洗車
臭い、臭い、と言われて、さすがに腹が立った。
鴻上からライトバンの鍵を借り、スライドドアを開けると、もわっと異臭が立ち込めてきた。ゲロまみれの在沢はリヤシートを折り畳むことで生じたスペースに寝かされ、かさばるマネキン人形のように運ばれてきたそうだ。荷室のあちこちに嘔吐物が染み込んで、地図状の斑紋となり、分かちがたくこびりついていた。
ドアを開け放っていてさえ気の滅入る臭いであるのに、これが密室となれば、もはや耐え難いものになるだろう。胃を逆流した食塊がこんなにも臭うのかと思うと、己が生物兵器のように思えた。
「やべえだろ。これ、もう買い換えレベルだろ」
鴻上がいつの間にか背後に立っていた。
「弁償するとしたら、幾らぐらいかかります?」
「オプション次第だが、二百万ぐらいじゃねえの」
「……破産します」
「明日からこれに乗って通勤するんだぜ。臭すぎて死ぬぞ」
「それはそうですけど、どうしようもないです」
人身事件を起こしたせいで自宅アパートを特定され、パソコンを破壊され、洋服類も滅茶苦茶にされた。水道管は破裂し、床は水浸しで、敷金だけでは原状回復費用に足りなかった。犯人は一向に捕まる気配がなく、捜査の進展状況さえ報告されない放置っぷりで、まったくの襲撃され損だ。今後めでたく犯人が捕まり、損害を丸々弁済してくれるなどは望み薄だろう。
なけなしの貯金を取り崩してなんとか生活を再建することはできたが、鴻上に家賃や生活費を支払うまでには至っていない。無い袖は振れない。その上、ライトバンの買い替え費用まで拠出しなければならないとなると、家計は火の車だ。
「洗車サービスって、車の中は綺麗にしてくれないんですかね」
スマートフォンに「車 洗いたい」と打ち込むと、カークリーニングサービス『車洗隊』という、ずばりそのまんまのネーミングのページがヒットした。
ざっと流し読みすると、嘔吐の消臭・清掃クリーニングという項目があった。出張料金が加算されるが、代車も用意してくれるらしい。茨城県にも事業所があり、夜の九時まで営業していた。
「駄目元で洗ってみましょう」
買い換える気満々の鴻上は渋い顔だが、在沢は知らんぷりして電話をかけた。ワンコールで電話が繋がった。
「お電話ありがとうございます。車洗隊・茨城支店です」
「嘔吐の消臭・清掃クリーニングをお願いしたいのですが、今日中に車を引き取りに来ていただくことはできますか。あと、代車も用意していただきたいのですが」
在沢が矢継ぎ早に用件を告げると、住所を訊ねられた。
「代車のタイプや車種はご指定いただけないこと、ガソリン満タンでのご返却になりますが、よろしいでしょうか」
「はい、構いません」
「かしこまりました。それでは、これよりスタッフがお伺いさせていただきます。現地にてお見積りさせていただき、作業完了後にお支払いをお願いいたします」
小一時間ほど待っていると、代車に乗った車洗隊のスタッフが到着した。清潔感に溢れた真っ白なユニフォームを着た中年男性は、異臭の立ち込める車内に嫌な顔ひとつ見せず、汚染された荷室の状態を確認している。
「おいおい、これはなにかの陰謀か」
鴻上が毒づいているのは、車洗隊スタッフの熱心な仕事ぶりではなく、スタッフが乗ってきた代車についてだった。
用意された代車は、まさかのReMoveだった。
「お宅、ヒイラギ・モータースとなにか繋がりがあるの?」
鴻上は見積もり中のスタッフに声をかけた。
「繋がりと言いますと?」
「資本関係とかグループの傘下に入っているとか、お宅のオーナーがヒイラギ・モータース関係者だとか」
鴻上が不躾な質問を投げかけても、スタッフは清潔な営業スマイルを湛えたままだった。
「特にそのようなことはないかと思います。ヒイラギ・モータースの茨城工場もありますし、このエリアは特にリーヴに乗っておられるユーザー様が多くいらっしゃいますので、代車もリーヴを用意させていただいている次第です」
「あっ、そう。じゃあしょうがねえ」
鴻上はあまり納得した風ではなく、不満げな顔つきだった。
「ガミさん、陰謀ってなんですか。何でもかんでも噛みつくのやめてくださいよ、犬じゃないんだから」
在沢が取りなすと、鴻上はよけいに気分を害したらしい。
「これ、完全に臭いは消えるの?」
「不快な臭いは取り除けますが、どうにもならない箇所に嘔吐物が染み込んでしまっていることもあります。そういった場合は若干の臭いが残ってしまうこともございます」
鴻上は完全に臭いを取り除けないなら用はねえぞ、と言わんばかりに仁王立ちしている。夜遅くに呼び立てられた上に、こんな尊大な態度をとられたら、クリーニング作業に手を抜きたくなるというものだ。
しかし、スタッフはプロだった。
鉄壁の営業スマイルが崩れることもなかった。
「お見積り金額をご説明させていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、よろしくお願いします」
面倒なクレーマーは相手にせず、なんとなく話の分かりそうな在沢にだけ話を向ける回避戦略は見事と言わざるを得ない。在沢は心の中で拍手したが、見積もり金額を提示された途端、あっさり拍手を撤回した。
電卓に示されたのは、五万円弱の金額だった。
高えよ、という心の声はさすがに声に出さないものの、出張費用諸々が加算されると、この金額になるらしい。
「車の預かり期間はどれぐらいになりますか?」
「一日で完了するかと思いますが、状況によっては二、三日、お預かりすることになるかもしれません。日数がかかった際も費用は変わりません」
金額はともかく、説明には納得がいった。
「本日ご契約いただけましたら、お支払いはサービス完了後となります。ご契約いただけない場合は、出張料金八千円のお支払いをお願いいたします」
ここで契約に至らなければ、八千円も支払ってライトバンの臭気を嗅がせただけとなる。それこそ無駄金だ。
在沢は表面的な笑みを浮かべつつ、うなずいた。
「契約させていただきます。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。それでは、こちらに契約者様のお名前と住所の記入をお願いいたします」
書類へのサインを求められたが、さて困った。
鴻上の別荘の正確な住所を知らない。
在沢が立ち尽くしていると、鴻上がずいと割って入り、さらさらと書類に署名した。そしてライトバンのキーを投げるように渡す。
契約書の控えを受け取った鴻上は、小さく頭を下げた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「承りました。それでは失礼いたします」
車洗隊のスタッフがライトバンに乗って走り去っていくのを見届けると、鴻上が振り返り、いきなり激怒した。
「お前、自分の立場分かってる?」
立場って、なんだ。
いきなり怒鳴られたが、激する理由がよく分からなかった。
在沢が押し黙っていると、鴻上はぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「お前のせいじゃないにしろ、人を轢いてるんだよ。世間からすりゃあ立派な人殺しだ。そのせいで自宅にいられなくなって、オレのとこに逃げてきた。見ず知らずのやつに個人情報を晒すな」
むしゃくしゃしているのか、声音にはいつも以上に険があった。
言っていることはどこまでも正論だったが、立派な人殺しというフレーズに打ちのめされた。そうだ、確かにその通り。
でも、現実的に在沢がなにをしたというのだろう。
ただ自動運転車の運転席に座っていただけだ。積み荷も同然で、それなのに人を轢き殺した罪だけは引き受けさせられている。
「分かってますよ」
声は震え、止めどなく涙が溢れてきた。
そうだ、確かにその通り。
在沢有意は立派な人殺し。
「……分かってます」
涙をごしごしと拭うと、苔色のポシェットの中のLiSAがぽつりと言った。
《有意は最近、よく泣くな》
「やめてよ、リサ。もっと泣きたくなる」
寄り添うでもなく、ただの現状認識がどうして極上の気遣いに思えてくるのだろう。下手に慰められるより、よっぽど泣けた。
「あー、ったく。女の涙は苦手だぜ」
「……女じゃないです」
「男の涙はもっとうぜえ」
鴻上はわざとらしく怒って見せると、無防備な在沢の腹に軽く、ボディーブローを食らわせた。
「死ぬほどうぜえから、ドライブでもしようぜ。試験走行場でも、筑波スカイラインでもどこにだって行ってやる」
鴻上はぺっ、と地面に唾を吐き、ReMoveのエンジンをかけた。