切れることは、アストラティアにとって決して望ましいことではありません」
謁見の間が、水を打ったように静まり返る。
「そこで、私から提案させていただきたい」
シリウス様は真っ直ぐに国王陛下を見つめた。
「グランツヴェルト侯爵令嬢との婚約を、私が引き継がせていただきたく」
「!」
一斉に上がった驚きの声。
エドワード兄様の瞳が見開かれ、ジークハルト様も明らかに動揺を隠せない。
「シリウス、その発言の意味は分かっているのか?」
国王陛下の声が厳かに響く。
「はい」
シリウス様は凛として答えた。
「政略的な意味合いだけではありません。セレスティア・・・グランツヴェルト侯爵令嬢への私の想いは、幼い頃から変わることなく—」
「待ちなさい」
突然、国王陛下が手を上げた。
そして、意外な微笑みを浮かべる。
「その話は、今日の議題ではないな」
陛下は穏やかに告げた。
「まずは目の前の婚約解消を、正式に進めよう。その後で、改めて話を聞こうではないか」
「・・・はい」
シリウス様は一礼した。
その横顔には、かすかな安堵の色が浮かんでいる。
婚約解消の儀式は、その後粛々と進められた。
しかし、謁見の間の空気は、明らかに先ほどとは違っていた。
希望。
それは、まるでアストラティアの星空のように、静かに、でも確かな光を放っていた。
儀式を終え、王宮の回廊を歩いていると、エドワード兄様が私の傍らに並んだ。
「ティア」
兄様の声には、複雑な感情が混ざっている。
「シリウス殿下の発言は・・・知っていたのか?」
「いいえ」
首を振る。
「ですが・・・」
昨日、白薔薇の小径での誓い。
あの時の言葉が、こんなに早く、こんな形で表明されるとは。
「シリウス殿下らしいな」
エドワード兄様が、懐かしむような口調で言った。
「幼い頃から、いつも慎重で、でも決めたことは最後まで貫く人だった」
「兄様・・・」
「実は、昨夜、陛下に呼ばれてな」
私は息を呑んだ。
「王太子の婚約解消に際して、グランツヴェルト家の立場について話し合った」
兄様の碧眼が遠くを見つめる。
「その時、陛下がおっしゃったんだ。『シリウスは、お前の妹を見る目が違う』とね」
「まさか・・・」
「陛下は、とうの昨日から、シリウス殿下の想いをご存知だったということだ」
エドワード兄様が微笑む。
「そして、今日の発言も、半ば予測されていたのかもしれない」
風が吹き、回廊の窓から白薔薇の香りが漂ってきた。
「ティア」
兄様が真剣な眼差しで私を見つめる。
「お前の幸せを願うのは、兄として当然のことだ。しかし、それと同時に・・・」
「グランツヴェルト家の当主として、アストラティアの未来も考えなければならない」
私が言葉を継ぐ。
「分かっています、兄様」
「ティア・・・」
「でも」
私は空を見上げた。
まだ朝だというのに、かすかに星が見える。
「今回は、きっと両方が叶うはずです」
王宮の温室で、思いがけない出会いがあった。
「セレスティア様!」
振り返ると、リリアーナが小走りで近づいてくる。
彼女の手には一輪の白薔薇が握られていた。
「リリアーナ」
私は微笑みかけた。
「その白薔薇、とても綺麗ね」
「あ、これは・・・」
彼女の頬が赤く染まる。
「ジークハルト様から・・・」
その時、温室の入り口に別の人影が現れた。
「やあ、セレスティア」
ジークハルト様が、少し気恥ずかしそうに微笑んだ。
「リリアーナに会いに来たら、君とも会えるとは」
以前なら気まずい空気が流れたかもしれない場面。
でも今は、不思議と穏やかな空気が漂っている。
「陛下に、お話ししたんです」
リリアーナが、か細い声で告げた。
「私たちの・・・婚約について」
「そう」
私は優しく頷いた。
「きっと、陛下もお喜びになると思うわ」
「本当に・・・ありがとうございます」
リリアーナの瞳に、涙が光る。
「セレスティア様のおかげで、私たち・・・」
その時、また新たな足音が聞こえてきた。
「これは珍しい集まりだね」
シリウス様の声に、私たちは振り返る。
彼は片手に書類を持ち、もう片方の手に・・・一輪の青い薔薇を持っていた。
アストラティアでは珍しい、月光の色を持つ薔薇。
「兄上、リリアーナ」
シリウス様が二人に軽く会釈する。
「そして・・・」
私に向けられた紫の瞳が、柔らかな光を宿している。
「セレスティア、少しいいかな」
シリウス様が書類を軽く掲げる。
「陛下から、とある提案を預かってきた」
青い薔薇の花言葉は「不可能を可能に」。
シリウス様の手の中で、その青い花びらが静かに輝いていた。
温室の奥、月光の薔薇が咲く一角で、シリウス様は書類を広げた。
「陛下からの提案は、こういうことだ」
シリウス様の声が、静かに響く。
「来月の星祭までに、新たな婚約を正式に発表したい」
「星祭・・・」
私は息を呑んだ。
アストラティアで最も重要な祭典の一つである星祭。
伝説では、星の女神が地上に降り立ち、永遠の愛を誓ったという日。
その日に婚約を発表するということは——。
「そして、もう一つ」
シリウス様が青い薔薇を私に差し出す。
「陛下は、王位継承についても考えを示された」
「まさか・・・」
「ああ」
シリウス様の紫の瞳が、真摯な光を放つ。
「ジークハルトは、自ら王位継承権を譲ると申し出たそうだ」
風が吹き、温室の花々が静かに揺れる。
月光の薔薇の香りが、私たちを包み込む。
「これは運命なのかもしれないね」
シリウス様が柔らかく微笑んだ。
「君が新しい道を選んだことで、アストラティアも、新しい未来へと進もうとしている」
私は青い薔薇を受け取りながら、その花びらに目を落とした。
不可能を可能にする——。
まさに、この状況を表すような花言葉。
「シリウス様」
「ティア」
彼が、再び私の名を呼ぶ。
「星祭の夜、君は私の隣で、アストラティアの未来を共に見てくれるかな」
それは、プロポーズであり、約束であり、そして新しい物語の始まりだった。
窓の外では、朝の星が最後の輝きを放っている。
それは、まるで私たちの新しい道を祝福しているかのようだった。
*
その後、二人で静かに温室の庭を歩いていると、シリウス様が突然立ち止まった。
「ティア、少し話があるんだ」
彼の声には真剣さが滲んでいた。
驚きながらも、私は彼の言葉を待った。
「君が時々、僕の知っているティアじゃない気がするんだ」
その言葉に、私は心臓が大きく跳ねた。
「どういう意味ですか?」
シリウス様は少し困惑した表情で続けた。
「君の行動や言葉、すべてが普通の貴族令嬢とは違っている。何か隠しているのではないか?」
その真摯な眼差しに、私は決意を固めた。
この瞬間に彼に真実を伝えるべきだと感じた。
「シリウス様、実は・・・私は転生者なのです」
彼の表情が驚きに変わった。
「転生者・・・?」
「はい。元の世界では27歳の会社員でしたが、この世界に転生してセレスティアとして生きています」
シリウス様はしばらく沈黙した後、深く息をついた。
「信じられない話だが、君の知識や行動のすべてが、普通の貴族令嬢とは異なっている理由が今、納得できた」
彼の言葉に、私は安心感と共に少しの不安が混じった。
しかし、シリウス様は穏やかに微笑み、私の手を取った。
「ティア、その事実を受け入れよう。そして、共に未来を築こう」
彼の言葉に、私は深い感謝と愛情を感じた。
これからの未来に向けて、二人で新たな一歩を踏み出すことを心に誓った。