王女と騎士
「……さま。お嬢様。アフィリアお嬢様。朝です、起きてください」
私の体を緩慢に揺さぶる優しい手。だけれども、もう少しだけ微睡んでいたい。だって、こんなにも柔らかい陽光が私の体を包み込んでいるのだから。
「うぅん……もう少しだけ……」
「ダメです! グズグズしているとすぐに先生がいらっしゃいますよ!」
私に最上のぬくもりを提供してくれていた布団が、引き剝がされてゆく。
途端に、私の体は朝の冷たさを孕む空気に晒される。待ち受けるのは強制的な覚醒。
重い瞼をなんとか引き上げると、見慣れた白い天蓋。首を動かし横を見やると、白と黒のエプロンドレスを纏った、黒い髪のメイドの姿があった。
「……おはよう、ロセ」
私をやさしい微睡から引き揚げた張本人、メイドのロセに抗議の視線と控えめなあくびをお見舞いする。
「おはようございます、お嬢様。朝食ができています。早くお顔を洗ってください」
私の抗議を知ってか知らずか、帰ってきたのは極めて事務的な返事。
「今日はピアノだったかしら?」
「はい。エヴァンズ先生が二時間後にいらっしゃいます」
すぐに来るとか何だったのか。まだ二時間もあるではないか。
しても仕方のない反抗をする気はないので、語外の訴えだけを精いっぱい彼女に送りながら、洗面台へと向かう。
「そして、午後にシン様がいらっしゃいます」
「本当!? わかったわ、すぐ準備する!」
シン、シン・タキトゥス。代々にわたってメルクーリ王国の騎士団長を務めているタキトゥス家の四人の子供。その四番目。
しかし、兄たちを優にしのぐ実力を持っており、国内有数の剣の使い手として知られている。
そして、私の幼馴染でもある。
「お嬢様は、本当にシン様がお好きなのですね」
無表情を貫いていたロセの顔には、ほんのりと笑みが浮かんでいる。
「当然でしょう?」
当然なのだ。だって彼は私が心許せる数少ない友人なのだから。英雄譚について語っても、私を笑わなかった人なのだから。
そして、彼は私の成人に合わせて、傍付きの騎士となる予定をしている。その叙勲は、私にとっては特別なもの。五年前に約束して、そのことを楽しみにして、今日まで生きてきた。叙勲までの残り一か月間もきっとそう。
彼が来るならば気合を入れなければ。
こんなことなら夜更かしなんてするんじゃなかった、と思いながら、鏡の中の自分を眺める。
内巻き長めの金髪が縁取る顔には、大きな潤んだ青い瞳。周囲から美しさをたたえる賛辞はよく受け取るが、今日は目の下にほんのりとクマが浮かんでおり、不健康さが隠せない。
来る寮生活のために自分で支度する練習をしようと思っていたが、前言撤回。今日はパトリシアに化粧を頼むことにしよう。
こうして、私、メルクーリ王国が姫、アフィリア・メルクーリの一日はせわしなく始まった。
×××
一台の大きなグランドピアノ。私はその前に腰かけて、音楽を奏でる。エヴァンズ先生がそれを後ろから見ており、部屋の端にはロセが控えている。
私の指が白鍵と黒鍵のタイルの上で踊る。私の心も踊っている。
それに合わせてピアノは歌う。私の心も歌っている。
幼いころから淑女の嗜みだ、と様々な芸事を教わってきた。
その中でもピアノをはじめとする楽器類は割と楽しみながら練習できているのだが、今日は一段と気分が良い。
理由は明白。シンと会えるから。今なら、暗い曲調の曲を弾いても、明るく聞こえてしまいそうだ。
「さすがアフィリアお嬢様です。素晴らしい演奏でした」
一曲弾き終えるとエヴァンズ先生からの聞きなれた賛辞。
「ありがとうございます、エヴァンズ先生。これも先生が教えてくださったからこそです」
「アフェリア姫にそう言って頂けると、私も講師として鼻が高いというものです。では、次はこの曲を演奏してみましょうか」
先生が取り出したのは楽譜。曲名は『高揚』。今の私ならきっと上手に弾けるだろう。
×××
「ありがとうございました。エヴァンズ先生」
「こちらこそ、ありがとうございます、アフィリア王女殿下。もう、私が教えられることはそう多くないでしょう。何なら私があなたから学ばせられることすらあります」
柔和な笑みを浮かべながらエヴァンズ先生は言う。その表情を見るに、お世辞ではなく本心から、そう言っているようだ。だから、素直に受け取ることにした。
「あら、嬉しいことを言ってくださいますね。貴方のお墨付きがあるならば、私も大手を振って音楽家を名乗ることができるというものです」
「ご冗談を、貴方は王女殿下であらせられるというのに、音楽家の名までほしいままにされては、世の中の音楽家の立つ瀬がないというものです。……ですが、一緒に演奏できる日が来ることを楽しみにしております」
「ええ、楽しみにしておいてください。きっとそうなる日は来るでしょうから」
私の言葉にエヴァンズ先生は笑顔を返す。
「では、本日の授業は以上とさせていただきます。では、また次週にお会いしましょう」
「ええ、ありがとうございました」
エヴァンズ先生は楽譜を纏めて鞄へしまい込むと、軽く一礼をし、去っていった。それをお上品に見送った私は扉が閉まるや否や、立ち上がり自室へと駆けていった。
これで、午前の授業は終わった。となれば、残っているのはあと一つだけ。
シンが来る。それだけで、心は羽のように軽くなる。それにつられて足取りも軽くなる。
「パトリシア! お化粧を直して頂戴!」
「そうおっしゃると思って準備しております!」
なんと準備の良いことだろう。パトリシアは化粧の道具一式をすでに鏡台の前に広げていた。
「パトリシア、わかってるわね貴方……!」
「はい……お嬢さま!」
手と手を合わせ、ハイタッチ。
パトリシアといい、ロセといいウチのメイドはとてもよく気が利く。私の言動を先読みしてくれる。
「ささっ、シン様が来てしまいます! お嬢さま、こちらに」
パトリシアは鏡台の前の椅子へ私を導くと、手際よく化粧を落とし、露になった素肌に新しい色を乗せていった。
「お嬢さま、寝不足でしょう?」
「あら、バレちゃった?」
「クマができてますよ。寝不足は美容の敵ですからね、気を付けてください!」
こと美容に関しては彼女には敵わない。王族一同、彼女の美容術にはお世話になっている。その実力は、歴代一の美形王族だなんて私たちが呼ばれるようになってしまったほど。
「ほら、できましたよお嬢さま。シン様がお待ちなんでしょう?」
「ええ、ありがとう。パトリシア。行ってくるわね!」
私は勢いよく駆けだした。彼の待つ、庭園へと。
庭園の中心、綺麗に刈り込まれた低木と花に囲まれたテーブル。そこで彼は待っていた。
草の緑と花の赤の中では少し目立つ、黒い目と黒い髪。その装いも黒を基調としている。だけれど、陰気っぽい感じはなくて、そのすべてが、鋭さの中にどこか幼さを残すその相貌を、引き立たせていた。
シン・タキトゥス。私が会うのを心待ちにしていた人。私の騎士になってくれる約束をした人。私が大好きな彼。
息を呑んで、一呼吸おいて声をかける。
「シン、待たせてしまったかしら?」
「いえ、僕もさっき着いたばっかりなので。本日もお綺麗です、アフェリア様」
「ありがと。……けど、二人の時はもっと砕けた態度でいい、って言ったでしょ?」
シンは私の後ろを指差す。そこには、緑の中では実に目立つパトリシアのオレンジ髪。
「それに、本日はアフェリア様に大事な話がありまして」
少し神妙な顔をするシン。表情の起伏に乏しい彼だが、それでもわかる。彼は少し緊張している。
「どうしたの、改まって」
「──騎士の叙勲を先延ばしにしてほしいのです」
「……え?」
騎士の叙勲。それは五年前に交わした約束。
私と彼とを繋ぐものに他ならなかった。
「どう……して?」
気が付けば涙が溢れ出していた。パトリシアが綺麗にめかしつけてくれた化粧が崩れて、顔に一筋の黒いラインが出来あがる。
「今は……話すことができません」
苦々しい顔で彼は言う。
どうして貴方がそんな顔をしているの?
「酷い、酷いわシン。私がどれだけあの約束を大事にして、来月の叙勲を心待ちにしていたか、知っているでしょう? なのに……」
「申し訳ございません」
帰ってくるのは謝罪だけ。私は彼の気持ちが知りたいというのに。
「帰って」
「ですが……」
「帰って! ……今は貴方と話したくありません」
もう、彼の声を聴きたくはなかった。だって彼は約束を違えた。五年前の約束を。私の根幹を成す約束を。
シンは何も言わずに一礼すると、去っていった。
「お嬢さま! 何かあったのですか!?」
庭園には、心の柱を失った私と、慌てふためくメイドだけが残された。
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左から、シン、アフィリア、ロセとなっております!
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