代償と終幕
「私だってこのくらいっ!」
炎は動きを止める。
私の魔法によってせき止められたそれは威力を弱め、出来上がった一面の赤の壁は次第に世界へと同化してゆく。
「まさか、ここまでとは……」
せき止められた炎の壁を前にして、ミハイルは驚きを隠せないでいる。
「……ちょっとズルをしているのだけれどね。こっちの心配はいらないっ! シン、まだいける?」
「大丈夫! まだ戦える!」
見た限り、目立った外傷はない。
周囲より加速した時間、目を合わせて互いの無事を確認する。
シンは、短く息を吐くと、再び肉薄。黒龍は、尻尾の一薙ぎで応戦する。
「それはもう見たっ!」
跳躍、上空へと身を躍らせると、その手の剣を以って黒龍の首へと致命の一撃を叩きこむ。
黒龍の咆哮が辺りに響く。
苦し気なそれは、シンの攻撃が確実に効いていることを如実に示していた。
シンは剣の血を払い、鞘へと納める。
「勝った……の?」
こちらを見上げるシンの、にこりと弓なりに吊り上がった口の端からは──赤い血が滴っていた。
「……ぇ?」
そうして、満足そうな顔をしたまま、パタリとその場に倒れてしまった。
「……ッ、シン!」
壁の上から飛び降りる。
着地の寸前、魔法によって速度を緩めることでふわりと衝撃を殺し、巨大な黒い影を背に倒れ伏している私の騎士へと駆けよる。
「リア……」
「シンッ! いったい何が……」
彼の頭を支え、体を起こす。いつかの夢で見た光景と、ちょうど逆の形。
「単純なことだよ。僕の体は、僕一人分の力にしか耐えられないようにできている。君の力を借りて全力で体を動かせば、当然、その分の負荷が僕にかかる」
そう言ってシンが浮かべる笑みは、弱弱しくも満足感に溢れた物だった。
その負荷の結果が、今にも死んでしまいそうなこの状態だというのなら……。
「シン……貴方はバカよ。ほんとうに……馬鹿」
シンはきっと初めから知っていた。その上で私に黙っていた、隠していた。
理由は明確。そんなこと言えば、私が叙勲を取りやめると、そう考えたから。
「けど、君を守ることができた……。それだけで命を賭けてもお釣りがくる。十分すぎるくらい」
「それがバカって言ったのよ! 私がこのまま生き残っても、その隣にあなたが居かけりゃ意味がないじゃない! それで私が喜ぶと思った? そんなわけないでしょ!」
怒号をあげながらも、意識は魔法へと集中する。彼の知っている私の実力ならいさ知らず、今の私は死に体の人ひとり治すくらい、造作もない。
彼の体を元の状態に戻すために、魔法を行使しようとしたその時。
「リアッ!」
シンの声で意識を前へと向けた私の目に映りこんだのは、黒い壁。そう見まがうほどの巨大な翼だった。私たちを払い飛ばそうと振るわれたそれは、もう目前まで迫っていた。
「っっ!」
急いで魔法を行使、黒龍の動きを減速させる。
シンを抱えて、攻撃の範囲から彼を引っ張り出そうとした私の足は、意思に反して動かなかった。
「どうして、どうしてッ! こんな時に限って私の足は動かないの……」
「……逃げろ、リア。僕はいい」
ぽたり。私の顎から雫が落ちる。落ちた雫はシンの顔に赤い斑点を作った。
「……リア?」
私の鼻から、温かいものが流れ出している感覚。
シンが隠し事をしていたように、私も彼に言っていないことがあった。
「っ……」
それは、奇しくも彼の最後の隠し事と同じもの。
未来の経験を引き出すなんて言う荒業をして、体に不調をきたさないはずがないのだ。経験はあれど、体は大魔法の行使に耐えられるだけの強度を持っているわけではない。ズルの対価は支払わなければいけないのだ。
今この瞬間も、黒龍を押さえつけるために使っている魔法が私を蝕んでいる。
その負荷に耐えかねた体は、目に見える危険信号として鼻から血を流すことを選んだようだった。
「逃げろッ! リアッ!」
ふらり。バランスを崩し危うく転びそうになる。シンを抱えての移動をできるほどの体力と私の体にはもう残されてはいない。
でも、このままでは私もろともシンまでもが塵のように弾き飛ばされて、城壁の染みになってしまう。そんな未来は許せない、許容できない。
視界が揺れる。
世界の色が滲み始める。
体はとっくに限界を迎えていた。知らないふりを決め込んで無視をしていただけで、身の丈に合わない魔法の行使は着実に私を蝕んでいた。黒龍を倒せたと思い込んで、気を抜いてしまえばこのザマだ。
体は限界を知覚したとたんに、言うことを聞かなくなる。もう休めと、無理やりにでも意識を刈り取ろうとしてくる。瞼を閉じようとしてくる。
「こんなことしてる……ヒマなんて……」
動かない体に鞭を打つ。どうにか動けと鞭を打つ。
それでも両の足は沈黙を決め込んだままで。
自分の不甲斐なさに涙がこぼれそう。
腕の中の騎士は、濡れた瞳を私に向けているけれど、それに応える体力すら残されてはいない。
「……決めた」
……決めたというよりは、ほかに選択肢がない。
この状況を切り抜けるためにはこれしかない。
シンを守り抜くためには……これしかない。
結局のところ、私の『お姫様』に対するあこがれは、青い芝を隣の庭から眺めていただけのことだったのだ。
自分から戦地に飛び込んで、体が限界の悲鳴を上げて、それでも体を無理やり動かして。
こんなことをしている『お姫様』なんて、世界中どこを探しても見当たらないだろうけど、それでも心は満足感に満ちているのだから。
「……リア?」
シンは、何かを察したような、そんな目をして私に声をかける。縋るようなその声を聴いて、涙が溢れそうになる。これが最後、そう思うと足が竦む。
「シンはここで少し休んでいて」
乱れた黒い髪を撫でつけて、そっと地面に横たえる。
「……だめだ」
「大丈夫よ、こんなやつすぐに倒して戻ってくるわ」
「駄目だリア……僕をまた一人に、しないで……」
泣きじゃくる子供のように、潤んだ声で私へと縋る。
その声を背に、一歩。重い足を前へと踏み出す。
「我が身は姫なれど、姫には非ず。勇士の隣を歩むものなり」
意識を切り替える。未来の記憶、そこからこの状況を打破する一手を引きずり出す。
「我が歩む道が茨に覆われようとも、この足取りは止められず」
光が溢れ出す。私の体を、温かい光が包み込んでゆく。
「我が生が苦痛に終わろうとも、その最期に背に守りしものを誇ることができたのなら」
魔力を取り込む。さらなる酷使に体は悲鳴を上げるが、そんなものは関係ない。
「……最期は笑顔で幕を引こう」
鼻から、口から、血が溢れ出す。もう全身の感覚はほとんどない。
「我が名はアフィリア。メルクーリ王国が王女、アフィリア・メルクーリ!」
右手を前方にかざす。その先、今にも触れそうな距離にまで迫っている黒龍の翼へと魔力を放つ。
──そして、凍り付いた。
黒龍の、その時を、動きを、振動を、完全に停止させた。
その先に待つのは絶対零度。あらゆるものが凍てつく、氷の監獄。
その顛末を見届けた私は、にこりと笑い、意識を手放した。