分岐点
ベッドに場所を移した夢の続きは、乾いた洞窟を痛めつけるだけの拷問だった。怒張した肉は鞭のようで、最初のうちに感じた気遣いや優しさは別世界に置き去りにされた。
ただただ痛いだけの苦痛の時間が果てしなく続く。鴻上はいつの間にか余裕をなくしていき、ひどく粗野で、理性を失った獣のように乱暴だった。粘っこい汗がぽたぽたと滴り落ちる。激しく腰を打ちつけてくる鴻上の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「オレが殺した。オレが殺した……」
譫言のように繰り返す鴻上が、哀れに思えた。
夢遊病者のように目は虚ろで、在沢を見ているようで、その実、在沢を見てはいない。今は亡き伴侶の亡霊を追っているのだろう。身重の凛を引き止めなかった。そのせいで事故に遭い、最愛の彼女は永遠に帰ってこない。鴻上は自分のせいで凛が亡くなったのだと思っているのだろう。
「オレが殺した。オレが殺した……」
懺悔のような繰り言を聞くと、鴻上もまた壊れているのがよく分かった。内海凛が亡くなった命日が正確にいつだったのか、訊ねる気にならない。誕生日や結婚記念日のようなめでたい日ではなく、彼女の命が尽きた日をカレンダーに刻む気分はいかほどだろうか。
正確な時期は分からずとも、概ねの想像はつく。
大学の卒業間近に妊娠が判明し、出産には至らなかった、と聞いた。在沢たちが大学を卒業したのはざっくり三年前のことだから、となると、おそらくは二年半前ぐらいのことだ。
二年半もの間、鴻上は独りで痛み続けていたのだと思うと、なんともいえないやるせなさが襲ってきた。当て所なく腰を振り続け、どんなに激しく肉を打ち付けたところで、溺れるほどの快楽はないだろう。余計に虚しくなるだけだ。
体動を制御するブレーキが壊れてしまっているのか、ただ漠然とアクセルを踏み続けるだけの鴻上は怒りながら泣いていた。
「ガミさん、もういいです。もうやめましょう」
生乾きの天然パーマは見る影もなくぺしゃんこで、在沢がそっと頭を撫でると、ようやく鴻上が停止した。
「頭のなかを空っぽにしなきゃだめなのはガミさんの方です」
お互いに全裸のまま抱き合うと、鴻上は柄にもなく萎れていた。
「なあ、有意……」
「なんですか?」
「お前だったら、トロッコの分岐点を切り替えるか」
「トロッコ問題のことですか」
「ああ」
線路上を走るトロッコが制御不能になり、そのまま進むと五人の作業員が確実に死ぬ。五人を救うため分岐点を切り替えると、一人の作業員が確実に死ぬという状況下で、線路の分岐点に立つ人物はどう行動すべきかを問う倫理学の思考実験――通称トロッコ問題。
何もせずに五人を見殺しにして一人を救うか。
一人を犠牲にして五人を救うか。
ある人に危害を及ぼさないために、他人に危害が加わらざるをえない場合、他人を犠牲にするのは許されるのか、というジレンマを扱った思考実験であるが、自動運転車が実用化へ向かう現代では、トロッコ問題はもはや思考実験ではなく、現実的な解決方法を求められる問題となっている。
この場合の五人とは会社のことで、一人とは在沢有意のことだろう。在沢が犠牲になれば、会社は助かる。
過失運転致死傷罪の最高刑は懲役七年だが、会社が槍玉に挙がれば被害のほどは計測できない。線路の分岐点に立つのが在沢以外であれば、選択は容易だ。
「最初からトロッコが俺一人の方に向かってきてますからね。切り替えないとどうしょうもないと思います」
「そう……だよなあ」
鴻上はまったくの上の空で、目の焦点が合っていない。在沢目がけてトロッコは今まさに走り出しているが、鴻上はいったいどんなトロッコ問題に頭を悩ませているのかが判然としない。
「ガミさんは何に悩んでるんですか?」
「べつに大したことじゃねえよ」
鴻上はごろりと寝返りを打ち、在沢に背を向けた。
「……疲れた。寝る」
ぶっきらぼうに言い放つと、室内の明かりが消えた。今が何時か分からないが、昼食時に倒れた在沢を運び、丸洗いして本日の業務は終了したのか、鴻上はもはや会社に戻る意思はないようだった。