魔法の書類
白い作業着の裏に秘められた暗部は、どうにもきな臭かった。
気がつけば、二時間近くも福田と話し込んでいた。
社用車を転がして帰途に就いた福田を見送った後、どっと疲労感が押し寄せてきた。それに空腹も覚えた。
鴻上はよほど疲労が溜まっていたのか、一向に起きてくる気配がない。勝手知ったる他人の家の冷蔵庫を漁り、目ぼしい餌がないことに落胆した。
幸いにして、徳用もやしと豚肉を発見した。一人分も二人分も労力はさして変わらないので、鴻上の分のもやし炒めも作り置いて、侘しく食事をしていると、ちょうど良いタイミングで鴻上が姿を現した。さすがに全裸ではなく、首回りがよれたTシャツに、グレーのスウェットパンツを穿いていた。
「ガミさんも食べます?」
「ああ、サンキュー」
鴻上が着席した途端、むわっとした男臭さが押し寄せてきた。
獣のように交尾した狂おしい一幕が、どこか遠い彼方に押し流されてしまったように鴻上は静かだった。いまだ覚醒に至っていないのか、うつらうつらしており、半分ぐらい眠ったような状態で箸を動かしている。おかげで味付けについては何も言われなかった。
《ガミ、お疲れか?》
ひょいと投げかけられた言葉が凛の声にそっくりだったからか、鴻上の箸の動きがぴたりと止まった。ダイニングテーブルの端っこにLiSAの姿があるのを認めて、鴻上が細い溜息をついた。
「福田さんが届けてくれたんです」
「……フクダ? 誰だっけな。茨城工場の従業員だけで、何千人いると思ってんだよ」
「設備保全主任の福田さんです」
「ああ、実質工場長の福田さんな」
「凄いですね、なんで他部署の人まで分かるんですか」
何千人もの学生が入り乱れる筑波先端科学技術大学でも、実質的に顔と名前が一致するのは、二十名足らずのゼミ生だけだった。
万単位の従業員を要するヒイラギ・モータースでは、さらに誰が誰だか分からない。顔覚えの悪い在沢には驚きだったが、交友関係の広い鴻上にはさほどのことでもないのかもしれない。
「凛のことで、いろいろ聞きまわっていたからな」
考えなしに古傷を抉ってしまったらしい。鴻上はもやし炒めをさも不味そうに咀嚼しながら、苦痛に歪んだ顔をした。
「なんか……すみません」
一気に雰囲気が凍りつき、お通夜のような湿っぽさになった。
「あの……、聞いてもいいですか」
気詰まりな空気のなか、鴻上は無言で顎をしゃくった。
「凛さんとは結婚してたんですか?」
「向こうの両親にめちゃくちゃ嫌われたけどな」
鴻上は自嘲気味に笑った。
「そりゃあ怒るわな。可愛い娘を孕ませて、入籍したと思ったら、交通事故で母子共々帰らぬ人だもんな」
「事故はガミさんの責任じゃないと思いますけど」
塞がり切っていない古傷を突いてしまった手前、在沢は必死に取り繕おうとしたが、無駄だった。鴻上は諦観したように言った。
「そう思っていなきゃ、やっていられないんだろう。いいんだよ、オレがすべての元凶で、悪者だと思ってくれればいい」
娘の妊娠を知った凛の両親は、一瞬受け入れがたい態度を示したものの、最後は手放しで喜んでくれた。二世帯同居とは言わないものの、孫がいつ遊びに来てもいいように赤ちゃん転落防止柵を設けたり、床材を張り変えたり、万全の準備をしてくれた。
しかし、凛の交通事故ですべてが暗転した。
やり場のない悲しみはやがて鴻上への怒りとなった。
こんな男と付き合わなければ、可愛い娘は生きていた。
親よりも先に亡くなることはなかった。
言葉には出さずとも、娘を悼む沈黙は何にも増して雄弁だった。
「姻族関係終了届けって知ってるか?」
「なんですか、それ」
「義理親との関係を即時に終了させられる魔法の書類だよ」
婚姻によってできた親戚を「姻族」と呼ぶ。
離婚には夫婦の同意が必要だが、夫婦の一方が死亡すると、婚姻関係は解消されたものとみなされる。しかし、配偶者の両親などの血族との姻族関係は継続するのが原則だ。
「凛の両親にとってはオレの顔なんか見たくもないだろう。悪魔みたいなものだからな。でも凛が亡くなった後も姻族関係はそのまま続くわけだ。サイテーだろ」
鴻上は表情を変えることもなく、淡々と話し続けた。
「ただし、魔法の書類さえ出せば姻族関係は直ちに終了する。提出できるのは残された夫か嫁だけで、元姻族には通知さえ行かない。A4サイズの書類に三文判のハンコを押すだけで、晴れて見ず知らずの他人に戻るわけだ」
手続き先は本籍地もしくは住所地の市区町村役場で、戸籍謄本、死亡した配偶者の戸籍謄本、認め印さえあれば直ちに成立する。
「それを出したんですか」
「これ以上、凛の親族に迷惑はかけられないだろう」
姻族関係終了届けを出したとは言っていないが、出していないとも言っていない。それでもどちらを選択したか、想像はついた。
「ああ、それで……」
鴻上の住む別荘には、内海凛を偲ばせる形見が何もなかった。
遺品はことごとく凛の両親に渡したのかもしれない。
凛との生活を物語るものと言えば、瓶詰めにされた毬藻と、対と思しき緑色とピンク色の歯ブラシだけ。写真の一枚さえもない。
温もりのある造作であるにもかかわらず、鴻上の住処にそこはかとなく寒々しさを覚えた理由の一端が知れた気がした。
《ガミ、サイテーだな》
「ああ、最低だろう」
会話に横入りしてきたLiSAの発言もまた最低だった。
「ピンクの歯ブラシは凛さんのですか?」
「……ちげえよ」
鴻上がばつの悪い表情を浮かべた。「ピンクがオレのだ。凛は緑。モスグリーンが良いのに、ってぶつぶつ言ってたけどな」
《ガミはピンク、凛はグリーン》
茶化すように歌われ、鴻上はなんとも複雑な表情をした。
「あの、ガミさん……」
「なんだよ」
「試験走行場に花を手向けに行きませんか。あと、筑波スカイラインにも」
死亡した網野晃に遺族はいなかったのか、通夜もなく葬式もなかった。大々的な社葬にするほど会社に貢献していないのは明白で、ひっそりと荼毘に付されたのだろう。在沢は事故を起こした張本人ではあるが、せめて心ばかりの花ぐらいは手向けたかった。
「試験走行場はともかく、なんでスカイラインに行くんだよ」
「福田さんから聞いたんです。網野晃の娘がスカイラインを走っているときに亡くなったって」
「行きたければ勝手に行けよ。オレはパス」
思いつきを提案したが、鴻上の反応は鈍かった。
「ガミさん、一緒に行ってくれないんですか」
「……臭えんだよ」
「は?」
「ゲロまみれになったどっかのバカを運んだせいで、ライトバンの中が臭うんだ。専門業者に頼まねえと、もう使い物にならねえよ。徹底的にクリーニングしても、気分的にはもう乗れねえな」
《有意、サイテーだな》
「ああ、最低だろう。オレのバンは天に召された」
《ガミはピンク、凛はグリーン、有意はゲロゲロ》
楽しそうにLiSAが歌っているが、ひとつ訂正しておこう。
ゲロは色ではない。いや、色か。色と言えば色だ。
胃の腑の液体をすべて混ぜ合わせた混色……。考えるうち、頭の中が吐瀉物で汚染されたので、無為な思考を停止する。
「ガミさん、リサにあんまり汚い言葉は覚えさせないでください。エグいものとかグロいものはなるべく見せない教育方針なので」
「教育方針って、なんだそりゃ。教育ママかよ」
鴻上が腹を抱えて笑い出した。
「親としての視聴制限して、なにが悪い」
在沢は気分を害したまま、席を立った。