機械の番人
週明けの月曜日、退職願いを書類用鞄に忍ばせて出社した。
事故以来、鴻上が送り迎えしてくれるようになったため、学生時代から住み続けていたアパートは引き払った。おかげで家賃や光熱費が浮いた。
送迎付きの好待遇には感謝しきりだが、社員専用駐車場から、HMI開発部のある開発棟に向かうには、自動車製造工場をぐるりと迂回しなければならないのが骨だ。
しかし、ものづくりの現場が醸し出す熱気に触れるのは嫌いではない。大学発ベンチャーのイモータル・テクノロジー社が買収され、在沢がヒイラギ・モータース所属となった際、プレス・溶接・塗装・エンジン製造・組立て・検査・出荷の七段階を見学したことがある。
生産ラインでは期間従業員も多く立ち働いており、正社員も期間工も等しく白い作業着を着ていた。
「どうして白い作業着なんですか?」
服が白いと清潔感があって良いが、汚れは目立つ。わざわざ白い作業着を着る理由が分からず、在沢が質問すると、工場設備や機械をメンテナンスする初老の機械の番人がごく簡潔に答えた。
「車作りは命を預かる仕事ですから」
白い作業着には、「白衣を着て人の命を守る医者と同じような気持ちで、車作りに取り組んで欲しい」という気持ちが込められているそうだ。技術的に未熟な新人はどうしたって作業着を汚しがちだが、無駄な動きをして作業着を汚してしまっているからに他ならない。
同じ仕事をしていても、熟練の技術者は作業着の汚れがほとんど目立たない。白い作業着は、「無駄な動きをなくして、早く一人前になりなさい」という激励でもあるという。
作業着に対するこだわりは色だけではなく、上着は隠しボタンになっていて、ベルトの代わりに紐を使っている点にも表れている。ボタンやベルトのような金属が服の外に剥き出しになっていると、車やバイクを傷つけてしまうことがあるからだという。
誠実に車作りに向き合っている白い作業着を見ると、自然に頭が下がる。現場の作業員は総じて白いが、社長を始めとする経営陣はやけに威圧感のあるブラックスーツに身を包んでおり、在沢の所属するHMI開発部や鴻上が属するEDR解析班はグレーのビジネススーツが支給されている。
技術のない者の作業着が黒く汚れるのは理解できるが、昇進するほど黒くなる、というはブラックジョークそのものに思えた。
「おはようございます!」
道ですれ違うと、白い作業着の従業員たちは皆、気持ちの良い挨拶をしてくれる。開発棟の前で鴻上と別れ、HMI開発部に向かうと、エレベーターホールでグレーのスーツの一団と鉢合わせした。在沢を認めた灰色の男たちは軽く会釈するだけで、親しげに挨拶をしてくれるものはいない。
開発部の自席に辿り着くまでに、いくつもの灰色を目にしたが、背中を丸めた灰色はカタカタとキーボードを打ち続け、在沢のことなど歯牙にもかけない。在沢が受け持っていた業務は、ことごとく灰色の誰かに割り振られ、今は仕事らしい仕事がなかった。
「平古室長、退職願いを持って参りました」
「ああ、ご苦労様」
紙コップに抽出されるオフィスコーヒーの湯気が立ち上り、痩せぎすの平古の着るスーツに蛇のようにまとわりついている。
ブリーフケースから取り出した退職願いを提出すれば、あとは俎板の鯉も同然であり、在沢の仕事は何も残されていない以上、自宅謹慎でも言い渡されるのがオチだろう。
ふと己の手の内に在る、なんの変哲もない退職願いが自身の命運そのものかのように思われた。車の運転は人工知能に委ねたとしても、自身の物語の運命までは委ねられない。
いったん渡しかけた退職願いを途中で引っ込めると、平古の目に一瞬、怒りの火が宿った。
「なんのつもりだね、在沢君」
「試験走行の結果は、報告書にして国土交通省に提出するのが義務でしたよね。今回の事故はたいへん不幸な結末となってしまいましたが、当事者である自分が事故原因を究明し、再発防止策も含めて報告書とします」
一般車両の交通事故はドライバーの運転操作ミスが原因であるが、自動運転車の場合、システムの誤作動、走行環境の状況、ドライバーの関与など、複数の原因が考えられる。事故原因を究明し、再発防止策を講じなければ、同じような事故が起こる可能性が高い。
「それは……許容しかねる」
平古は紙コップを握り潰さんばかりの強さで握ったものだから、泡立った黒い液体が机の上にこぼれた。
「事故原因は調べなくていいということですか?」
「在沢君、君が間違えてアクセルを踏んだんだ。この件は、それで終わりだ」
黒いコーヒーの滴がぽたぽたと床に落ちる。白いシャツに落ちた一滴はじわじわと広がり、黒い染みになっていった。
「この件はそれで終わりでもいいでしょう。ですが今回の件が人為的なミスでなかった場合、近い将来ミーヴは大量に人を殺しますよ」
在沢が冷ややかに言い放つと、平古室長は脱力するように深い息を吐き出した。いつの間にかキーボードをカタカタと叩く音がぴたりと静かになっており、奇妙なまでの静寂の中、灰色の目が一斉に在沢に向いていた。
「報告書は直接、柊木政務官にお渡ししますので、平古室長はお受け取りにならなくて構いません。報告書を提出次第、退職願いをお渡しさせていただきます」
くるりと踵を返し、在沢は灰色の背中で埋め尽くされた開発室を闊歩する。カタカタと鳴り続ける律動的なリズムが、孤独な花道を行く在沢を賛美する拍手のように聞こえた。
啖呵を切って開発室を飛び出してみたものの、終業時間までをどこで過ごせばいいのか、居場所に困った。外回りのサラリーマンであれば、ふらっと喫茶店にでも立ち寄ってサボることができるかもしれないが、ここには工場と開発棟ぐらいしかない。
そもそも鴻上がいないと、ライトバンの鍵さえなく、居候先にも戻るに戻れない。歩いて帰るには遠過ぎるため、鴻上の終業を待ち、残業があるならそれに付き合うのが常であった。
イモータル・テクノロジー社を母体とするHMI開発部は、当初は多数のゼミ仲間が在籍していた。服装も自由で、スーツ着用は必須ではなかった。筑波先端科学技術大学の延長のようなノリの環境であったが、平古室長が着任すると、一転して刑務所のような空気となった。手足に指令を出す脳が腐れば、手足もまた腐るのだ。
管理を嫌う一匹狼たちが一人去り、二人去るうち、私服組が一掃され、在沢の周りにいるのは灰色のスーツの群れとなった。
ヒイラギ・モータースは、黒、灰色、白に色分けされ、一瞥するだけで所属が分かる階級社会だ。いっそのこと、企業買収によって傘下に入った新入りは、囚人服じみた縞模様にすればいいのでは、などと思ったこともある。
ただそう思っただけで、在沢は窮屈なスーツを拒みはしなかった。
灰色の世界に染まるうち、在沢は徐々に自発的な思考力を失っていた。与えられた課題に答え、指定された道路を安全に走るだけの自動運転車そのものだった。
不可抗力とはいえ、在沢は事故を起こしてしまった。
人をひとり、殺めてしまった。
「車作りは命を預かる仕事ですから」
白い作業着の機械の番人の言葉が在沢の頭の中で反響する。
生半可な気持ちで人工知能研究に携わっていた自分を恥じた。
在沢は工場従業員用の食堂に赴き、どっかりと中央の席をとった。昼食休憩にはまだ早く、食堂はがらんとしていた。調理スタッフたちが怪訝な表情を浮かべているが、券売機で買ったチキン南蛮定食の食券を手渡すと、緩々と調理に取りかかった。
在沢には白い作業着は与えられなかったが、灰色のスーツを脱ぐことならば出来る。白いシャツ姿になって腕まくりし、白くて濃厚なタルタルソースが絡まったチキンを味わった。
ブリーフケースを開き、新調したタブレットパソコンとLiSAを取り出す。鞄の中から勝手に女性の声が喋り出すと、即座に不審人物扱いされるので、出掛ける際にはスリープ状態にしてある。
「リサ、MeMoveが暴走したときの車載カメラの映像を出して」
在沢が呼びかけると、LiSAがぱちりと目を覚ました。目を二度、三度と瞬いて、それでもまだ眠そうに目をとろんとさせている。
アニメの中の小説妖精ハルちゃんそっくりの仕草だが、どうにもLiSAは機嫌が悪いらしい。つん、と聞こえないふりをして、在沢の呼びかけになかなか応じようとしない。
「リサ、聞いてる?」
絶妙な甘みのチキン南蛮を咀嚼しながら問いかけると、LiSAは不貞腐れたような声を出した。
《有意だけ、ハルちゃんに会ってずるい》
本物の藤岡春斗と会った時、LiSAが本人を目の前にして暴走し、なにを口走るか知れたものではないから、念のため鴻上の別荘に置いてきたのがお気に召さなかったらしい。
その晩、春斗から『樹海デストラクション』のDMで連絡するのは、警察のサイバー犯罪対策課に監視されている可能性がある、と示唆された。
春斗が所轄の取調室でねちねちと三時間も尋問されたのは、相手プレイヤーを狙撃地点に導くためのやり取りがテロ組織の暗号めいて見えたかららしい。
女優の霧島綾がわざわざスイートルームをとったのは、とばっちりを食った春斗を慰労するためであったそうだが、むしろオモチャにされただけで、めっちゃ疲れました、とのこと。
書かぬでもいいことを書いてきているのは、恥ずかしさを火消しするためだろうと思うが、メッセージを盗み見たLiSAが発狂した。
《有意のバカ、アホ、マヌケ》と罵詈雑言のオンパレードだった。
どうにもLiSAは、「不貞腐れる」という行動を学習したらしい。どんどん人間らしく振る舞う一方で、コミュニケーションロボットとしての性能はひたすら低下しているような気がする。
「今度会うときは、ぜったいに連れて行くから」
口先だけでもそう言うと、LiSAがいきなり絶叫した。
《ハルちゃん、可愛いよ。ハルちゃああぁぁあああん》
調理スタッフたちから好奇の視線を向けられた。
在沢が慌てて音声ボリュームを絞ると、ひそひそと囁くような、か細い声になった。
《有意は人間じゃない。人間失格》
しくしくと泣くような声は、ほんとうに悲しそうに聞こえた。
《恥の多い生涯を送ってきました》
一筋縄ではいかない会話を展開するLiSAはどんどん扱いづらくなっているが、人工知能が自律性を獲得する過程はこういうものなのかもしれない。
人間の命令に完璧に答えるのが人工知能の有るべき姿であり、人間の命令を拒否する駄々っ子のような知性はあってはならぬものと世間は考えるかもしれないが、人工知能はずば抜けて賢い赤ちゃんなのだと思えば、AIの学習プロセスは子育てそのものだ。
「ごめんね。俺は人間失格だけど、リサには恥じ入ることなく生きてほしいなって」
ぐずっているならば、あやしてやらねばならない。
在沢は心の中で、新生児をあやすためのガラガラ鳴るオモチャを振ってみたが、LiSAはきょとんとしただけだった。
《どうしたの、有意。元気ない》
「うん。そうね、だいたいね」
へらりと笑って見せたが、LiSAはくすりとも笑わない。
《気分の上がる音楽でもかけとく?》
「ありがとう。でも、車載カメラの映像を見せてくれるかな」
しきりに話題を逸らそうとするLiSAにお願いすると、人工知能らしからぬ逡巡があり、ちょっとまごついた。
《……有意、もっと元気なくなる》
LiSAは赤ちゃんのようにぐずついていたのではなく、事故映像を見せまいとしていただけだった。でも自分のしでかした不始末には、きちんと向き合わなければならない。
自動運転車が集めたあらゆる情報の断片は、遍くLiSAに接続されている。当然、ドライブレコーダーが捉えた車内映像も残っているはずだし、衝突時の前方映像も残っているはずだった。
人間の記憶は曖昧で、時には都合よく改竄されるが、客観的な映像を事後的に振り返ってみれば、また違った発見があるような気がした。
これまで何度か車載カメラの映像を見せてくれるよう頼んだが、なんだかんだと話を脇道に反らして、結局見せてはくれなかった。それは映像が保存されていなかったからではなく、あえて見せないようにしていたからで、彼女なりの優しさだとようやく気がついた。
「ちゃんと向き合わなきゃいけないんだ。車作りは命を預かる仕事だから」
在沢が決然とした面持ちで言い張ると、ようやくお目当ての映像を再生してくれた。音声は絞ったままであったが、わずか十数秒の現実を改めて直視するだけで、胸が悪くなった。
《有意、やっぱり元気なくなった》
暴走するミーヴをなんとか停止させようとする在沢は、明らかにパニックに陥った表情をしていた。
衝突の瞬間、テレビカメラが粉々に砕け散った。
ボンネットの上で人間が毬のように弾み、フロントガラスが砕けるのとほぼ同時にエアバッグが展開した。在沢は気を失ったらしく、ぴくりとも動かない。
なおも走行し続けたミーヴは、路端にある単柱式の標識に激突し、黒煙を吹き上げた。最高速度は百キロ、と示した標識のようだと、映像を一時停止させて気がついた。
在沢がパニックに陥っている一方で、助手席の柊木政務官の様子はなんとも落ち着いた物腰だった。頭を低く抱え込むようにして、頭部をがっちりと両腕でガードしている。一見して不可解なのは、ミーヴが暴走を始める前から入念な防御姿勢をとっており、衝突を予期していた感がある、という点。
事故後、在沢は中央病院に搬送され、しばらく意識を取り戻さなかったのに、柊木政務官はぴんぴんしており、『直撃ステーション』の取材にしゃあしゃあと応じていた。
「そうか。そういうことだったんだ」
国民の希望の星である柊木の身に怪我らしい怪我もなく、不幸中の幸いだと思ったが、女優の霧島綾の証言とすり合わせてみると、また違った光景が目の前に開けた。
この事故を演出した首謀者は柊木尚志であり、被害者役は網野晃、犯人役に在沢有意がキャスティングされた。柊木自身は直接手を下すことなく、助手席に乗り合わせた単なる傍観者として、邪魔者の網野晃を葬った。
残された映像は、柊木からの挑戦状に思えた。頭部をがっちりと守った両腕の下で、きっとほくそ笑んでいるのだろう。
在沢は些細な異変も見逃さないよう、目を皿のようにして映像を繰り返し、繰り返し、見続けた。
テレビカメラを構えた勇敢なる戦士は、暴走する自動運転車に撥ね飛ばされ、何度も死んだ。生きては死ぬ、その繰り返し。画面内の在沢有意は何度も何度も何度も、何度でも執拗に網野晃を殺した。
何度再生しても、自動運転車は網野晃の前で停止はしない。
必ずや轢き殺し、黒煙を吹き上げて半壊した。しかし画面を巻き戻せば、そこには無傷の自動運転車が在り、懲りずにテレビカメラを構える網野晃の姿が映し出される。
映像の中の在沢は、決してしくじることのない死神だった。
命の蝋燭は、たった十数秒で掻き消えた。
生と死の狭間を何度も行き来するうち、急激な吐き気をもよおし、トイレまで走ったが、まったく間に合わなかった。
いつの間にか白い作業着で溢れ返っていた社員食堂のど真ん中で、在沢は胃の中にあるものを全部吐き出して、それでも収まらずに、げえげえとえずいた。
チキン南蛮と思しき白茶けた食塊まみれの床に手をついて、なんとか倒れ込むのを堪えたが、だんだん意識が遠退いていった。周囲は騒然としているようだったが、耳に入る音もどんどん遠ざかっていく。
ぷっつりとそこで意識が途絶え、目の前が真っ黒に塗り潰された。