1.目覚めた世界は物語の中
「お嬢様、お目覚めの時間です」
柔らかな声に目を覚ますと、見慣れない天蓋付きベッドの中だった。純白のレースが優雅に垂れ下がり、朝日に透かされて幻想的な光景を作り出している。アストラティア王国の首都スターリアは、その名の通り、星が美しい土地として知られている。そして今、朝日がその星々に代わって輝いていた。
(ここは・・・?)
「お嬢様?」
再び声がして、ベッドの横に立つメイドらしき少女と目が合った。白い襟付きの黒いドレスに白いエプロン。グランツヴェルト侯爵家の紋章が刺繍された制服。まるで物語の中から抜け出してきたような出で立ちだ。
「ああ、はい・・・」
自分の声に違和感を覚える。いつもより少し高く、清らかな響きがある。
「体調がお悪いのですか?」
メイドの眉が心配そうに寄る。その表情があまりにも自然で、これが夢だとは思えない。私は慎重に状況を確認することにした。
「大丈夫よ。少し・・・ぼんやりしていただけ」
言葉を選びながら答えると、メイドは安心したように微笑んだ。
「では、お着替えのお手伝いをさせていただきます。本日は王太子殿下との午餐会がございますので、水色のドレスをご用意いたしました」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
王太子——ジークハルト・フォン・ヴァイスクローネ。私の婚約者であり、そして・・・。
*
立ち上がろうとした瞬間、銀色の髪が視界に流れ込んできた。思わず息を呑む。長く、美しい銀髪。そして、鏡に映る自分の姿に再び衝撃が走った。
琥珀色の瞳。整った顔立ち。まるで人形のような美しさ。しかし、これは紛れもなくセレスティア・グランツヴェルトの姿だった。
(まさか、『時計台の下で待ってて』の世界に・・・?)
愛読していた恋愛小説の世界。そして私は、物語の中で王太子の婚約者として登場する侯爵令嬢、セレスティアになっていた。
記憶が一気に押し寄せる。私は坂本悠里。27歳の会社員。そして今は・・・16歳のグランツヴェルト侯爵家の令嬢セレスティア。この物語でヒロイン・リリアーナと王太子の恋を邪魔する悪役令嬢として描かれる存在だ。
(ということは、あと1週間後には婚約破棄・・・)
「お嬢様、エドワード様が朝食をご一緒したいとのことです」
メイドの言葉に、私は一瞬動きを止めた。アイボリーのコルセットを締めてもらいながら、アストラティア王国の貴族としての立ち居振る舞いがセレスティアの記憶とともに自然と身体に馴染んでいく。
「兄様が?珍しいわね」
「はい。書斎でお待ちとのことです」
普段は執務に追われるエドワードが朝食を共にしたいと言うのは珍しい。原作でも描かれていない展開だ。
書斎に向かう廊下には、大きな窓から朝日が差し込んでいた。壁には歴代当主の肖像画が飾られ、高級な絨毯が足音を吸い込む。グランツヴェルト侯爵家の紋章である銀の鷹が、あちこちで優美な輝きを放っている。
「ティア」
書斎のドアを開けると、窓際で新聞を読んでいた兄が顔を上げた。金色の髪に碧眼。端正な顔立ちは確かに「イケメン」の言葉がふさわしい。幼い頃からの愛称で呼びかける声には、深い愛情が滲んでいた。
「おはよう、エドワード兄様」
「ああ、おはよう」
優しい微笑みを浮かべる兄の横には、既にティーセットと朝食が用意されていた。
「最近、忙しくて顔を合わせる機会が減っていたからな。たまには二人で朝食を」
「ありがとうございます」
紅茶を口に運びながら、私は考えを整理していた。
原作の展開では、婚約破棄後、エドワードは激怒し、王太子との関係を断絶する。それは単なる個人的な確執に留まらず、アストラティア王国の政治的バランスを大きく崩す要因となる。
「どうかしたか?」
「 いいえ、ただ・・・兄様との朝食が嬉しくて」
「ふふ、相変わらず可愛い妹だ」
エドワードは優しく微笑んだが、その碧眼には何か心配そうな色が浮かんでいる。もしかして、ジークハルト様の様子に何か変化を感じているのだろうか。
(原作通りなら、ジークハルト様はもう完全にリリアーナに心を奪われているはず)
窓の外では、双翼の獅子の紋章が刻まれた噴水が朝日に輝いていた。紅茶の香りが漂う書斎で、私は静かに決意を固めていた。
無駄な抵抗はしない。でも、この優しい兄や、この後出会うことになる第二王子シリウス様の未来のために、最善の道を選ぼう。
刺繍の針を動かしながら、私は原作『時計台の下で待ってて』のストーリーを思い出していた。
*
物語は、アシュフォード子爵令嬢リリアーナが王立学院の時計台の下でジークハルト王太子と運命的な出会いを果たすところから始まる。エメラルドグリーンの瞳を輝かせ、王太子に一目惚れするリリアーナ。そして王太子もまた、彼女の純真さに心を奪われる。
(確か、今はもうその出会いから2ヶ月が経っているはず)
「セレスティア嬢、その刺繍、とても素敵ですわ」
家庭教師のマダム・ロゼの声に我に返る。見れば、私の手元には星と月の刺繍が美しく仕上がっていた。セレスティアの記憶と身体が自然と針を運んでいたようだ。アストラティア王国の象徴である星をモチーフにした刺繍は、貴族の嫁入り道具の定番だという。
「ありがとうございます」
「でも、いつもより物思いに沈んでいらっしゃるようですが・・・」
さすがに長年の家庭教師、その観察眼は鋭い。
「少し考え事をしていただけです」
「王太子殿下のことでしょうか」
その言葉に、私は針を止めた。マダム・ロゼの声には心配が滲んでいる。
そうか。周囲の大人たちは既に気づいているのかもしれない。ジークハルト様の心が離れていることに。
(原作では、このころから噂が広がり始めていた)
ジークハルト様と私の婚約は、両家の同意の下、幼い頃から決まっていたもの。政略的な意味合いも大きかったが、幼馴染として育った二人の仲は良好だった。しかし、リリアーナとの出会い以降、ジークハルト様は明らかに変わった。
「心配することはありません」
私は穏やかに微笑んで答えた。窓の外では、王立学院の時計台が遠くに見える。
「お嬢様・・・」
レッスンを終えて自室に戻ると、窓際の小さな書斎で原作の展開を整理し始めた。白い羽ペンを手に取り、便箋に書き出していく。
あと1週間後。ジークハルト様は正式に婚約破棄を申し出る。その場には既にリリアーナもいて、原作のセレスティアは激高し、リリアーナを罵倒する。それが口実となり、セレスティアの評判は地に落ち、一方でリリアーナへの同情が集まる。
その後、エドワードは激怒し、ジークハルト様との関係を断つ。それは単なる個人的な確執に留まらず、アストラティア王国の政治的バランスを崩す原因となる。ジークハルト様とリリアーナは愛を貫くものの、周囲との軋轢が深まり、最終的に国王陛下が失望して・・・。
(でも、それは変えられる)
私は白紙の便箋に計画を書き始めた。
羽ペンを走らせながら、私は計画を練っていく。
1.婚約破棄は潔く受け入れる
——争えば争うほど、状況は悪化するだけ
2.エドワード兄様の怒りを最小限に抑える
——王国の未来のために、個人的な感情で政治を歪ませてはいけない
3.リリアーナには敵対しない
——彼女は純粋に恋をしただけ。そして、それは誰にでも与えられた権利
4.そして・・・
「これなら、きっと・・・」
ふと窓の外に目をやると、噴水の広場で馬に乗る人影が見えた。金色の髪が陽光に輝いている。
第二王子シリウス・フォン・ヴァイスクローネ。
原作では脇役に過ぎなかった彼が、実は重要な鍵を握っているのかもしれない。兄のジークハルト様とは異なり、冷静で思慮深い性格。そして何より・・・。
*
「お嬢様、ピアノのレッスンのお時間です」
「ありがとう。今行くわ」
便箋を丁寧に仕舞いながら、私は再び決意を固めた。
これは二度目の人生。しかも物語の結末を知っている。
ならば——誰もが幸せになれる結末を、この手で紡いでいこう。
*
音楽室に向かう途中、廊下の窓から差し込む陽光が銀髪を優しく照らす。セレスティアの記憶の中では、この廊下を幾度となくジークハルト様と歩いた思い出がある。でも不思議と、今の私の心は穏やかだった。
音楽室に入ると、ピアノの前に腰かけ、深く息を吸う。
指を鍵盤の上に置き、ショパンのノクターンを奏で始めた。セレスティアの指が、まるで記憶の中の星空を描くように、美しい音色を紡いでいく。
「素晴らしい演奏ですね、ティア」
突然聞こえた声に、私は演奏を止めた。振り返ると、そこにはシリウス様が立っていた。金色の髪に紫の瞳。神々しいまでの美しさを持つ第二王子は、幼い頃からの愛称で語りかけてきた。
「シリウス様」
ピアノ教師のマダム・ベルナールは、にこやかに一礼した。
「殿下がお立ち寄りくださるとは、光栄でございます」
「いえ、廊下を通りかかった時に聴こえてきた音色があまりに美しくて」
シリウス様は穏やかな微笑みを浮かべながら、ピアノに近づいてきた。
「相変わらず、君の演奏には心を癒される力がある」
「マダム・ベルナール、少しティアと話をしてもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます」教師は優雅な仕草で頭を下げ、「では、私は少々席を外させていただきます」
マダム・ベルナールが部屋を出ると、シリウス様はピアノの横に立った私の隣に腰を下ろした。幼い頃から、よくこうして連弾をしたものだ。セレスティアの記憶が、懐かしい温もりとともに蘇る。
「午後の午餐会、兄上と・・・ですね」
その言葉に、私は一瞬目を伏せた。シリウス様の声には、何かを見透かしたような響きがある。
「はい」
「ティア」紫の瞳が真摯な光を宿す。「君には、何か変化を感じないか?」
(やはり、シリウス様も気づいているのね)
「・・・気づいていらっしゃるのですね」
「ああ」シリウス様は静かに頷いた。「兄上は、アシュフォード令嬢に心を奪われている」
その言葉には非難めいたものは一切なく、ただ事実を述べているだけだった。それこそが、シリウス様らしい。
「私にも分かります」
「驚いたよ」シリウス様が少し首を傾げる。「君がそんなに冷静でいられるとは」
私は微笑んで鍵盤に手を置いた。
「シリウス様、覚えていらっしゃいますか?幼い頃、私たちが連弾した『星の子守唄』を」
「ああ、もちろん」
「あの時、私が間違えそうになると、シリウス様はいつも合わせてくださいました」
「君が泣きそうな顔をするものだから」懐かしむような微笑みが浮かぶ。
「でも、シリウス様は『音楽は、相手を思いやる心があってこそ美しい』とおっしゃいました」
その言葉に、シリウス様の瞳が僅かに広がった。
「私は・・・誰かを不幸にしてまで、自分の幸せを守りたくはないんです」
「ティア・・・」
「それに」私は軽く微笑んで付け加えた。「幸せは、必ずしも最初に思い描いた形でなくても良いのかもしれません」
シリウス様は何か言いかけて、でも言葉を飲み込んだ。その紫の瞳には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。
「午後の午餐会、私からジークハルト様に切り出すつもりです」
「何を?」
「婚約破棄の話を」
「っ、待ってくれ」
シリウス様の声が急に張りつめる。
「君から切り出すだって?」
「はい。そうすれば、宮廷での混乱も最小限に抑えられるはず」
「でも、それは——」
私は静かに首を振った。
「このまま、ジークハルト様を縛り付けていても、誰も幸せにはなれません」
シリウス様の表情が複雑に揺れる。フォン・ヴァイスクローネ家の次男として、国の未来を案じる表情。幼なじみとして、私を心配する表情。そして、もう一つ・・・何か言いたげな、切なさの混じった表情。
「エドワードは・・・?」
「ええ、それが一番の心配事です」私は正直に答えた。「兄様の性格を考えると、このまま事が運べば、きっと——」
「ジークハルトとの関係を完全に断つだろうな」シリウス様が言葉を継ぐ。「それは国にとって、決して良い事態ではない」
グランツヴェルト侯爵家は、代々アストラティア王国の重要な位置を占めてきた。特に兄のエドワードは、次期宰相の有力候補として期待されている。その関係が壊れることは、王国の政治的バランスを大きく崩すことになる。
「だからこそ」私は決意を込めて言った。「私から話を切り出し、穏便に事を運びたいのです」
「しかし、それは君にとって——」
「私は大丈夫です」
微笑みながら、私はピアノの鍵盤を軽く押さえた。澄んだ音が、静かな音楽室に響く。
「この音のように、すべては自然な流れのままに進めばいい。そうすれば、きっと・・・」
その時、シリウス様が突然、私の手に自分の手を重ねた。
温かい。そして、少し震えているような気がした。
「ティア」
低い、切実な声。
「君は・・・いつからそんなに強くなった?」
「強くなんて・・・」首を傾げる私に、シリウス様は真剣な眼差しを向けた。
「いや、強い。だが同時に、儚さも感じる」
その紫の瞳に、深い感情が浮かぶ。
「まるで・・・星空のような」
「星空、ですか?」
「ああ。強く、美しく輝きながら、どこか切なさを秘めている」
突然の比喩に、私は言葉を失った。
シリウス様の真摯な眼差しに、胸の奥が熱くなる。
(ああ、原作では描かれていなかった、こんな優しい心の持ち主だったのね)
「お嬢様、そろそろお支度の時間です」
侍女の声が、私たちの間に静かに割って入る。シリウス様は我に返ったように手を離し、優雅に立ち上がった。
「午餐会の前に、もう一度会えないだろうか」
思いがけない申し出に、私は目を見開いた。
「庭園の白薔薇の小径で」
「はい、でも・・・」
「ティアの決意は分かった。だが、その前に伝えておきたいことがある」
シリウス様の紫の瞳には、どこか切迫したものが浮かんでいた。私は小さく頷く。
「承知いたしました。レッスンの後、参りましょう」
シリウス様は安堵したように微笑み、優雅な仕草で部屋を後にした。
*
「お嬢様、水色のドレスをお召しになりますか?」
私は首を振った。
「いいえ、今日は・・・白のドレスを」
侍女が驚いたように目を見開く。純白のドレスは、通常、特別な儀式や祝宴の時に着用するもの。しかし、今日の午餐会にはそれがふさわしい。
着替えの間、私は鏡に映る自分の姿を見つめていた。銀色の髪が光を受けて煌めき、琥珀色の瞳が決意を秘めて輝いている。
「お嬢様、とても美しゅうございます」
純白のドレスに身を包み、髪を上品にアップにした姿は、確かに特別な日にふさわしかった。
「ありがとう」
窓の外では、白薔薇が風に揺れている。シリウス様との約束の場所だ。
時計を見ると、約束の時間まであと30分。その後、午餐会まで1時間。
(その間に、すべてを整理しなければ)
書き置きを取り出し、最後の言葉を記す。エドワード兄様へ、両親へ、そして・・・。
手紙を書き終えると、私は深く息を吸った。
*
白薔薇の小径に向かう途中、噴水広場を過ぎる時、ふと足を止めた。かつて、この場所でジークハルト様と誓いを交わしたことがある。幼かった私たちは、まだ婚約の本当の意味も分からないまま、明るく笑っていた。
(あの頃に戻ることはできない。でも、それは誰もが同じ)
白薔薇の向こうに、金色の髪が見えた。
シリウス様は、私が来るのを待ちながら、一輪の白薔薇を手に取っていた。
「白が、よく似合っているよ」
シリウス様の声は、いつもより少し低く、柔らかい。手にした白薔薇を私に差し出しながら、その紫の瞳には複雑な感情が渦巻いていた。
「ありがとうございます」
白薔薇を受け取ると、かすかな香りが漂う。アストラティアの白薔薇は、星の光を浴びて育つことから「星の涙」とも呼ばれている。その純白の花びらは、私の決意のように、凛として美しい。
「ティア、本当にこれで良いのか」
「はい」私は迷いなく答えた。「むしろ、お聞きしたいことがあります」
「何だろう?」
「シリウス様は、なぜ婚約者を決められないのですか?」
その質問に、シリウス様の表情が一瞬凍りついた。原作では触れられることのなかった疑問。でも、それは今の私にとって、とても重要な意味を持っている。
「・・・鋭いな」
少しの沈黙の後、シリウス様は苦笑した。
「気づいていたのか」
「はい。第二王子様という立場で、まだ婚約者が決まっていないのは異例です」
風が吹き、白薔薇の花びらが舞う。その中で、シリウス様の金色の髪が揺れる様子は、まるで物語の一場面のようだった。
「理由は・・・」
シリウス様は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「ある人を、ずっと見守っていたからだ」
「見守る・・・?」
「その人は、私の幼なじみで」紫の瞳が真摯な光を帯びる。「誰よりも優しく、強く、そして・・・儚い存在」
私の心臓が大きく跳ねた。
(まさか・・・)
「でも、その人には婚約者がいた。それも、私の実兄である王太子と」
シリウス様の告白に、世界が一瞬止まったかのように感じた。原作には描かれていなかった真実が、今、目の前で明かされている。
「シリウス様・・・」
「だから、ティア」
突然、シリウス様が私の両肩を掴んだ。
「君の決意は分かる。だが、それと同時に——」
その時、遠くで鐘の音が鳴り響いた。
午餐会の時間を告げる音。
「行かなければ」 私は静かに身を翻す。 「シリウス様、ありがとうございました」
「ティア!」
振り返ると、シリウス様の表情には、何か言いたげな切実さが浮かんでいた。でも、私は微笑むことしかできない。
「また、後ほど」
白薔薇を胸に抱きながら、私は午餐会場へと足を向けた。
背中には、シリウス様の熱い視線を感じる。
そして前方には、運命の午餐会が待っていた。
アストラティア王宮の小食堂は、正午の陽光に満ちていた。純白のテーブルクロスの上には、銀の食器が優雅に並び、壁には双翼の獅子の紋章が誇らしげに飾られている。
「セレスティア」
扉を開けると、そこにはジークハルト様が立っていた。金色の髪にブラウンの瞳。いつもの凛々しい王太子の姿。でも、その表情には、どこか落ち着かない様子が窺える。
「ジークハルト様」
私は礼儀正しく会釈をした。純白のドレスが、陽光に輝く。
「その衣装・・・」
「はい。今日は特別な日ですから」
その言葉に、ジークハルト様の表情が僅かに強張った。
予想外の展開に、戸惑いを隠せないようだ。
給仕たちが前菜を運んでくる。銀の蓋が開けられ、繊細な料理が姿を現す。しかし、二人とも本来の目的を考えれば、この料理に集中できる状態ではなかった。
「セレスティア」 ジークハルト様が重い口を開く。 「実は、君に話があって・・・」
「私からよろしいでしょうか」
穏やかに、でもはっきりとした声で、私は言葉を継いだ。
ジークハルト様の瞳が驚きに見開かれる。
「アシュフォード令嬢のことです」
その名前を出した瞬間、ジークハルト様の表情が凍りついた。
「どうして・・・」
「お気持ちは存じております」
私は静かに微笑んだ。
「そして、それを咎めるつもりはありません」
「セレスティア・・・」
「幼い頃からの婚約者として、ジークハルト様の幸せを願うのは当然のことです」
白薔薇の香りを感じながら、私は続けた。
「だからこそ、お伝えしたいのです」
深く息を吸い、私は決意の言葉を紡ぐ。
「婚約を、解消いたしましょう」
「・・・何を言っているんだ?」
ジークハルト様の声が震える。困惑と驚き、そして罪悪感が入り混じった表情。原作通りなら、この後、彼が婚約破棄を切り出し、私が取り乱すはずだった場面。
でも、今は違う。
「私からの提案です」 穏やかに、でもはっきりと告げる。
「政略的な意味合いが強かった私たちの婚約を、ここで解消しませんか」
「待ってくれ、セレスティア」
ジークハルト様が立ち上がりかける。
「確かに、私は——」
「リリアーナ・アシュフォード令嬢を愛していらっしゃる」
私は静かに言葉を継いだ。
「それは、誰の目にも明らかです」
「・・・申し訳ない」
ジークハルト様が顔を伏せる。
「君には、本当に申し訳ない」
「謝罪の言葉は不要です」
私は微笑んで告げた。
「愛は、時として理不尽なもの。誰かを責められる類のものではありません」
「セレスティア・・・」
ジークハルト様が驚いたように顔を上げる。
「君は、どうしてそんなに・・・」
「ただ、一つだけお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「エドワード兄様のことです」
私は真剣な眼差しでジークハルト様を見つめた。
「兄様は、この件で冷静さを失うかもしれません。ですが、それは個人的な感情であって、グランツヴェルト家としての立場とは切り離して考えていただきたい」
「それは・・・」
「アストラティア王国の未来のために」 私はさらに言葉を続けた。
「どうか、兄様との関係を完全に断つようなことはなさらないでください」
ジークハルト様の瞳が、深い感動に揺れる。
「君は・・・本当に立派な令嬢に育った」 その声には、懐かしさと敬意が混ざっていた。
「幼い頃から、君の優しさは知っていたが、こんなにも賢明な判断ができる女性になるとは」
「ジークハルト様」
「約束しよう」 彼は真摯な表情で頷いた。
「エドワードとの関係は、決して壊さない。それが、君への私なりの誠意だ」
窓の外で、白い鳩が舞い上がる。
純白のドレスに身を包んだ私の決意は、この瞬間、確かな形となった。
「では」
私は立ち上がり、最後の挨拶をする。
「お幸せに、ジークハルト様」
*
小食堂の扉を閉めた瞬間、緊張が一気に解けた。
足元が僅かに震える。強がっていた心が、今になってようやく現実を受け止め始める。
(終わったのね・・・)
幼い頃からの婚約。たとえ政略的な意味合いが強かったとはいえ、確かにそこにはある種の愛情があった。でも、それは運命の恋とは違う。
廊下の窓から差し込む陽光が、純白のドレスを優しく照らす。胸元に挿した白薔薇の香りが、ふわりと漂う。
「やはり、ここにいたか」
突然聞こえた声に顔を上げると、そこにはシリウス様が立っていた。
心配そうな紫の瞳。私の答えを待っていたのだろう。
「シリウス様・・・」
声が震えた。強がっていた心が、この人の前では急に脆くなる。
「ティア」
一歩、近づいてくる。そして、私の頬を伝う一筋の涙に、シリウス様の表情が痛みに歪んだ。
「泣いているのか?」
「え?」
自分でも気づかなかった。でも確かに、頬を伝う涙は温かかった。
「申し訳ありません。こんな姿を・・・」
慌てて涙を拭おうとした私の手を、シリウス様が優しく止めた。
「いいんだ」 低く、温かな声。
「ずっと我慢していたんだろう?」
その言葉で、堰が切れた。
「私・・・ちゃんとできましたか?」
震える声で問う。
「誰も傷つけず、王国のためにも・・・正しい選択・・・だったでしょうか?」
シリウス様は何も言わず、そっと私を抱き寄せた。
金色の髪の向こうに広がる窓からは、アストラティアの青空が見える。
「ティア、君は本当に・・・」
シリウス様の声が、胸に響く。
「強くて、優しくて、そして・・・愛おしい」
「シリウス様・・・?」
「白薔薇の小径で言いかけたことを、今なら話せる」
私の肩を優しく掴み、シリウス様は真っ直ぐに私の目を見つめた。
その紫の瞳には、もう迷いはない。
「ティア、私が婚約者を持たなかった理由。それは——」
その時、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
「ティア!」
エドワード兄様の声が廊下に響き渡る。
シリウス様は咄嗟に私から距離を取った。でも、その紫の瞳には明らかな悔しさが浮かんでいる。
「兄様・・・」
駆けてくるエドワード兄様の表情には、既に全てを察したような色が浮かんでいた。
「噂は本当なのか?」 息を切らしながら、兄は私の顔を覗き込む。
「ジークハルトとの婚約を、お前から・・・?」
私は静かに頷いた。
「はい。先ほど、話し合いを・・・」
「馬鹿な!」
エドワード兄様の声が怒りに震える。
「なぜ、お前からそんな・・・!グランツヴェルト家の面目が・・・!」
「エドワード」 シリウス様が、静かだが力強い声で制した。
「冷静になれ」
「シリウス殿下・・・」
兄様は一瞬たじろぎ、改めて状況を把握したように深く息を吐く。
「申し訳ありません。取り乱して」
「兄様」
私は真っ直ぐに兄の碧眼を見つめた。
「これは私の意思です。そして、グランツヴェルト家の面目など・・・傷ついてはいません」
「どういう意味だ?」
「婚約解消を私から切り出すことで、むしろ家の誇りは守られました」
私は静かに説明を続ける。
「政略結婚に縛られず、真摯に愛を追い求める決断を、侯爵家の令嬢自らが示したのです」
エドワード兄様の表情が、驚きに見開かれる。
「それに」 私は微笑んで付け加えた。
「兄様とジークハルト様の関係も、これで守られます。アストラティアの未来のために」
「ティア・・・」
兄様の声が、懐かしい愛称と共に柔らかくなる。
「お前は、いつからこんなに・・・」
「私には、大切な兄がいますから」
涙を堪えながら、笑顔を作る。
「その兄の、そしてこの国の未来のために、できることをしただけです」
突然、エドワード兄様が私を強く抱きしめた。
幼い頃と同じ、温かく、安心できる腕の中。
「すまない・・・」 兄様の声が震える。
「本当は、守るべきはお前だったのに」
その言葉に、また涙が溢れそうになる。
でも今度は、温かな安堵の涙。
そんな私たちを見つめるシリウス様の紫の瞳には、深い愛情と、まだ言葉にできない何かが、静かに揺れていた。
*
夕暮れ時、私は自室の窓辺に立っていた。
遠くに見える王立学院の時計台が、茜色に染まっている。あの時計台の下で、ジークハルト様とリリアーナは運命的な出会いを果たしたのだ。
(本来なら、この後、私は彼女を罵倒し、周囲の同情を買うはずだった)
でも物語は変わった。
私——セレスティア・グランツヴェルトは、違う道を選んだ。
「お嬢様」
侍女が静かにノックをする。
「シリウス様からのお手紙が届いております」
封蝋に押された王家の紋章。
開くと、そこには短い言葉が記されていた。
『明日、白薔薇の小径で』
胸が高鳴る。
今日、あの場所で言いかけた言葉。
シリウス様の紫の瞳に浮かんでいた、深い感情の正体。
(明日・・・きっと)
窓の外では、最後の陽光が星々に場所を譲り始めていた。
アストラティアの夜空に、新しい物語の予感が輝いている。