人間不信
帰りのエレベーターの中で、鴻上が
「女優って恐えーー。あんなんされたら、ぜってえ堕ちるだろ」
しきりに繰り返していた。
舞台最前列のかぶりつきで演技派女優の演技力を見せつけられた格好であるが、心底羨ましそうな鴻上の感想とは裏腹に、在沢の目にはまったく違う光景に映っていた。
あれは霧島綾という名の自動運転車が快調に自動走行していたが、気持ちが昂り過ぎていつの間にか手動運転に切り替わり、アクセルベタ踏みで暴走したように見えた。
最後に誤魔化すように、ほんの気持ちだけブレーキを踏んだのは大人の嗜みだ。
同性の鴻上の歓心は買わなかったが、女優の速度抑制装置を完全に取っ払ってしまった一言がいまだに脳裏にこびりついている。
「でも、いちばんは決められない。どうして一冊の本だけにしなければならないんですか。みんな違う物語を背負っていて、美しいところもあれば醜いところもある。愛おしいところもあれば憎らしいところもある」
身構えていないところにあんなことを言われたら、確実に堕ちるだろう。女優の濃厚な接吻を受ける立場をさほど羨ましいとは思わなかったが、含蓄ある言葉を授けられる立場に置かれたくはあった。そう考える程度には、自分の脳は女性的な作りをしているのだな、と思い知らされた。
エレベーターがフロント階に到着した。在沢がルームキーを返却しに歩を進めると、フロント近くに霧島綾の生き写しのような華のある青年が立っていた。なで肩にボストンバッグを背負い、傍らには楚々とした黒髪の女性が寄り添っている。
「取り込み中だからちょっと待ってて。下まで迎えに行く、だそうです」
鈴が鳴るような心地よい声は聞き間違えようがなかった。小説妖精ハルちゃんの声を演じた霧島シオンだ、と即座に分かった。
在沢が乗ってきたエレベーターが上昇するのと入れ違いに、隣のエレベーターがフロント階に到着した。遠目にも頬を上気させた霧島綾がパタパタと駆け寄ってきて、実弟のシオンに抱きついた。
「沙梨ちゃん、どうしよう。あたしスイッチ入っちゃったかも」
霧島綾はシオンの隣に立つ女性に伺いを立てた。
「どうしたんですか?」
「おハル! あの生物、なんなの。可愛すぎるでしょ」
シオンはやんわりと姉を抱きとめ、落ち着き払った声で言った。
「ハルちゃんはなにしてるの」
「人間不信って言って、ふて寝してる」
「お姉ちゃん、なにかしたの?」
「えー、べつにぃ。おハルと戯れてただけ」
三人は仲良くエレベーターに乗り込んでいく。
フロント側に向き直った霧島綾は、エレベーターが閉じる瞬間、小さく手を振ってくれた。在沢も小さく会釈を返した。
「遅えな。なにやってんだよ、有意」
痺れを切らした鴻上が苛々と足踏みをしている。
「すみません、ちょっとぼーっとしてました」
在沢はルームキーを返却すると、ミラージュホテルを後にした。