経緯
鴻上は凛が亡くなるまでの経緯を事細かに語り始めた。
越前・河野のしおかぜラインで事故を起こし、在沢が入院生活を余儀なくされていた頃、レイ・タウンズ教授は『人工知能の未来』と題されたシンポジウムにゲストスピーカーとして招かれた。
国土交通省大臣政務官の柊木尚志も登壇しており、タウンズ教授に付き添った凛はシンポジウム後の懇親会で柊木と顔を合わせた。タウンズ教授は懇親会に顔を出してすぐ退席したが、柊木に目を付けられ、しきりに酒を勧められた凛は辞去するタイミングを失い、ずるずると付き合わされた。
泥酔するほど酒を飲まされ、頭は朦朧としていた。前後不覚の凛が目を覚ますと、ホテルの一室で柊木に襲われていた。獣のような乱暴さで凛を蹂躙した柊木は事もなげに言った。
「君が誘ったんだよ。私にしなだれかかってきてね。覚えていないのかい」
まったく身に覚えのない写真を撮られていた。酒に混ぜて睡眠薬でも盛られたのか、極度の眠気と倦怠感のせいで、凛はろくに抵抗さえできず、柊木の気が済むまで犯され続けた。
ようやく悪夢のような時間が終わると、凛は素っ裸のままホテルの部屋から追い出された。肌を隠すものさえなく、凛は何度もドアを叩いたが、柊木が扉を開けることはなかった。
素肌を手で隠しながらエレベーターに乗り込み、フロントに助けを求めようとしたが、運悪く別の宿泊客と居合わせてしまった。
親切めかして声をかけられ、とりあえず部屋においでと連れ込まれた後、悪夢が再現された。散々に犯された挙句、翌朝には強姦魔は煙のように消えていた。放心状態の凛は客室係に発見され、衣服やスマートフォンは無事に返ってきたが、心に深い傷を負った。
そんな一夜があったことを凛はおくびにも出さず、妊娠した子供が流産してしまったタイミングで、ようやく涙ながらに打ち明けたという。
「仁君、ごめんね。タウンズ教授にも誰にも言わないで。死ぬまで秘密にして」
凛は延々と泣き続け、程なくして死出の旅に出掛けた。
鴻上は凛との約束を守り、タウンズ教授にも誰にも悪夢の一夜のことをつまびらかにはしなかった。しかし、柊木尚志の振る舞いには腹を据えかねていた。国家権力に守られた柊木の醜聞は一切表に出ず、柊木は国民の期待の星であり続けた。そんな折、在沢有意が自動運転車のテストドライバーに指名されたと聞いた。
「夫婦ってのは、多種多様の秘密を共有する人間関係のことだろ。凛とは本物の夫婦になれなかった。流産するまでオレにはなにも打ち明けてくれなかったんだから」
鴻上の打ち明け話を聞くうち、この男と獣のように交わった一夜に思い至った。性欲の捌け口を求めての行為ではなく、女の身体である在沢に疑似体験させたのだ。物のように扱われ、人間の尊厳を傷つけられた女がどのような気分に陥るのか、身をもって知らしめるためにあえて非情に接した。
「凛さんが亡くなってから、ずっと抱えていたんですか」
「ああ」
鴻上は手で顔を覆ったまま、平板な声で言った。
「オレは男だからよ。男に襲われることがどれだけ怖ろしいことなのか、実感できねえんだ。なんなら力いっぱいぶん殴れば、それで済む話だしな」
元ボクサーの鴻上であれば、寝込みを襲われたところで太刀打ちできる。しかし、非力な女性である凛はそうはいかない。
「俺も昨日までは実感としては分からなかったと思います。でも、今日分かりました」
「悪かったな。オレも柊木と同類だ」
在沢に背を向けながら、鴻上がぼそりと言った。
「ガミさんは優しいですよ。ときどき暴走するけど」
「うるせえ。悪かったって言ってんだろ」
鴻上はそれっきり貝のように口を噤み、車は暗い夜道に立ち往生したまま、再び走り出すことはなかった。