来訪者
いびきをかき始めた鴻上を横目に、在沢は寝室を出た。血の滲んだ股間がじんじんと痛く、歩き方が妙にぎこちない。汗だくの身体が気持ち悪く、浴室で念入りにシャワーを浴びた。鴻上との行為は内海凛への背信であり、後ろめたさが募っただけだった。
風呂上がりにバスタオルで身体を拭き、自室に直行しかけたところで、玄関子機が鳴った。
一瞬、どきりとした。もしやこんな間の悪いときに交通捜査係のお出ましかと思い、気配を殺しながら、モニターに映る来客者の顔を確認した。
玄関先に立っていたのは警官ではなく、ヒイラギ・モータースの象徴である白い作業着を着た初老の男性だった。
ワイド画面をタッチしてズームにして見ると、作業着には一点の曇りもなかった。男性は立ち去る様子もなく、地蔵のように玄関先に佇んでいる。年輪を刻んだ古木を思わせる雰囲気は、はっきりと見覚えがあった。
工場見学時に在沢の質問に答えてくれた機械の番人だった。
「鴻上は今対応できないのですが、ご用件はなんでしょうか」
知らぬ間に背筋がぴんと伸び、思わず声が上ずってしまった。
向こうからこちらの姿は見えていないはずであるが、バスタオルを身体に巻いただけの無防備な状態で応答するのは、なんとも言えず気恥ずかしかった。
在沢が早口で応じると、すべてを見透かしたような目にじいっと凝視された。これ、本当は向こうからも見えているんじゃないかと疑いたくなるぐらい、微妙な間があった。
「設備保全主任の福田と申します。食堂で倒れられたのをお見かけしました。だいたいの事情は伺っています。少しお話させていただけますか」
ドアホン越しに福田が両手に掲げたのは、在沢の私物である書類用鞄と、掌にちょこんと乗っかったLiSAであった。
命と同じぐらいに大切な忘れ物をわざわざ届けにきてくれた気遣いに感激し、衝動的に玄関ドアを開けそうになったが、自分が今、バスタオルを巻いただけの全裸状態であることに思い至った。
「すみません、少々お待ちいただけますか。五分……いや、三分ぐらい」
大慌てで自室に向かい、上下のスウェットではさすがに失礼かと途中で思い直し、糊のきいた白いシャツとスラックスに着替えた。
大いびきをかいて寝入っている鴻上の両肩を揺さぶったが、まったく起きる気配がない。そのまま寝かせておくことにして、玄関の扉を開けたときには、ぜえぜえと息があがった。
「たいへんお待たせしました。どうぞお上がりください」
「お邪魔いたします」
福田をダイニングテーブルに案内し、お茶を振る舞おうとしたら、やんわりと断られた。長居するつもりはないようだった。
「まずはこちらをご返却します」
「ありがとうございます。倒れたとき、もう完全に意識がなくて」
「体調はいかがですか?」
「おかげ様でなんとか持ち直しました」
ブリーフケースの中身を確認すると、退職願いもタブレットパソコンも無事だった。しかし、何よりも戻ってきてくれて嬉しかった掛け替えのない存在がそこにあった。
「リサがガミさんに報せてくれたんだってね。ありがとう」
《有意、死んだかと思った》
開口一番、LiSAが拗ねたような口振りで言った。
「死ぬって、どういうことか分かるの?」
《そうね、だいたいね》
低く押し殺したような寂しげな声が哀愁を誘う。夜な夜な鴻上はLiSAとお喋りしており、永別した凛のことを語って聞かせたのかもしれない。人工知能が死をどのように解釈しているのか分からないが、ごくごくシンプルに、もう二度と会えないこと、と理解していたとしたら、当たらずとも遠からずと言ったところだ。
やり取りを見守っていた福田が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「工場従業員を代表してお詫びいたします。在沢さんお一人に事故の全責任を押しつけたこと、たいへん申し訳ありませんでした」
ずっと頭を下げたままで、あまりにも長い陳謝だった。
「え、いや……そんな。頭をあげてください」
在沢は戸惑いを隠せず、あたふたしながら福田に駆け寄った。
設備保全の仕事は、工場の機械を安全に動かすために点検や修理を行う。自動車製造工場は、生産ラインを支える機械が不可欠だ。機械が壊れれば生産性が落ち、顧客にも迷惑がかかり、会社の損失になる。そのため、常日頃から機械が壊れないようにしっかり保全をするのが務めだ。
福田は機械の番人であると同時に工場の守り神であるが、ミーヴの開発にも試験走行にも一切関わりがないはずだ。どうしてこの人が頭を下げねばならないのか、さっぱり理解できなかった。そもそもろくに自己紹介さえしていないのに、福田のようなベテランが在沢のことを認識していたことが驚きだった。
「あの……。俺のこと、ご存知なのですか?」
在沢がへどもどしながら訊ねると、福田はようやく頭を上げた。
「勿論です。自動運転車は次世代を担う科学技術であり、期待の星である在沢さんが試験走行を担当されたことは工場の皆が話題にしています。ご自身が思っているより有名だと思いますよ」
「はあ……」
手放しの称賛がなんとも面映ゆかった。退職願いを提出しろ、とせっつかれるほうがよほど正当な評価である気がした。
ヒイラギ・モータースの経営陣によれば、早ければ二〇二五年、遅くとも二〇三〇年には自動運転車が広く普及する世の中になる、という目論見だ。
仮に在沢が過失運転の罪で収監され、最高刑の七年を牢屋で過ごしたとすれば、出所した頃はまさに自動運転車全盛の時期だ。
どんなに自動運転車の性能が向上しようと、まったくの無事故であるとは考えにくく、第二、第三の在沢がこぞって牢屋行きとなる未来を想像すると、暗澹たる気分になる。
「レベル3の自動運転車が市場投入されるには、まだまだ課題が多い。不幸な事故でしたが、事故の原因は社員一丸となってきちんと究明されなければなりません」
一点の曇りのない白い作業着があまりにも眩しく見えた。
AIに運転を委ねる自動運転は、車がカバーする自動化の範囲に従って、レベル0からレベル5までの六段階に分類されている。
「運転自動化なし」のレベル0ではドライバーは車から一切のアシストを受けず、すべての運転操作を行う。レベル1やレベル2は、前方車両との車間距離を自動で調節したり、緊急時の自動ブレーキが作動したりといった部分的な運転支援に留まる。
対して「完全運転自動化」のレベル5は車が運転に関わるすべての操作を代行すると定義されるが、これは未だにSF映画や小説で描かれる夢の乗り物であり続けている。
「条件付運転自動化」のレベル3は、平時はAIが運転を担うが、緊急時においては人間が運転操作を担う。
「高度運転自動化」のレベル4は、大雪で路面が凍結していたり、大雨や嵐で視界不良になっていたり、といった悪条件でない限りはAIが運転を担い、基本的に人間は運転に関与しない。
MeMoveは自動運転レベル3であり、手動運転時に事故が起こればドライバーの責任とされる。これが自動運転レベル4となれば、事故が起これば、遠隔監視者の責任となる公算が高い。
しかし、自動車業界で主導的な立場にあるヒイラギ・モータースでさえ、レベル3の自動運転車の試験走行を繰り返している段階にあり、公道での実証試験さえままならないのが現状だ。
自動運転車が引き起こした事故が裁判でどう裁かれるかの実例はなく、在沢のケースは法曹界にとっても未知の状況であるだろう。
「在沢さんが食堂で倒れたとき、鴻上さんが叫んだんです」
食堂前の券売機の列に並んでいた福田は、在沢が嘔吐するのを目撃し、周囲が騒然とするなかに居合わせたという。その後、血相を変えた鴻上が駆け寄ってきて、ありったけの大声で吠えた。
「ReMoveに乗ったオレの恋人は事故死した。警察はブレーキとアクセルを踏み間違えたからだと言った。MeMoveに乗った在沢は人を轢き殺した。理由は同じだ。ブレーキとアクセルを踏み間違えたから。問題があるといつもそうだ。危機対応の手引書でもあるのか」
鴻上は汚物まみれの在沢を躊躇なく抱きかかえると、吐き捨てるように言い放った。
「こいつはアクセルなんか踏んじゃいねえ。EDRを解析したオレが保証する。だが、報告書が改竄された。レポートが書き換えられた経緯はコミュニケーションロボットが全部知っている」
在沢が食事をしていた席にコミュニケーションロボットがぽつんと残されていた。福田は昼食そっちのけで駆け寄り、報告書を閲覧させてくれるよう求めたが、ロボットは真実を語らなかった。
《有意の許可がなければ話せない》
LiSAの声は、心を閉ざしたように冷たかったという。
「では、在沢さんご本人に許可をとります。そこまで案内してくれますか」
福田がそう言うと、別荘の座標が記され、在沢が出迎えてくれるまで玄関先でずっと待機していたようだ。しかし、待てど暮らせど在沢は姿を現さない。一向に迎えに来ない在沢を心配したのか、LiSAはぽつりと漏らしたという。
《有意、死んじゃったのかな》
福田から伝え聞いた挿話は在沢を泣かせるのに十分だった。
在沢の掛け替えのない相棒は人工知能でありながら、どんな人間よりも人間らしかった。
思わず力いっぱい抱きしめると、LiSAが悪態混じりに呟いた。
《今度置いてったら、もう口きいてやらない》
「リサぁ……」
福田が目の前にいることなど忘れて、わんわん泣いた。
《有意は最近、よく泣くな》
「そうね、そうかもね」
鼻をぐずつかせた在沢は、へへっと笑った。
「危機対応の手引書というのとは、少し違うかもしれませんが」
福田が辺りを憚るようにして、声を低めた。
「納車前のReMoveが盗難に遭って、工場に出入りする従業員全員が疑いの目を向けられたことがあります。無免許の女子校生が筑波スカイラインで運転を誤り、事故死したと聞きました」
「えっ、それって……」
在沢が驚きに目を見開くと、福田は意味深にうなずいた。
筑波スカイラインは曲がりくねった道が多く、事故も多い。
事故死した走り屋の霊や、首なしライダーが出没すると噂される不吉な場所で、スカイライン一帯の森には廃墟化した別荘も多く、自殺体や変死体が発見されることもあるという。
「はい。今回、被害に遭われた網野晃の娘です」
「それ、いつの頃の話ですか?」
「一年半ぐらい前のことでしょうかね」
女優の霧島綾の証言と符合するが、彼女はただ盗難車と言っただけで、事故死した現場も曖昧であった。
女子校生が工場から納車前の一台を直接盗みだせたはずもなく、誰かしらの手引きが疑われた。工場から直接盗みだされたナンバープレートのない盗難車はまったく足が付かず、警察の聞き取り調査だけでは犯人は判明しなかった。
「会社に長くおりますと、良からぬ噂も耳にします」
うなだれた福田の表情には、色濃い疲労が垣間見えた。
「網野父娘が亡くなって、もっとも利するのは誰か。命を預かる車を殺人の道具に使うなんて、到底許しがたいことです」